イザヤ43章1〜4、10〜21節「見よ、新しいことをわたしは行う」

2020年1月1日(元旦礼拝)

In to the unknown(未知の旅に踏み出そう)という「アナと雪の女王」Ⅱの主題歌が紅白歌合戦で、19歳の新人によって歌われていました。彼女はつい数か月前までスーパーでアルバイトをしながらアナ雪日本語版のオーディションで認められました。まさに未知の旅への「新しいこと」が始まったとも言えましょう。

旧約の流れから見ると、神がどのようなことに最も厳しく怒っておられるかが見えてきます。それはちょうど、「こんなに私はお前を大切に思っているのに、どうして、この気持ちをわかってくれないのか……」と言うような、親が子供に対して抱く感情に似ています。

一人ひとりが自分の尊厳やかけがえのない存在であることに気づいた結果として初めて、自分の罪が見えてくるという心理的なプロセスを私たちは知るべきでしょう。

多くの人が自分の罪を本当の意味で認めることができないのは、神の愛を実感していないからではないでしょうか。本日の箇所に記されるような神の愛の語りかけを繰り返し味わうことこそ、成長の鍵です。

1.「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ」

主は、燃える怒りを向けていたイスラエルの民に向かって一転して、「だが、今、主 (ヤハウェ) はこう言われる。―ヤコブよ、あなたを創造された方が、イスラエルよ、あなたを形造った方が」(1節) と優しく呼びかけつつ、「恐れるな。わたしがあなたを贖った」と言われます。

贖う」とは、たとえば、借金が返せなくなって、自分の身を奴隷に売らざるを得なくなってしまった場合に、兄弟が彼を「買い戻」し、再び自由人に復帰できるというような救いを意味します (レビ25:48)。イスラエルの民は、自業自得で神の「のろい」の下に置かれました。そこでは働いた労苦の実を自分で享受できないばかりか、ありとあらゆる災いに襲われ、怯えながら生きていました。それは奴隷以下の悲惨でした。

しかし今、そのような悲惨な状態から、生きることを喜べる自由人の状態へ回復されるという約束のことを、主は、「わたしがあなたを贖った」と預言されます。それは、「のろい」から「祝福」へという百八十度の立場の変化です。

それがなされたのは、イスラエルの民が悔い改めたからという以前に、父祖ヤコブに由来する民が、神ご自身によって「創造され」「形造られた」という神の一方的な「選び」に基づきます。ヤコブがそれに値しない人間であったことは聖書に明確に記されています。

そしてさらに、「あなたの名をわたしが呼んだ」と、贖いがすべて神のご意志から始まっていると言われます。そして、主は彼らに優しく、また断固として、「あなたは、わたしのもの」と語りかけられます。

そして、主に贖われた結果の祝福に満ちた歩みのことが、「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」(2節) と描かれます。

海も山も川も火山も創造された全能の神が、「わたしは」と強調しつつ、「あなたとともにいる」と保障してくださっています。天地万物の創造主が、波乱万丈の人生にも寄り添ってくださいます。

なお、この神の一方的な「選び」に基づく創造は、ダビデが「生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいたときから、あなたは私の神です」(詩篇22:10) と告白したように、私たちすべてにとっての霊的な現実です。

そして私たちキリスト者はすべて、キリストの十字架の血潮によってサタンの奴隷状態から贖い出されました。ですから、この「ヤコブよ、イスラエルよ」という部分を自分の名前に置き換えて朗読しながら、神の絶対的な守りを私たちは味わうことができます。

私たちはこの地で様々な災いに会いますが、それは決して「永遠のいのち」を損なう力にはなりません。そのことをパウロは、「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます」(コロサイ3:3、4) と断言しました。あなたに与えられた「永遠のいのち」のすばらしさは、時とともに明らかにされて行き、最後には栄光に包まれるのです。

そして、主はイスラエルに対する保障を、「わたしは、主 (ヤハウェ)、あなたの神、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるから」(3節) と言われます。これも静かに、心の底で味わうべき全能の神からの語りかけです。

イスラエルの聖なる者」とは、イスラエルにとって主は、いかなる比較も超えた、人のいかなる想像も及ばない圧倒的な神であるということを表します。ですから、彼らは、地上のいかなる権力をも恐れる必要がありません。

そのことが不思議にも、「エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする」と言われます。「クシュとセバ」はナイル川上流のエジプトの南の地域を指します。これは、ペルシャ帝国がナイル川全域を支配するために、その前線基地としてのイスラエルに特別な恩恵を施すという政治状況を示唆したものと思われます。実際、エルサレム神殿の建設が許されたのは、ペルシャがイスラエルの民の好意を得て、エジプト支配を容易にするためであったと言えましょう。

