イスラエルは70年前に生まれた国でありながら、5年前に一人当たり国内総生産額で日本を抜き、今や、隠れ人工知能大国と呼ばれています。世界の最先端技術の研究所がひしめき合い、新しい会社が次々に生まれます。
その一方で、人口の約12%がユダヤ教超正統派 (Haredi) に属し、その男性の半数が世の生産活動から離れて聖書やタルムードの学びと宗教儀式に献身し、彼らは貧しい暮らしながらも社会で最高の生活満足度を得ていると言われます。まるでダビデの時代のレビ人の生活に憧れているかのような不思議な人々ですが、最低限の生活が政府から保証され、社会的な影響力を持っています。
ですからイスラエル社会では安息日の休みが徹底され、日本のコンビニ店主のような過重労働から無縁です。
今後、社会の生産的な活動が人口知能やロボットに次々と任せられると、そのように一見、非生産的と見える生き方がますます脚光を浴びるのではないかとも言われます。実際、子どもの教育はお金がかかるばかりですが、社会で最も重要で大変な仕事です。
同じように私たちの「心」を育み育てる教会の働きや礼拝は、AIの進化に反比例するように、その大切さに目が向けられるべきではないでしょうか。
イスラエルがバビロン捕囚から帰還し、神殿建設に取り掛かりながら、それが進まない時、主は預言者ハガイを通して、「この宮が廃墟になっているのに、あなただけが板張りの家に住む時だろうか……あなたがたの歩みを良く考えよ。多くの種を蒔いても収穫はわずか……金を稼ぐ者が稼いでも、穴の開いた袋に入れるだけ……あなたがたは多くを期待したが、見よ、得たものはわずか……それは……あなたがたがそれぞれ、自分の家のために走り回っているからだ」(ハガイ1:4-6、9) と言われます。
それは、神への礼拝を後回しにして目の前の生産活動に精力を注いでも、その働きに「のろい」が下され、労苦が無駄になることがあるからです。むやみに汗水たらして働く前に、労苦が無駄にならない生き方を求めるべきでしょう。
1.主への礼拝を整えることが最大の国家事業
27章は23章から続く、後継者ソロモンの支配への備えと、神殿建設に先立つ礼拝の体制を整えることの最終章です。ただ、ここに描かれた軍団の任務は明確には記されていません。
「月ごとの交代制」という表現と28章1節の記述との類似性からすると、軍団としての通常の治安維持よりも、神殿建設に関わる働きを担うように組織されたのだと思われます。
それぞれの分団の人数が二万四千人と描かれますが、歴代誌では今まで見てきたように、千というのは実数というよりも何らかの単位を現わすと思われます。
そして2-15節に登場する名前は、8節以外はすべて11章11-31節に記された三人と三十人のダビデの勇士たちです。しかもこのうち6人はユダ族出身です (3、7、9、11、13、15節)。その他は二人がエフライム族 (10、14節)、一人がレビ族 (5、6節)、一人がベニヤミン族 (12節)、あと二人は分からない部族の出身です (4、8節)。
これから分かることは、ダビデは自分にとっての最も頼りになる勇士たちに、神殿建設の責任をも担わせたということです。ダビデにとって、主への礼拝を整えることが最大の国家事業でした。
16-24節の「イスラエルの各部族の長」に関しての記述もなかなか理解しがたいものです。これは今までの各部族の代表者の名前ではなく、ダビデが任命した各部族の「つかさ」(27:22第三版) であると思われます。
これはダビデが各部族を治める指導者に自分が信頼できる人を選んだという中央集権化だと思われます。実際、ここに描かれるのは通常の十二部族ではありません。アロン氏族がレビから独立して描かれていたり、ギルアデのマナセの半部族の指導者が描かれる一方、ガドとアシェル族の名は省かれています。
そして24節では改めて、ダビデが命じた人口調査をヨアブが全うできなかったことが描かれます。それは21章に描かれたように、主の怒りを招く行為で、主のさばきによって中断されたからでした。
25-31節にはダビデの財産を管理した者が描かれます。25節は王の宝物蔵の管理者たち、26-28節は王の農地の管理者たち、29-31節は王の家畜を管理した者たちのリストです。そして最後に、「これらはみな、ダビデ王が所有する財産の長官であった」(31節b) と、ダビデのもとにある財産の豊かさが示唆されます。
なお、22章14節で既にダビデは約19兆円相当(日本の一年間の税収の三分の一に相当)を神殿建設のために用意したと説明しています。彼は主の宮のために自分の財産を蓄えたと言えましょう。
32-34節はダビデ王の顧問や補佐官の名前ですが、最初の二人はここにしか記されていません。
