現在のイランの最高権力者は宗教上の最高指導者でもあります。そのような制度が生まれた頃、証券会社の先輩から「聖書にそのような仕組みが書いてあるのか?」と尋ねられ、答えに窮したことがあります。イランの現状を見ると、嫌な感じがしますが、その原点こそ今日の箇所とも言えましょう。三人の王とも、神が遣わした預言者や祭司に逆らって、神の怒りを受け、二人は家来に殺され、一人は不治の病にかかり、みじめな最期を遂げました。
しかし、よくよく見ると、そこに描かれているのは、宗教指導者と政治指導者の対立と言うより、単純に、神の哀れみで権力を与えられたにも関わらず、自分を立ててくださった神を忘れ、神に逆らい、さばきを受けたという構図で、これは私たちすべての人生に適用できる現実とも言えます。
多くの人は、成功すると傲慢になり、失敗すると卑屈になります。傲慢から人を人とも思わない傍若無人が、卑屈から被害者意識にとらわれた自己憐憫が生まれます。どちらも愛の交わりを壊すものです。
英語のPrideは、「傲慢」とも「誇り」とも訳せ、Humbleも「謙遜」とも「卑屈」とも訳せます。このように善悪両方の意味があるのはヘブル語でもギリシャ語でも同じです。前者の基本の意味は「高さ」を、後者の基本は「低さ」を表し、心の状態としては区別がつき難いものですが、これらに決定的な差をもたらすものこそ私たちの創造主との関係です。
創造主の御前で「謙遜」な人こそ、人の前で「卑屈」にならずに、誇りある生き方ができるからです。キリスト者は、本来、順境の日にも謙遜に神のみわざを喜び、どのような逆境の中でも「神の子」としての「誇り」を忘れずに、日々の勤めを誠実に果たすことができるはずではないでしょうか。
1.祭司エホヤダと主に立てられ、主に背いた王ヨアシュ
エルサレムのダビデ王家が、北王国イスラエルのアハブ王とイゼベルの娘アタルヤによって絶滅されそうになった中で、たった一人の王家の息子ヨアシュが、王女エホシェバによって助け出され、六年間もの間、主 (ヤハウェ) の宮の中に匿われます。彼女の夫が祭司エホヤダで、ヨアシュを七歳で王に立てることができ、ダビデ王家が守られました。
ヨアシュの王位は、ダビデやソロモンと同じ四十年間も続きました。しかし、彼の権力は限られたもので、それは「ヨアシュは、祭司エホヤダが生きている間は、主 (ヤハウェ) の目にかなうことを行った」(24:2) という表現の中にあります。人々の目は祭司エホヤダの方に向けられていたのだと思われます。そのため、王が主の宮の修理を祭司とレビ人たちに命じても、「レビ人は急がなかった」とあるようにほとんど無視されました (24:5)。エホヤダもヨアシュを王として厳しく指導しながら、身内に対しては甘くなっていたのかもしれません。
それで王は「かしらであるエホヤダを呼んで」、レビ人たちの怠慢を正すように命じました (24:6)。これはⅡ列王記12章6節によると、ヨアシュの在位23年目の三十歳のときのことです。
そこで生まれた解決が、「人々は一つの箱を作り、それを主 (ヤハウェ) の宮の外側に置いた」というものです (24:8)。これは神殿の修繕のために民から集められたお金の管理を、レビ人たちの手から、「王の書記」と「祭司のかしらに仕える管理人」という独立した立場の者たちに任せるという仕組みを作ったことを意味します (24:11)。そして、王とエホヤダは、そのお金を主の宮の工事の監督者に直接に渡しました。
これは日本では、郵政民営化により、郵便局を通して集められたお金が財政投融資資金として政治家の裁量に任せられるような仕組みを廃止し、ゆうちょ銀行という透明化した組織に変えたことに似ているかもしれません。
ここに政治権力と祭司たちの働きの軋轢を見ることができるかもしれません。ヨアシュとエホヤダの間に緊張関係が生まれたのは当然とも言えましょう。ヨアシュの信仰はエホヤダによって育まれましたが、彼が成長するにつれ、王である自分よりも祭司エホヤダが権威を発揮していることに不快感を持ったことでしょう。ですから、彼が主の宮の工事に熱心だったのはエホヤダへの対抗意識だったかもしれません。
今も、信仰が、親への対抗意識として現れることがあるかもしれません。そのような場合、非常に信仰に熱心だった人が、状況が変わると驚くほど簡単に、神に背くというようなことになりかねません。信仰の熱心さが、隠された劣等感の現われという場合があります。真の神への信頼は、怒りよりも、寛容を生み出すはずです。
