ヘブル12章25節〜13章8節「イエスに生かされる信仰」

2019年8月18日 

しばしば、「キリストを信じることによって救われる」と言われますが、それ以前に、「キリストの真実によって救われる」という面をもっと強調すべきではないでしょうか。なぜなら、私たちは心の奥底で、「自分で自分を信じられない」という面を持っているからです。

多くの人は、必死に真理を求めた結果として信じたというより、キリストの真実が迫ってきて、知らないうちにイエスを救い主と信じるように導かれていたのではないでしょうか。あなたの信仰以前に、イエスの真実があなたを導いているという原点に立ち返りましょう。

1.「あなたがたは気をつけなさい、語っておられる方を拒まないようにと」

12章25節は原文の語順では、「あなたがたは気をつけなさい、語っておられる方を拒まないようにと。地上において、警告を与える方を拒んだ彼らが逃れられなかったのであれば、まして、天からのものに私たちが背を向けるなら……」と訳すことができます。

新改訳で繰り返される「処罰」ということばは原文には記されず、「警告を与える方を拒んだ彼ら」との対比で、「天からのものに私たちが背を向けるなら……」と余韻をもって記されています。そこには、全体の文脈から考えるようにという著者の意図があります。

最初の「語っておられる方」とは、前節の「新しい契約の仲介者イエス」を指します。それは1章1、2節で、「神は昔、預言者たちによって……語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました」と記されていたとおりです。

また「地上において、警告を与えられる方を拒んだ」とは、先のシナイ山で神がイスラエルの民に警告を与えたことを指します。そして彼らが「逃れられなかった」こととは、3章18節に記されていたように「神がご自分の安息に入らせないと誓われた」ことを指します。それは具体的には、シナイ山のふもとで神から「十のことば」を聞いた成人男性が、誰一人約束の地にはいることができなかったことを指しています。

新改訳では、「処罰」ということばが二度登場しますが、それは分かりやすくするために追加されたことばです。残念ながら、「最後の審判」のイメージで受け止める方がおられるかもしれませんが、ここでそれをイメージしてしまうと、次のことばの意味が分からなくなります。

26節では、「あのときはその声(19節「とどろき」)が地を震わし(揺り動かし)ましたが、今は、こう約束しておられます、『もう一度、わたしは、地だけでなく、天も揺り動かす』と」と記されています。「その声(とどろき)」とは、シナイ山で彼らが天の神から聞いたもので、全地を震わすようなものでした。しかも、シナイ山での「地を震わした」ということばと、「わたしは……揺り動かす」ということばは異なったギリシャ語が用いられています。

ここで引用されているみことばは、ハガイ2章6節からのもので、その七十人訳では「もう一度、このわたしは揺り動かす。天(単数)と地、海と陸とを」と記されています。

なお同じことばが21節にもありますが、そこでは「もう一度」ということばはなく、続く22節では「異邦の民の王国の力を滅ぼし尽くし」と記され、最後の審判的なイメージが浮かびます。

しかし6、7節の流れでは、「わたしはすべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす」と記されています。これは、この目に見える世界が滅ぼされるということよりも、22節にあった「生ける神の都である天上のエルサレム」また、「天上にある本体そのもの」 (9:23) と呼ばれた天の聖所」の完成をイメージさせることばです。

しかも、このヘブル書では、「天と地を揺り動かす」ということばが、「地だけではなく天も」と記され、「(単数)を揺り動かして」、この目に見える世界全体を変えるという、天的な再創造のことが記されています。

そのことがさらに27節では、「この『もう一度』ということばは、震わせられる(揺り動かされる)もの、すなわち、造られたものが変えられること(「除かれる」より「変化」7:12「律法の変化」)を示しています。それは、震わせられない(揺り動かされない)ものが残されるためです」と記されます。

ここにはより明確に、この目に見える「天と地」が、「新しい天と新しい地」へと「変えられること」ことが約束されています。ちなみに「もう一度」とは今までも登場した、「一度ですべて (once for all)」(9:28等) を意味することばです。

それはキリストの再臨の際に起こることで、私たちすべてが栄光の姿に変えられる時でもあります。来たるべき「新しい天と新しい地」では、恐怖が地を震わすことがなく、復活の私たちも恐怖に震える必要がありません。

