政府の緊急事態宣言の解除の方向が見えて来ていますが、すぐに「ハレルヤ、感謝します!問題は解決しました」という雰囲気は期待できそうもありません。
昨日も、ドイツのメルケル首相は、「われわれの目標は、最初から、ウィルスの拡散を止めることではなく、拡散速度を遅くすることであった。引き続き、爆発的な感染の広がりに注意をする必要がある」と訴えていました。要するに、危険と隣り合わせに生きるようにという勧めです。それはまさに詩篇の世界の生き方です。
詩篇4篇には、困難の中での「平安」な「眠り」が描かれます。最初に、「私が呼ぶとき、答えてください」と切羽詰った訴えとともに、「私の義なる神」と呼びかけます。これは「私を義としてくださる神」とも解釈できます。
だからこそ、すぐに「あなたは、私の苦しみのときに、ゆとり(余裕)を与えてくださいました」(1節私訳) と告白されます。問題の解決ではなく、危険と隣り合わせに生きる心の余裕を神は与えてくださるというのです。
3節で、ダビデは自分に敵対する人々のことを覚えながら、「知れ、主(ヤハウェ)は、ご自分の聖徒を特別に扱われる」と告曰します。それは、「私が呼ぶとき、主は聞いてくださる」ことを通して明らかにされます。神はダビデを特別に愛しておられました。そしてダビデの子イエスにつながる私たちをも、神は特別に扱ってくださいます。
4節の「震えわななけ。罪を犯すな」は、多くの英語訳では、「Be angry, and do not sin(怒りなさい。そして、罪を犯すな)」と訳されます。使徒パウロがエペソ人への手紙4章26節に記したことばは、これをそのまま引用したものだと思われます。
神は私たちの心が混乱し、怒りに身を震わすようなことがあっても、優しく受け止めてくださいます。たとえば、ときに現代の日本の政権の対応に「腹が立ってたまらない!」ということがあっても、それは神がともに味わってくださる怒りかもしれません。
しかし、それによって私たち自身の心が混乱させられ、まわりに怒りをぶつけるようなことになってはいけません。怒るべきことに「怒る」のは、神のかたちに創造された人間にとって当然ことです。しかし、それがゆえに、愛が冷めることがあってはいけないのです。
私たちが、自分の気持ちを正直に神に訴えるとき、神は混乱した心に平安を与えてくださり、結果として、「罪を犯す」ことがないように守ってくださるのです。
5節で、「義のいけにえをささげ、主に拠り頼め」と訴えられますが、同じダビデが詩篇51篇において、自分の罪の告白の後に、「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません」(17節) と告白しています。神は何よりも、必死にすがる気持ち自体を喜んでくださいます。「義のいけにえ」とは、神の前に自分の正義を訴えることではなく、子どものように混乱したままの心を主にささげることです。主がそれを受け入れ、「平安(シャローム)」を与えてくださいます。自分で自分を落ち着かせようとする代わりに、主に正直に打ち明ければよいのです。
祈り
主よ。あなたの御前に自分の正義を訴える代わりに、「砕かれた霊」、「悔いた心」をささげさせてください。そして、平安な眠りを私にお与えください。
以下はマーガレット・リッツァの「これはあなたにいのちを与える愛の御霊である・この方はあなたに夜でさえ私の心を導いてくださる……」という趣旨の歌詞の黙想曲です。詩篇4篇をもとにしているような気がします。