「アナと雪の女王」 Ⅱの主題歌で In to the unknown(未知の旅に踏み出そう)という曲があります。自分の中で今ここにある平穏な生活から抜け出て、未知の世界に踏み出す必要があるという歌です。それは、現在の平和の背後に過去の偽りがあったからです。雪の女王のエルサはそれを正すために特殊な力が与えられているというのです。
その一方で、妹のアナが、目の前には暗闇と恐怖しかないけれど、「目の前の正しいことを行え (do the next right thing)」という囁きが聞こえて来ると歌います。そして二人の協力によって平和な世界が実現します。
アブラハムに対する神の語りかけ「あなたの父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12:3) も未知の旅への招きであり、その先には神の平和の実現という目標がありました。
しかし、その子孫イスラエルはそれを忘れて堕落しました。そこに真のイスラエルの王であるイエスが現れます。イエスは、人間としての弱さを身にまとい、一歩一歩、十字架に至るまで神のみこころに従います。それを通して、神の平和 (シャローム) がこの地に広がり始めました。
私たちもイエスの御跡に従い、先の見えない未知の世界に踏み出すのですが、永遠の目的地と、次の一歩の選択の基準は明らかにされています。それは全身全霊で神を愛することと、隣人を自分自身のように愛することです。そこからあなたの明日が開かれ、その先には神の平和 (シャローム) が待っています。
1.「その名をインマヌエルと呼ばれる救い主」の誕生
マタイによる福音書では、イエスの降誕がイザヤ7章14節の預言の成就として描かれ (1:23)、ガリラヤ湖畔の町カペナウムにおけるイエスの公生涯の宣教開始がイザヤ9章1、2節の預言の成就として描かれます。イザヤの預言は7章から12章までが一つのまとまりとなっており、そこにキリスト預言が何度も登場します。
イザヤ7章の記事は、紀元前735年頃のことで、北方からアッシリア帝国が北王国イスラエル(首都サマリア)とアラム(首都ダマスコ)に迫ってくる時でした(紀元前732年ダマスコ陥落、紀元前723年サマリヤ陥落)。この危機にイスラエルの王ペカとアラムの王レツィンは南王国ユダ(首都エルサレム)を同盟に誘いましたが、ユダの王アハズは拒絶しました。それでペカとレツィンはユダに傀儡政権を樹立し、服従させようと攻撃しかけてきました (7:1)。
アハズ王の心は激しく動揺しますが、主は預言者イザヤを遣わして、「気を確かに持ち、落ち着いていなさい。恐れてはならない」(7:4) と言われます。
ただこのときアハズは目先の恐怖に圧倒され、何と北の凶暴な大国アッシリアに助けを求めていました。それは近隣のチンピラにおびえて広域暴力団に助けを求めるのと同じ愚かな政策でした。
イザヤはアハズの心を変えさせようと「あなたの神、主 (ヤハウェ) にしるしを求めよ」(7:11) と語り掛けますが、アハズは自分の外交政策に固執し、それを拒否します。そのように信仰への招きを退けた彼に与えられた「しるし」としての預言が、「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(7:14) というものでした。しかし、妊娠した人が処女であるなどと誰が信じることができましょうか。
これは反対に、世の人々をつまずかせるための「しるし」と言えますが、マタイ1章24節では、この箇所が引用されながら、処女のマリアが救い主である男の子を産むことを、婚約者のヨセフが納得したと描かれます。今も、「処女懐胎などと言わなければ信じられるのに……」という人が後を断ちませんが、すでに永遠の神の御子である方が人間の身体を取るためには処女を通して生まれる必要があるというのは論理的な必然です。
しかも、そこには、救い主は、人々から誤解され中傷される誕生の方法を敢えて選びとられたことによって、悩む者の仲間となってくださったという意味も込められています。また、生まれた子は、「インマヌエル」と名づけられますが、それは「神は私たちとともにおられる」という意味です。
そして、この七百年後に処女マリアから生まれたイエスが救い主であると最初に示されたのは、知恵と力を誇る王侯貴族ではなく、当時のワーキングプアー的階層、社会の底辺の羊飼いたちでした。
