マタイ8章18〜34節「イエスのご支配の中で愛を学ぶ」

2020年3月22日

世界的なウィルスの蔓延を見ても、身近な人々が感染しない限り大きなショックを受けることがないかもしれません。ただ今後の景気の先行指標とも言える株価の大暴落は、今の危機が、一人ひとりの生活に直結していることを示しています。株に無縁な階層こそが、誰よりも苦しみます。

世界は恐ろしいほどに不安定なのです。しかし、それは創造主のご支配が全世界を隅々に及ぶことを覚える契機でもあります。

1.「人の子には枕するところもありません」

8章18節では、「さて、イエスは群衆が自分の周りにいるのを見て、向こう岸に行くことを命じられた」と記されます。原文には、命じた相手が「弟子たち」であるとは記されていません。しかも、「向こう岸」とは、ガリラヤ湖の東側で、異邦人の地でした。イエスは、群衆を置いて、静かな所に行こうと思われたのかもしれません。

マルコ4章35節の平行記事では「さてその日、夕方になって」と記されていますが、ペテロの姑の癒しはマルコ1章30、31節でしたので、そのときからかなり時間が経過しています。

そして舟で湖に漕ぎ出す前のこととして、「そこに、一人の律法学者が来て言った」と描かれ、その内容が「先生、私はついて行きます。あなたがどこに行かれても」と記されています (19節)。

ですから、ここでは、イエスがガリラヤ湖の東側の異邦人の地に渡ろうとしていることを分かっているにも関わらず、「一人の律法学者」が、それでも「イエスについて行く」と言ったことへの驚きが記されていると考えられます。

それに対してイエスは彼に、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」と言われます (20節)。これは先にイエスの癒しのみわざが、イザヤ53章の苦難のしもべの姿であると説明されたことを思い起こさせます (17節)。

そこでは、「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛み(悲しみ)を担った」 (イザヤ53:3、4) と記されていました。

この律法学者がそれにどのように反応したかが気になりますが、それが記されないまま、「そこで(また)、別の一人の弟子がイエスに言った」と描かれ、その内容が「主よ、まずお許しください。私が行って父を葬ることを」と記されます (21節)。

つまり、この弟子のことばは、イエスが「人の子には枕するところもありません」と、ご自身の苦難の歩みを言われたことに対する反応と見ることができるのではないでしょうか。

それに対するイエスのことばは驚くほど厳しく、イエスは彼に、「わたしについて来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい」と言われました (22節)。これは当時の道徳律に真っ向から反します。

この時代に愛読されていた旧約外典トビト書があります。そこでは、北王国イスラエルが滅ぼされたとき、トビトというナフタリ族の人が、それまで北王国に住みながらもエルサレム神殿での礼拝を大切にしていましたが、アッシリア王国の首都ニネベに強制移住させられます。その地でのトビトの正義の行いが、一人の同族が殺されて広場に投げ捨てられていたのを丁重に埋葬したこととして描かれています。

さらにそれを通して、自分の目が失明して絶望した時に、息子のトビアに、旅に出て、親戚に預けていたお金を回収した上で、自分と妻を「手厚く葬ってくれ」と命じました。

トビアはその責任を全うし、トビトも112歳まで生きて葬られます。トビアもその後、アッシリアの滅亡に巻き込まれることなく、メディアに移住します。

とにかくこの時代は、父親を葬ることが、大切な務めと見られていました。その際、まず遺体を岩の中に安置して、その肉体が腐敗して消えるのを待ちます。そして約一年後、遺骨を集めて骨壺に丁重に入れて、墓の壁の前に置きました。

ですから、この弟子が「まず父を葬らせてほしい」と言ったときに、イエスについて行くことを、一年後にまで延ばしたいという意図が見られたと言えるのかもしれません。

それにしても、「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい」ということば残酷に響きます。イエスは、葬りの大切さ自体を否定したのでしょうか?しかし、聖書では、どれほど多くの子を持つ大金持ちでも、「墓に葬られる」こともない人は、生まれなかった方が良かったとさえ記されています (伝道者6:3)。

