共産主義の創始者マルクスは、「宗教は、悩める者のため息……人民のアヘンである。人民の幻想的なしあわせとしての宗教を廃棄することは、人民の現実的なしあわせを要求することである」と言いました。しかし、彼は、キリスト者こそが、平和を保ちながら、時間をかけて世界を変え続けてきたという歴史を見ようとしていませんでした。
基本的人権をすべての人に認め、奴隷制を廃止したのはキリスト者の功績です。ローマ帝国の安定と繁栄が、ローマ市民の誇りと責任意識から生み出されたと同じように、この世界に見られる愛と平和は、天のエルサレムの市民としての誇りと責任から生まれているとも言えましょう。それはジョン・ニュートンが奴隷貿易船の船長から奴隷解放の霊的な指導者へと変えられたことにも現わされています。
私たちに与えられた「永遠のいのち」は、私たちを平和の使者として生かすエネルギーの源です。
1.「弱った手とよろめく膝を強めなさい……すべての人との平和を追い求めなさい」
12章12節は、「ですから」という接続詞から始まります。それは1-11節までを前提にすることで、その中心的命令は、「忍耐をもって私たちも走り続けようではありませんか、目の前に置かれている競走を、信仰の創始者であり完成者であるイエスを見続けながら」というものでした (1、2節)。
さらにそこでの「忍耐をもって」を受けて、様々な苦難を「訓練として耐え忍びなさい」(7節) と記されていました。この手紙の読者は、想像を超えた苦難に襲われ、手も膝も消耗していたのでしょうが、著者はなお「弱った手とよろめく(衰えた)膝を強めなさい(まっすぐにしなさい)」と励まします。
さらに「まっすぐな道を作りなさい、あなたがたの足のために、不自由な足が踏み外させられることなく、癒されるためです」と記します (13節)。ここでは、手や膝の回復ばかりでなく、自分たちのために「まっすぐな道を作る」ことによって、何らかの苦難で「不自由にされた足」が、道から外させられてしまうことなく、癒されることを望むようにと勧められているのです。
なお、「弱った手とよろめく膝を強めなさい」とは、イザヤ35章3節の「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ」を思い起こさせます。そこでは救い主への期待が劇的に、美しく描かれます。
その1、2節では「荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び躍り、サフランにように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、歓喜して歌う…彼らは主 (ヤハウェ) の栄光、私たちの神の威光を見る」と記されます。
その上で、「手を強め、ひざをしっかりさせよ」と訴えられ、「心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ。あなたがたの神が、復讐が、神の報いがやって来る。神は来て、あなたがたを救われる』 そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開かれる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う」(4-6節) と記されます。
これこそイエスによる様々な「癒し」のみわざの要約です。
14節は原文の語順では、「平和を追い求めなさい、すべての人との。また、聖さを(追い求めなさい)。それなしには、だれも主を見ることはありません」と記されます。
「すべての人との平和を追い求めなさい」という勧めは、使徒パウロが、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい」(ローマ12:17、18) と記したことに通じます。
そこでは同時に、「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい(神の怒りのために場所を空けなさい)」と命じながら、神ご自身が、「復讐はわたしのもの。わたしが報復する」と言っておられるのだからと説明しています。
しかも、パウロはまず、「できる限り」と述べつつ、それがいかに難しいことかを認めながら、それでもなお「すべての人と平和を保つ」ことができるための根拠として、何よりも神のさばきの公平さと厳しさが、どれほど信頼できるかということを語っているのです。
一方、イエスはイザヤ35章に預言された「救い」を実現しますが、その際、「あなたがたの神」の「復讐が、神の報いがやって来る」と記されつつ、「神は来て、あなたがたを救われる」と言われます (4節)。
