信仰はすべて創造主ご自身の「選び」から始まり、私たちには既に「永遠のいのち」が与えられています。これは、来たるべき「新しい天と新しい地」の「いのち」であって、失われることがないはずです。しかし、今回の箇所では、「あなたがたが主 (ヤハウェ) を捨てるなら、主もあなたがたを捨てる」という趣旨のことばが繰り返されます (12:5、13:10、11、15:2)。
主は私たちに意思する力を与えてくださいましたが、ときに試練や苦しみを与えることで、ご自身のもとに立ち返らせようともされます。主の愛は、親が放蕩息子の帰りを待つのと同じような気持ちですが、できれば放蕩に陥ることを経ずに、主を求め、主の答えを聞く幸いを味わえるのが最善です。幸いの時も災いのときも、いつでも主を慕い求め、主の答えを聞かせていただきましょう。
1.「シシャクは……主 (ヤハウェ) の宮の財宝、王宮の財宝を奪った。彼は何もかも奪い取った」
Ⅱ歴代誌11章16、17節によるとソロモンの子レハブアムは、「三年の間……ダビデとソロモンの道に歩んだ」と記され、その間、「(北の)イスラエルの全部族の中から……主 (ヤハウェ) を尋ね求めようと心に決めた者たちが……主 (ヤハウェ) にいけにえを献げるためエルサレムに来た。彼らは三年の間、ユダの王権を強固にし……レハブアムに力添えした」と描かれています。
これは列王記にはない記事で、ダビデが整えた礼拝の形は、政治的な王国の分裂にも関わらず、イスラエル全体の礼拝として続けられていたという意味です。
18-21節には、レハブアムの家族の広がりが描かれますが、これは当時、神の祝福の現れと見られていました。不思議なのは、彼の妻マハラテがダビデの父エッサイの家系の娘であると描かれながら、その直後に、レハブアムがダビデに背いた息子アブサロムの娘マアカ(Ⅱサムエル14章27節ではアブサロムの娘の名は「タマル」しか記されないので、マアカはアブサロムの孫ではないかと思われます)を妻として愛するようになり、その子アビヤを、多くの「兄弟たちの長とし……王にしようと考えた」(11:22) と記されていることです。
申命記21章15-17節では、ある人が二人の妻を持ち、長子が嫌われている妻の子である場合、愛されている妻の子を長子としてはならないと明確に命じられていたのですが、その律法に反した選び方です。確かにソロモンの場合も、ダビデの長子ではありませんでしたが、そこには神の特別な選びの命令がありました。
11章23節に「レハブアムは賢く事を行い、その子どもたちをみな、ユダとベニヤミン全土に、すなわちすべての防備の町々に分散させ……」と記されるのは、彼が28人の息子たちの間に、王位継承や権力闘争を起こさせないように配慮したということで、ダビデの失敗から学んだことと言えましょう。
ところが12章1節では、「レハブアムの王位が確立し、彼が強くなると、彼は主 (ヤハウェ) の律法を捨て、彼とともにいた全イスラエルもそうした」と記されます。ここには、王が安心して高ぶり、神に背くというパターンを見ることができます。
そしてその結果として神のさばきの御手としての外国からの攻撃が描かれます。ここに登場する「エジプトの王シシャク」とは、エジプト第22王朝の初代王ショシェンク1世を指し、紀元前925年のイスラエル遠征はエジプトの記録にも、一般の歴史の教科書にも登場する有名な事件です。
ただ、それによると、攻撃の主な対象は北王国イスラエルということになっています。その初代王ヤロブアムはかつてソロモンから命を狙われ、エジプトの王シシャクの保護を受けていたとⅠ列王記11章40節には記されていました。一方、かつてソロモンがエジプトの王女を迎えたときのエジプト王朝は南部の神殿都市テーベの大神官であり、政治的には限定的な影響力しか持っていませんでした。