祭司エホヤダは百三十歳まで生きましたが (24:15)、彼の死後、悲劇がユダ王国を襲います。何と、「ユダの首長たちが来て、王を伏し拝んだ。それで、王は彼らの言うことを聞き入れた。彼らは父祖の神、主 (ヤハウェ) の宮を捨て、アシュラと偶像に仕えた……預言者たちは彼らを戒めたが、彼らは耳を貸さなかった」という驚くべき背教が起きてしまいます (24:17-19)。
これはかつてのアタルヤの偶像礼拝に従っていた勢力と、祭司エホヤダを中心とした祭司とレビ人たちの権力に反感を持っていた勢力とが結びついて、政治権力を回復しようとした動きであったと分析することもできましょう。そして、ヨアシュ王も自分を「伏し拝む」新しい勢力に乗ることによって王権を強化できると思ったのかもしれません。
その後、驚くことに、エホヤダの息子ゼカリヤが「神の霊」に動かされてそれを批判すると、ヨアシュは彼を主の宮の庭で殺してしまいます。そして「ゼカリヤは死ぬとき、『主 (ヤハウェ) がご覧になって、責任を問われますように』と言った」と記されます (24:22)。
彼は自分を王に立てたのが、人間ではなく主ご自身であったことを忘れてしまいました。これはサウルが王位から退けられた経緯と基本的に同じです。ダビデは生涯、自分を立てた方が「主 (ヤハウェ) 」ご自身であることを覚えていましたが、ヨアシュはサウルのように「人」を見てしまったのではないでしょうか。
そして、「年が改まるころ、アラムの軍勢がヨアシュに向かって攻め上り……分捕り物をすべてダマスコの王のもとに送った。アラムの軍勢は少数で来たが、主 (ヤハウェ) が非常に大きな軍勢を彼らの手に渡されたのであった」(24:23、24) というエルサレム王国の大敗北が起きます。その理由が「それは、人々が、その父祖の神、主 (ヤハウェ) を捨てたからである。こうしてヨアシュにさばきが下された」(24:24) と描かれます。
その後のことが「軍勢が、重傷を負ったヨアシュを捨てて離れて行ったとき、彼の家来たちは、祭司エホヤダの息子たちの血のゆえに謀反を企て、寝台の上で彼(王)を殺した」というのです (24:25)。彼らはヨアシュが王のままでは国が持たないと思ったのでしょう。ヨアシュを殺して、彼の息子を王に立てました。
神のあわれみによって奇跡的に立てられた王が、家来の謀反によってあっけなく息絶えました。幼い頃の彼を見た者は神のみわざを心からあがめたことでしょうが、その最後は驚くほど悲惨です。何ともやりきれない気持ちになります。必死に自分の力で道を開こうとした結果、その無力さが軽蔑されたのです。残念ながら、王を王とも思わない心がアタルヤのクーデター以来、人々の心に蔓延してしまったのでしょう。
ダビデは、サウルがどんな理不尽な理由で彼を追い詰めても、また彼にサウルを殺すチャンスが来たときも、主のご支配を信じて力づくで問題を解決しようとはしませんでした。しかし、ヨアシュは自分を立ててくださった主ご自身のあわれみと、人としての「エホヤダの誠意」(24:22) までをも忘れることによって、「神の国」をこの世の国と同じ支配構造に変えてしまったのです。
この世では、力のない者は軽く見られます。それが人を権力闘争に駆り立てます。しかし、私たちはダビデのように、愛と信頼の種を蒔き続けるべきでしょう。力に頼る者は、力によって裏切られます。全能の主に信頼する者は、この世的な意味での力をどんなに失っても、たとえ幼子のように無力になっても (詩篇8:1、2)、主ご自身によって守られ続けます。
2.「アマツヤは奮い立ち……セイルの者たち一万人を討った……人々が彼に対して謀反を企てた」
25章ではヨアシュの子「アマツヤは25歳で王となり、エルサレムで29年間、王であった」と記されます (1節)。そして「彼の王国が強くなると、彼は、自分の父である王を討った家来たちを殺し」ました (3節)。ただし、その子たちを殺しはしませんでした。それはモーセの書の律法(トーラー)に従ってのことでした(25:4、参照申命記24:16)。それは彼が、主の御教えにしたがって国を治めていたしるしとも言えましょう。