それを前提に著者はここで、「弱った手とよろめく膝を強めなさい。まっすぐな道を作りなさい。あなたがたの足のために……不自由な足が癒されるために」と勧めています。
「神の復讐」は私たちにとっての「救い」であるという前提を、忘れてはなりません。私たちは神が正義を全うしてくださり、「荒野と砂漠」に、主が「盛んに花を咲かせ」てくださると信じられるからこそ、「すべての人との平和を追い求め」られるのです。
2.「聖さを追い求めなさい……エサウは立ち返る(メタノイア)機会が見出せませんでした」
14節後半の「聖さを(追い求めなさい)。それなしには、だれも主を見ることがありません」とは、10節で「この方(霊の父)は、私たちの益のために、ご自身の聖さにあずからせようとして訓練されるのです」を受けての勧めです。
「聖さ」の追求とは、「日々自分の汚れに失望をしながら、憧れを持ち続ける」ということばかりではなく、私たちはすでに「神の聖さにあずかっている」という霊的事実があることを決して忘れてはなりません。それは、10章10節で「このみこころにしたがって、私たちは聖なる者とされています。それは、イエス・キリストのからだが、ただ一度、献げられたことによるのです」と記されているとおりです。
レビ記の中心命令は、「あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主 (ヤハウェ) であるわたしが聖だからである」(19:2) であると言われます。そして、その同じ文脈の中で、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主 (ヤハウェ) である」(19:18) と記されています。
「聖さ」の核心は、この世からの「分離」であるという面が強調され過ぎる時代がありましたが、レビ記の文脈では、私たちが神の聖なる領域に招き入れられたのだから、神の聖さの基準で、隣人を自分自身にように愛することが求められるのです。
私たちは、キリストにあって「聖なる者とされている」からこそ、神の基準に従うのです。
15、16節の原文の語順は、「あなたがたは気をつけなさい。だれも神の恵みから落ちないように、また、だれも苦い根が生え出ることがないように、それで悩ませ、それによって多くの人が汚れたりすることがないように、また、だれもエサウのように淫らな者、俗悪な者にならないように、彼は一杯の食物と引き換えに長子の権利を売ってしまいました」と記されています。
第一の「だれも恵みから落ちないように、気をつけなさい」とは、6章4-6節にあったように、一度救いの恵みを味わったうえで、堕落してしまうなら、「もう一度悔い改め(メタノアイ)に回復させることはできません」と厳しいことが語られていたからです。
第二の「だれも苦い根が生え出ることのないように」とは、申命記29章18節の「万が一にも、今日その心が私たちの神、主 (ヤハウェ) を離れて、これらの異邦の民の神々のもとに行って仕えるような男、女……があなたがたのうちにあってはならない。あなたがたのうちに、毒草や苦よもぎを生じる根があってはならない」を思い起こさせる表現です。
それはこの書の文脈では、イエスを救い主と告白する交わりから離れ出るようなことがあってはならないという警告です。事実、「聖さを追い求める」ことの核心は、レビ記の食物律法を厳格に守るという以前に、それを与えてくださった神との交わりを寝ても覚めても第一とすることです。
イエスは厳格な律法学者たちの心が神から遠く離れていることをイザヤ書の神のことばを引用しながら、「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」と言われました (マタイ15:8)。偶像礼拝を徹底的に避けている人が、実は、神から遠く離れていたという皮肉があったのです。
また第三の警告は、「だれもエサウのように淫らな者、俗悪な者にならないように」と記されますが、エサウが「淫らな者」と呼ばれることは不思議ですが、その理由は「彼が一杯の食物と引き替えに、自分の長子の権利を売ってしまった」ことにあります。
エサウは、野の猟から帰って来たとき、疲れ切ってはいましたが、ヤコブが「今すぐ私に長子の権利を売ってください」と言ったとき、「私は死にそうだ。長子の権利など、私にとって何になろう」と答えてしまったことは「淫らな者、俗悪な者」の証しです (創世記25:29-32)。目の前の食べ物の誘惑に簡単に負けることと、性的な誘惑に負けることは同じ性質を現わすからです。
その後、ヤコブは母リベカの知恵によって、イサクからの祝福を受け継ぐ者とされますが、そこで初めて、エサウは「声の限りに激しく泣き叫び」、「お父さん、私を祝福してください、私も」と、二度も願います。それに対し父は「おまえの住む所には地の肥沃がなく、上から天の露もない、お前は‥自分の弟に仕えることになる」と告げ、彼は「父がヤコブを祝福した祝福のことで、ヤコブを恨んだ」と描かれます (同29:34-41)。
