以前、「お金と信仰」という題名の本を書き、キリスト教世界で話題になりました。ただその際、「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(マタイ6:24新改訳第三版) というイエスのおことばは、いつも心の底に響き続けていました。
お金と神への信仰は両立させるものではなく、神への信頼がなければ、お金を管理できないばかりか、お金の奴隷になってしまうということをイエスは言われたのです。それは反対に、神への信頼を持つ者は、多額の財産を管理することも可能になるということでもあります。
お金には恐ろしい誘惑がありますが、それは私たちの経済活動を成り立たせるための道具に過ぎません。今日は、どのようにしたら、お金に煩わされずに、自由に生きられるかをまずともに考えたいと思います。
1.「地上に宝を蓄えてはならない。天に宝を蓄えなさい」
6章1節では、「あなたがたの正義に関して注意を払いなさい、人に見せるために人前で実行することのないように。そうでないと報いを受けることができません、天におられるあなたがたの父からのものを」と記されています。
このことばが、2-4節では「施し」に、5-15節は「祈り」に、16-18節では「断食」に関して述べられ、それぞれにおいて、「隠れたところで見ておられるあなた(一人)の父が、あなたに報いてくださいます」(4、6、18) という結論につながります。鍵は、父の眼差しだけを意識して正義を実行することでした。
その同じ文脈の中で6章19、20節は対句として、「蓄えてはならない、自分のために宝を地上に、そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開け盗みます。しかし蓄えなさい、自分のために宝を天に、そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません」という対比が記されます。
ここでは「蓄えてはならない」という禁止、「蓄えなさい」という命令が対比で記されています。ですから、これを短絡的に地上的な貯金をすることの禁止と理解してはなりません。それよりは、蓄財の動機が、「天におられるあなたがたの父」、「隠れたところで見ておられるあなた自身の父」を意識してのものであるのか、それとも自分自身にとっての地上的な報いを期待したものであるかが問われているのです。
しかもここでは、自分の宝を地上に蓄えることと、自分の宝を天に蓄えることの対比が、「虫やさびで傷物になる」のか「ならない」のか、また「盗人が壁に穴を開けて盗む」のか、そうは「ならない」のかという正確な対比が描かれています。
ここでの鍵は「宝」ということばの意味です。これは「蓄える」という動詞の名詞形の「蓄えられるもの」ということばが用いられています。ですから、ここでは何よりも、「蓄えられるもの」は、「地上」ではなく、「天に」「蓄えなさい」と命じられているのです。これは、ありえない命令とも言えます。天には預金システムは存在しないからです。
したがって、これを安易に「天国貯金の勧め」かのように解釈してはなりません。献金は確かに天の父を意識した大切な行為ですが、現実には、ほとんどの信仰者は、献金する一方で、同時に、この地上での将来の安全のための貯金をしているからです。しかしここでは、地上に蓄えるか、天に蓄えるかの二者択一であって、一部を天に、その残りを地上にという分散投資?の勧めでは決してありません。献金を、天国に入れていただくための担保のように考えることなどはあり得ません。
その二律背反を解く鍵は、「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるからです」(21節) ということばにあります。それは「あなたが蓄えることができるものが置かれているその場所に、あなたの心がある」という意味です。
確かに主への献金は、私たちの心が天の父に向けられるための大切な訓練の機会です。献げれば献げるほど、あなたは御父との交わりを深めることができます。ですから、極端に聞こえるかもしれませんが、自分の信仰を成長させる最も効果的な方法は、献金をすることです。
事実、マラキ書では、主 (ヤハウェ) が信仰の定まらないイスラエルの民に「わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る」(3:7) と言われます。それを聞いて彼らが「どのようにして私たちは帰ろうか」と尋ねると、主は率直に、「十分の一をことごとく、宝物倉に携えてきて、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試して見よ……わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか」と言われました (3:7、10)。
つまり、献金は主との交わりを豊かに体験するための何よりの契機になるというのです。
