私たちはこの世での生活で、いつも「どんな働きをしていますか?」(成功)、「どのように人から見られていますか?」(評判)、「どんな影響力を持っていますか?」(力)という観点から「自分が何者か」を意識しようとしてはいないでしょうか?
これらはすべてイエスが退けられた、パンや富を第一とする成功、神殿の頂から飛び降りるというパーフォーマンス、この世界を従えようとする権力の誘惑と結びついています。悪魔の誘惑は今も、いつも目の前にある現実です。
成功、評判、権力ばかりを追い求め、神が私たちに何を望んでおられるかを忘れてしまっているとき、私たちは知らずに、サタンの誘惑に負けているのです。
1.「御霊に導かれて、荒野で悪魔の誘惑を受けられたイエス」
イエスがバプテスマを受け「水から上がられた」ときのことが、「天が開け、そしてご覧になった、神の御霊が鳩のように下って、彼の上に来たのを」(16節) と描かれます。これは、神がイザヤを通して語られた「主 (ヤハウェ) のしもべ」(イザヤ42:1) の姿で、そこでは、「見よ。わたしのしもべを。―彼をわたしは支えているーわたしが選んだ、わたしの心が喜ぶ者。彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきをもたらす」と記されていました。
このときこの預言が成就し、神はイエスを指して、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(17節) と呼ばれました。マルコやルカは、神がイエスに語りかけられたままのことばを、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(マルコ1:11、ルカ3:22) と記録しています。
これは現在、私たちへの語りかけとなっています。今、イエスの上に下られた同じ聖霊が、私たちに与えられているからです。
パウロは、「神は『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました」(ガラテヤ4:6) と述べています。私たちは御子が信頼を込めて「アバ」と祈られた、その同じ祈りをイエスの父に向かって祈ることができます。御父と御子との愛の交わりの中に私たちは聖霊によって招き入れられているのです。
4章1節は原文の語順で、「それからイエスは、御霊によって荒野の中に導かれた、それは悪魔によって試みを受けるためであった」と記されています。不思議なのは、イエスの上に降りた神の霊が、イエスを悪魔の誘惑の中へと招き入れているという点です。
私たちは神の霊に満たされたら、サタンの誘惑など気にしなくても良いと思いがちですが、神の御子はこれを通してサタンの誘惑の本質を私たちに明らかに示してくださいました。その誘惑はイエスが格闘せざるを得なかったほどに厳しいものでありました。
2.「あなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じなさい」
「そして断食を四十の日と四十の夜にわたって行ったが、その後になって、空腹になった」と描かれます (2節)。イエスが空腹を覚えられたのは、四十日四十夜の断食の後です。主は御霊の導きの中で断食をしていたので、それに至るまで、神との交わりの中に喜んでおられ、空腹を感じなかったのかもしれません。どちらにしてもこのときになってイエスが覚えた空腹は、私たち想像をはるかに超えたものであったことでしょう。
その空腹感の極みの中で、「すると、試みるものが近づいて来て言った、『あなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じなさい』と」と描かれます (3節)。悪魔の誘惑は現実的です。私たちも、イエスが神の子であるなら、なぜそのような空腹に耐える必要があるのかと思います。
それに対し「イエスは答えられた、このように書いてあるではないか、『パンのみによって人は生きるのではない、すべてのことばによってである、それは神の口から出るものだ』と」と記されています。
これは一般的に、「人はパンのみにて生くる者に非ず」ということわざとして用いられ、その意味が、「人は物質的な満足だけを目的として生きるものではなく、精神的なよりどころが必要である」などと解説されることがあります。しばしばこれが日本では物質的な必要を軽蔑した精神論につながることがあります。
しかし、このことばは、申命記8章3節に由来したもので、そこでは「それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、マナを食べさせてくださった。それは、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったものだ。それは、あなたに分からせるためであった。人がパンだけで生きるのではなく、人は主 (ヤハウェ) の御口から出るすべてのことばで生きるということを」と記されています。
つまり、主が人を飢えさせたのは、マナを食べさせるためであったというのです。しかもそれは「主 (ヤハウェ) の御口から出」ていたもので、それによって人は、主のみことばで生きることができるということが分かったというのです。ですからこの意味は、パンがなくても生きられるというのではなく、パンを与える方を主のことばを通して知ることが何よりも大切だということです。
