Ⅰ歴代誌13〜16章「定めに従って主を求め、主を喜び歌う幸い」

2019年11月3日 

歴代誌は、もとはヘブル語聖書の最後に位置し、3章終わりの系図から判断すると紀元前400年頃の人によって記されたと思われます。とにかく、これこそ時代的にもっとも新約聖書に近い旧約最後の書物です。

当時の神殿は、ソロモンの神殿に比べたら驚くほど小さいもので、そこには契約の箱さえありませんでした。しかし、唯一、ダビデ時代からの驚くべき遺産がありました。それは訓練されたレビ人によっての多くの楽器を用いての主への賛美を歌うことでした。そしてそれこそ、現代の教会にまで続く伝統です。

現代まで大切に守られてきた主への賛美の歌詞こそ、詩篇です。私たちの教会では、できる限り本来の交読形式を生かして唱和するようにしています。

多くの讃美歌は16世紀のマルティン・ルター以降に作られ、古いようでも聖書の時代からすれば極めて新しいものです。詩篇を歌う伝統こそ、三千年前から続くもので、それがこの書に記されます。詩篇の賛美の再発見に信仰復興の鍵があるとも言えましょう。

1.「ダビデの心は激した。主 (ヤハウェ) がウザに対して、怒りを破裂させたからである」

13章1-3節は、「ダビデは協議した、千人隊と百人隊の長たちおよびすべての指導者たちと。そしてイスラエルの全会衆に言った。『もしあなたがたが良しとし、私たちの神、主 (ヤハウェ) から出たことならば、一斉に使者を送ろう、イスラエル全土に残っている私たちの同胞に、また彼らとともにいる祭司やレビ人たちに、彼らは放牧地のある町々にいる。彼らを私たちのもとに集めよう。そして持ち帰ろう、私たちの神の箱を、私たちのもとに。私たちは顧みなかったからだ、サウルの時代には』」と記されています。

ダビデは、長い年月にわたり放置されていた神の箱」を、エルサレムの約12㎞西に降ったキルヤテ・エアリムからダビデの町エルサレムに運び込もうとします。この「神の箱」は、イスラエルがサムエルによって治められていたときから、既に顧みられてはいませんでしたが、それは主ご自身によるさばきでもありました。

主は、預言者サムエルが少年だった頃、祭司エリとその家族を滅ぼし、「神の箱」をペリシテ人の手に奪われるままに任せて、幕屋礼拝を停止させました。それはイスラエルの民が神の箱をまるで偶像のように扱い、「神の箱さえ自分たちとともにあれば、敵に負けることはない」などと思い、主のみこころを実行することをおろそかにしていたからです。

主は、その後「神の箱」をイスラエルに戻されましたが、サムエルにさえも幕屋での礼拝を復興するようにとは命じませんでした。それはイスラエルに、何よりも真剣に「主に聴く」という信仰の原点に立ち返らせるためでした。

そのような暗黒の時代に、ダビデは様々な試練を通して、主との交わりを築くことを学びました。それはモーセの場合と同じようなプロセスでした。そして今、晴れて幕屋礼拝を復興できるようになったのです。それは、「 (ヤハウェ) から出たこと」として全会衆に理解されました。

なお、「私たちは顧みなかったからだ、サウルの時代には」と記されている際の「顧みなかった」とは10章13、14節で、「サウルは……霊媒に伺いを立てることまでして、主に伺いを立てる(新改訳「尋ねる」)ことをしなかった」と記されていたことばと同じです。

イスラエルの民は、ダビデに導かれて、真剣に「 (ヤハウェ) に聴く」という信仰の原点に立ち返るという意味で、「神の箱」を政治の中心地に運び上げようとしました。

そして、6節では「神の箱」が「『ケルビムに座しておられる主 (ヤハウェ) という名で呼ばれる」と記されています。これは、「神の箱」自体が、「主 (ヤハウェ) の玉座」を目に見えるように現しているという意味です。

出エジプト記25章22節では神の箱(あかしの箱)の作成を命じた後で、主ご自身が「わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けてあなたに与える命令を、その『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る」と記されていました。