それに対しシシャクは紀元前945年ころに即位し、エジプト北部を権力基盤に大きな軍事力を誇るようになって来ていました。つまり、紀元前971~931年のソロモン王朝の時代のエジプト王朝は極めて弱体化されていた時期であったのに対し、紀元前925年頃の「レハブアム王の第五年」(12:1) という時期になると圧倒的な軍事力を確立するようになり、戦車1,200台、騎兵6万人で攻め上って来たというのです。ソロモン時代の軍事力は戦車1,400台、騎兵12,000人と描かれていましたから (1:14)、騎兵力ではソロモンの栄光の時期をも圧倒しています。
シシャクの大軍がエルサレムに迫ってくる中で、預言者シェマヤが主 (ヤハウェ) のことばを伝えます。それは、主 (ヤハウェ) がレハブアムとユダの長老たちに対し、「あなたがたがわたしを捨てたので、わたしもあなたがたを捨てて、シシャクの手にわたした」というものです。
先には、彼らが「主 (ヤハウェ) の律法を捨てた」と言われていたことばがここでは、「主 (ヤハウェ) を捨てた」と言われます。それはⅠ列王記14章23、24節では、「すべての高い丘の上や青々と茂るあらゆる木の下に、高き所や、石の柱や、アシュラ像を立てた。この国には神殿男娼もいた。彼らは、主 (ヤハウェ) がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の、すべての忌み嫌うべき慣わしをまねて行っていた」と描かれていました。
神殿男娼が特に強調されるのは、カナンの女神との性的な交わりを推奨する者で、堕落の程度が神殿娼婦よりも進んでいることを示します。
不思議なのは、イスラエルの首長たちも王もそのように徹底的に堕落していたにも関わらず、この預言者のことばを聞くとすぐに「へりくだり、『主 (ヤハウェ) は正しい』と言った」ということです (12:6)。
それに対し、主もすぐに。「彼らがへりくだったので、わたしは彼らを滅ぼさない。間もなく彼らに救いを与える。わたしの憤りがシシャクの手を通してエルサレムに注がれることはない」(12:7) と言われます。これは列王記にはない記述です。
エジプトの記録でシェションク一世のイスラエル遠征のことが大きく取り上げられながら、そこにエルサレムを攻撃した記録がないことが多くの歴史家にとって不思議に思われていますが、そこにはこのような主の特別なあわれみがあったのです。
その結果、シシャクは「主 (ヤハウェ) の宮の財宝、王宮の財宝を奪った。彼は何もかも奪い取った」(12:9) と略奪のすさまじさが描かれながら、同時に「王がへりくだったとき、主 (ヤハウェ) の怒りは彼を離れ、主は徹底的に滅ぼされることはされなかった」(12:12) とも描かれます。このことから約一年後にエジプト王シシャクは息を引き取ります。そこに主のご支配を認めることができます。
それにしても興味深いのはここで、「シシャクは……ソロモンが作った金の盾も奪い取った。レハブアム王は、その代わりに青銅の盾を作り、これを王宮の門を守る近衛兵の隊長の手に託した。王が主 (ヤハウェ) の宮に入るたびに、近衛兵が来てこれを運んで行き、また近衛兵の控室に戻した」(12:10、11) と記されていることです。「金の盾」は権威の象徴に過ぎません。それが安っぽい「青銅の盾」に代えられながら、大切に保管されたり運び出されたりするというのは滑稽なことです。
ここにはかつての、「一年間にソロモンのところに入ってきた金の重さは……666タラントであった(約21.6t = 約1,000億円)……アラビヤのすべての王たち……も……金や銀を携えてきた……王が飲み物に用いる器はすべて金であった……ソロモン王は、富と知恵とにおいて、地上のどの王よりもまさっていた」(9:13、14、22) という描写が遠い昔のことのように思えますが、ソロモンの死からたった五年後に、エジプトの王シシャクによってすべてを奪われてしまったのです。
ソロモンがファラオの娘を立派な宮殿に住まわせたのは、エジプトとの友好な関係を保つためでした。他の外国の妻たちも同じように周辺諸国との平和外交のためでした。それらは、いざとなったら何の役にも立ちませんでした。それはレハブアムとイスラエルの首長たちが、「主 (ヤハウェ) の律法を捨てた」からだというのです。