これは不思議にも、エジプトの犠牲の上にイスラエルの繁栄が築かれるという意味です。しかし、この背後に、神のあわれみのご計画がありました。人の目にはちっぽけなイスラエルが、神の目にはあの大国エジプトよりも重い存在と見られていたというのです。

主はそれを前提に、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している」(4節) と言われます。「高価」とは、かけがえのない価値とか希少価値を意味します。たとえばアブラハムにとってイサクは、かけがえのない「ひとり子」であり、イエスは、神にとってかけがえのない「ひとり子」でした。

また「尊い」とは、「重くされている」という意味で、「栄光」と同じ語源のことばです。これは、神が私たち一人ひとりを救うためにご自身の「ひとり子」さえも犠牲にされたほどに、私たちの存在を重いものとして見ておられるということを表します。

その上で主は、「わたしは」ということばを強調しながら、「あなたを愛している」と敢えて明言してくださいました。全宇宙の創造主である方が、イスラエルに向かってそのようにパーソナルに語りかけてくださるのです。

そして、その具体的な意味を、主は不思議にも、「だから、人をあなたの代わりにし、民をあなたのいのちの代わりにする」と言われます。これは理解しにくいことですが、イスラエルに繁栄をもたらすために、あの大国エジプトを犠牲にするのも厭わないという神の断固とした意思の現われです。

このように、他国や他人との比較で自分の価値が計られるのは、あまり上品な表現には聞こえないかも知れません。しかし、当時の政治状況を考えれば、神の意図は明確です。当時のイスラエルの指導者は、北からの脅威に南のエジプトの助けを得て対抗するという政策を伝統的に取ってきました。

これはたとえば、会社の上司の間に対立関係がある場合、その二人の陰に身を隠しながら、その対立を利用して自分の立場を守ろうとするような生き方です。それに対して、主は、人と人との信頼関係を軽蔑するような、姑息で卑怯な生き方ではなく、堂々と自分の立場を明確にするように命じられたのです。

あなたが頼りにしようとしている権力者はすぐに消えてしまう、はかない存在であるばかりか、神の目には、その権力者よりもあなたの方がはるかに重い存在と見られているのです。それを覚えることによって、私たちは人の奴隷にならずに、自分が神にとってどれほどかけがえのない存在と見られているかを意識しながら生きるように勧められています。

ところで、多くの日本人は、ときに、自分が人と異なった感性を持っていること自体を恥じて、「私がこのように感じるのは異常ではないか……」などと悩むことがありますが、私たちが他の人とまったく同じなら、あなたの代わりはいくらでもいることになります。

あなたが他の人と違った感性を持っているからこそ、あなたは神にとって「高価」でかけがえのない、「尊い」、重い存在となるということを忘れてはなりません。

2.「あなたがたは、わたしの証人」

5-9節で、主は四方の国に散らされたイスラエルの民を、もう一度約束の地に集めると約束しながら、イスラエルの民がいかに盲目で、耳が聞こえないものであっても、彼ら以外に主のみわざの意味を証しできる者たちはいないというご自身の葛藤と、彼らを用いてご自身を現わそうとするご意志を証ししておられます。

それを前提に主は、「あなたがた」を強調しながら、「あなたがたは、わたしの証人。─主 (ヤハウェ) のことば─わたしが選んだわたしのしもべ」(10節) と言われます。これは私たち異邦人クリスチャンにそのまま適用されます。

そのことを使徒ペテロは、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています」(Ⅰペテロ2:9、10) と言っています。

私たちはその責任の大きさに耐えられるほどには、神を知ってはいないと卑下するかもしれませんが、そのような懸念を払うように、「これは、あなたがたが知って、わたしを信頼し、わたしがその者であることを悟るためだ」(10節) と言われます。私たちは自分たちの人生を通して、主を深く知り、より深く信頼し、主がどのような方であるかを悟ることができるようになるのです。

ここでは「わたしがその者である (I am He)」という曖昧な表現があえて用いられながら、それを説明するように、「わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない」と、ご自身が他の神々と比べようのない方、ただひとりの創造主であることを証しておられます。

そして主は、敢えて「わたし」という代名詞を二回重ねながら「わたし、わたしが主 (ヤハウェ)」(11節) とご自身の名を紹介します。原文では主のご自身のお名前であるヤハウェが用いられており、そこには「わたしは『わたしはある』という者である」(出エジ3:14) という主の自己紹介が込められています。そこには、主が人間のことばで描きようのない、すべての存在の始まりであり、すべてを超越しているという意味があります。

ですからここでは続けて、「わたしのほかに救い主はいない。このわたしが、告げ、救い、聞かせた」(11、12節) とご自身のことを紹介しておられます。

さらに、「あなたがたのうちに、他はいなかった。あなたがたは、わたしの証人」(12節) と、先のことばを繰り返しながら「 (ヤハウェ) のことば─わたしは神だ」と断言されます。