そのような中で、「アヒトフェルは王の助言者で、アルキ人フシャイは王の友であった」(33節) とさりげなく記されますが、ダビデの息子アブサロムが謀反を起こしたとき、息子の側についたのがアヒトフェル、また、息子の側についていると見せかけてアヒトフェルの計略を妨害したのがフシャイです (Ⅱサムエル15:31、34)。
ダビデにとってアヒトフェルの裏切りは大きな衝撃でした。詩篇55篇13節でダビデは、「私の同輩、私の友、私の親友」であったはずの者が、自分を「そしっている」側についたことを深く嘆いています。
しかし、歴代誌はそのようなダビデ家のスキャンダルは敢えて記さず、単に「アヒトフェルの跡を継いだのは、ベナヤの子エホヤダとエブヤタル」(34節) と記します。この二人は有力な祭司でもありました(27:5、Ⅰ列王1:7)。
ダビデは親友の裏切りを通して、ますます、祭司に信頼を置くようになって行ったのです。
なお最後に、「王の軍の長はヨアブであった」(34節) と驚くほど簡潔に記されます。ヨアブはダビデの姉の息子で、人間的に考えるとヨアブの軍事的才能がダビデ軍の強さの秘訣と見てよいほどかもしれません。
しかし、歴代誌はそのようなヨアブの功績も、また反対に、ダビデとの軋轢も描こうとはしません。ダビデは、勇猛でありながら野蛮なヨアブを、自分にとっての目の上のたんこぶとして恐れながらも (Ⅱサムエル3:39)、同時に彼との平和を大切にし、最終的なさばきは、神と息子のソロモンの手に委ねて行きます。
当時の世界では、豊かな国を作るための何よりの秘訣は、強力な軍事組織を作ることでした。戦争に勝った側は、負けた国のあらゆる財産を奪えるばかりか、その全住民を奴隷にして売るか、石切り場での強制労働などを課して、町の建設のために使いました。
つまり、勝利者はすべてを獲得し、敗者はすべてを失うのが常識でした。ところが、ダビデはその大切な軍事組織まで、神殿建設の備えのために用いたのです。
それは彼自身が「ある者は戦(いくさ)車を ある者は馬を求める。しかし私たちは 私たちの神 主 (ヤハウェ) の御名を呼び求める」(詩篇20:7) と歌った通りです。戦いの勝敗の鍵は、主の臨在にあったからです。
2.「もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現わされる。」
28章は22章と重なる部分が多くありますが、その1節では「ダビデはイスラエルのすべての長をエルサレムに召集した」とまず記され、「長たち」の内訳が、「各部族の長」から始まり「各組の長、千人隊の長……全財産と家畜の担当者の長……すべての勇士たち」と続きます。
それはイスラエルのすべてのリーダたちを集めるという公の集会でした。それと似た22章の記述は私的な集まりであったとも言われます。
そして28章2節で、ダビデは「私の言うことを聞きなさい。私の兄弟たち、私の民よ」と呼びかけながら、まず、「私は安息の家を建てる志を持ってきた」と述べ、ダビデ自身の強い意志が強調されます。詩篇132篇8、14節でもエルサレム神殿が主の「安息の場所」と呼ばれています。それは神ご自身の住まいと見られていました。
ただここでは、その家が「主 (ヤハウェ) の契約の箱のため、私たちの神の足台のためのもの」と言われ、神ご自身が入って住む家というわけではないという面が強調されます。
その上で、2節の最後に、彼自身が「建築の用意をしてきた」と記されます。ですから、ダビデにとって主の「安息の家」を建てることは人生最大の夢であったということが改めて強調されています。
しかし、3節では改めて、神が彼に、「あなたはわたしの名のために家を建ててはならない」と言われ、その理由を「あなたは戦いの人であり、人の血を流してきたからである」と22章8節の言葉が簡略化されて記されます。これは罪を犯したという意味ではなく、人の血を流すことによって儀式的な汚れを生み出したからという意味です。
そしてダビデは、4-6節で「選び」ということばを4回も繰り返しながら、自分やソロモンがイスラエルの王座に就いたのは、人間的な功績ではなく、神の「選び」に基づいていると強調されます。
ただ同時に7節では、主ご自身のことばとして、「わたしは彼の王国をとこしえまでも確立しよう」と約束されながら、その条件として「彼が、今日のように、わたしの命令と定めとを行おうと固く決心しているなら」と述べられます。つまり、彼の王国が永遠に続くかどうかは、ソロモンの決意次第であると敢えて記されているのです。
28章8節ではダビデがイスラエルの全会衆に、「主 (ヤハウェ) の命令をすべて守り、求め(探し)なさい」と命じます。それこそがイスラエルが繁栄できる秘訣であるというのです。
そして9節ではダビデがソロモンに向かって、「あなたの父の神を知り、全き心と喜びの気持ちをもって神に仕えなさい。主 (ヤハウェ) はすべての心を探り、すべての心の動機を読み取られるからである」と語り掛けます。それは私たちが「心」の奥底から神を知ろうとしているか、どのような動機で神に仕えようとしているかという「心」が問われているという意味です。