ところが現実には、「天に蓄えなさい」と言われて献金したら、「地上の教会財産として蓄えられていた、何かしっくりこない……」と思われる方もいるかもしれません。事実今も、カルト的な宗教では、「会員の生活は死ぬまで保証される……」と言われ、住居を売ってまで共同生活に入ることが勧められることがあります。
しかし、それは、財産の管理権を宗教団体幹部に任せてしまうことに他なりません。それは自分自身の選択の自由を放棄する、奴隷への道とも言えるかもしれません。
それに対して、旧約聖書以来まもられている原則は、あなた個人の収入の十分の一に限っては、旧約においてはレビ人に、新約においては教会会計に管理権を移譲するということです。残りの十分の九や、あなたの財産に関しても、それは全部、あなた自身のものというより、すべて神から与えられたものであり、お金の管理権があなたに残されているということに過ぎません。
たとえば、私が神学校に入学するときに、学びの期間のお金の蓄えが十分にありました。私と家内は、貯金通帳を前にして「これはすべてあなたのものです」とお祈りしお献げました。確かにそれを用いて、神の働きのために献金もしましたが、多くのお金は私たちの手に残ったままで、それを使って、レストランや映画やスポーツクラブに行くこともありました。
しかし、「食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現わすためにしなさい」(Ⅰコリント10:31) と記されるように、それは何の問題もありません。中世の教会では、財産を全部修道院に寄付して、そしてその修道院で一生を過ごすことがしばしば美徳とされましたが、それは私にとっては、神のかたちとしての自由な選択権を放棄することにしか思えません。
とにかく「天に宝を蓄える」とは、すべてのことを天の父の視点から行うという心の持ち方です。先に「施しをするときには、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい」(6:3) と言われたように、自分の功績を神の前にどれだけ積んだかを計り始めたとたん、それは地上の宝になっています。
蓄えることができない愛の働きにあなたの心が動いているときこそ「天に宝を蓄えている」ときとも言えましょう。それは献金の勧めというよりは、神の喜びをいつでもどこでも第一とするという生き方に他なりません。
2.「だれも二人の主人に仕えることはできません」
22、23節もまとまった対句で、「からだの明かり(ともしび)は目です。ですからあなたの目が健やか(まっすぐ)なら全身が明るくなりますが、目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が暗ければ、その暗さはどれほどでしょうか」と記されます。
現代的には「目」は外に光を取り入れる窓のような働きに見られますが、当時の感覚では、「目」は体全体の方向を決めるヘッドライトのようなものと見られていました。ですから、あなたの「心の目」の方向が「天におられるあなたの父」にまっすぐに向けられているなら、あなたの「全身が明るくなり」ますが、心の目が悪いために天の父を見られないなら、あなたの「全身が暗くなる」というのです。
そして「あなたのうちにある光」とは、そのように天の父を見る心の目のともしびを指し、それが暗いなら天の父を見ることができずに、あなたがますます暗くなるという意味です。
それが具体的には24節の、「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛するか、一方を重んじて(一方に結びついて)、他方を軽んじる(蔑む)ことになります。あなたがたは神と富 (マモン) に仕えることはできません」ということばに通じます。
「富」と訳されている原語は、ギリシャ語ではなく当時のイスラエルの人々が使っていたアラム語のマモンで、冨とか財産を偶像のように表現したことばです。多くの人は、心の底で神と富の両方に仕えることは可能だと思っています。
しかし、「宝を地上に蓄えてはならない、天に蓄えなさい」と命じる神を「憎む」という傾向が私たちにはあります。そして、この世の富に執着するあまり、目に見えない神を「軽んじる(蔑む)」という傾向も避けられません。
そのことを使徒パウロは、「金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。金銭を愛することがあらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を指し貫きました」(Ⅰテモテ6:9、10) と描きました。
「金銭を愛すること」とは原文で「金銭愛」という一つの単語になっています。「愛」はフィレオーという動詞で、名詞形は愛情、友情、家族愛などを意味するフィリアですが、友よりもお金を愛する人は金銭愛者であると言えましょう。
