Mackyの「幸せの歌」〜詩篇133篇

「社会的距離を保つ (Social distance)」などということを守るようにと言われるなんて、大変な世の中ですが、だからこそ懐かしい仲間との交わりの回復もあるのかもしれません。昨日、Facebook を見ていると、神学校の同期のオリジナル曲「幸せの歌」というのが紹介されていました。

Macky芦名先生は、青森県で牧師をしています。奥様が3年前に脳内出血で倒れ、一命は取り留めたものの左半身不随となり、ご主人の介護なしにはまったく身動きができない状態になりました。でも障害を抱えてからは心を注ぎだすような祈りをして、ご家族も教会のみんなも励まされているとのことです。

先生は、昔、プロボクサーでした。お兄様の熱い祈りに導かれ、まったく蓄えもないまま、牧師を目指して神学校に入ってきました。そのとき、奥様は保育士としてフルタイムで働きながらご主人の学びを支えておられました。ご主人を尊敬し、その学びを支えることに本当に誇りと喜びを感じている様子が、同期の仲間にも通じてきました。

理想的なクリスチャン夫婦は、父なる神と御子イエスの愛の交わりをこの地で現わすと言われますが、そのようなご夫妻かなと思います。今回の歌は、最初、「イエスさまがいる」も「そして、みんなの中に神さまがいる」と歌っていたのですが、私たちキリスト者の信仰を歌うなら、「君の中に、僕の中に」という「互いに愛し合いなさい」という主のことばを胸に、私たちの喜びと希望を表現できれば十分だと思って、聖書用語を使わずに歌って見たのです……とのことです。

でも、少しでも今までの二人の歩みを知っていると、そこに神の愛を感じることができます。以下で、お聞きいただければ幸いです。

Macky 芦名先生の「幸せの歌」

そして夫婦の愛と信仰者の兄弟愛は切り離せない関係があります。本日は詩篇133篇を味わっていただきたいと思います。

最初の「なんという幸せ」には、ヘブル語の「トーブ (טוב)」という「善い」「好ましい」こと全体を意味することばが、また「なんという楽しさ」では「愉快な」「愛しい」を意味することばが用いられており、それらは、「兄弟たちが一つになって ともに生きること」を指しています。

ただし、逆説的ですが、「ともに生きる」ことの幸いは、孤独を通してこそ見えるという面があります。それは以前、野球のイチロー選手が引退会見で、「メジャーリーグに来て、外国人になったことで、人の心をおもんばかったり、人の痛みを想像したり、今までなかった自分が現れたんですよね……」と、孤独を感じて苦しんだおかげで、自分の中に新しい感覚が芽生えてきたことを感謝していたことに似ています。

私たちもこの「都上りの歌」の最初の詩篇120篇に描かれていたように、職場や社会の中で、神を知らない人々のただ中に置かれているという面があります。それと同時に、ただキリストにあって、兄弟姉妹とともに主を礼拝する恵みにあずかることができています。それは決して当たり前のことではありません。ただその際、私たちが注意すべき二つのことがあります。

私たちはみな、一人で神の召しに従い始めました。たとい最愛の夫婦であっても、一人でイエスの招きに従いました。イエスは、「自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(マルコ8:34) と言われました。ひとりで苦しむことができずに、問題の解決を他の人に願うばかりのような人は、交わりを壊します。

一方、神の召しはあなた一人に向けられているのではなく、あなたは召された者の教会の中で、自分の十字架を負い、戦い、祈るのです。あなたは一人ではありません。もしあなたが兄弟姉妹の交わりを軽蔑するなら、あなたはイエス・キリストの召しを否定することになります。一人で神の前で祈ることと、交わりの中に生きることは、どちらに偏り過ぎてもいけません。

さらに「ともに生きる」ことの「幸い」が、祭司の上に注ぐ任職の「貴い油」にたとえられます (2節)。ここでの「貴い」は、先の「幸い」で用いられたと同じヘブル語(トーブ)です。「アロンのひげに流れる」とあるのは、大祭司の油注ぎが、頭にかぶり物と記章を付けた上でなされるからです。

キリストは「油注がれた者」(メシア)のギリシャ語訳ですから、この儀式は、神の民にとっての最高の祝福と喜びの時でした。なぜなら、祭司の働きがあってこそ、神が汚れたイスラエルの民のただ中に住むことができたからです。

しかも新約においては、私たち一人ひとりが、聖霊による油注ぎを受けた「王である祭司」(Ⅰペテロ2:9) とされています。そして、私たちは教会の交わりにおいて、互いが互いの祭司として奉仕するように召されています。それは何よりも互いのために祈り合う関係です。

3節では、「ともに生きる」ことが、「ヘルモンの露」に例えられます。それは200kmも南のエルサレムのシオンの山々までをも潤すというのです。それは夏の日照りで乾ききった季節に起きる神の奇跡です。雨が降らない中で、イスラエルの作物を豊かに実らせる力が「ヘルモンの露」にあります。私たちの兄弟愛は世界を潤す力を持っています。

さらに3節の後半の原文の語順では、「それは、主 (ヤハウェ) がそこに命じられたからである、いのちの祝福をとこしえまでに」と記されています。「そこ」とは、「兄弟たちが一つになって ともに生きる」その交わりの場を指すと理解すべきでしょう。それは、神の祝福が、アロンの頭に注がれた油のように、また、衣の端にまで及ぶ油のように、またエルサレムを潤すヘルモンの露のように、豊かに、奇跡的に注がれることになるのです。

「君の中に僕がいる、僕の中に君がいる」という交わりを、夫婦ではなくても、身近な人との関係の中に広げて行くときに、周りの世界が変えられてゆきます。

祈り

主よ、あなたがキリスト者の交わりの中に、「とこしえのいのちの祝福」を命じてくださったことを心より感謝します。神の御前に一人で静まることと、ともに祈り、ともに礼拝するという交わり、そのバランスを大切に、主の祝福を受けさせてください。