歴代誌にはレハブアムの名誉を回復するような記述がありますが、それでも結論は12章14節で、「彼は悪事を行った。心を定めて主 (ヤハウェ) を求めることをしなかったのである」と描かれます。その理由が「彼の母……はアンモン人であった」と記されます (12:13)。母の偶像礼拝の文化が堕落を導いたのでしょう。
それにしても、ソロモンのもとに集まってきた金を初めとするすべての宝は、何とあっけなく消え去ったことでしょう。もし彼がそれを用いて北部の民衆の税金を低くするなどして、それを民と分かち合っていたら王国は分裂することもなかったはずです。
ソロモンは知恵に満ちていたはずなのにお金の真の生かし方を知らなかったのでしょうか。イエスは「不正の富で、自分のための友を作りなさい」(ルカ16:9) と言われました。
2.「ユダが……主 (ヤハウェ) に叫び求め……ときの声を上げた……神は打ち破られた……全イスラエルを」
13章には「ヤロブアム王の第18年に、アビヤが王となり」と記されます。彼の母の名はアブサロムの娘(孫)マアカのはずで (11:20-22)、ミカヤと記されるのは文字の微々たる写し間違いと思われますが、敢えて修正せずに残されることの方が興味深いとも言えます。また彼女の父の名がウリエルと記されますが、彼がアブサロムの息子であれば何の矛盾もありません。
そして3-20節では、アビヤと北王国の初代王ヤロブアムとの戦いが描かれますが、ただそのほとんどは、アビヤの演説です。それを通して、ユダ王国が北王国イスラエルとその罪をどのように見続けていたかが明らかにされます。列王記ではヤロブアムの偶像礼拝とそれに対する預言者のさばきのことばが記されますが、歴代誌ではそれがソロモンの孫のことばとして描かれます。それは歴代誌ではダビデ王家の家系に読者の目を向けさせているからでしょう。
それにしても、ユダ王国の軍隊が精鋭40万人に対し、北王国が80万の精鋭の戦士では、困難な局面です。
5節では「イスラエルの神、主 (ヤハウェ) が、塩の契約をもって、イスラエルの王国をとこしえにダビデとその子孫に与えられた」と述べられますが、それは民数記18章19節にも登場することばで、塩が防腐剤として機能するように神の契約が長続きすることを指しているのでしょう。
また13章7節で自分の父のことを「レハブアムは若くて気が弱く」と呼ぶのは不思議ですが、これは「対抗できなかった」ということばを強調するもので、それが続く「今、あなたがたは、対抗(敵対)しようとしている、主 (ヤハウェ) の王国に対して」(13:8) に結びつきます。
つまり、北王国のヤロブアムは、レハブアムという王に対抗(敵対)していたようでありながら、主 (ヤハウェ) の王国に対抗(敵対)しようとしていたというのです。しかも、彼らは大軍であっても、ともにいるのは「金の子牛」に過ぎません。そして、彼らは「主 (ヤハウェ) の祭司たちとレビ人を追放した」というのです (13:9)。
これらすべてが、主 (ヤハウェ) ご自身への敵対行為であり、北王国に勝ち目はないと言っているのです。
13章11節bでは、「私たちは……主 (ヤハウェ) への務めを果たしているが、あなたがたは、この方を捨て去った」という対比が強調されています。そして「見よ、かしらとしての神が私たちとともにおられる……イスラエルの子らよ……主 (ヤハウェ) と戦ってはならない。とうてい勝ち目がないから」(13:12私訳) と記されています。ここに記録されているアビヤ王のことばは、まさに主 (ヤハウェ) の民のリーダーとしての模範的なものです。
13章13-16節には、北王国のヤロブアム軍と南王国ユダのアビヤ軍との戦いのようすが描かれます。人間的には、二倍の兵力を生かし、伏兵を配してユダ軍を前後から挟み撃ちにするヤロブアムの戦略が圧倒的に勝っているように思えます。
しかし、「ユダが……主 (ヤハウェ) に叫び求め、祭司たちはラッパを吹き鳴らした。そして、ユダの人々はときの声を上げた」という中で、「神は打ち破られた、ヤロブアムと全イスラエルをアビヤとユダの前で」と描かれます (14、15節私訳)。