それにしても、ここの最大のポイントは、天の父なる神があなたの主人であるように。この地の「富(マモン)」は、多くの人間にとっての主人となっているということです。お金がある人は、このお社会では様々な特権を受けます。お金を出せば、ありとあらゆるサービスを受けることができます。
しかも、お金は、まるで意志を持っているかのように、自己増殖を目指します。それは、お金が人の心を動かすことで、増えて行くということです。事実、お金を増やすことができる人のもとに、お金が集まる傾向があります。その結果、ほとんどの人はお金に使われて生きているようにさえ見えます、お金を自分の道具として使いこなせる人はほとんどいません。
私たちは金銭愛の囚われから自由になる必要がありますが、そのためにこそ、私たちの真の必要を満たすことができる天地万物の創造主を知る必要があるのです。「金銭愛から自由になりましょう!」と訴える前に、「あなたの全ての必要をご存知の天の父を知り、その方を愛しましょう!」と私たちは訴えるべきでしょう。
お金の執着から離れるようにという教えは、どの宗教でも、どの哲学でもなされます。私たちは、ほんとうの「天の父」を知ることによってのみ、金銭愛から自由になれると言えましょう。
3.「空の鳥を良く見なさい。野の花がどうして育つのか、よく観察しなさい」
25節の始まりは、「ですから言います、あなたがたに」というイエスのことばです。つまり、「だれも二人に主人に仕えることはできない……あなたがたは神と富とに仕えることはできない」ということの適用例として、「心配することをやめなさい(思い煩ってはならない)」と命じられているのです。
原文では、この命令形の後に、「自分のいのちのことで何を食べ、何を飲もうかと、また自分のからだのことで何を着ようかなどと……。いのちは食べ物にまさっているではありませんか、からだは着る物に」と記されています。
つまり、ここでは先の富(マモン)が食べ物や着る物に言い換えられて、食べ物や着る物に囚われる生き方から自由になるように勧められているのです。食べ物や着る物を買うためにはお金はどうしても必要だからです。
26節の中心は、「空の鳥をよく見なさい」という命令です。これは意識して観察することの勧めです。それらは「種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしない」にも関わらず、「あなたがたの天の父が養っていてくださる」という現実があります。
ここでは「空」は天の単数形で、「天の父」の天は複数形です。つまり、諸々の天の支配者である父が、最下層の天(空)の鳥を養っていてくださると記されているのです。
そして、「あなたがたはその鳥よりもずっと価値がある」ということから、「天の父」が私たちを養っていてくださるということを思い起こすように勧めています。考えてみたら、人間は、太陽の光、空気や水、大地がなければ、一瞬たりとも生きられませんが、天の父は、これらをあり余るほど与え続けてくださっています。
27節は原文で、「あなたがたのうちのだれが、心配する(思い煩う)ことによって、寿命を一キュビット (約44㎝) でも延ばすことができるだろうか」というアイロニーが描かれています。
実際は、多くの人々は、心配し、思い煩うことによって、寿命を縮めてしまうという現実がありますから、これは皮肉と言えます。
28節は、「また、着る物のことで、なぜ心配する(思い煩う)のですか。野の花がどうして育つのかを、よく観察し(学び)なさい」と、よく観察することが命じられています。
「花」と訳されたことばはギリシャ語の krino で多くの英語ではLily(百合)と訳されるのが一般的ですが、これがガリラヤ地方の野原に数多く美しく咲いているアネモネのような花を指しているとも言われますが、実際は諸説あります。
とにかく、この花は「働きもせず、紡ぎもしません」が、「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていなかった」と言われています(28、29節)。ソロモンの栄華は、多くのユダヤ人にとっての憧れですが、イエスはそのソロモンが人間的な力でどれほど美しく装うとしても、野の花の美しさや華やかさに勝りはしないと言われたのです。
30節では、先の「野の花(百合)」が「野の草」と言い換えられ、それは「今日あっても明日には炉に投げ込まれるような」はかない草の一種ではあっても、「神はこのように装ってくださる」ということが思い起こされます。
それを前提に、まして「あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか、信仰の薄い人たちよ」という呼びかけがなされています。つまり、野の花をよく観察することによって、神の愛に満ちたご支配に信頼できるようになって思い煩いから解放されることこそ、私たちに求められている「信仰」なのです。
イエスは、食べ物や着る物を買うためのお金に心が囚われている「信仰の薄い人」に向かって、「空の鳥を良く見なさい、野の花がどうして育つのかをか、よく観察しなさい」と言われました。
