詩篇の祈り〜詩篇44篇

東京の感染者がどんどん増えて、本当に気が滅入りますね。お一人お一人、それぞれ固有の大変な状況の中に置かれていることをご推察しつつ、心よりお祈り申しております。以下の文章も転送自由です。これは拙著「現代人の悩みに効く詩篇」の中の文章を加工したものです。

神の救いが見えないとき……

ああ、しかしあなたは、私たちを拒絶し、辱めたのです……
しかも、あなたのために、私たちは一日中、殺されています。
まるで、ほふられる羊のようにみなされています。
起きてください。どうして眠っておられるのですか。主よ。
目をさましてください。いつまでも拒絶しないでください……
贖い出してください。あなたの慈愛 (ヘセド) のゆえに。
詩篇44篇抄訳

新型コロナウィルスの蔓延の中、世界中の教会が心を合わせて祈っているのに、神は沈黙を続けておられるように見えます。しかし、ふと、「どうして眠っておられるのですか主よ。」という祈りを思い起こし、逆説的な慰めを受けました。それは、未曾有の悲惨の中で、神の沈黙に戸惑いながら、なお、神に信頼し続けた多くの信仰の先輩を思い起こしたからです。

福音をヨーロッパに最初に伝えた使徒パウロは恐ろしい迫害を受けました。彼は死ぬ一歩手前までの鞭打ちの刑を受けたことが五度もあり、「一昼夜、海上を漂ったことも」「労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(Ⅱコリント11章24-27節)。

そのような中で、パウロは自分の気持ちを、「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた」と表現しています (ローマ3:36)。ただこれは冒頭に引用した詩篇44篇22節のことばでもあります。

多くの人々は、パウロのような偉大な信仰者は、苦しみのただ中でも、「ハレルヤ!」と神を賛美し続けていたと思うでしょうが、実際は、「起きてください。どうして眠っておられるのですか。主よ。目をさましてください。いつまでも拒絶しないでください」(23節) と、泣きながら神に訴えていたのではないでしょうか。なぜなら、これこそ、パウロが引用している詩篇だからです。

しかし、そこには不思議な展開が見られます。パウロは自分の身を嘆いているようで、その直後に「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です」と告白しているからです (ローマ8:37)。これは、将来の勝利の約束ではなく、苦しみのただ中で、「すでに圧倒的な勝利者とされている」という確信です。それは、「今、ここで」、私たちのために死んでよみがえってくださったキリストを身近に感じることができているからです。

信仰とは、自分で自分の心を励ますことではなく、さまざまな気持ちを、正直に神に訴えることです。

イエスご自身の祈りの生活に関しても、「この方は、ご自身の肉体の日々において、祈りと願いとを、ご自分を死(の支配領域)から救い出す方に向かって、大きな叫び声と涙とをもってささげられ、その敬虔のゆえに聞き入れられました」 (ヘブル5:7私訳) と描かれています。

もし神を遠く感じたとしても、同じように神を遠く感じた体験をお持ちのイエスご自身が私たちの内側で祈りを導いてくださっているということが分かるとき、まさに苦しみのただ中で、圧倒的な勝利者となっていることを体験できるのです。

不安や悲しみや怒りは、私たちのたましいを窒息させる方向に働きます。そのようなときこそ神に祈ることができればよいのですが、実際には多くの場合、祈る気力すら湧かなくなりがちです。人によっては、呼吸が浅くなり、過呼吸に陥ることさえあります。そこで何よりも大切なのは、息を吐くことです。それさえできたら、自然に必要な酸素は体内に入ってきます。

この詩篇44篇の著者は、最初に、先祖の時代には神が圧倒的な救いのみわざを示してくださったことを思い起こしながらも、今は、神ご自身が自分たちを苦しめていると訴えています。彼はそのことを、次のように神の不当な仕打ちを責めるかのように大胆に表現します。

ああ、しかしあなたは、私たちを拒絶し、辱めたのです……
まるで食用の羊のように私たちをおとしめ、
国々の中に散らしてしまわれました。
ただ同然にご自分の民を売り渡し、
何のみかえりも得られませんでした。(9-12節)

その上で、先の「起きてください……」という祈りが記され、最後は、「立ち上がって、私たちを助けてください。贖い出してください。あなたの慈愛 (ヘセド) のゆえに。」という必死の嘆願として閉じられます。

子どもは、激しく泣きじゃくった後に、見違えるほどの笑顔を見せることがありますが、私たちも神の御前でそのような子どもになることが許されています。世界の歴史を変えたと言われる大伝道者パウロも、神に自分の気持ちを赤裸々に訴えながら、同時に、「私たちは圧倒的な勝利者となっている」と告白したのではないでしょうか。

神は私たちの嘆きを優しく受け止めてくださいます。そして神の愛は、私たちがほかの人の痛みを優しく受け止めるという行動の中に現されます。

今から百数十年前、ハンセン病の患者がハワイのモロカイ島という孤島に隔離されていました。ダミアン神父が単身でその島に乗り込んで以来、多くのカトリックのシスターたちが、そこで献身的な看病をするようになりました。そして、その島を訪ねた米国の文豪スティーブンソンは次のような詩を書きました。

この病の惨ましさを一目見れば、
愚かな人々は神の存在を否定しよう。
しかし、これを看護するシスターの姿を見れば、
愚かな人さえ、沈黙のうちに神を拝むであろう

今、世界は第二次大戦後最大の試練の中に置かれています。しかし、そのような中で自分のいのちを危険に曝しながら、人々に仕えておられる方々が、また、献身的に人の痛みに寄り添っておられる方々がおられます。

すべての人は、神のかたちに創造されました。だからこそ、私たちは互いに愛し合うことができます。

逆説的になりますが、「神よ、どうして……」と共に嘆き合っているところに、神の愛が全うされているということがあります。私たちがそれぞれ置かれている場で何ができるかをともに考え行くことができれば幸いです。