ただ神のもとで私のたましいはやすらいでいる〜詩篇62篇

最近の政治の動きや報道を通して、正直、僕の心は揺れています。怒りが湧き起こって来ることもあります。今日の配信も先ほどまでは休むつもりでいました。

その中で、ふと詩篇62篇が心に浮かんできました。それをマーガレット・リッツァさんが次のような黙想の歌にしています。

歌詞は下記のように単純なことばの繰り返しです。

In God alone is my soul at rest
  ただ神のもとで私のたましいはやすらいでいる
He alone is my rock, and He is my strength
  主こそは私の岩、主は私の力です。

1節の原文の直訳は、「ただ神に向かって、私のたましいは沈黙している」です。この「沈黙」が「黙って……待ち望む」と訳されるのは、信頼のないところに沈黙は生まれないからです。預言者イザヤは「悪しき者は荒れ狂う海のようだ。まことに、それは鎮まることができず、その水は海草と泥を吐き出す。悪しき者には平安がない」(57:20、21) と言いました。私たちはときに、口先では「信頼」を告白しながら、行動では、人を恐れ、力や富を頼りにしています。その心の分裂状態が、沈黙の中で顕わにされます。

僕の場合は以前、沈黙すると、心の底に押し殺していた不安や憎しみ、欲望が吹き出て、収集がつかなくなるように感じられました。それを避けるため、心と身体を休みなく動かし続けてきた面があります。しかし、マイナスの感情は、押し殺しても、腹の底に確かにあり、私を動かし続けていました。その結果、さして重要ではないことにエネルギーを傾け、周りの人々までも振り回してきたことがあるような気がします。

しかし、黙想の訓練を通して、幸いにも徐々に沈黙することが苦痛ではなくなりました。それは一時的な混乱を通り越しさえするなら、心は落ち着いて来るとわかったからです。その際、「ただ神に向かって」という沈黙の方向性こそが鍵になります。羅針盤の針が常に北極を指すように、「私はいつも、主を前にしています」(16:8) と告白するのです。心の目を、世の富や権力、人の評価などにではなく、ただ創造主に集中します。なぜなら「私の救い」は世のすべての背後におられる「この方から……来る」からです。

ところが、私たちは「神こそ……わが救い……私は決して揺るがされない」(2節) と告白しても、すぐに周りの状況に心が揺すぶられます。それでダビデは、自分の「たましい」に、「沈黙せよ」と命じる必要がありました (5節私訳)。1節の「沈黙」は名詞でしたが、ここは動詞形で、今回の翻訳改定でも命令形へと変えられています。たましいはいつも何かに固着しようとしますから、穏やかに優しく語りかけることが大切です。

そして5節では、1節にあった「私の救い」の代わりに「私の望みは神から来る」と告白されます。それは沈黙を通して、「たましい」が自分の願望からしだいに自由になり、神から与えられる「望み」を、「私の望み」とするように変えられるからです。僕も自分の願望に縛られ続けてきたように思います。世的に何かをやり遂げたという誇りがその構えを強化させることになるからです。しかし、期待が強過ぎると、現実の中で失望し、疲れることも多くなり、感謝の代わりに不満が鬱積するという悪循環に陥ります。

しかしダビデは徐々に力を抜いて、「私は揺るがされることがない」(6節) と告白できるようになりました。その心の流れが5-7節で以下のように描かれています。

ただ神に向かって、私のたましいよ、沈黙せよ。
この方から 私の望み が来るからだ。
この方だけが 私の岩、救い、また砦の塔。
私は揺るがされない。
私の救いと私の栄光は 神のもとにある。
私の力の岩と避け所は 神のうちにある。

これは2節の繰り返しのようでも、嵐をくぐり抜けたことで、「決して」という「力み」が抜けています。彼は、心が大きく揺るがされることを体験した後に、そんな自分が神によって支えられていると実感することができたのでしょう。

なお、「あなたがたの心を 神の御前に注ぎ出せ」(8節) とあるのは、沈黙に至るプロセスとして理解できます。自分の不安や葛藤を正直に認め、それを神の御前に「私はこう感じています」と「注ぎ出す」のです。神はそれをすべて受け止めてくださいます。

主よ、あなたが私の混乱した心を受け入れてくださることを感謝します。混乱を経て、あなたにある平安を体験させてください。柔軟に落ち着く心へと導いてください。

最後に、それでも為政者のために祈る必要を覚えさせられております

私は何よりもまず勧めます。
すべての人のために、
王たちと高い地位にあるすべての人のために
願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。
それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、
平安で落ち着いた生活を保つためです」(Ⅰテモテ2:1、2)