そこはまさに、神が民の代表にご自身のみこころを告げる玉座であったのです。そして、新約においては、イエスご自身が十字架で血を流すことによって私たちのための「宥めの蓋」となられたと描かれています (ローマ3:25別訳)。

今の時代は、神はイエスを通して私たちに一人ひとりに親しく語りかけてくださいます。正統的な教会が告白する三位一体の教えによれば、イエスご自身も「ケルビムに座しておられる主 (ヤハウェ)」と呼ばれる方であられるからです。

ところが、7節では、「彼らは載せた、神の箱を、新しい荷車に、アビナダブの家から。そしてウザとアフヨがその荷車を御した」と驚くべきことが記されます。神はかつて「神の箱」をペリシテの地から戻すために牛に車を引かせましたが、それを「神の民」が真似てはなりません。

それは「聖なるもの」と呼ばれ、アロンの子たちがじゅごんの皮で覆いをかけ、かつぎ棒を通し、レビ人のケハテ族がその箱に触れることも見ることもないまま、恐れをもって「担う」ように命じられていました。その理由が「聖なるもの触れて死ぬことのないようにするため」と記されていました (民数記4:15)。

しかも、そこで荷車を御したウザアフヨは、レビ人ですらありませんでした。それは15章13節でダビデが「最初の時には、あなたがたがいなかったため」と述べていることから明らかです。ダビデは、レビ人に相談する前に命令を発してしまったのでしょう。

たしかに8節には、「ダビデと全イスラエルは、神の前で力の限り喜び踊った、歌、竪琴、琴、タンバリン、シンバル、ラッパをもって」と描かれているところから見ると、ダビデは、主を喜び歌う音楽に関しては、徹底的な準備をしていたはずですが、肝心の律法に従って神の箱を運ぶ」ということに関しては配慮が欠けていました。

神の臨在の象徴をまるで荷物かのように荷車に載せるなどあってはならないことです。

そして9、10節では、「キドンの打ち場」まで来たときの悲劇が、「ウザは手を伸ばした、箱を押さえるために。牛がよろめいたからである。すると(ヤハウェ) の怒りがウザに向って燃え上がり、彼を打った。彼が手を箱の上に伸ばしたからである。彼は死んだ、その場で、神の御前で」と描かれます。

ここでのウザに対する「主 (ヤハウェ) の怒り」は、ダビデを含めこれに携わったすべての者に向い得るものでもありました。

それで11節では、「ダビデの心は激した(怒りに燃えた)。 (ヤハウェ) がウザに対して、怒りを破裂させたからである。その場所は今日までペレツ(破裂)・ウザと呼ばれている」と記されます。

その結果が12節で、「それでダビデは神を恐れた、その日に。そして言った『どうして、私のもとにお迎えできようか、神の箱を』」と」と記されます。それでダビデは、箱を自分の町に移す代わりに「ガテ人オベデ・エドムの家に回し」、そこに3か月間も留まらせますが、主はオベデ・エドムの家と彼に属するすべてのものを「祝福され」ます。

2.「ダビデが再び神に伺うと、神は彼に仰せられた」

14章1節からの記事は、時間的には13章の前のことで、Ⅱサムエル5章9-12節に記されているように、ダビデがエブス人が住んでいた難攻不落のエルサレムを攻略し、そこを「ダビデの町」と呼んで城壁を築いて間もなくの時期だと思われます。

そこで何と、イスラエルの北端と境を接する有力な貿易都市国家「ツロの王ヒラム」が、自分の方から「ダビデのもとに使者と、杉材、石工、木工を送った。それはダビデの王宮を建てるためである」と描かれます。それはヒラムが、ダビデとの友好関係を結ぶことで、自分の町が繁栄できると考えたからだと思われます。

そこで2節ではまず、「ダビデは知った」と記されながら、「 (ヤハウェ) が自分をイスラエルの王として堅く立ててくださったことを、また、主の民イスラエルのために自分の王権が高くあげられていることを」と記されています。