それが28、29節では「このように震わされる(揺り動かされる)ことのない御国を受け継ぐのですから、私たちは感謝を持とうではありませんか。それによって神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか、敬虔と恐れとともに。私たちの神は焼き尽くす火なのですから」と記されています。

ここではまず、「私たちは感謝を持とうではありませんか」という呼びかけがなされています。そして、その感謝とともに「神に喜ばれる礼拝を」「敬虔と恐れ」をもって「ささげる」ことが勧められています。

ただ同時に最後の「恐れとともに」という表現を受けるように、「焼き尽くす火」という恐ろしいことばが登場します。これは最後の審判の後の地獄のさばきばかりではなく、ペテロの手紙第二3章のことばを示唆しています。

そこでは、「今ある諸天と地は‥火で焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです……このように、これらのものはみな解かれるのだとすれば、あなたがたは神の日の現れ(パルーシア)待ち望みながら、どれほど聖い生き方と敬虔さの中に留まる必要があることでしょう。そのときには、諸々の天は燃やされて解かれ、その構成要素は焼かれて溶けるのです。しかし、新しい諸天と新しい地とを、主の約束に従って、私たちは待ち望みます。そこには、正義が宿っています」(7、2、13節) と記されています。

私たちはだれも「罪人に報復する地獄の火を待ち望みましょう」と呼びかけることはありません。私たちが待ち望むのは、「正義が宿る新しい天と新しい地」なのです。ただ、その新しい世界が再び、不敬虔な者によって腐敗させられることがないようにと、神に反抗する者たちが火によってさばかれる必要があるのです。

地獄の火と「新しい天と新しい地」は確かに切り離せない関係があります。しかし、教会の歴史を長く支配し続けてきたのは、天国か地獄かという最後の審判ばかりで、聖書が強調する「新しい天と新しい地」という希望が語られることは少なかったように思えます。しかも、その表現がないために、この地に平和を広げるという働きと、最終的なシャロームの完成ということの連続性が見えなくなりがちでした。

つまり、25節で言われていた「語っておられる方を拒まないように」という注意は、何か特別な処罰を受けることがないようにというよりも、22-24節に約束された「(天の)シオンの山……天のエルサレム……」という最終的な「安息」に入りそびれることがないようにという意味だったのです。

それは10章39節で、「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です」と記されていたとおりです。つまり、「処罰される」ことを避けるためというより、「いのちを保つ」ことができるように、そのいのち」の創造主であるイエスの語りかけを拒絶することがないようにと強調されています。

私たちは確かに、何度も神の処罰を受けるに値する罪を犯します。しかし、何度失敗しても、イエスの語りかけに耳をふさがない限り、あなたは大丈夫です。盗みと姦淫と殺人と偽証、むさぼりの罪を犯したダビデが、信仰の勇者、祈りの模範者として教会の中で記憶され続けてきました。大切なのはイエスの御声に耳を傾け続けることなのです。

2.「わたしは決してあなたを見放さないし、決してあなたを見捨てない」

13章1節は、「兄弟愛がいつも保たれますように」と記されます。兄弟愛はギリシャ語でフィラデルフィアと表現されますが、それがいつまでも健全に保たれ続けるようにと命じられています。

それは10章24、25節で、「また、私たちは互いに注意を払おう(思い巡らそう)ではありませんか、愛と善行を促すために、その際、ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりを捨てることなどなく、むしろ、励まし合いましょう」と記されていました。

手紙の受け取り手の中には、迫害を避けるためにもとのユダヤ人たちの交わりに戻ろうとする人がいましたが、そうならないように互いに注意を払い合うことが求められていたからです。

2節では、「見知らぬ人への兄弟愛(旅人をもてなすこと)を忘れてはなりません。それによって、ある人たちは、知らずに御使いたちをももてなしていました」とありますが、アブラハムがマムレの樫の木のところで三人の御使いをもてなし、サラに男の子が生まれることとソドムへのさばきを告げられた話は有名です。

ただ、アブラハムは彼らを見るなりすぐに御使いだとわかって、地にひれ伏しています (創世記18:1、2)。聖書の中には御使いだと知らずにもてなした例は登場しませんが、そのようなこともあったのでしょう。