ですからイエスが、「父を葬る」ことを「死人たちに任せる」ように言われたことは、葬りの否定ではなく、「今ここで、緊急に問われていることがある、今生きているあなたにはそれが見えないのか?」という厳しい問いかけだと言えましょう。

また、ここでの「死人たち」とは、聖書にはない慣習や義務に縛られて、生ける神との交わりを体験できていない律法学者やパリサイ人を指していとも考えられます。彼らは、「義務を果たす」ことばかりに夢中になっていますが、今ここで、悩み苦しみながら「生きている人」に目が向かっていませんでした。

2.『どのような方なのだろう、この方は、風や海までが服従するとは』

23節では、「それから彼(イエス)が舟に乗られると、彼の弟子たちも、彼に従った」と記され、主ご自身が向こう岸に渡るために率先して行動し、弟子たちが従っているという関係が強調されます。そして続く状景が、「すると、見よ。海に大きな嵐が起こった。それによって、舟は波に覆われた。しかし、彼は眠り続けておられた」(24節) と描かれます。

ここでの原文は「」と記され、嵐や波の大きさが思い浮かべられるようになっています。マルコの平行箇所では「激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた」と描かれます (4:37、38)。

つまり、舟が今にも沈みそうな中で、イエスが眠り続けておられたという不思議が強調されているのです。イエスは私たちと同じ弱い肉体を持っておられましたから、あまりの疲れのために眠っておられたのだと思われます。

これが17節のイザヤ書の引用の後に描かれるのは、イエスの癒しのみわざが「彼は私たちの弱さ(わずらい)を引き受け(担い)、私たちの病を背負った」という肉体的な消耗を伴うことだったからでしょう。イエスには睡眠による力の回復が必要だったことを示しています。

それはアンパンマンが人を助けるたびに力を失い、その後、パン工場で新しい顔を与えられ、再び活力を取り戻すのと似ているのかもしれません。

もちろんこれを、イエスが御父への信頼のゆえに、平安のうちに眠っておられたと解釈することも正しいことで、それはイエスの身体的な消耗と矛盾はしません。

とにかく弟子たちには、このよう中で、イエスがどうして眠っていられるのか、それが無神経に見えたのでしょうか、「彼らは近寄って、彼を起こした」と記されます (25節)。その際、「主よ、助けてください。滅びてしまいそうです(ESV訳:we are perishing、新改訳:私たちは死んでしまいます。共同訳:このままでは死んでしまいます)」と言ったというのです。

彼らはイエスが眠っておられるということ自体を受け入れることができませんでした。ですからマルコでは、「弟子たちはイエスを起こして、『先生、私たちが死んでも(滅びても)、かまわないのですか』と言った」と記されています。

つまり、ここで弟子たちの心の目は、「イエスがこの舟が沈みそうな嵐の中で、なぜ眠っているのか」ということに向かう代わりに、「私たちは溺れ死んでしまう……」という、自分たちのことばかりに向かっていたのです。

少し落ち着いて考えるなら、舟が波に呑まれてしまうなら、イエスも一緒に溺れ死ぬのですから、自分たちの指導者の身を案じるのが弟子のあるべき姿とも言えます。ところが、彼らにはそのようにイエスの身を案じる余裕すらありませんでした。

少なくとも四人の弟子は漁師であったことを考えると、この嵐が、彼らが今まで体験したこともないほどに厳しいものであったということでしょうが、その混乱ぶりも異常です。

そこで目を覚ましたイエスは、まず「どうして怖がっているのか、信仰の薄い者たち」と言います (26節)。イエスはまず、彼らのその異常な混乱ぶりを指摘され、それを「信仰の薄い者」とたしなめられました。このことばは「O you of little faith」とも訳されますが (ESV)、ギリシャ語では「オリゴピストイ ὀλιγόπιστοι 」という一つの単語です。