つまり、ダビデは、そこで自分の影響力を誇ることなく、ツロの王ヒラムを動かしておられるのは、主ご自身であることを心の底から理解していたというのです。

その上で3-7節では、エルサレムにおいてダビデの家に多くの子たちが生まれたということが描かれています。この子たちの名前も順番も3章5-8節とほとんど同じです。

ただ、そこでの記述と同様に、ソロモンがもとのヘテ人ウリヤの妻、バテ・シェバから生まれるようになった経緯はまったく記されていません。

8-16節では、ペリシテ人との戦いが描かれます。それは、ダビデの支配が確立すると、地中海岸を支配していたペリシテ人が慌てて攻め上ってきたからです。彼らはサウルが健在のときには、イスラエルを分断するためにダビデを保護していましたが、彼がイスラエルを統一するやいないや敵となりました。

ダビデは昨日の味方と戦う羽目になり、恐怖に満たされたことでしょう。彼らはエルサレムの西側の目と鼻の先とも言えるレファイムの谷を襲ってきました。

それでダビデは、「 (ヤハウェ) に伺った(聞いた)」のですが、主はすぐに「攻め上れ、わたしは彼らをあなたの手に渡す」と保証してくださいました (14:10)。そこでの勝利を、ダビデは「神は、私の敵を破られた (パラツ)。私の手を用いて、まるで水が破れ出る (ペレツ) ように」と言います。そして、「その場所の名は、バアル・ペラツィムと呼ばれた」と勝利の記念碑的な名が記されます。

13節からは二回目のペリシテ人の攻撃が記され、ここでも「ダビデが再び神に伺う(聞く)」、すぐに「神は彼に仰せられた」と記されます。今度は、ペリシテ人の背後に回り込むようにとの作戦を与え、神ご自身が「ペリシテ人の陣営を討つために、あなたより先に出ている」と保証してくださいました (15節)。

ダビデは神が命じられたとおりにした」結果、「彼らはギブオンからゲゼルまでのペリシテ人の陣営を打った」と記されます。ギブオンとはエルサレムの北北西10㎞ぐらいの町、ゲゼルとはエルサレムから西に30㎞余りのペリシテとの国境の町です。これらの町がダビデの支配下になることは、先のキリヤテ・エアリムから神の箱」を運ぶ際の安全を確保するということを意味します。

これによってベニヤミンからエフライム南部までの割り当て地を奪い返すことができたことになります。このときペリシテ軍は二度目の戦いでは背後から攻められ、もと来た道を退却することができず、北に迂回しながら、かろうじて自分の領地に帰ることができただけです。これはイスラエルにとっての決定的な勝利となりました。

そしてその結論が、「こうして、ダビデの名声は全地に及んだ。(ヤハウェ) 彼に対する恐れをもたらされた、すべての国々に対し」と描かれます。

ダビデは先に、「神の箱」をどのように運ぶべきかに関して、主のみこころを尋ねようとしなかったために忠実な部下のウザを死に至らしめてしまいました。しかし、このペリシテ人との戦いでは、主に何度も尋ねることで圧倒的な勝利を体験できました。私たちもすべてにおいて主の導きを求めるべきなのです。

3.レビ人の者たちを歌い手として任命し……楽器を手に、喜びの声を上げるようにさせた

15章には「神の箱」をエルサレムに運び入れる二回目の試みが描かれます。13章の一回目の試みとの間には、3か月しかなかったはずで、14節のペリシテ人との戦いは、そのずっと前のできごとのはずです。

ただ、これらの神の圧倒的なみわざを描くことで、「 (ヤハウェ) への恐れ」が読者に改めて生まれます。

1節の初めでの「ダビデの町に自分のために家を造った」というのは自然なことです。敢えて「ダビデの町」と呼ばれているのですから、王宮があるのは当然だからです。ここで注目すべきことは、それとセットの働きであるかのように、「また神の箱のために場所を定め、そのために天幕を張った」と記されていることです。

そして、2節では先の反省に立ちながらダビデが、「レビ人でなければ、神の箱を担いではならない」と言います。同時にその根拠を、 (ヤハウェ) の御名を用いながら、「 (ヤハウェ) は彼らを選ばれたのだから (ヤハウェ) の箱を担がせ、とこしえまでもご自分に仕えさせるために」と、律法の趣旨を解説します。