その預言では続けて、ダビデの子孫である救い主は、第一に、王家が廃れた後の、貧しさの中に生まれること、第二に、救い主はアハズの危急に間に合うようには現れないこと、第三に、アハズが頼みとしたアッシリアは、エルサレムに最大の恐怖をもたらす者に変わるということです。
つまり、アハズに与えられた「しるし」は、さらに大きな悲惨を迎えるというさばきの宣言でした。自分の知恵や力で問題を解決しようと思っている人は、救い主を求めません。そのため神は、ときにその人に悲惨や苦しみを敢えて与えることで、その傲慢を砕かれます。
そして、8章7、8節によると、「インマヌエル(神は私たちとともにおられる)」ということの意味は、エルサレムがアッシリアに包囲されて滅亡寸前になるというぎりぎりのところで体験されるというのです。
私たちも神の助けの御手は、しばしば、「もうお手上げ、私は何もできない……」という中で体験されます。それこそインマヌエル預言です。ある方は、切迫流産の危険の中で絶対安静を命じられ、そこでインマヌエルの主との出会いを体験しました。
ヘブル語聖書では8章21節から9章1節はひとつのまとまりとして記されており、それはアッシリア帝国によってもたらされる苦しみの時代を指します。「ゼブルンの地とナフタリの地」(9:1) とは、イズレエル平原からガリラヤ湖西岸に広がる肥沃な地でガリラヤ地方と呼ばれます。つまり、ここはアッシリアによって「異邦の民」の地とされてしまった絶望の地も、「栄誉を受ける」という約束なのです。
救い主は自業自得で苦しみを招く人々に希望の光を見せてくださいます。そのことが、「闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く」(9:2) と美しく表現されます。それは、新たな繁栄の時代の幕開けを意味しました。
マタイ4章14節ではイエスの宣教がこの預言の成就として始まったと描かれます。イエスの救いは横暴な暴力国家からの解放として描かれ、その癒しでは、悪霊につかれた人の解放が強調されます。
悪霊は、私たちの生活でも、経済的な不安に駆り立て、人を権力や組織の奴隷とする力として働きます。それが日本の政治では、権力者のご意向を忖度する政治が、官僚にまで及ぶという形で現れます。そしてついには、誰の目にも嘘とわかる話を堂々と述べる様子がテレビで放映されるという事態になります。そこにサタンの支配が見られます。
その上で、そのような解放と平和をもたらす救い主の出現がイザヤ9章6節で、「ひとりのみどり子が、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる」と預言されます。これは、7章14節の「インマヌエル」の誕生のことを指します。
両者に共通するのは、救い主は赤ちゃんとして生まれるので、目に見えるような救いの実現には時間がかかるということです。当時の人々は、救い主の登場と共に、すべての問題が解決すると期待していましたが、神のご計画はそうではありませんでした。
そして救い主の名が四通りに描かれますが、特に「平和の君」という名に注目すべきでしょう。救い主がこの世界に最終的な平和 (シャーロム) をもたらすからです。
このイザヤ預言から三十年余り後、エルサレムの王ヒゼキヤは、預言者イザヤの声に聞き従って、神に救いを求めました。神は、天から御使いを送って十八万五千人のアッシリア兵を打ち殺し、包囲軍を退却させました。それは当時、この預言の成就と見られました。なお旧約の預言は何度にも渡って成就するという性格を持ち、大切なのはそこに現された霊的な真理を知ることです。
それによると「神が私たちとともにおられる」という現実は、エルサレムがアッシリア軍の大軍勢に取り囲まれて絶体絶命の危機に陥るまでは分からなかったということです。
私たちは「救い」をあまりにも精神的な次元に矮小化しては考えてはいないでしょうか。当時の人々にとってそれは、横暴なアッシリア帝国の支配からの解放を意味しました。そして今、イエスによって始まった「救い」も「神の平和」という完成に向かっています。
