「慈しみ深き友なる」〜詩篇40篇

いかがお過ごしでしょうか?なかなか先が見えませんが、実は3月の時点では「母の日」あたりには状況が変わっているはずと期待していました。それが北海道の母を訪ねることも叶わなくなり、ひたすら本を書き続けている毎日になっています。

教会からの帰り道、歩きながら、「母に何を送ろうか……」と考えていたら、あの有名な讃美歌「慈しみ深き友なるイエス」が思い浮かんできました。これは、もともとカナダに住みながら遠い故国アイルランドに住む母のために書いた歌でした。

その前に、今日は詩篇40篇を味わっていただければと思います。

この詩篇は、「私は切に 主 (ヤハウェ) を待ち望んだ」ということばから始まります。これは原文で「待つ」ということばが重なった「待ち待った」という意味の表現です。自分の願いが簡単に叶えられない中で、なお「待ち続けた」ことを意味しています。

その結果が続けて、「主は耳を傾け、聞いてくださった、私の叫びに」と記されます。これは、自分は神を遠く感じていたけれども、実は神はご自身の身を傾けるように「私の叫び」に「耳を傾け」「聞いてくださった」という感動を記したものです。

そして、2節ではその結果が、「主は私を引き上げてくださった、滅びの穴から、泥沼から。そして私の足を巌の上に立たせてくださった、私の歩みを確かにされた」と記されます。

なかなか祈りが届いていないと思える中で、主を待ち続けるというのは、コロナ蔓延の中での現在の多くの私たちの気持ちかもしれません。

ただ、この詩篇にもあるように、叫び続けていたと思える中で、振り返ってみると、主はそれらの中で私に目を留め、私を固い土台の上に立たせてくださったという感謝に変えられてゆくのが信仰者の歩みです。

そして不思議にもこの詩篇の6-8節は、キリストの贖いのみわざとしてヘブル人への手紙10章5-7節で次のように引用されています。

あなたは、いけにえやささげ物をお求めにならないで、わたしにからだを備えてくださいました……そのとき、わたしは申しました。

「今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。神よ、あなたのみこころを行うために。」……

このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです」(ヘブル10:4-7、10)

この詩の6節の「あなたは私の耳を開いてくださいました」と言う表現が、ヘブル書では「あなたは……わたしに、からだを備えてくださいました」と、キリストの受肉を示唆する表現に変えられています。

それは、イエスがイザヤ50章5、6節にある苦難のしもべとして生きたということを示すためでした。

そこでは、「神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった」と記されています。

神の御子がそのような苦しみを味わうことができたのは、御子が私たちと同じ「血と肉」を持つ身体となったことで可能になりました (ヘブル2:14)。イエスは貴い血を流し、死んで復活し、天に上り、大祭司となられて、私たちが「大胆にまことに聖所に入ることができる」ようにしてくださいました (ヘブル10:19)。

そして、9節の「私は大きな会衆の中で、義の良い知らせを告げました」とは、復活のイエスが弟子たちに現れ、そこから全世界に神への賛美が広がったことを意味します。ここでの「義の良い知らせ」とは、「主に信頼」(4節) する歩みに、主はご自身の義をもって報いてくださるということです。

10節では、私たちを救ってくださる主のご性質が、「あなたの義」「真実」「恵み(契約の愛)」「まこと(偽りのないこと)」と描かれます。イエスの信頼に豊かに報いてくださった神が、あなたの信頼の歩みに報いてくださいます。

ただし、私たちはこの詩を、キリスト預言としてと同時に、キリストの御跡に従うための励ましとして読むべきでしょう。イエスはこの詩にご自身の使命を見出されました。そして、私たちもここに自分の使命と望みを見出して前進することができます。

巻物の書であるこの詩やイザヤ50章は、イエスのことであると同時に「私のこと」でもあります。ですからヘブル書の著者は、それを前提に、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(12:2) と私たちに勧めています。

祈り

イエス様、あなたがこの祈りをご自身の祈りとされて十字架に向かわれたことを感謝します。同じ「巻物の書」に記されている私自身の歩みを豊かに導いてください。


讃美歌312番「慈しみ深き友なるイエスは」の原詩は、1855年にカナダ東部の貧しい移民たちに仕えていた信徒伝道者のジョセフ・スクライブンによって記されました。彼はアイルランドの裕福な家庭に生まれ育ちますが、結婚式の前日に婚約者が溺死してしまいます。

深い心の傷を負った彼は、25歳でカナダの貧しい町に移住し、学校の教師をしながら、不幸な人や貧しい人々に仕え続けます。

そして41歳の時に、再び婚約に導かれますが、彼女は結核で天に召されます。そのような中で、遠いアイルランドに住む母も同じような悲しみに打ちひしがれていることを知ります。

彼は、そのとき、苦しみの中に不思議な神の慰めを感じ取っていたので、母を慰めるためにこの詩を書いたと言われます。この詩は彼の死後に人々に知られるようになり、そこに現代の美しいメロディーが添えられて世界的に歌われるようになりました。大祭司としてのイエスの姿が美しくし記され、原詩の意味は次の通りです。

オリジナルな英語の歌を聞きつつ下記の歌詞を味わってみていただければ幸いです。

  1. 何というすばらしい友を私たちは持っていることか。
    What a Friend we have in Jesus,
    イエスは私たちの罪と嘆きを背負ってくださる。
    All our sins and griefs to bear!
    何という特権だろう。
    What a privilege to carry
    すべてのことを祈りのうちに神の御前に携えて行けるとは。
    Everything to God in prayer!
    何としばしば、私たちは平安を失い、
    O what peace we often forfeit,
    不必要な痛みを負うことだろう。
    O what needless pain we bear.
    それはすべて、祈りのうちに
    All because we do not carry
    すべてのことの神の御前に携え行かないためだ。
    Everything to God in prayer!
  2. 私たちは試みや誘惑を受けているだろうか。
    Have we trials and temptations?
    どこかに問題があるだろうか。
    Is there trouble anywhere?
    私たちは決して失望すべきではない。
    We should never be discouraged,
    それを祈りのうちに主に持って行こう。
    Take it to the Lord in prayer.
    これほど真実な友を見出すことができようか。
    Can we find a friend so faithful
    その方に悲しみを打ち明けられるのだから。
    Who will all our sorrows share?
    イエスは私たちのすべての弱さを知っておられる。
    Jesus knows our every weakness,
    すべてを祈りのうちに主に持って行こう。
    Take it to the Lord in prayer.
  3. 私たちは弱く、重荷を負いながら、
    Are we weak and heavy-laden,
    心労に押しつぶされそうになっていないだろうか。
    Cumbered with a load of care?
    貴い救い主こそがなお、私たちの隠れ場になってくださる。
    Precious Savior, still our refuge,
    それらを主に持って行こう。
    Take it to the Lord in prayer.
    友があなたを軽蔑し、見捨てているだろうか。
    Do thy friends despise, forsake thee?
    その悩みを祈りのうちに主に持って行こう。
    Take it to the Lord in prayer!
    主は御腕のうちにあなたを守ってくださる。
    In His arms He’ll take and shield thee,
    そこにあなたは慰めを見出すことができる。
    Thou wilt find a solace there.