そして、未来に目を向けさせながら、「これから後もわたしがそれだ (I am He)。わたしの手から救い出せる者はなく、わたしが事を行えば、だれがそれを戻しえよう」(13節) と、ただ主だけに信頼するように訴えておられます。

私たちはそれぞれ、キリストにある「光の中に」招き入れられた存在です。私たちがこのままの姿で、イエスの招きに応じるとき、主は、私たちの弱さや葛藤をさえ用いて、ご自身の栄光を現してくださいます。

ときに、「もっと人から尊敬されるようになったら、主 (ヤハウェ) の証人となれるのに……」などと思うこともあるかもしれませんが、それこそが人間中心主義の問題の始まりになります。ここでは何よりも、「わたしがその者である (I am He)……たしが主 (ヤハウェ) である……わたしが神だ……わたしがそれだ (I am He)」という表現が繰り返され、主 (ヤハウェ) とはどのような方であるかを思い起こすようにしなさいと訴えられているのです。

主は、「この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を選ばれ」(Ⅰコリント1:28)、その者に向かって、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している」と語りかけておられるのです。

そのとき、私たちがこの世的には小さければ小さいほど、弱ければ弱いほど、主にある逆転の大きさが証されるという神秘が生まれます。大切なのは、周囲の人々の目に見える自分を意識する代わりに、ただイエスのうちに示された主ご自身だけを見ながら生きることです。そして、イエスにあって私たちに注がれている神の愛を心から味わうことです。

いつでもどこでも、神の愛の語りかけを、心の底で味わいながら生きて行きましょう。

3.「先の事を思い出すな。昔の事を思い巡らすな」

(ヤハウェ) は、こう言われる」という表現は1、14、16節で用いられ、そのたびにその方がどのような方かが描かれます。14節ではまず、「その方は、あなたがたを贖われるイスラエルの聖なる方」と表現されます。主は、イスラエルをエジプトの奴隷状態から解放してくださった方、また、この世を超越したという意味で、「聖なる方」と呼ばれます。

そしてその救いのみわざが、「あなたがたのために、バビロンに使いを送り、彼らをすべて亡命者として下らせる。カルデヤ人をその歓喜の船から……」と描かれます。

この書が読まれたとき、イスラエルは国を失った捕囚の民、バビロンの情けでかろうじて生かされている亡命者の立場になっていましたが、その立場が逆転されるというのです。カルデヤ人とはバビロンの中心的な民族で、彼らは「歓喜の船」に乗っているような気持ちでいましたが、そこから追い出され逃げ惑う「亡命者」のような悲惨な状態に追いやられるというのです。

ここで、「バビロン」や「カルデヤ人」という名を、あなたを虐げ迫害している人々に当てはめると、この箇所の意味が、よりパーソナルに響くことでしょう。主は常にあなたを守る側に立っていてくださり、あなたに代わってあなたの敵に復讐してくださるというのです。

そしてその根拠を、主は「わたしは、主 (ヤハウェ) 、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である」(15節) と言われます。「イスラエルの創造者」というのは珍しい表現です。これはアブラハムから始まる神の民イスラエルの創造の歴史を思い起こさせるものです。

同時に、これは私たち一人ひとりの歴史にも当てはまります。エペソ1章4節には、「神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされた」と記されています。

私は昔、自分が大雪山のふもとの貧しい開拓農民の息子に生まれたことを恥じていました。正直に言うと、自分の父親も尊敬できていませんでした。しかし、永遠の神の「選び」ということが分かったとき、自分の出生やその後の成長、間違って野村證券などに入ったと思ったことなど、すべてが神の創造のわざとして受け止めることができるようになりました。

また「あなたがたの王である」とは、主こそが私たちの真の支配者、管理者、保護者であるという意味です。私は以前、会社のお金で二年間、自由な学びの時を与えていただきました。会社にとっては先行投資ということになります。

留学後、規定によって五年間は働きましたが、退社するとき私の入社を応援してくれた大学の先輩が、「会社は君のために先行投資したのに、それが無駄になってしまったな……」と言われました。私は即座に、「会社はいつも、自社の利益と共に、社会全体のための奉仕ということを言っておられましたよね。僕は社会に仕えるために牧師になるのですから、会社にとってもこれは良いことではないですか……」と口からことばが出てきました。

その方は、笑いながら、「そうも言えるか……」などとお答えくださいました。その方は、その後、副社長にまで上り詰めましたので、そのような広い視野をお持ちの方でした。私たちは自分を守ってくれる人や自分の勤めている会社の上に、あなた個人のである神を常に意識すべきです。

あなたも、この「イスラエルの創造者、あなたがたの王である」ということばに自分の名前を入れて読んでみてはいかがでしょう。神は何らかの目的をもって、あなたの人生をこれまで導いて来られたのです。

