主の前に祈りささぐ〜詩篇103篇

詩篇103篇では1、2節と22節最後に、「わがたましいよ。主 (ヤハウェ) をほめたたえよ」と三度繰り返されます。そしてこの詩全体を通して、御霊に導かれた自分自身が、不自由な肉の身体に縛られた自分のたましいに向って福音を語るという不思議な構成になっています。

そして1-4節では「すべて」ということばが四回繰り返されます。「わがうちなるすべてのもの」が、「聖なる御名」を賛美できるのは、「すべての恵みのみわざ」を思い起こすことから生まれます。そしてその核心とは、主が今すでに、「すべての咎を赦し」てくださったばかりか、将来的に「すべての病をいやし」てくださるという保証です (3節)。これは、「あなたのいのちを墓の穴から贖い」とあるように、私たちのからだの復活のときに目に見える形で表わされます (4節)。

そして、私たちの完成のときが「恵み(慈愛)とあわれみの冠を授け」られるときです。私たちがその栄光のときを目の前に描きながら生きるなら、「あなたの若さは鷲のように新たにされる」(5節) というのです。これは、まるで鷲の羽毛が生え変わるように、繰り返し若さを新たにできることを意味します。

なお、既に与えられている恵みを思い起こすことのなかに、「主は……あなたの渇きを良いもので満ち足らせる」(5節) ことも含まれます。この部分のギリシャ語七十人訳では、「渇き」と訳され、依存症への対処の秘訣が記されているかのようです。たとえば私たちの心の中には「愛されること」「尊敬されること」「感動を味わうこと」「喜びを味わうこと」など様々な渇きがあります。アルコールや麻薬などで味わう高揚感、ギャンブルの興奮、何かをしながら味わう自己陶酔感などはそれらの渇きを一時的に満たしますが、やがてそれらが「病みつき」になって日常生活に支障が生まれるばかりか、それらの欲求に自分自身がコントロールされるようになります。つまり、心の渇きを「良いもの」ではなく「悪いもの」で満たそうとすることが依存症の根本にあります。

イエスはそのことを、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」(マタイ7:12) と言われました。つまり、「自分にしてもらいたい」という自分の欲求に敏感になり、そこから人の欲求を優しい眼差しでとらえ、愛の行動が生まれてくるというのです。

そして、私たちの人生を振り返るとき、様々な過ちとともに、それぞれの渇きが健全な働きや努力を生み出したという歴史もあるのではないでしょうか。自分の過去を全面否定するのではなく、あなただからできたと言えるような健全な解決方法があったことを見出し、あなたらしく輝くということを求めても良いのではないでしょうか。そこには「あなたの若さは、鷲のように新たにされる」という躍動感も生まれることでしょう。

また、私たちは与えられた個性や能力を生かしながら、様々な危機を乗り越えてくることができました。それを振り返るとき、あなたは自分に生まれながら与えられている「恵みのみわざ」の大きさを感謝でき、将来にも希望を持つことができるのではないでしょうか。

6節では「主 (ヤハウェ) は義とさばきを行なわれる」と記されますが、しばしば、主の「義とさばき」を自分の罪に向けられるものとして過度に恐れる人がいますが、聖書では、神の民が苦しみの中で「主に叫ぶ」と、主が敵をさばいて救ってくださるという意味で用いられる場合がほとんどです。「義」は、英語で righteousness と訳されますが、それは神が私たちとの正(義)しい関係 (right relatedness) を築くことを目的としているのです。そのために神は、イスラエルの罪に対しては、忍耐に忍耐を重ねて、彼らにご自身の愛と真実を示し続けられました。

8-12節は、主の聖なるご性質を美しく描いたもので出エジプト記が背景にあります。かつてモーセが、イスラエルの民の不従順に耐えかね、主ご自身がともに歩んでくださることの保証を求める意味で、「あなたの栄光を私に見せてください」と願ったときのことです。

主 (ヤハウェ) は雲の中にあってモーセのもとに降りて来られ、彼の前を通り過ぎるとき、「主 (ヤハウェ) 、主 (ヤハウェ) は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵み(ヘセッド)とまこと(エメット)に富み、恵み(ヘセッド)を千代に保ち、咎とそむきと罪を赦す者……」(出エジ34:6、7) と宣言されました。

そのときのことばがここでほとんどそのまま繰り返されています。つまり、神の栄光とは「あわれみ深く、情け深い……恵みとまことに富み」という神のご性質のうちに表わされるというのです。

そのことが新約聖書ヨハネの福音書では、「ことば」と称される神の御子が人間イエスとなられたことに関し、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(1章14節) と、御子の栄光が「恵みまこと」に表わされると記されています。


以前、ご紹介しましたが、ウィーン国立音楽大学講師の細木朝子姉は、今回の新型コロナの蔓延に心を痛め、人間の傲慢の罪と、主の前に静まることを教えられたとのことです。彼女はネヘミヤ記9章17節の以下のみことばをもとに曲を作りましたが、それとこの詩篇103篇8-12節はほとんど同じことが記されています。

彼らは聞き従うことを拒み、
彼らの間で行われた奇しいみわざを思い出さず、
かえってうなじを固くし、かしらを立てて、
逆らって奴隷の身に戻ろうとしました。
 
それにも関わらず、あなたは赦しの神であり、
情け深く、あわれみ深く、
怒るのに遅く、恵み豊かであられ、
彼らをお捨てになりませんでした

ぜひ、下記のユーチューブをご覧ください。 ご友人にもお分かちください。

細木朝子作詞作曲「主の前に祈りささぐ」
歌 分玉絢子 Ayako Bungyoku(ソプラノ歌手、ウィーン在住)
ピアノ伴奏 細木朝子