その上で、「もし、あなたが神を求める(探す)なら、神はあなたにご自分を現わされる。もし、あなたが神を離れる(捨てる)なら、神はあなたをとこしえまでも退けられる」と記されますが、この「求める」は「探す」という意味の方が強いです。
先の全会衆への勧めと同じように、真剣に主の命令の意味を「探し求め」、また主ご自身を探し求めるという探求心が問われているのです。
イエスはこれをもとに、「探しなさい。そうすれば見出します」と言われ、この「探す」ということばを用いて、「神の国と神の義を求め(探し)なさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」と言われました (マタイ7:7、6:33)。
さらにダビデはその結論として、28章10節の原文では、「今、心に留めなさい。主 (ヤハウェ) はあなたを選ばれた」と述べ、その目的を「聖所となる宮を建てるために」と言われます。宮を建てるのは主ご自身であり、そのために主はソロモンを選ばれたのです。それを前提に、「勇気を出して実行しなさい」と命じられます。
私たち自身の場合も、「救い」は神の「選び」から始まっていますが、そこには必ず使命が伴っています。しばしば救いにおける神の選びを強調しながら、そこに込められたこの地での固有の「使命」が語られない場合があります。そのような片寄りから、滅びに向かっての「選び」もあるのかなどという乱暴な議論を生み出します。
ソロモンは、神殿建設のために神によって「選ばれ」ました。そこに彼に与えられた特別な知性と繁栄が伴っていました。しかし、それはあくまでも、彼が神に仕え、神の民イスラエルを導くために与えられたものでした。それを彼が忘れたとき、彼はイスラエルを堕落へと導く者とされました。
28章11-18節では、神殿のすべてとそこでの礼拝に関わる「設計図」は、ダビデがソロモンに授けたもので、それは神の御霊がダビデに示したものであると記されます (12節)。
そしてすべての構造をまとめた結論としてダビデはソロモンに「これらすべては、私の上に臨んだ主 (ヤハウェ) の手によって書き物になっていて、仕事の全貌が理解できるはずだ」(19節) と述べます。
つまり、ソロモンが建てたと言われる神殿は、ダビデが書いた設計図に細部に至るまで記されており、しかもそれは、「主 (ヤハウェ) の手」が彼に書かせたものであるというのです。
ですから、エルサレム神殿を建てたのは、ソロモンである前にダビデであり、そのダビデを動かしたのは主ご自身であるというのです。まさに神殿は神ご自身が建てたものと言えましょう。
その上でダビデはソロモンに「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい……主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず、主 (ヤハウェ) の宮の奉仕に関わるすべての仕事を完成させてくださる」(20節) と言いました。それは、ソロモン自身が神から離れない限り、すべてのことが成し遂げられるという意味です。
これは、主が私たちに与えてくださるすべての使命に適用できます。一見、自分の働きが無駄になったように思えることがあっても、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄ではないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58) と断言されているからです。
3.「あなたの御手によって、すべてのものが偉大にされ、力づけられる」
29章1節でダビデは全会衆に向かって「この宮は人のためではなく、神である主 (ヤハウェ) のものであるのだから」と言います。この「宮」とは、原文では「宮城」またはPalaceと訳され得ることばです。当時は王宮の方が神殿よりはるかに大きく豪華だったので、神殿の優位を示したのでしょう。
ただ、2、3節になると原文では「神の家」ということばに読み替えられます。そして、ダビデがイスラエルの有力者たちに神殿のために献金を促すと彼らは金五千タラント余り、約9千億円相当のものを献げたと記されます。これは22章14節でダビデが主の宮のために用意したと言われるものの二十分の一にも相当する大きな金額です。
29章10-19節にはダビデの祈りが描かれています。そこではまず、多くの人間が憧れ、たたえるものの本質である「偉大さ、力、輝き、栄光、威厳」は、「主 (ヤハウェ) よ、あなたのものです」と告白されます。
ですから、今日の礼拝でも最初に、「まことに主は大いなる方、賛美されるべき方、威光と尊厳と栄誉、光栄と力、ただ主だけを礼拝せよ、天を造り支えている主」と歌われました。
