誕生と復活の奇跡 Rinascerò, Rinascerai(僕は復活し、君も復活する)〜詩篇71篇

今、世界中で聞かれている歌と動画があります。Rinascerò, Rinascerai(僕は復活し、君も復活する)ということばが繰り返されています。そしてこのことばを掲げた医療従事者や住民の顔が映っています。

この舞台は、北イタリアのミラノから北東40㎞、アルプスのふもとイタリア・ルネッサンスの雰囲気を残す世界歴史遺産の町ベルガモ(人口12万人)です。美しい街並みとアルプスが映されています。この歌を作ったRoby Facchinetti はこの町の出身者で、著作権はベルガモ市民病院に寄付され、YouTube の再生のたびに、広告、著作権など、すべての収入が医療崩壊を救うための寄付金となるとのことです。一回でも多く再生して広げていただくことが、現地支援になるようです。

僕は、イタリア語は分からないので、英語からの重訳なります。味わってみてください

僕は復活し、君も復活する。
このすべてが収まるとき、僕たちは再び星を見る。
僕は復活し、君も復活する。
僕たちを縛っている嵐は僕たちを折り曲げるが、
僕たちを壊しはしない。

僕たちはこの定めと戦うために生まれた。
そのたびに勝ったのは僕たちなんだ。
これらの日々は僕たちの生活を変えた。
今回は、前よりも少し賢くなるだろう。
僕は復活し、君も復活する

偉大な大空に抱擁されて
再び神への信頼を深めるんだ。
静寂の中に新鮮な空気の息吹がある
でも今、僕の町は恐怖にさらされている
この定めと戦うために僕は生まれた。
そのたびに勝ったのは僕たちだった。
僕は復活し、君も復活する

何と美しく、希望に満ちた歌でしょう!!これを聞きながら、詩篇71篇20節が思い浮かびました

あなたは私を多くの苦難とわざわいとにあわせられましたが
私を再び生き返らせ(いのちへと戻され)
地の深み(死の支配領域)から
再び引き上げてくださいます

この詩は先の70篇に続くダビデの作品と思われ、他の詩篇と重なる表現が多数登場します。6節はイエスの十字架預言の詩篇22篇9、10節と重なります。僕の母は、大雪山の麓の村で僕を出産した際の危機的な状況を何度も語ってくれました。昔は助産師が各家を訪ね、出産を助けましたが、ここでは「あなたは私を母の胎から取り上げた方」と、神が助産師かのように描かれます。神は人の誕生を導く方なのです。

しかも7節では、「私は多くの人にとって奇跡と思われました。あなたが私の力強い避け所だからです」と続きます。母は八十台半ばまで未信者でしたが、僕の誕生以来の奇跡とその後の歩みを見て、「聖書のことは良くわからないけれど、おまえが信じる神を、信じてみたい」と言って、洗礼を願うようになりました。

このダビデの告白は、危機的な中で神に守られ続けた心からの感謝の現れであり、それが私たちと同じ肉の姿となられたイエスの告白であり、またすべてのイエスにつながる信仰者の告白となるのです。私たちそれぞれの出生もその後の歩みも、どれ一つとっても同じものはなく、すべてが創造主の「奇跡」とも言えます。それをどれだけ感謝できるかが問われています。

9節では「年老いたときも……私の力が衰え果てても」と、人々の世話にばかりならざるを得ない状況になっても、創造主にすがりながら生きて行くと改めて告白します。「私は生まれたときから」死の瞬間まで、神に「抱かれて」いるからです (6節)。

15節では、神の「義」と「救い」が並列されます。ときに神の義の法廷を思い浮かべ、それを「どんな些細な罪も見逃さないさばきの場」と説く場合があります。しかし、16節でも、「私はあなたの力とともに行きます……ただあなたの義だけを心に留めて」と記されるように、神の「義」とは、「多くの人々にとって奇跡と思われ」るほどに、神の「力強い」御手に守られ続けることを意味します。それは神の「真実」とも言いかえることができましょう。

「義」または「正しさ」とは、神がアブラハムとその子孫への約束を守り通してくださるという聖書全体のテーマの中で理解されるきです。

さらに18節は、「年老いるまで……私を捨てないでください。あなたの大能のみわざを、後に来るすべての者に告げ知らせるまで」と訳すことができます。それは「年老い」て、神のみわざを後代の人々に「告げ知らせる」責任を果たすことができる「まで」、「私を捨てないで」と祈ることを意味します。それは神の真実を伝えるためです。

そして19節では「神よ あなたの義は天にまで届きます」と告白します。その「義」も神の「真実」と言い換えることができます。その神の真実が冒頭に引用した、「あなたは私を多くの苦難とわざわいとに あわせられましたが 私を再び生き返らせ 地の深みから 再び引き上げてくださいます」と、苦難のただ中での確信に満ちた希望として表現されます。

使徒パウロは、「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである」(Ⅱテモテ2:13) と書き残しました。私たち一人ひとりが、不真実に陥ることがあっても、主はご自身の「義」によって私たちを立ち直らせ、生涯を全うさせてくださいます。それが「多くの人にとって奇跡と思われ」る人生です。

この詩に私たちの誕生の奇跡と、復活の奇跡の両方が美しく表現されています。


祈り

主よ、あなたの私に対する義、正しさ、真実に心より感謝します。自分の人生を通してあなたの義を深く味わい、それを後の世代に分かち合えるように助けてください。