この同じ単語が、6章28-30節では「なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい……今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ」と用いられていました。

それで明らかなのは「信仰が薄い」とは、恐怖感に圧倒されていること自体よりも、彼らの視野が狭くなって、神の支配が見えなくなっていることを指すとも言えましょう。弟子たちには、「イエスがなぜこの嵐の中で眠り続けていることができるのか……」ということ自体がまったく見えなくなっていました。

先日、ある方が今回のコロナウィルス騒ぎのことを、「私はこのようなときに、信仰を持っていて本当に良かったと思っている。これを歴史の一コマとして見られるから」と言っておられ、嬉しくなりました。

キリスト教会は、この世がパニックに陥るたびに成長してきました。古代教会においいては、教会が家の外に放り出された伝染病の人を次々と受け入れることによって成長しましたが、現代は、その対処はかえって別の問題を引き起こします。米国のように、礼拝自体を一律に中止せざるを得ない現実さえあります。

今世界中の人々が親しんでいるバッハ作曲の「目覚めよと、呼ぶ声」は、もともとフィリップ・ニコライというドイツの牧師が、ペストの大流行で、村の人口の三分の一が亡くなり、毎日、十人もの葬式を上げるという悲惨の中で生まれた讃美歌174番に由来します。

目の前が真っ暗であるからこそ、永遠の神の国の祝宴に心の目が向けられ、イエスが救い主としてこの地に降りて来られるという希望が目の前に迫って来たのです。

そして、その希望は、目の前の絶望的な働きに向き合う力を与えるものでした。聖書が描く永遠の祝福の世界は、人々の心に、現実逃避ではなく、目の前の困難に立ち向かう勇気を生み出します。私たちは今回のことを通して、どのようなメッセージをこの世界に発信することができるでしょうか?

この後のことが26節で、「それから彼は起き上がって、叱りつけられた、風と海とを。すると大きな静けさになった」と記されます。新改訳で「すっかり凪になった」というのは美しい日本語ですが、これでは24節での「大きな嵐になった」との対比が見えなくなります。

つまり、イエスが舟に乗って弟子たちが従うと、大きな嵐しなりイエスが叱りつけると、大きな静けさになったのです。その契機はみなイエスご自身にあります。つまり、この海の大きな嵐も、イエスまたは父なる神の支配下にあったからこそ、イエスは嵐の中で眠っていることができたのです。

そこでの反応が「人々は驚いた、『どのような方なのだろう、この方は、風や海までが服従するとは』と言いながら」と記されます (27節)。

イエスは、「そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています」(10:29、30) と言われます。ただそのことばは、「わたしが暗闇で……言うことを、明るみで言いなさい……耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい……からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはなりません」(10:27、28)という文脈で言われたことで、恐れずに今、なすべきことをしなさいという意味です。

現在で言えば、ウィルス感染を恐れる余り、今、なすべきことを躊躇してはならないという意味になります。ウィルスも神の支配下にあるのですから……。

世界中の医療関係者が自分の命を危険にさらして対応してくれています。私たちにも今、孤独と不安の思いに苛まれている人にできることが何かあります。

ドイツのメルケル首相が3月18日の演説で次のように語っています。

私たちはパニックに陥ってはなりませんが、しかし、同時に、ひと時でも、これは自分には関係ないことと思うことはできません。誰も避けることができないのです。すべての人が含まれ、すべての人の心掛けが必要なのです。

この伝染病は私たちに次のことを示しています。私たちがどれほど傷つき易い者であるかを、またいかに他者の配慮に満ちた振る舞いに依存しているかを、しかし、それによって私たちは互いの協力によって互いを守り、また強め合うことができるかということを。