そしてアマツヤは、死海の南にあるエサウの地を従えるために軍隊を整えます。その際、ユダとベニヤミンの中から30万人の兵を集めましたが、さらに不足を感じ、北王国イスラエルから「銀百タラントで10万人の勇士を雇い」ます。
ただ、そこで「神の人」が現れ、「主 (ヤハウェ) は、イスラエル、すなわちエフライムのいかなる人々とも、ともにおられない」(25:7) と告げ、彼らを国に帰すようにと勧めます。その際、百タラントを惜しむ王に、「主 (ヤハウェ) は、それよりも多くのものを、あなたにお与えになることができます」(25:9) と約束します。
それを聞いて、「アマツヤは奮い立ち、自分の兵を率いて塩の谷に行き、セイルの者たち一万人を討った」と描かれます (25:11)。これは、主が与えた勝利ですが、アマツヤもユダの人々も、これを主の勝利とは理解しませんでした。その結果が、生け捕りにした一万人を崖の上から投げ落として虐殺するという、残虐行為に結びつきます (25:12)。
そればかりか、「アマツヤは……セイル人の神々を持ってきて……その前で伏し拝み、犠牲を供え」るという偶像礼拝をします (25:14)。実は当時の戦いでは、負けた民族の神々を宥めるために、いけにえをささげるという習慣があったようです。それは神々の祟りを恐れての行為です。
それに対し、「主 (ヤハウェ) はアマツヤに向かって怒りを燃やし、彼のもとに預言者を遣わし」(25:15)、それを愚かな行為として非難させます。
ところがアマツヤは前回とは異なり、神から遣わされた預言者に向かって、「なぜ、打ち殺されるようなことをするのか」と権力で脅し、そのことばを聞こうとはしませんでした。それに対し預言者は、「私は、神があなたを滅ぼそうと計画しておられるのを知りました」と告げます (25:16)。
なお、先に、エフライムの勇士一万人を、戦いに参加させずに帰したことは、彼らの激しい怒りを買っていました。当時の兵士は、分捕り物を目当てに戦いに参加したからです。彼らは勝利の分け前にあずかることができなかったことに腹を立て、「ユダの町々を襲い、三千人を打ち殺し、多くのものを略奪」していました。
それが25章17節以降の、ユダ王国と北王国イスラエルとの戦争の直接的な原因になったと思われます。なお、このときのイスラエル王ヨアシュはアハブ家を滅ぼしたエフーの孫で、預言者エリシャの最後の指導を受け、北のアラムに三度の勝利を治めていました。北王国の方が神に守られていたのです。
イスラエルの王ヨアシュはアマツヤを「レバノンのあざみ」に、自分を「レバノンの杉」にたとえながら、「あざみ」が「杉」を慕っても、「野の獣」によって「踏みにじられる」だけだと、自分の分をわきまえるようにたしなめます (25:18)。
そしてアマツヤに、「あなたは、『どうだ、自分はエドムを討った』と言って、心高ぶり、誇っている。今は自分の家にとどまっていなさい。なぜ、あえてわざわいを引き起こし、あなたもユダもともに倒れようとするのか」(25:19) と言いました。これはまさに神が語らせたことばでしょう。
私たちも、自分の成功を喜んでも良いのですが、神から与えた限界 (バウンダリー) を超えるなら自滅せざるを得ません。
「しかし、アマツヤは聞き入れなかった。それは神から出たことであって、彼らを敵の手に渡すためであった。彼らがエドムの神々を求めたから」(25:20) と記され、その結果「イスラエルの王ヨアシュは攻め上」(25:21) ります。ユダ軍はエルサレムの西約20kmのベテ・シェメッシュで打ち負かされ、そこでアマツヤは捕虜とされます。
ヨアシュはエルサレムの城壁の北の部分180m近くを破壊し、「神の宮にあったすべての金と銀、すべての器、王宮の財宝、および人質を取って、サマリアに帰」りました (25:23、24)。これは後のバビロン捕囚の前触れと言えます。アマツヤが主の前に謙遜だったとき、エドムに勝ち、高ぶったとき捕虜とされました。まさに「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」(箴言18:12) とあるとおりです。
なおアマツヤは、イスラエルの王ヨアシュの死後「なお15年生きた」(25:25) と微妙な表現で描かれます。それは北王国の傀儡政権としてであったのでしょう。