そのことがイザヤ9章7節では「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め」と、ダビデ王国を再興する救い主の姿が描かれます。そして、このキリスト預言がこの後、七百年後に実現したということが、マタイによる福音書に描かれています。つまり、イエスによる「救い」はこの目に見える世界を根本から造り変えるもので、それは「神の国」の完成として現わされるのです。
2.「狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し……乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ」
11章では、驚くことに、クリスマス預言と新天新地の預言がセットになっています。つまり、二千年前のキリストの降誕は、全世界が新しくされることの保証とされているのです。「エッサイの根株から新芽が生え」とありますが、エッサイはダビデの父で、貧しい羊飼いに過ぎませんでした。
ダビデの根株ではなく、「エッサイの根株」と呼ぶ中に、救い主の誕生の貧しさが示唆されています。それは、「主の救い」が、絶望の後で初めて実現することを意味するかのようです。ダビデ王家はその後、堕落の一途をたどりバビロン捕囚で断絶したように見えました。しかし、その家系は守られ、ダビデに劣ることのない理想の「王」がその同じ根元から生まれるというのです。
11章2節によると、救い主は人々の注目を集めずひっそりと生まれますが、彼の上に「主の霊がとどまる」というのです。それはイエスがヨルダン川でバプテスマを受けたとき、「神の御霊が鳩のように」イエスの上に降った (マタイ3:16) ことで成就しました。
そしてここでは、その御霊が理想的な王としての働きを三つの観点から可能にすると記されます。「知恵と悟りの霊」とは3,4節にあるような、正しいさばき、公正な判決を下すためのものです。
「思慮(はかりごと)と力(能力)の霊」とは、4節にあるように、外の敵と、内側の敵に適正に対処する計画力と実行力を意味します。決して口先だけの政治家の約束ではなく、その口から出ることばが、必ず結果を生み出すような王となるということです。
そして、三番目は原文では「主を知り、恐れる霊」となっていますが、「知る」とは、主との生きた交わりを意味し、「恐れる」とは、自分ではなく主のみこころに徹底的に服従する姿勢を表します。これは、理想の王が、日々主との豊かな交わりのうちに生き、その生涯を通して父なる神のみこころに従順である姿勢を現します。
そして、この理想の王は、「正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる」(11:5) とあるように、帯をしっかりとしめて働きをまっとうし、正義と真実で世界を治め、この地に理想の世界をもたらすというのです。
ところで、神は、エデンの園という理想的な環境を造り、それを人に管理させようとしましたが、アダムは神に従う代わりに自分を神とし、この地に荒廃をもたらしました。そして、残念ながら、アブラハムの子孫たちも、乳と蜜の流れる豊かな約束の地を治めることに失敗してしまいました。
第一のダビデはアダムの子孫としての弱さを持っていたため、自らの失敗でエルサレムの平和を一度は自分で壊してしまいます。そればかりか、ダビデの子孫はますます堕落しエルサレムに混乱をもたらしてしまいました。
しかし、6節からは第二のダビデとして現れた救い主が、第一のダビデの成し得なかったような完全な平和を、エルサレムに実現し、エデンの園にあった平和 (シャローム) を再興すると語られます。この世界こそが65:17-25によると「新しい天と新しい地」と呼ばれるのです。
「狼と小羊、豹と子やぎ、子牛と若獅子」(11:6) とは食べる側と食べられる側の関係ですが、新しい世界においては弱肉強食がなくなり、それらの動物が平和のうちに一緒に生活できるというのです。「小さい子供がこれを追う(導く)」とは、エデンの園における神と動物との関係が回復されることです。
人が神に従順であったとき、園にはすべての栄養を満たした植物が育っていましたから、「熊」も「獅子」も、「牛」と同じように草を食べることで足りたはずでしたが、アダムの罪によって「大地は……のろわれ」てしまいました (創世記3:17)。しかし、神が遣わしてくださる救い主は、そのような原初の平和 (シャローム) を回復してくださるというのです(11:7)。