主はイスラエルの民に「四十年の間……荒野で……歩ませられた全行程を覚え」るように命じておられます (8:2)。彼らはその間、「主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った」(民数記9:23) なかで、すべての必要が満たされました。
そこで、主は彼らを「苦しめて」「試験」していたというのですが、その目的が、「あなたの心のうちにあるものを知ろうとされた、あなたが主の命令を守るかどうかに関して」と記されています (8:2)。つまり、神の訓練は、人をぎりぎりの状況に追い込むことによって、神以外に頼りにできる存在がないことを悟らせることにあったというのです。
そうは言っても、確かに「パン」は生きる力を生み出す源で、現代は「お金」とも言えましょう。ですからイエスが石をパンに変えるなら、それこそ彼が神の子であることの最高の証明になり、その成功に人々は魅せられたことでしょう。
しかしそれでは、人の目がパンやお金の獲得という成功ばかりに向かうことになります。それに対し主は申命記のみことばを用いて、主 (ヤハウェ) のことばに従うときに、すべての必要が満たされるということを明確に言われ、悪魔を退けたのです。
その上でモーセは、「主は……マナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった─ あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい」(8:16、17) と警告します。
私たちも、苦しみの中で主に真剣に助けを求めながら、物事がうまく行った途端、自分の力を誇ってしまう傾向があります。豊かさの中に罠があり、人生が一見順調と思われる中に大きな危険が隠されています。
だからこそ、モーセはさらに続けて、「あなたが万一、あなたの神、主 (ヤハウェ) を忘れ、ほかの神々に従い、これらに仕え、これらを拝むようなことがあれば……あなたがたは必ず滅びる」(8:18、19) と警告します。神の恵みを忘れるなら、すべてを失うのです。
ですから、神はしばしば、私たちが御恵みを自覚できるように、まず「苦しめ、試み」、その上で「しあわせにする」というプロセスを敢えてとられるのです。
私たちの日々の生活で、パンもお金も確かに大切ですが、それが神のご意志にかなって与えられているかが問われています。サタンは常に、神に反抗してでもパンを獲得するようにと誘惑してくるからです。しかも、そこに神の試験があるというのです。
ただし、神が敢えて人を飢えさせることがあると知ることは恐ろしいことで、神が意地悪な方に見えるかもしれません。しかし、私たちが全能の神のご支配の中で生かされ、また時には死んでゆくということを知ることは、パンの必要以上に、人生にとって大切なことと言えます。
創造主を離れてパンやお金ばかりを求めても、主との交わりを失えばすべてを失うからです。それは、しばしば、この目に見える世界では明らかにならなくても、「永遠のいのち」の視点からはすべてが明らかになります。
イエスはそのことを、「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができるかたを恐れなさい」(マタイ10:28) と言われました。
3.「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい……神はあなたを守られるはずだから……」
5、6節ではさらに、「すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、『あなたが神の子なら、下に身を投げなさい』と言った」と記されています。
聖霊に導かれているイエスが、悪魔に身を任せているということは私たちの理解を超えています。それは私たちにも起こりえることとも言えましょう。ですから私たちも、悪魔に振り回され、翻弄されていること自体を恥じる必要はありません。
そこで悪魔は、詩篇91篇11、12節を引用しながら、「神はあなたに関して御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにされる」と言いました。悪魔はエデンの園以来、聖書のことばを微妙に変えて引用します。
これを本来の10節から12節までを引用するなら、「わざわいは、あなたにふりかからず、伝染病(疫病)も、あなたの天幕に迫りはしない。なぜなら、あなたのために主は御使いたちに命じ、すべての道で、あなたを守るようにしてくださるから。その手のひらで、彼らはあなたを支え、あなたの足が石に打ち当たらないようにする」と訳すことができます。
これは、神に信頼する多くの人々がわざわいに会い、疫病で死んでゆくという現実の中で語られている逆説的なことばとも言えます。実際、イエスは後に、「二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしには地に落ちることはありません」と言われました (マタイ10:29)。ですから、私たちがわざわいに会い、病に苦しむことがあっても、それは神がそれを許容している中で起きているという意味なのです。