そのことがここでは、「知っての通り、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと望んだのですが、退けられました。彼は立ち返る(悔い改めの)機会を見出しませんでした、涙を流して求めたにも関わらず」(17節) と記され、「後になって望んでも、立ち返る(メタノイア)機会を見いだせなかった」ことが強調されます。
これは第一の「神の恵みから落ちないように」と記されていたことと同じで、その中心は「メタノイア(回心)の機会が残されていない」ことです。
これこそこの書で何度も詩篇95篇が引用されながら、「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」と繰り返されていたことの理由です (3:7-8、2:15、4:7)。
エサウの悲劇は、神の祝福を軽蔑してしまうと、立ち返る(メタノイア)機会を見いだせなくなる分岐点があるということでした。彼は、食べ物と引き替えに、ヤコブに長子の権利を売り渡した後でも、自分が行ってしまったことを反省する機会はあったはずです。しかし、それができなかったのは、彼が神との特別な関係、「長子の権利」をすでに軽蔑していたからです。
なお、「聖さを追い求める」ということばが、「聖なる生活を追い求めなさい」と訳される場合がありますが(共同訳)、律法学者の問題は表面的には聖い生活を守りながら、心が神から遠く離れていたことです。「聖さを追い求める」とは、「生活」の仕方以前に、神との特別な関係を何よりも大切にし続けるということではないでしょうか。
イスラエルは神に選ばれて、神のすばらしい救いのみわざを見ながらも、心を頑なにし続けました。それは心が動かなくなる状態です。「これ以上堕落したら、もう立ち返ることはできない……」という分岐点がだれにでもあるのではないでしょうか。
3.「あなたたがたが到達したのは、シナイ山ではなく、天のエルサレムです」
18-24節は一つのまとまりとして理解する必要があります。まず、「あなたがたが到達した(近づいている)のは……ではありません」と、神がシナイ山に下りてきて「十のことば」が語られたときのことが描かれ、その上で、それとの比較で、「あなたがたが到達した(近づいた)のは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム……です」と記されています。
この部分は英語にすると、「you have come to Mount Zion(あなたがたはシオンの山に到達したのです)」と完了形で訳すことができます。それは10章14節でキリストのみわざが、「この方は一つのささげ物によって、聖なる者とされている人々を、永遠に完成されたからです」と記されていたことを思い起こさせます。
私たちは今なお未完成で様々な問題のただなかに置かれてはいますが、キリストにあってすでに「完成された」者と見られているという、「not yet(未だ)」と、「already(すでに)という二つの視点から「神の救い」を見て行く必要があります。
なお2章5-8節では、「来たるべき世」が「御使いたち」ではなく、キリストおよびキリストにつながる者の下に置かれていると記されていました。
18、19節は、「あなたがたが到達した(近づいている)のは、触れることができるものではありません。燃える火、黒雲、暗闇、嵐、ラッパの響き、ことばのとどろきなどでは……。それ(とどろき)を聞いた者たちは、それ以上のことばが語られないようにと懇願したのです」と訳すことができます。
この情景は出エジプト記19章16節では、「雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が非常に高く響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった」と描かれていました。
また申命記5章22節では、「これらのことば(十のことば)を、主 (ヤハウェ) はあの山で火と雲と暗黒の中から……大声で告げられた」と記され、それを聞いた民は、「私たちは火の中から御声を聞きました……この大きい火は私たちを焼き尽くそうとしています。もしこの上なお私たちの神、主 (ヤハウェ) の御声を聞くなら、私たちは死んでしまいます」(5:24、25)と言いました。
20、21節は原文の語順では、「彼らは命令に耐えることができませんでした。『もし、獣であって、山に触れる者は、石打ちにされなければならない』と。またその光景があまりにも恐ろしかったので、モーセは言いました、『私は怖くて、震える』と」記されます。