そして、「その子らはともに伏し」とあるように、その平和は一時的なものではなく、それぞれの子らにも受け継がれるというのです。
また、「乳飲み子」や「乳離れした子」が、コブラやまむしのような毒蛇と遊ぶことができるとは (11:8)、エデンの園で「女の子孫」と「蛇の子孫」との間に生じた「敵意」(創世記3:15) が取り去られ、「蛇」がサタンの手先になる以前の状態に回復することです。
「わたしの聖なる山」(11:9) とは、エルサレム神殿のあるシオンの山を指します。なお、現在のエルサレムは、残念ながら民族どうしの争いの象徴になっています。それは、それぞれが異なった神のイメージを作り上げてしまっているからです。
しかし、完成の日には「主 (ヤハウェ) を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」ので、宗教戦争などはなくなります。預言者エレミヤは、この終わりの日のことを、神がご自身の律法を人々の心の中に書き記し、もはや「主を知れ」と互いに教える必要もなくなると預言しています (エレミヤ31:33、34)。ペンテコステの日に教会の集まりに御霊が下ったのは、この預言が成就したことを表していました。
「その日になると、エッサイの根はもろものろの民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のとどまるところは栄光に輝く」(11:10) とは、このような神の完全な平和 (シャローム) は、イエスが世界中で「全地の王」、「主」として崇められることによって実現するという意味です。私たちはすでにそのような世界に一歩足を踏み入れています。
1963年8月28日のワシントン市のリンカーン記念堂において、マルティン・ルーサー・キングは、「I have a dream」という有名な演説を行いました。
そこで彼は、「私には夢がある。それはいつの日かジョージア州の赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、ともに兄弟愛のテーブルにつくことができることである……私には夢がある……アラバマ州で、いつの日か幼い黒人の男の子と女の子が白人の男の子と女の子と手をつなぎ、兄弟姉妹として歩けるようになることである……」と語りました。
彼は白人と黒人との平和を、「狼は子羊とともに……」のレトリックを用いて表現したのです。それに続いて彼は、「これが私の希望なのである……こういう信仰があれば、私たちはこの国の騒々しい不協和音を、兄弟愛の美しいシンフォニーに変えることができるのである」と語っています。
それから五年後、彼はメンフィスで暗殺されますが、それから40年たったアメリカで、一人の黒人と白人との間に生まれた子が大統領になりました。それはキング牧師の言った「夢」が実現したしるしでした。
主の再臨によって実現する「夢」と、目の前の平和の夢は切り離せない関係にあります。それどころか、イザヤの預言が成就することを信じているからこそ、私たちは目の前の問題に、平和の使者として向かってゆくことができるのです。永遠の夢を持つからこそ、私たちの中に、この世の悪に屈しないための力が生まれるのです。
3.「あなたがたは喜びながら水を汲む。救い(イエス)の泉から」
イザヤ12章は、7章以降の預言の結論部分で、礼拝で言えば最後の頌栄の部分に相当します。「その日」(12:1) とは、11章の神の平和 (シャローム) が完成する日です。
神はかつてイスラエルの罪に対して「怒り」を燃やされ、外国を用いてエルサレムを廃墟としましたが、その「怒りは去り」、苦しんだ民を「慰めてくださった」というのです。私たちも、「神がおられるなら、なぜこのようなことが……」と絶望する時もあるかもしれません。しかし、それを通らされた後で、「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした」(119:71) と言えるようになることがあります。
その後で「神は私の救い」、「主 (ヤハウェ) こそ……私の救い」と心から告白されます (12:2)。そしてそれは、「喜びながら水を汲む」(12:3) こととして表現されます。エルサレムは山の上にある町で、昔の城壁の中には泉がありませんでしたから、敵に包囲されると、水不足による死の苦しみが待っていました。まさに「水」は「救い」の象徴でした。