ただ、一人ひとりにはできることがあります。ただ黙ってウィルスの広がりを耐えるだけなのではありません。私たちにはそれに対抗する手段があります。互いに距離を保つのです。感染症の専門家の助言は明らかです。もう握手をしてはなりません。徹底的に、また頻繁に手を洗いましょう……

私たちは家族としてまた社会として、互いに助け合うために、今までとは違った方法を発見する必要があります。そこには、ウイルスとその社会的な影響力に対抗できる多くの創造的な方法があります。

今すでに、おじいちゃんやおばあちゃんに、ポッドキャストを使って孤独にならないように助けているお孫さんがいます。私たちは人々に思いやりや友情を伝える方法を探し続ける必要があります。スカイプでも、電話でも、メールでも、またたぶん、今ひとたび、手紙を書くことも良いかもしれません。郵便は届けられるのですから……

私たちの教会でも、この機会に、礼拝のライブ配信ができるようになりました。今、イースター祝会はできないけれど、その代わりに動画を作って配信できないかという話もあります。

3.「イエスを見て、懇願した、その地方から立ち去ってくださるようにと」

28-34節の記事も、マルコ5章1-17節、ルカ8章26-37節にも描かれますが、マタイが一番簡潔です。ただマルコでもルカでも、悪霊につかれた人は一人で、そこでは悪霊が自分の名をレギオンと名乗っていました。それはローマ軍では6000人の兵士からなる軍団で、そこには人間を狂気に走らせる圧倒的な力が見られました。

とにかく、イエスはガリラヤ湖の東側の異邦人の地に到着したのですが、そこで最初にイエスを「迎えた」のは、何とこの悪霊につかれた二人で、しかも「墓場から出てきた」というのです。そして彼らの状態が、「ひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった」と描かれています。

そして、そこで次に起こったことが、「すると見よ、彼らが叫んだ、『神の子よ。私たちと何の関係があるのですか。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか』と言いながら」と記されています (29節)。

ここには悪霊たちが、イエスの現れを以前から非常に恐れていたということが示唆されています。彼らはイエスが「神の子」で、人々を悪霊の支配から解放するために来たということを知っていました。

とにかくこの福音書で、「イエスを神の子」と最初に告白するのは、この悪霊たちでした。弟子たちも、イエスの権威を、「不思議なみわざを行うことができる人」程度にしか見ていなかったときに、悪霊はイエスが神の御子であり、悪霊の力を打ち破ることができる方であることを、恐れを持って理解していました。

人間は誰も、自分の肉の力でサタンと悪霊に勝つことはできません。ですから、イエスの救い主としての権威は、風や海を従えることに続いて、悪霊を従えることとして描かれるのは必然的なことです。

そして「そこから離れたところに、多くの豚の群れが飼われていた」と描かれますが (30節)、ユダヤ人にとって豚は汚れた動物の代名詞のような存在ですから、そこで豚を飼っていた人たちはみな異邦人です。彼らは「神の子の現れ」のことなど全く理解しようもないことでした。

そのような中で「悪霊どもはイエスに懇願した」と不思議なことが記されます (31節)。彼らはイエスの権威を認めて、懇願するしかありませんでした。

そこで彼らが願った内容が、「もし、私たちを追い出すのでしたら、豚の群れの中に送ってください」と記されます。これは、イエスがこの二人から悪霊を追い出して、彼らを悪霊の支配から解放しようとしていることが分かっていたので、敢えて遜る姿勢を見せて、自分たちがこの異邦人の地方に残ることができるために、豚の中に入れられることを願ったということだと思われます。マルコの平行記事では、悪霊たちが最初に懇願した内容は、「自分たちをこの地方から追い出さないでください」というものでした (5:10)。

そこで「イエスが彼らに『行け』と言われた。すると彼らは出て行って、豚に入った」(32節) と記され、主の命令どおり、悪霊どもはこの二人から出て行って、豚の群れの中に入りました。そこにイエスのことばの権威が描かれています。

ただ、その後の情景は何とも不思議で、「すると見よ。その群れ全体が駆け下りた、崖を下って海へと。そして水に溺れて死んだ」と描かれます。悪霊は豚の群れをパニックに陥れました。それで豚は海へとなだれ込んで溺れ死にましたが、それで悪霊がともに死んだのでしょうか?