3節は「思いやりなさい、牢につながれている人々を、自分もともに牢にいる気持ちで。また虐げられている人々を、それはあなたがたも肉体のうちにあるのですから」と記されています。

思いやりなさ」という命令が「牢につながれている人々」と、「虐げられている人々」に向けられますが、それぞれにおいて、「自分もともに牢にいる気持ちで」、また、同じ「肉体のうちにある」という連帯意識を持つように勧められています。

「思いやり」の基本とは、その人の立場に自分を置いて、その痛みを感じてみるということです。

4節は「尊ばれるようにしなさい、結婚がすべての人々の間で。また寝床が汚されないようにしなさい。なぜなら、淫行者と姦淫者を神はさばかれるからです」と記されています。

最近は、結婚もしないうちに子を宿すことに何の抵抗感もなくなっている世の風潮がありますが、結婚関係を神の創造の秩序として特別に聖なるものと見るべきというのは、信仰者ばかりか、「すべての人々の間で」守られるべき大切な道徳基準です。

淫行者のギリシャ語はポルノスで「売春」を語源としますが、Ⅰテモテ1:10では「淫らな者(ポルノス)」と「男色をする者(男性同士の性的な交わり)が同列に扱われています。また「姦淫」は結婚関係以外の性的な交わりを指します。聖書では「結婚関係を尊ぶ」ことが何にもまさって厳しい命令とされています。

5、6節は、「生活が金銭を愛するものではなく(非金銭愛の生活)今持っているもので満足しなさい。主ご自身が言われたからです、『わたしは決してあなたを見放さないし、決してあなたを見捨てない』と。ですから、私たちは確信をもって言います、『主は私にとっての助け手。私は恐れない。人が私に何をするというのか』と」と訳すことができます。

金銭愛と性的な聖さは、多くの場合セットで語られます。それは「もっと、もっと」という駆り立てから自由になるということです。それは伝道者の書5章10節に「金銭を愛する者は、金銭に満足することがない。豊かさを愛する者もその収益に……」と記されているとおりです。

お金はあればあるほど足りなく感じられるものです。それは、お金が増えると、それによって可能になる夢もどんどん膨らんでくるからです。大切なことは、今、持っているものに満足できることです。それにしても、ここではそれを可能にする二つのみことばが引用されますが、その文脈から意味を理解すべきでしょう。

第一は申命記31章8節からの引用で、「(ヤハウェ) ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない」とあるように、天地万物の創造主ご自身がともにおられることが絶対的な安心感の理由となっています。

またそれは、ヤコブがたったひとりで母の実家に向かって旅に向かい、ベテルで石を枕に寝ていたときに、主ご自身が夢の中で彼に現れ、「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこに行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしはあなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」(創世記28:15) と約束されたことを思い起こさせます。

すべては、神がヤコブをイスラエル民族の父として選ばれたことに始まり、神が彼を守り通すと約束されたことが安心の源となっています。

また第二の引用は、詩篇118篇6節の七十人訳からのものですが、その前後関係では、「苦しみのうちから、私は主 (ヤハウェ) を呼び求めた。主 (ヤハウェ) は答えて 私を広やかな土地に導かれた。(ヤハウェ) は私の味方。私は恐れない。人は私に何ができよう。主は私の味方 私を助ける方。私は 私を憎む者をものともしない」と記されています。

一見、「私は恐れない」という勇気の告白が目立っているようですが、実際は、「(ヤハウェ) は私の味方」ということばが繰り返され、強調されています。

しかもその直前には四回にわたって、「主の恵み(ヘセド:契約の愛)はとこしえに続く」と繰り返されます。それは、主ご自身の契約のゆえに私たちのいのちが守られ続けるという意味です。

この地においては、「お金の力」が絶対的に見られる傾向がありますが、イエスにおいて明らかになった契約の愛こそが、真の安心の源となっているのです。

3.「イエス・キリストは、昨日も今日も同じです、いついつまでも」

13章7節では、「覚えていなさい、あなたがたの指導者たちのことを。その人たちはあなたがたに神のことばを話しました。その生き方から生まれたもの(生き方の結末)をよく見て、その信仰に倣いなさい」と記されています。