後の時代に城壁外のギホンの泉から城壁の下を通る水路が作られ、城壁内のシロアムの池から水を汲むことができるようになります。後に仮庵の祭りの最中、祭司たちは七日間の間、毎日、その池から水を汲み、約1㎞の道を上り、神殿の祭壇に水を注ぎましたが、その際、このイザヤ書12章が全会衆によって朗誦されました。
そして、そのような祭りのクライマックスのとき、イエスは神殿の真ん中に立って大声で、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい……」(ヨハネ7:37) と驚くべきことを言われたのです。
ここで、「救いの泉から」(12:3) と追記されていますが、「救い」ということばはヘブル語で「ヨシュア」、それを、ギリシャ語にすると「イエス」です。つまり、イエスは、終わりの日の預言の成就とは、イエスの泉から水を飲むことだと言ったのです。
そこでは「ウシャブテム(あなたがたは汲む)マイム(水を)ベッサソン(喜びながら)ミマアーネイ(泉から)ハ・イェシュア(救い《ヨシュア、イエス》の)、マイム、マイム、……ホ・マイム(その水を)ベッサソン(喜びながら)」と歌われます。
そして4節4行目では、「そのみわざを、もろもろの民の中に知らせよ」と命じられます。その目的は、世界中で、主 (ヤハウェ) の「御名があがめられるように」なることです。それこそ、世界の完成のときです。
そして、その宣教の働きは5節原文で、「歌え!主 (ヤハウェ) を」とあるように、主への賛美を通してなされるというのです。なぜなら、そこでは、「主がなさったすばらしいことが全世界で知られるように」、そのために「歌え!」と命じられているからです。つまり、主への賛美こそ宣教であり、また宣教の目的も、賛美の輪が世界に広がることなのです。
当教会は東京武蔵野福音自由教会初代牧師の古山洋右先生による宣教ヴィジョンから始まっていますが、先生の遺稿集のタイトルが「賛美から宣教へ」となっています。それは彼が天に召される57日前の元旦礼拝のイザヤ書12章の説教題から生まれています。
先生は、ご自分の発病と時期を合わせるように教会に様々な混乱が生まれたことを赤裸々に話しながら、そのような時だからこそ、主のみわざの一つ一つを思い起こし、主を賛美するという原点に立ち返ることの大切さ、そこから道が開かれると最後の力を振り絞って語っておられました。
この6節では、「イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる大いなる方」と記されます。それは本来、汚れた民の真ん中に住むことができない「聖なる方」が、「あなたの中におられる」というのです。
そして今、全宇宙の創造主は、今、聖霊によってあなたの中に住んでおられます。それこそ、イエスが語られたこと、「生ける水の川が」、イエスを信じる者の「心の奥底から流れ出る」(ヨハネ7:38) と言われたことでした。
私たちの心の奥底には、既に、この「生ける水の川」が流れ出る「泉」が与えられています。私たちは、しばしば、この世的な恐れにとらわれ、またこの世的な発想に縛られて、この泉に自分でふたをして、流れ出ないようにしてはいないでしょうか。
アブラハムは神の召しを受けたとき「どこに行くか知らずに出て行きました」(ヘブル11:8)。それはまさにIn to the unknown(未知への)旅立ちでした。しかし彼は、最終目的地は知っており、主との交わりに生きていました。
17世紀のドイツの詩人パウル・ゲルハルト作詞の「飼い葉桶(おけ)の傍らに」というクリスマスの歌があります。そこに眠る幼子は、私たちの心すべての創造主であり、同時に永遠から父なる神と共におられた光の創造主であられます。そしてこの方はイザヤの預言を成就するため、この世界に幼子の姿で現れました。
そして今、その方は私たちの心をご自身の新しい飼い葉桶にして、私たちを未知の世界へと連れ出してくださいます。私たちはどれほど弱く愚かであっても、私たちの内には既に光の創造主が住んでおられ、一歩一歩の選択を導いてくださるのです。
その目的地には、私たちが心の底で憧れる、永遠の神の平和 (シャローム) の世界が待っています。