そして再び、「 (ヤハウェ) は、こう言われる」(16節) と宣言されながら、主がかつてエジプトの軍勢を紅海におびき出し、絶滅させたことが、「その方は、海の中に道を、強い流れの中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を連れ出された。彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消えた」(17節) と描かれます。

モーセに導かれた民が、エジプト軍の追撃を見て絶望し、パニックに陥った時、目の前の海が真っ二つに分かれて彼らはそこを渡ることができました。一方エジプト軍は海の中に呑み込まれ、もう追うことができなくなりました。

それをパウロは、「主は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」(Ⅰコリント10:13) と表現しました。

その上で、主は、逆説的な意味で「先の事を思い出すな。昔の事を思い巡らすな」(18節) と言われます。神はイスラエルの民に、繰り返し、出エジプトの事を始めとする過去の偉大な救いのみわざを思い起こすように命じておられましたから、この命令はまったく意外なものです。それは、彼らが過去の成功体験に縛られて、国を滅ぼそうとしていたからです。

たとえば、エルサレムがアッシリヤに包囲された時、神が包囲軍を混乱させ、奇跡的に撤退させましたが、彼らは同じことがまた起きると期待して、神のさばきという現実を見ようとしなくなっていました。これは日本の神風神話と同じです。しばしば、過去の成功談は偶像化されて人を失敗に導きます。

「成功は失敗のもと」になることを常に覚えて、現実を注意深く見る必要があります。神の救いのみわざは毎回ユニークなもので、パターンが違います。私たちはそれを覚えなければなりません。

それどころか、神がこれからもたらしてくださる救いは、それまでの成功も苦しみも色あせて見えるほどに奇想天外な偉大なものだというのです。

そのことを、主は、「見よ。新しい事をわたしは行う。今、もうそれが芽生えている。それをあなたがたは知らないのか」(19節) と言われました。私たちは、過去の体験に基づく自分の期待から心が自由にされるとき、日々の生活の中に、常に、何か、新しいことの芽生えを見つけることができます。

そして、このとき彼らはバビロンの向こうに、強大なペルシャ帝国の出現の前触れを見ることができました。それにも関わらず、彼らの目は南の大国エジプトの政治情勢にばかり向かっていたのです。

なお、イスラエルの民はエジプトから解放されるとき、海が真っ二つに分かれましたが、このとき彼らはバビロンに捕囚とされており、彼らの帰還を妨げたのは、起伏の激しい、水のない荒野でした。

それを前提に、主は、「確かに、荒野に道を、荒地に川をわたしは設ける。野の獣がわたしをあがめる。ジャッカルや、だちょうさえも。 荒野に水を、荒地に川をわたしが与え、わたしの民、選んだ者に飲ませるからだ」(19、20節) と、荒野や荒地の中に、約束の地への帰還の道を開くことを保障してくださいました。

なお、「ジャッカル」も「ダチョウ」も忌み嫌われた動物の代名詞のような存在でした。「ジャッカル」は山犬とも訳されますが、少数の群れをなして歩き回り、他の動物が食べ残したものをあさって食べる臆病な動物でした。

ダチョウ」は、自分で産んだ卵を置き去りにし、そのひなは別の孵化しない卵を餌として育つという無慈悲で貪欲な動物の代名詞でした。両者とも廃墟を住処としていました。つまり、そんなのろわれた動物さえも神の救いにあずかるというのですから、神に選ばれた民であるイスラエルが救いにあずかるのは、なおさらのことであるというのです。

私たちの目の前にも、荒野や荒地ばかりが広がっているように見えるかもしれませんが、創造主は「荒野に水を、川を荒れ地に与え」て、そこをエデンの園のような祝福の世界に変えることができるのです。

そして、これらのまとめとして、「この民は、わたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を宣べ伝えよう」(21節) と描かれます。イスラエルという民が創造されたのは、神が全世界の人々をご自身のもとに導くための証人とするためでしたが、そのために神は彼らに特別な恵みと赦しを繰り返し与えてきました。

そして今、神は、彼らのためにさらに「新しいことを行う」ことによって、彼らが神の「栄光を宣べ伝え」ることができるようにしてくださるというのです。これは私たちへの命令ではなく、必然的に起こることとして描かれています。

私たちの信仰の目はときに、自分の過去の体験や人の証しに影響されすぎる傾向があります。それぞれのときに、それぞれの個性に合わせて、圧倒的にユニークなみわざを見せてくださるあなた個人の「創造者」であり「」であられる方を、いつも見上げる必要があります。

私たちは神への信仰をあまりにも自分の努力で操作できるものに見てはいないでしょうか。あなたが思いもしなかった「新しいことを わたしは行う」と、あなたの神は語っておられます。その「芽生え」を見る目こそが、あなたに何よりも期待されていることです。

それは、In to the unknown(未知の旅)に踏み出すことですが、主がともにいて、道を開いてくださいます。