しかも私たちは、なぜ自分がわざわいに会うのかという神のみこころを知ることはできません。それなのに悪魔はイエスに向かい、敢えて神殿の頂から飛び降りるというパーフォーマンスで、神に愛されている御子であることを証明するようにと迫ったのです。
それに対しイエスは、「またこのようにも書いてある、『あなたの神である主を試みてはならない』と」と反論されました。それは申命記6章16節のみことばで、そこには「あなたがたがマサで行ったように、あなたがたの神、主 (ヤハウェ) を試みてはならない」と記されていました。
それは出エジプト記17章1-7節の出来事で、イスラエルの民は、「飲む水をくれ」とモーセと争い、「主 (ヤハウェ) は私たちの中におられるか、おられないか」と言って、「主 (ヤハウェ) を試みた」と非難されていました。そこでの「試み」から「マサ」という地名が生まれました。
これは、神がご自身の力を現さざるを得ない状況を自分たちで作って、神を操作することです。そこにあるのは、神のみこころに従う代わりに、自分の願望を神に押し付けることでした。
それに対しその申命記の箇所では続けて、「主 (ヤハウェ) の目にかなう良いことをしなさい。そうすればあなたは幸せになり……敵をことごとくあなたの前から追い払うことができる」(6:18、19) と約束されていました。神を試みて、神を操作しようとする代わりに、主のみこころに従おうとすることが「幸せ」の鍵なのです。
4.「これらをすべてあなたにあげよう。もし、ひれ伏して私を礼拝するなら』」
第三の誘惑は、「またさらに、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行った。そして、この世のすべての王国とその栄華を見せた。そして言った。『これらをすべてあなたにあげよう。もし、ひれ伏して私を礼拝するなら』と」と記されています。ここでも悪魔はイエスを自分の思うように動かしています。
しかも悪魔は、自分こそがこの地の支配者であると主張しますが、これは思い上がりであるとも言えません。エペソ人への手紙2章1、2節では、「あなたがたは自分のそむきと罪との中に死んでいた者であり、かつては、この世の時代に合わせ、空中の権威を持つ支配者に従って、あなたがたは歩んでいました。それは、不従順の子らの中に今も働いている霊に従ったことです」と記されていました。
つまり、悪魔であるサタンは、天の神と地の人との間の「空中」に入り込み、神と人との関係を壊すために働き、神を信じない「不従順の子らの中に働いている霊」として、世界に悪を広めているというのです。
ですから、悪魔は「この世の君」とも呼ばれるのです。イエスご自身もサタンを「この世を支配する者」と呼んだことがあります (ヨハネ12:31)。
悪魔が「この世を支配する者」であるなら、悪魔と取引することで世界の問題は即座に解決できるように見えます。
たとえば、第二世界大戦前夜、英国の首相ネヴィル・チェンバレンは、ドイツのヒトラーと取引し、その目をソ連に向けさせ、当面の軍事対決を避けました。それは当時の多くの英国人に驚くほどに感謝されました。しかし、ヒトラーの方が一枚上手で、彼はソ連と不可侵条約を結んでポーランドに侵攻し、そこをソ連と分配してから全軍でフランスを攻撃し、占領します。
あまり軽々に政治に置き換えることは危険ですが、独裁者に取り入って束の間の平和を保とうとすることが、サタンに頭を下げ、当面の問題を回避しようとすることと同じだという事例として語られます。
とにかく、目の前の平和をすぐに実現しようと、悪魔の力に頼ってしまって、かえって墓穴を掘るということが歴史上何度も起きていることなのです。目に見えない神のご支配に信頼するよりも、権力者に取り入る方が問題の解決が早いように見えるからです。
それに対し、イエスは、「下がれ、サタン、それはこう記されているからだ。『あなたの神である主を礼拝しなさい。ただ、この方にのみ仕えなさい』と」と言われます。
これは申命記6章13節のみことばで、そこでは「あなたの神、主 (ヤハウェ) を恐れ、主に仕えなさい」と記されています。イエスのことばはそれと少し違いますが、申命記での「主 (ヤハウェ) を恐れよ」を、「主を礼拝しなさい」と言い換えたのは、サタンが「私を礼拝するなら……」と言った誘惑を際立たせ、それと対決することを明確にするためです。
また、「この方にのみ仕えなさい」ということばも、同じように、サタンとの妥協の余地がないことを明確にするためです。
申命記の文脈では、モーセはイスラエルの民が約束の地に入った時のことを心配し、「あなたの神、主 (ヤハウェ) が……大きくて、すばらしい町々……ぶどう畑とオリーブ畑、これらを……与え、あなたが食べて、満ちたりるとき……気をつけて……主を忘れないようにしなさい」(6:10-12) と命じました。
人は繁栄の中で、それを与えてくださった神を忘れる傾向があります。しかもそこで、国の繁栄と安全を守るためには手段を選ばないという誘惑が働きます。それこそ悪魔と手を結ぶことです。
しかしその時こそ、「主を恐れ、主に(だけ)仕えなければならない」(6:12、13) という原点に立ち返る必要があります。彼らに国と繁栄を与えたのは主ご自身であるからです。
この世のすべての権力は、創造主ご自身の支配下にありますが、それを忘れる時、恐怖政治が生まれます。私たちも経済的な繁栄に浸りきる中で、富への執着が増し加わり、主 (ヤハウェ) のご支配を忘れ、目的のために手段を選ばないような乱暴な生き方を正当化する可能性があります。