そしてここではさらに、「天にあるものも地にあるものもすべて、主 (ヤハウェ) よ、王国もあなたのものです。あなたは、すべてのものの上に、かしらとしてあがめられるべき方です」と言われますが、これを私たちは心の底から味わうべきでしょう。
そして12節では、「富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものを支配しておられます」と歌われます。この世では、「富と誉れ」を持っている者は、日々の生活を自由に楽しむことができます。それらは人と人との間で生きる「人間」にとって、何よりも大切なものと見られます。しかし、その根源は、創造主ご自身にあるというのです。
ですから、主を礼拝することこそが、すべての幸福の出発点になります。主を礼拝することを後回しにして、「富と誉れ」ばかりを求めても、かえって満たされることのない「心の渇き」に駆り立てられることになります。
そして、主を礼拝することから生まれることが、「あなたの御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてのものが偉大にされ、力づけられるのです」と歌われます。
さらに29章13、14節でダビデは、主に「感謝し……御名をほめたたえ」ていますが、それは今、神殿のために多額の財産を献げられたこと自体を恵みと受け止め、「私は何者なのでしょう、私の民は何者なのでしょう。すべてはあなたから出たのであり、私たちは御手から出たものをあなたに献げたに過ぎません」と告白していたからです。
さらに15節の原文では、「私たちは寄留者です、あなたの御前では。私たちは居留している者です、父祖たちがみなそうであったと同じように。私たちの日々は影のようなものです、地上においては、そこに望みはありません」と告白されています。ダビデは自分の生涯を振り返り、サウルに追われていた日々や、息子のアブサロムの謀反で、エルサレムから退去せざるを得なかったことを思い起こしながら、自分の存在の基盤がいかにもろく、影のようなものに過ぎないかを理解し、それを告白していました。
私たちは神の御手から離れるなら、どのような「望み」をも持ち続けることはできません。
そして、16節でダビデは、神殿建設のために準備した豊かさ、そのすべては神ご自身の「御手から出たものであり」、すべては神の所有物であると告白します。
私たちの場合も、神にお献げする献金は、すべてが神から出たものに過ぎません。私たちが献金できるということ自体が、神から与えられた「豊かさを意識できる」ための最大の恵みの機会です。しかし、神への献げ物を後回しにする生き方は、いくら富があっても、いつまでたっても不足を覚えざるを得ない状況になります。人間の欲望は無限だからです。
17節では、神に向かって、「あなた」と呼びかけながら、「あなたは心を試される方で、真っ直ぐなこと愛されるのを私は良く知っています」と告白しながら、同時に「私」を強調しながら、「私は直ぐな心で、これらすべてを自ら進んで献げました」と述べています。
さらに18、19節では、主ご自身が民の「心をしっかりとあなたに向けさせてください……わが子ソロモンに全き心を与えてください」と祈っています。ダビデは自分の心を「直ぐな心」と自慢したのではなく、その心自体が、神の賜物であることを理解しながら、神が同じように、イスラエルの民の心とソロモンの心を真っ直ぐなものにしてくださるようにと祈ったのです。
その後、ダビデが民全体の礼拝を導く様子が描かれ、26節では「主 (ヤハウェ) はソロモンを全イスラエルの前に非常に大いなる者とした」と記されます。
さらに27、28節ではダビデの王位期間が40年であると述べられながら、「彼は幸せな晩年を過ごし、齢も富も誉れも満ち足りて死んだ」と描かれます。これが、いつでもどこでも、主への祈りと讃美を第一としたものの最後の描写でした。
そして29節では「ダビデ王についての事柄は、最初から最後まで『予見者サムエルの働き』……にまさしく記されている」と述べられます。これは、この歴代誌の著者が、敢えて記していなかったダビデの王家の闇の部分は、すべてサムエル記を通して皆に知れわたっていることを前提として記したということを最後に述べたものと思われます。
ダビデの晩年は、すべてを主の神殿の建設と礼拝賛美を整えるために費やされ「幸せ」でした。神殿は彼が御霊の導きで設計図を記し、建設資金も組織もすべて彼が用意しました。彼は神殿の完成を見ることができませんでしたが、自分が主に生かされ用いられていること自体を喜ぶことができました。
私たち一人ひとりが、主に選ばれ、固有の使命が与えられています。その能力や知恵は、この世のすべての仕事に関わる主の働きのために与えられました。主の導きを「探し求める」中ですべてが生かされます。