私たちに何よりも命じられていることは、空の鳥を見ることと、野の花を観察すること、つまり、神が造られた美しい山や川を巡り散策して神の恵みを思い起こすことこそが、お金の支配から解放される最良の方法だというのです。
4.「まず神の国(ご支配)と神の義(真実さ)を探しなさい」
31節ではまず、「ですから、心配しなくてよいのです(思い煩ってはならない)」と命じられ「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言いながら」と記されています。これは、25節での「心配してはならない、自分のいのちやからだのことで」という命令の繰り返しです。
その上で32節では、「これらのものはすべて、異邦人が切実に探し求めているものです」と記されます。つまり、異邦人は、天地万物の創造主を知らない結果として、食べ物、飲み物、着る物を得るためのお金を第一とする生き方をしているというのです。
その上で、「あなたがたの天の父は、たしかに知っておられる、これらのものすべてが必要であることは……」と記されています。大切なのは、あなたがたの天の父が、空の鳥を養い、野の花を装ってくださるように、あなたの必要にいつでもどこでも「知っていてくださる」という、全知全能の神のご支配を認識することです。
32節では「まず(第一に)探し(求め?)なさい (seek)、神の国(ご支配)と神の義(真実さ)を」と命じられています。新改訳で「求めなさい」と訳されることばは英語ではほとんどすべて Seek と訳されます。
7章7節ではこの同じ動詞が用いられ「探しなさい、そうすれば見出します」と訳されていますから、同じように訳すべきでしょう。これは、空の鳥を見たり、野の花を観察したりすることによって、神の愛に満ちたご支配と神の真実さを心の目で見られるようになることです。
その結果として、あなたの神への信頼と愛が成長することになりますが、「そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられる」と約束されています。つまり、食べ物、飲み物、着る物の必要を必死に訴えた結果として、必要が満たされるというのではなく、神の真実なご支配を発見でき、神を愛し、信頼できた結果として、様々な必要が満たされるというのです。
つまり、あなたの心の目が、お金ではなく、天の父のご支配と真実に向けられることが何よりも大切なのです。
33節ではまず、「ですから、明日のことは心配しなくてよいのです(思い煩ってはならない)」と言われながら、その理由として、イエスは、ジョークを言うように、「明日のことは明日が心配します(自らが思い煩う)。苦労はその日その日に十分あります」と言われました。これは、まるで「明日」に人格があるような表現で、日本語では「明日は明日の風が吹く」とも言い換えられ得るかもしれません。
しかし、聖書的には、神ご自身が明日への道を開いてくださるので、あなたは、「その日その日に、神から与えられた責任を果たすことに集中しなさい」という意味として理解できます。私たちは、ときに明日のことを心配するあまり、今日の課題に心が集中できなくなる結果として、明日への道を自分で閉ざしてしまうことがあります。
これは、自分のいのちを延ばそうと心配することで、かえって寿命を縮めてしまうことと同じです。私たちは日々の仕事を、天の父との交わりの中で行います。そしてその労苦は、主にあって無駄になることはありません (Ⅰコリント15:58)。
「お金に心を奪われてはいけません!」というのは、誰もが理解できる常識です。しかし、お金への囚われから自由に生きられる人がどれだけいるでしょう?
たとえば、「あんな人を好きになってはいけません!」と言われても未練が募るばかりというのがあり、それが演歌の歌詞になったりしますが、本当に好きになれる人と出会えたら、そのような未練は立ち切ることができます。イエスは、お金への執着から解放される手段として、空の鳥を良く見ることと、野の花がどうして育つかをよく観察することをお勧めくださいました。
「神の国」つまり、神のご支配の真実を身体で体験することが、お金の執着から解放される道なのです。それは同時に、聖書のストーリ―全体を通して神の真実を知ることに、並行して起きることです。
ただそれは自分で探そうとしないと発見できないことでもあります。それを飛び越えて、「神と富とに」同時に「仕えよう」とするなら、あなたは確実に「信仰の破船」(Ⅰテモテ1:19、6:19) に会います。そこにはイエスの明らかな警告があるからです。不可能へのチャレンジをするのではなく、身近なところから神の義のご支配を味わって行きましょう。
その上で、神からのヴィジョンがあなた自身に与えられたなら、そのために道具としてのお金の管理をできる知恵を主に求めて行きましょう。神の国を第一とするとき、あなたを生かす未来が開かれます。