第二、第三の誘惑を退けるためにイエスが引用されたことばは申命記6章からのものですが、その核心とは、「聞け、イスラエルよ。主 (ヤハウェ) はわたしたちの神、主 (ヤハウェ) は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主 (ヤハウェ) を愛しなさい」にあります (4、5節)。
そして、その神への愛を起こしてくださるのが聖霊であり、また聖霊は神のみことばを用いて私たちを導きます。
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に「大審問官」という16世紀スペインでの異端裁判官の物語が記されています。
その大審問官は、イエスの荒野の誘惑を例に出し、「弱く愚かな民衆は、神のことばよりもパンを求めるのが常で、飢えた人はパンのために奴隷になることも厭わない」、また「彼らは奇跡や神秘なしに神を信じることなどできないから、神殿の頂から飛び降りる場面を見たがっている」、さらに「彼らは、自分で悩んだり、人と争うことを避けようと、従うべき権威を求めている」、「イエスは三つのサタンの誘惑に勝利したが、民衆はそのような試みに勝つことは絶対にできない」という趣旨のことを語ります。
これは意外に見過ごされていますが、ロシア正教から見たカトリック教会または西方教会の批判です。教会はこの世の権力者と手を結び人々にパンを保証してきました。教会は様々な神秘や奇跡で、人々の信仰を導いて来ました。中世のカトリック教会はこの世の権力者を地獄の脅しという破門権で、この世の王たちを従え、ヨーロッパに平和をもたらしていました。
しかし、そこで大審問官は、そのように愚かな民衆を導くために、自分はたましいをサタンに売らざるを得なかったと告白します。目に見えるパン、神秘、この世の権力を退けて、目に見えない神に仕えることなど、一般民衆には不可能なので、教会はイエスのことばに反抗してでも、人々にこの地上での生活への安心を与えたのだと言いました。
ロシア正教などの東方教会は、カトリックなどの西方教会が、本来、神のことばと聖霊の働きに期待すべきことを、組織的に解決しようとしてきたと批判しています。それは確かに当たっている面があるかもしれません。それは、同時に、カルト的な、信徒の生活の細部に至るまで指導しようとするプロテスタント教会にも当てはまります。
イエスが悪魔の試みを受けられたのは、「御霊に導かれて」のことでした。その文脈を決して忘れてはなりません。そこで神の御子でさえ、聖霊の導きのもので、聖書のことばを用いる必要があったのです。
マルティン・ルターは宗教改革に着手して十年後、精神的にも肉体的にも瀕死の状態になります。熱狂主義者が聖霊の御名で秩序を否定し、カトリック勢力は猛烈な反撃に転じ、聖書教師は育たず、ペストの流行で長女が病死し、トルコ帝国が東から攻め、彼自身もサタンの誘惑に圧倒され神経衰弱に陥ります。彼は「全教会が間違っていて、お前だけが正しいとでも言うのか……」と自問し続けます。
そのとき、詩篇46篇に励まされ、「神は我らが堅き砦」という賛美を記します。これは宗教改革の進軍歌とも呼ばれますが、実際は祈りの歌です。残念ながらは、「サタンなどは恐れる必要がない」という感じの勇ましい翻訳になっています。
しかし原文の1番では、古き悪魔の攻撃の前には、この地の誰も勝つことはできないと告白され、2番では私たちに代わって(「共に」ではない!) 戦ってくださる万軍の主キリストだけが勝利できると歌われます。そして3番では、サタンが「この世の君(支配者)」であると呼ばれながら、主のみことばこそが勝利を生むと告白されます。そして4番では、みことばが空しく見える中でも、神は聖霊によってみこころを成し遂げると歌われますが、その際に「命も……妻も子も奪うに任せよ」とあるのは、衝撃的です。それは、サタンが脅しで人々を動かし「私たちのからだを殺」すことはできても、「たましいは殺す」ことはできないからです。
ルターはその後20年生かされ、福音的な教会の基礎を築きました。最愛の家族を守るという人間的な努力をやめた人を、神はその家族ばかりか、その教会と国さえも守り通してくださいました。
人と戦う者は権力の奴隷になりがちです。サタンは、人を自分の土俵に入れて戦わせ、自分の手下を増やします。彼らを、神の前に立たせましょう!すると彼らに勝ち目はありません。
「神はわれらが堅き砦」(Ein feste Burg ist unser Gott: 1529)は次のように訳すことができます。
- 神はわが砦(とりで) わが強き盾(たて)
苦しめるときの 近き助けぞ
古き悪魔 知恵を尽くし 攻め来たれば
地の誰(たれ)もが かなうこと得じ - いかで頼むべき わが弱き力
われらに代わりて 戦う方あり
そは誰(たれ)ぞや 万軍の主なる イェス・キリスト
勝利(しょぅり)われらに 与うる神なり - 悪魔世に満ちて よしおどすとも
などて恐るべき 神ともにいます
この世の君 ほえたけりて 迫り来とも
主のみことば これに打ち勝つ - たとい主のことば 空(むな)しく見ゆとも
神は御霊もて み旨(むね)成し遂げん
わが命も わが妻、子も とらばとりね
神の国は なおわれらにあり