ユダ軍の働きは、「主に叫び求め、ときの声を上げた」ことでしたが、それに応じて、神ご自身がヤロブアム軍を「打ち破られた」と記録されているのです。
その結果、17節では80万人もいた「イスラエルのうち、精鋭五十万人が剣に倒れた」というヤロブアム軍の徹底的な敗北が記されます。さらに20節では、ヤロブアムに関して「主 (ヤハウェ) が彼を打たれたので、彼は死んだ」と簡潔に、主のさばきが描かれます。
一方、21節では「アビヤは勢力を増し……22人の息子を……もうけた」と、主の祝福が描かれています。これはⅠ列王記15章3、4節でアビヤムに関して、「彼は……父(レハブアム)が行ったあらゆる罪のうちを歩み、彼の心は父祖ダビデの心のようには、彼の神、主 (ヤハウェ) と一つにはなっていなかった。しかし、ダビデに免じて、彼の神、主 (ヤハウェ) は、彼のためにエルサレムに一つのともしびを与えて……エルサレムを堅く立てられた」と記されていることと何とも対照的です。
しかし、歴代誌はアビヤのヤロブアムとの戦いでの主への信頼のようすを敢えて記録することで彼の名誉を回復しているとも言えましょう。列王記を読み比べると、主の評価が一面的ではないことが分かります。
しかし、両者で強調されているのは、勝利をもたらすのは、主ご自身の働きであるということです。確かにアビヤは偶像礼拝に加担はしていましたが、肝心のところで、主に信頼することができていました。
3.「私たちが……主 (ヤハウェ) を求めた。私たちが求めたので……神は安息を下さった」
アビヤは勢力を増し加えましたが、在位三年で死に、その子アサが王位につきます。Ⅰ列王記では「アサは父祖ダビデのように、主 (ヤハウェ) の目にかなうことを行なった……アサの心は一生涯、主 (ヤハウェ) とともにあり、全きものであった(直訳「主 (ヤハウェ) とひとつであった」)」(15:10、14) とまで記されます。
彼の支配は41年間にも及びますが、それはいくつもの期間に分けられ、歴代誌はそれぞれの局面をはるかに詳しく描いています。
最初の10年間は、「国は平穏であった。アサは、自分の神、主 (ヤハウェ) の目にかなう良いことを行った」と描かれます (14:1、2)。その最大の功績は、ソロモン、レハブアム、アビヤと三代の王の支配の間に続いていた「異教の祭壇と高き所を取り除き、石の柱を砕き、アシュラ像を切り倒し、ユダに人々に命じて、彼らの父祖の神、主 (ヤハウェ) を求めさせ、その律法と命令を行わせた」(14:3、4) と記されていることです。
しかもその徹底ぶりが、「彼はユダのすべての町から高き所と香の台を取り除いた」(14:5) と描かれています。これはサムエルやダビデの時代からあった「高き所」(Ⅰサムエル10:5) さえも「取り除いた」という意味です。
14章7節後半で、アサはユダの人々に向かって「私たちが……主 (ヤハウェ) を求めた。私たちが求めたので……神は安息を下さった」と語っていますが、これこそ私たちの信仰の核心です。
「求める」とは「探す」とか「尋ねる」とも訳すことができることばです。それは、主との交わりの中に生きることです。私たちはいつも様々な知恵を求め、人間的なハウツーに走りがちですが、何よりも大切なのは「主を求める」ことです。
14章8節では、10年間の平和をとおして備えられたアサの軍隊がユダ軍30万、ベニヤミン軍28万と描かれます。そのような中で14章9節から「クシュ人ゼラフ」による攻撃が描かれます。これはエジプト南部の支配地エチオピアからの軍隊で、先のシシャクの息子であるファラオの将軍による攻撃かと思われます。その勢力は「百万の軍勢」とあるように、アサの軍隊の二倍の規模でした。
そこでアサが必死に主 (ヤハウェ) を呼び求め「私たちを助けてください」と率直に祈ります (14:11)。その結果が、「主 (ヤハウェ) は打たれた、クシュ人を、アサとユダの前で。それでクシュ人は逃げ去った」(14:12私訳) と、驚くほど簡潔に記されます。