そして最後に、「アマツヤが主 (ヤハウェ) に従うことから離れたとき、エルサレムで人々が彼に謀反を企てた。彼は……逃げたが、人々は彼を殺した」(25:27) と描かれます。何と、ダビデの血筋の王が、親子二代にわたって家来の謀反で殺されたというのです。
26章1節で「ユダの民はみな、当時16歳であったウジヤを立てて、その父アマツヤの代わりに王とした」とありますが、列王記の年代を調べると、この二人の王位は、最低15年間は重なっているように推測できます。つまり、ユダには二人の王がいて、最終的に北王国の支配から独立することを願った人々がアマツヤを殺したとも考えられます。
とにかく、ユダ王国のヨアシュもアマツヤも家来によって王として立てられ、最後に家来によって殺されました。二人に共通するのは順境の中で神を忘れ、他の偶像の神々に心を寄せ、預言者たちの声を退けたあげく、隣国との戦いに負けて、家来たちの信任を失ったということです。
血筋の高貴さは、協力関係を築く上では役に立ちますが、自分の能力を過信する契機にもなります。古来、人々が王を求めるのは、国としてのまとまりを保つためです (申命記17:14-20)。それは人と人との利害の対立を調整する機能でもありますから、人々の声を聞くことができない指導者はそれだけで失格です。「立てられた」者としての「誇り」は大切ですが、使命を忘れた特権意識に溺れるなら存在意義がなくなります。
3.「主 (ヤハウェ) が王(ウジヤ)を打たれたので、彼は死ぬ日までツァラアトに冒された者となり」
ウジヤは父アマツヤが北王国に負けた直後から実質的にユダの王であり、「ウジヤは16歳で王となり、エルサレムで52年間、王であった」(26:3) という支配の期間は北王国のヤロブアムⅡ世と重なっていると思われます。その前に「彼は……エイラトを築き直し、それをユダに復帰させた」(26:2) と記されますが、これは南の端、アカバ湾の入り口を回復したことを指します。
26章4、5節では「彼は……神を認めることを教えたゼカリヤが生きていた間、彼は神を求めた」と記され、ここには後の堕落が示唆されます。なお、ここの「ゼカリヤ」については何も分かりません。
そして、「彼が主 (ヤハウェ) を求めていた間、神は彼を栄えるようにされた」と記されながら、6-8節では、彼がダビデと同じようにペリシテ人の地を支配したばかりか、死海の北東のアンモン人の貢物を受けるまでになっており、絶頂期の北王国と競合する力を持っていました。
そしてウジヤの繁栄が、「こうして、彼の名はエジプトの境にまで届いた。その勢力がこの上なく強くなったから」(26:8) と記されます。つまり、ウジヤは、北のヤロブアムと同時期にイスラエル南部でダビデ、ソロモン時代の支配地をほぼ回復したのでした。
ただ、それは国際政治的には南のエジプトも北のアッシリアも力を失っていた時期であったことの結果とも言えますが、主 (ヤハウェ) は全地の真の支配者であられます。
それにしても26章10節に「彼はまた、荒野にやぐらを建て、多くの水溜を掘った……多くの家畜を持っていたからである。山地や果樹園には農夫やぶどう作りがいた。彼は農業を好んだのである」と描かれるのは画期的です。このような記述は他の王の場合には例がありません。そしてこの正確さは考古学的な発掘からも証明されています。
さらに15節では「さらに彼はエルサレムで、巧みに考案された兵器を作り」と、ダビデのような発明家であったことも記されます。まさに彼は富国強兵を行った賢い王であり、「こうして、彼に名声は遠くにまで広まった。彼が驚くべき助けを得て、強くなったからである」(26:15) と描かれます。
ところが26章16節では、「しかし、彼が強くなると、その心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は自分の神、主(ヤハウェ)の信頼を裏切った。香の壇の上で香をたこうとして主 (ヤハウェ) の神殿に入ったのである」と記されます。このとき「祭司アザルヤが……80人の勇敢な祭司たち」とともに、「王の前に立ちふさがって」、「ウジヤよ。主 (ヤハウェ) に香をたくのはあなたのすることではありません。香をたくのは、聖別された祭司たち、アロンの子らのすることです」と厳しく諫めます (26:17、18)。