それによって悪霊はこの地に残ったとも考えることができるかもしれません。なぜなら、続いて「飼っていた人たちは逃げ出した。そして、町に行って、すべてを知らせた、特に、悪霊につかれていた人たちのことを」と描かれますが (33節)、町の人々はこの二人が悪霊の支配から解放されたことをともに祝って喜んではいません。

それどころか、その後のことが「すると見よ、町の人がすべて、イエスに会うために出て来た。そして、彼を見て、懇願した、その地方から立ち去ってくださるようにと」と描かれます (34節)。

最初、この地方にイエスが着いたとき、迎えに出て来たのは悪霊につかれた二人だけでした。このときになって初めて、町の人すべてがイエスに会いに来たのですが、そこで彼らが懇願したのは、何と、イエスが「この地方から立ち去る」ということでした。それは、彼らがイエスのせいで、数多くの豚が溺れ死んで、多大な経済的な損失を被ったのを見たからです。

彼らには、二人の人が悪霊から解放されたことよりも、お金の方が大切だったのでしょう。実は、そこにこそ悪霊たちの思惑があったのかもしれません。悪霊どもは、かつて二人の悪霊につかれた人々を町の人々に見せつけることによって、町の人々を脅していました。だからこそ彼らは最初、イエスに会いに来ませんでした。

そして今は、多くの豚がたちどころに溺れ死んだという恐怖が人々を支配しています。そこに悪霊どもの策略があるとも言えましょう。

イエスは確かに、この二人を悪霊の支配から解放しました。しかし、町の人々はそれよりも、大量の豚が死んで、経済的な損失を被ったことの方を恐れてしまいました。

イエスは確かに悪霊を追い出しました。ただ、町の人々の心の中に、悪霊につかれていた人への共感が全くなかったことから、悪霊の支配が、この地に続いたとも言えましょう。

それでイエスは、この悪霊を追い出してもらった人が、イエスについて行きたいと願ったことを退けて、この地に残ってイエスのみわざを伝えるようにと命じました (マルコ5:18、19)。

現在のウィルスに関しても、世界中の多くの人々が内心は、それで何人ものご高齢の人々が死ぬことより、外出禁止令などよって、経済的な損失を被ることを恐れているかもしれません。しかし、人々がそれを口に出さないのは、イエスがこのように目の前の一人か二人の救いを、何よりも大切に見ていたということが伝わってきているからです。福音は世界を変え続けているのです。

確かに悪霊の働きは人の心を恐怖と損得勘定に走らせますが、イエスの愛はそれに対抗するものです。ただ、同時に「あなたは人の命よりもお金のこと考えている!」というさばく背後にもサタンの惑わしがある場合があります。お金の問題の方がより多くの死をもたらす場合もあるからです。人の価値観を断定的に否定すること自体が問題です。

イエスの弟子たちは、自分の必要や都合でイエスの救いのみわざ見ていました。舟が沈みそうになっても、イエスの身を案ずる余裕すらもなくなっています。ガダラの異邦人も、悪霊に憑かれていた人の救いを喜ぶ代わりに、豚の損失ばかりが気になり、イエスを町から追い出しました。

しかし、それでもイエスの福音は、世の人々の感覚や価値観を変え続けています。ですから少なくとも、人の命よりも自分の損得勘定に走る人を非難することは誰にでもできます。しかし、一人ひとりは心の底で何を望んでいるのでしょう。私たちは今、この受難節の時、改めてイエスに倣ってこの世界の痛みを自分の痛みとするべきです。


目覚めよと、われらに呼ばわる物見らの声