それは明らかに殉教の死をも厭わなかった指導者たちの「結末」を指しています。

使徒の働き6、7章にはステパノの殉教が詳しく描かれます。それは明らかに使徒パウロの回心に先立つ信仰者の模範です。彼はユダヤの最高法院に連行され、裁判を受けますが、彼は旧約全体から神の救いのみわざを解き明かし、イスラエルの民が繰り返し神に逆らって、ついには「救い主」をも殺したと指摘します。

人々は激しく怒りますが、「聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っているのが見えます』と言った」と描かれます。それを聞いた人々は、彼を町の外に追い出して、石打ちにして殺します。そのとき、ステパノは、主を呼んで、「主イエスよ、私の霊をお受けください」と言います。さらに、ひざまずいて大声で叫んで、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と言ったと記されています (7:55-60)。

私たちはステパノの勇気をたたえますが、それ以上にここで注目されるのは、ステパノが神の右に立つ復活のイエスを見ることができていたということと、イエスとの対話の中で自分の霊をゆだねたということです。その後のパウロの回心も、天のイエスが「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」(9:4) と語りかけ、彼が復活のイエスとの対話の中で、イエスを預言された救い主であると認めることができたと描かれています。

これらの記事は、指導者の信仰の模範というより、主が彼らと共におられたということが強調されています。イエスご自身が彼らの信仰を創造し、彼らとともにおられ、彼らの「結末」へと導かれたのです。

それを前提に8節では、「イエス・キリストは、昨日も今日も同じです、いついつまでも」と記されています。

「昨日のイエス」のことは、1章10-12節で、「あなたははじめに、主よ 地の基を据えられました。 天も、あなたの御手のわざです。これらのものは滅びます。 しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは、衣のようにすり切れます……しかし、あなたは変わることがなく、 あなたの年は尽きることがありません」と記されていました。それに先立って父なる神が御子を「主」と呼びながら、御子が天地万物の創造主であり、御子の支配が永遠に続くと描かれていました。

また11章26節では、モーセに関して、「キリストの(ゆえに受ける)辱めをエジプトの宝にまさる富と考えた」という不思議な表現がありました。つまり「人の子」となる前のキリストは旧約の信仰の勇者をも導いていたというのです。

イエスは確かに「ダビデの子」として誕生しましたが、1章5-9節に引用されたように、ダビデ自身が詩篇の中で何度もキリストについて預言していたことを忘れてはなりません。ダビデはキリストを仰ぎ見ていたのです。

また「今日のイエス」のことは、4章7節で「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」と記されていたような、今日の語りかけに心を開くことの勧めです。

そこでは続けて、「私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がいるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません」(4:14、15) と描かれています。

私たちは今日、御声を聞き、ここで大祭司なるイエスにとりなしを願うことができます。

いつまでも同じイエス」とは、10章12、13節で描かれていたように、「この方は、罪のための永遠の一つのいけにえを献げ、神の右の座に着かれました。あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます」と、キリストのご支配は敵を足台とされるまで永遠に続くと記されていたことを指します。

そして何より12章25-27節で述べられた、キリストご自身が「新しい天と新しい地」を実現してくださいます。

しかも7章24、25節には、「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、人々を完全に永遠に救うことがおできになります、ご自分によって神に近づく人々を。それはこの方がいつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるからです」と記されていましたが、イエスの永遠の祭司職は、私たちばかりか後の世代の人々にとっての「救い」の道を開かれます。

イエス・キリストは、昨日も今日も同じです、いついつまでも」ということばはこの書全体の要約とも言えましょう。

創世記から始まる神の救いの物語のすべての中に、私たちはキリストのご支配を見ることができます。そして、イエス・キリストこそは現在の私たちをご自身と同じ「神の子」の立場に招きれ、さらに私たちを完成に導いていてくださいます。

私たちの人生は、「キリストのうちに根ざし、建てられ」るべきものなのです (コロサイ2:7)。キリストこそが「信仰の創始者であり、完成者である」からです (12:2)。

しかも、それを信じさせてくださるのが聖霊のみわざです。キリストの御霊を持っていない人を、クリスチャンと呼ぶというのはことばの矛盾です。

私たちは、「奴隷の霊」ではなく、「神の子とされる御霊」を受けて、イエスの父なる神に向かって、「アバ、父」と呼ぶことができています (ローマ8:15)。すべては神から始まっているのです。