それに対し、「ウジヤは激しく怒った……激しく怒ったとき……彼の額にツァラアトが現れた」と、彼の「激しい怒り」が強調されて描かれます (26:19)。これは、ウジヤが「祭司たちに対して激しく怒った」ことが、神の怒りを引き起こしたことを意味し、「主 (ヤハウェ) が彼を打たれたからである」と描かれます (26:19、20)。
さらに、「ウジヤ王は死ぬ日までツァラアトに冒され……隔離された家に住んだ。彼が主 (ヤハウェ) の宮から絶たれたから」と記されます (26:21)。彼は周辺の絶対王政の影響を受け、自分で宗教的にも最高権力者になり、神の律法が命じる礼拝形式を破ろうとしたのです。
しかし、ユダ王国は、唯一の神、主ヤハウェを礼拝する「神の国」でした。そこでは神の律法が王権の上に立ちます。それは、現代の法治国家と似ています。どれほど強い権力者であっても、法を犯すなら失脚させられ、牢屋に入る可能性があります。
ですからここは、「ウジヤは、かわいそうに、少しの過ちで神の罰を受け、重い皮膚病にかかった……」というよりも、今から三千年近く前の国で、現在の法治国家と同じ原則が守られていた不思議にこそ目を留めるべきでしょう。
ウジヤも驚くべき繁栄を築きながら、主の前に傲慢になって自滅しました。それは彼の父や祖父の場合と同じです。どうして学習できないのかとも思います。
三人の王に共通するのは、最初、主に喜ばれる政治を行い、順境の中で傲慢になり、主を恐れなくなったことです。権力も富も人間を盲目にする恐ろしい力を持っています。奇跡的に神殿で幼児期を守られていたヨアシュ、謙遜に「神の人」のことばを聞いてエドムに勝利したアマツヤ、ダビデ時代の栄光の一部を回復したウジヤ、みな最初は模範的な王でした。
しかし、人間的な成功が、彼らを盲目にさせました。パウロはイスラエルの歴史を振り返りながら、「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世に終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」と述べました (Ⅰコリント10:11、12)。それは今、現実となっています。
つい最近まで、今回のような疫病が世界経済を麻痺させるなどと、誰が予測していたでしょう。パンデミックは科学的に抑えられたと多くの人が信じていました。しかし今回のことを通して、人間は改めて三千年前から進歩していないという面が見えて来ています。
私たちはなおも歴史から学ぶことができます。そのことをさらにパウロは、先のことばに続き、「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないようなものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます」(同10:13) と記しています。
今、世界は「脱出の道」を求めています。しかし、それが隣の国々ような徹底的な監視と個々人の人権を無視するよな管理システムによる解決が効果を発揮したと見られるなら将来が危ぶまれます。
しかし、数日前、フォーブスという雑誌の最新号で、コロナ・ウィルスとの戦いで近隣諸国にはるかに勝った成果を上げているのはみな、女性が政治指導者の国であると報道していることに希望が見えました。それらの指導者に共通する資質は、毅然とした姿勢と愛情に満ちた対話姿勢であるというのです。
以下に、それらの国と死者数を記しますが (4月12日現在)、それはそれらの近隣諸国よりもはるかに少ないことが分かります。ドイツの場合は多く見えますが、隣国のイタリアの死者数約2.2万人、フランスの1.7万人と比べればその差は歴然としています。
ドイツ:2,673人、台湾:6人、ニュージーランド:4人、アイスランド:8人、フィンランド:49人、ノルウェー:98人、デンマーク:260人。
これらの国々の女性リーダーは、米国のトランプ大統領、インドのモディ首相、フィリピンのドゥテルテ大統領、ブラジルやメキシコの大統領など強権タイプのリーダーとの差が歴然としています。彼らはいつも敵を明確にして闘争するという男性原理で人々を従えますが、これらの女性リーダーは人々の心に愛をもって語りかけ国をまとめています。そこに希望が見えています。