ダビデはこのとき「全イスラエルをエルサレムに呼び集め」るとともに、「アロンの子らとレビ人を集めた」と記され、ケハテ、メラリ、ゲルションの三氏族が集められたことが描かれます。

そして、8-10節のエリツァファン(イツハル)ヘブロン族、ウジエル族とは、ケハテの中の三氏族です (6:2、38)。ケハテ族が特に強調されるのは、彼らこそが「神の箱」を担いで運ぶ責任を与えられていたからです。

11-15節ではダビデが、祭司の家系、レビ人の三氏族の家系の代表者を集めて、民数記4章に描かれていた各氏族の働きを確認しなおします。その際、自分たちの先の問題を、「定めに従って、私たちが主を求めなかった(伺いを立てなかった、尋ねなかった)からだ」(13節) と反省しています。

ダビデは確かにいつも真剣に神のみこころを尋ね求めていたのですが、この点で、レビ人たちとのコミュニケーションが不足していたことを認めたという意味だと思われます。

そして15節では、「レビ人たちは神の箱を担いだ、モーセが主 (ヤハウェ) のことばに従って命じたとおり、担い棒を肩に載せることによって」と記されています。

16-24節ではダビデが何よりも力を入れた聖歌隊の編成が描かれています。そこで彼は「レビ人の者たちを歌い手として任命し、琴、竪琴、シンバルなどの楽器を手に、喜びの声を上げるようにさせた」(16節) と記されます。

17、19節に記されたヘマン、アサフ、エタンの三人に関しては6章31-47節に記されていました。「歌い手ヘマン」は大預言者サムエルの孫で (6:33、34)、その先祖には詩篇に登場する「コラの子」という名も登場します。彼らはケハテ族です。

アサフはゲルショム族で「ヘマンの右側に立って仕えた」(6:39) と記され、詩篇には「アサフの賛歌」という歌が数多く登場します (詩篇50、78-83篇)。

ヘマンの「左側」には「キシの子エタンがいた」と記されていましたが (6:44)、この17節では「メラリ族からクシャヤの子エタン」と記されます。詩篇39、62、77篇などに登場するエドトンという名は、この人と同一人物だと思われます。

それに加えて22節ではケナンヤという人が「歌唱を担当し、歌唱を導いた」と特に記されています。ダビデは聖歌隊指導者と歌唱指導者に大きな責任を与え、その名が今に至るまで残っているのです。

25節からは今まで「神の箱」「 (ヤハウェ) の箱」と呼ばれたものが、正式な名称として「 (ヤハウェ) の契約の箱」と呼ばれます。またⅡサムエル6章12-14節ではダビデ個人の働きが強調されていましたが、ここでは「イスラエルの長老たち、千人隊の長たち」と共同でオベデ・エドムの家から運び上げようとしたと描かれます。

しかも続けて、「神がレビ人を助けてくださったとき……彼らは雄牛七頭と雄羊七匹をいけにえとして献げた」と、レビ人たちの命が守られながら契約の箱が運ばれることに、イスラエルの長老たちが喜んでいけにえを献げたという面が強調されます。

しかも「亜麻布の上着をまとっていた」のはダビデばかりか、「箱を担ぐすべてのレビ人、歌い手たち、歌唱の導き手ケナンヤも同様であった」と記されます。

そして28節では、「全イスラエルは主 (ヤハウェ) の契約の箱を運び上げた、歓声を上げ、角笛、ラッパ、シンバルを鳴らし、琴と竪琴を響かせながら」と描かれています。

そして29節に至って初めて、ごく簡単に「こうして、主 (ヤハウェ) の契約の箱はダビデの町に入った。サウルの娘ミカルは窓から見下ろしていたが、ダビデが飛び跳ねて喜び踊っているのを見て、心の中で彼を蔑んだ」という情景が描かれます。

サムエル記ではダビデとミカルとの対話を通して、主を賛美することの意味が描かれていましたが、ここでは、ミカルだけが全イスラエルの中で、主の前で喜び踊るという交わりに加わることができなかったという点に目が向けられます。