そればかりかアサが率いる軍隊は、クシュ軍をペリシテ人の支配地のゲラルまで追撃し、クシュ軍ばかりか多くのペリシテの町々を攻撃し、「多くの羊とらくだ」をエルサレムに持ち帰ることができました。
これはクシュ軍への勝利がペリシテの町々の占領にまでつながったという、主からの恵みとして理解されます。その理由がここでは、「主 (ヤハウェ) の恐れがその町々にあったからである」(14:14) と描かれています。
そのような中で15章1節では、「オベデの子アザルヤ」に「神の霊が臨み」、アサへのことばが告げられます。
その核心は、「あなたがたが主 (ヤハウェ) とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もしあなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自分を示してくださいます。もし、あなたがたがこの方を捨てるなら、この方はあなたがたを捨ててしまわれます」(15:2) という分かり易いものでした。
そして3-6節では士師記の混乱の時代が描かれますが、その核心は、「苦しみの中で、彼らが……主 (ヤハウェ) に立ち返り、この方を慕い求めたところ、主は彼らにご自分を示してくださいました」(15:4) という表現にあります。
15章8-15節では、アサの治世の第15年目のエルサレムでの契約の儀式のことが描かれます。そこにはユダとベニヤミンばかりか、エフライム、マナセ、シメオン族の中から、北王国の偶像礼拝を避けてユダ王国に寄留している人々がともに集まって来ました。
彼らは先の戦いの「分捕りものの中から、牛700頭と羊7000匹」という大量のいけにえを献げ、「心を尽くし、いのちを尽くして、主 (ヤハウェ) を求めることと……主 (ヤハウェ) を求めない者は……死刑にされる」という契約を結びます。
そしてユダの人々は、「ただ一筋に主を慕い求める」という誓いを心から喜び、主がご自分を彼らに示され「安息を与えられた」と描かれます (15:15)。
15章16節では、アサが母マアカを皇太后の位から退けたことが記されます。このマアカとは11章21節に記されたレハブアムが愛したアブサロムの娘で、アサの祖母ではないかと思われます。
彼女はアビヤの母として権力者をふるっていたと思われますが、その重要人物を「アシュラのために憎むべき像を造った」という罪で退けました。これは先の契約があったからこそ、混乱を招かずに実行されたと言えましょう。
そして15章の最後に、「アサの治世の第35年まで戦いは起こらなかった」と記されます。そこにはアサの残りの約6年間の治世の間に、混乱が起きることが示唆されており、それは16章で描かれます。
歴代誌に描かれるレハブアム、アビヤ、アサの姿は列王記とはかなり違って、「良い王」「悪い王」という区別を退けるような面があります。悪王と見られたレハブアムでもアビヤでも、主の前にへりくだって救いを求めるなら、主は答えてくださいました。
アサは少なくとも治世の35年までそのような恵みを体験しながら、主を慕い求め、主の安息を体験することができていました。私たちは自分も他人をも、そのように多面的に見ることができます。
なお、レハブアムは「心を定めて主 (ヤハウェ) を求めることはしなかった」と言われながらも、主の救いを体験できました。ただそれはソロモンが築き上げたすべての富を失うという痛みとセットでした。
その子アビヤは模範的なことばを北王国イスラエルの人々に向けて語り、主の圧倒的な「救い」を体験できました。不思議にも、悪王に分類されるこの二人の王の叫びを、主は聞き届けてくださっています。
アサ王の場合も平穏のうちに生涯を終えられたらよかったのですが、試練の中で人間的な解決を求め、主の怒りを招きます。
現在の日本も試練のただ中にありますが、信仰生活は難しくはありません。ただ「私が主 (ヤハウェ) を求めると 主は答えてくださった」(詩篇34:4) という、日々の主との交わりを体験しながら生きることに他なりません。
それは、「主 (ヤハウェ) がいつくしみ深い方であること」を発見する歩みでもあります。