4.「その日、その時、初めてダビデは、このように主 (ヤハウェ) に感謝をささげさせた」

16章1-3節では、「神の箱」がエルサレムの「天幕の真ん中に」置かれたと記されますが、「 (ヤハウェ) の幕屋」自体は、「ギブオンの高き所」に置かれたままでした (16:39)。そして、毎日の主への全焼のささげ物はそこの祭壇で献げられ、ヘマンエドトンはそこで神を賛美する音楽を奏でていました (16:41、42)。

一方、5節によるとアサフを中心とする人々は、「 (ヤハウェ) の箱の前で」、 (ヤハウェ) 御名を呼び賛美するように任命されました。その際、レビ人たちの名前が記されながら、「彼らは琴や竪琴などの楽器を携え、アサフはシンバルを響かせた。祭司ベナヤとハジエルは、ラッパを携え、常に神の契約の箱の前にいた」(5、6節) と、楽器の使われ方が敢えて詳細に記されます。

指導者であるアサフの楽器がシンバルだったというのは興味深い記述です。15章19節では、指導者が「青銅のシンバルを鳴らした」と描かれていました。

7節では、「その日、その時、初めてダビデはこのように (ヤハウェ) に感謝をささげさせた、アサフとその兄弟たちを任命することによって」と記されています。

その上で記された8-22節の歌は、詩篇105篇1-15節ですが、これこそ主の契約の箱の前における最初の詩篇讃美になったということです。

この詩篇では、一人のアブラハムから神の民を創造し、その子孫をエジプトでの奴隷状態から解放し、約束の地に導かれた、主 (ヤハウェ) のみわざが歌われています。

10-11節では「 (ヤハウェ) を慕い求め」、「尋ね求めること」の大切さが歌われ、14節では(ヤハウェ) のご支配が全地に及ぶと記され、15節では詩篇105篇8節とは異なり、私たちの持つべき態度が、「心に留めよ。主の契約をとこしえに」と強調されます。

23-33節は詩篇96篇の原型となった歌だと思われます。23節では人格のないはずの「全地」に向かって、「 (ヤハウェ) に歌え」と命じられています。ダビデはイスラエルの神を、全世界の真の支配者であると認め、「全世界の民」に向かって、「 (ヤハウェ) に栄光を帰せよ」と命じたからです。

そして31節では「国々の間で言え。『主 (ヤハウェ) は王である』と」と歌われます。ダビデはイスラエルという小さな国の王でありながら、その視点は全世界に広がっていました。32、33節は全被造物が主のご支配を喜ぶことまで記されます。

34-36節は、詩篇106篇1、47、48節とほとんど同じで、それはバビロン捕囚からの解放を願った歌です。

歴代誌の著者は、ダビデがこの最初の詩篇讃美の時点で、将来的なイスラエルに対する神のさばきを予感しながら、「国々から私たちを集め、救い出してください」という祈りを、アサフたちに歌わせたということだと思われます。ダビデの賛美は、国境と歴史を超えた、主 (ヤハウェ) に向かっての祈りなのです。

ダビデが「神の箱」をエルサレムに運び入れる時に、牛車に載せたというのは、想像し難いほどに愚かな過ちでした。しかし、ダビデはその体験から驚くほど大きな教訓を引き出すことができました。

そして彼は、主との対話の中でペリシテ軍に圧倒的な勝利をおさめ、何事も主のみこころを尋ね求めながら、主に従って行動することの幸いを学びました。

その上で彼は徹底的にモーセの律法を学びなおし、祭司やレビ人の働きを再編成しました。ただそれと同時にダビデが主との対話の中で新たに生み出したのが楽器を用いた聖歌隊による賛美でした。彼は多くの詩篇の歌を記し、また聖歌隊による賛美を訓練しました。

ダビデは驚くほど勇敢な軍事指導者でしたが、私たちにとっては誰よりも、感性豊かな詩人であり、主に向かって歌うことの喜びを伝えてくれた人です。

歴代誌の著者はそれを学び、イスラエルが外国の支配下でかろうじて生きているで、(ヤハウェ) こそ全世界の支配者であり、この世界を平和の完成に導く方であることを告白しています。

私たちもこの世では小さな者ですが、私たちの神は全世界の王であられます。