それは、まず出エジプト記19章12、13節で、「山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない……獣でも人でも、生かしておいてはならない」と記されていたことの要約です。
さらにモーセのことばは、イスラエルの民が金の子牛を作って拝んだ後のことに関して、「主 (ヤハウェ) は激しく怒ってあなたがたを根絶やしにしようとされたその怒りと憤りが、私には怖かったからであった」(申命記9:19) と記されていたことからの引用でしょう。
この二つは異なった時間と状況の中で語られていることですが、主 (ヤハウェ) の臨在に触れる恐怖を言い表すものとしては同じです。
これと対照的に22-24節では、「しかし、あなたがたは到達して(近づいて)います。シオンの山に、生ける神の都である天のエルサレムに、無数の御使いたちの祝宴(喜びの集い)に、天に名が記された長子たちの教会に、すべてのさばき主である神に、完全な者とされた義人たちの霊に、また、新しい契約の仲介者イエスに、さらにアベルの血よりもすぐれたことを語る注がれた血に」と記されています。
18節で「到達したのではない」と言われている情景は七つのことばで描かれていましたが、ここでは「あなたがたは到達している」と言われるところが、八つのことばで描かれます。イエスが八日目の朝に復活したように、八という数字には「新しい創造」という意味が込められていると考えても良いのかもしれません。
「シオンの山」はエルサレム神殿のあった場所ですが、それがすぐに「天のエルサレム」と言い換えられます。またそこの情景が、「御使いたちの祝宴」という喜びとして描かれます。これは先のシナイ山の「恐怖」の情景と対照的です。
また「天に名が記された」とは、イエスが弟子たちに「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20) と言われたことを思い起こさせますが、その集まりが「長子たちの教会」と呼ばれるのは、私たちは「神の息子(女性であっても長子と同じ立場)とされる御霊 (the Spirit of Sonship)」を受けているからです (ローマ8:15、ガラテヤ4:6)。
「すべてのさばき主である神」とは、最後の審判の恐怖というよりも詩篇96篇10-13節などで、主のさばきが明らかになるとき、天と地のすべてのものが喜び踊ると描かれているように、この世の不条理が正される喜びの情景として記されていると考えるべきでしょう。
「完全な者とされ」というのは先に記したようにキリストのみわざがもたらす完成です。
「新しい契約の仲介者」とは、すでに8章で描かれたように聖霊によって神の律法が私たちの心の中に書き記され、一人ひとりが自分から進んで神の御心を実行するようになることです。
「アベルの血」とは、ルカ11:51などではこの時代の人々の責任を問い、神の正義の実現(復讐)を望む「血」ですが、イエスの流された血は、「邪悪な良心をきよめ……全き信仰をもって真心から神に近づく」ことを可能にするものです (10:22)。
私たちに保証された人生のゴールがどれほど豊かな場なのかを、私たちは繰り返し味わう必要があります。
「永遠のいのち」とは、このような「来たるべき世のいのち」がすでに保証され、それを今から味わうことができるという意味です。私たちは今、このときから、主体性を持たない奴隷根性や、社会を恨むような被害者意識を捨てて、「天のエルサレム」の誇りある「市民」として生き始めることができます。
ローマ帝国は、もともとローマ市という都市国家が拡大したものでした。当初のシステムではローマの支配地は、ローマ市民の共有財産と見られ、彼らには指導者を選ぶ投票権、自分の立場を守る訴訟権などとともに免税特権も与えられていました。その代り、彼らは自分の財産と命をかけてローマを守る兵役義務がありました。
ただこの兵役義務が、農地を顧みる間もないほどの戦いの連続で、下級のローマ市民を困窮のどん底に落とし、システムが機能しなくなります。後の時代になると、有力な市民のみが徴税権を使って兵士を雇い、軍隊を組織する一方で、このローマの市民権は帝国全体の上流階級の人々に付与されます。彼らのほとんどはローマ市に住むことはないのですが、市民としての特権と責任意識は共有されていました。
私たちが「天のエルサレムの市民」とされるのも同じような意味があります。パウロが「私たちの国籍は天にあります(our citizenship is in heaven )」(ピリピ3:20) と言ったとき、ローマ市民権の用語を用いています。
私たちは天のエルサレムに住んではいませんが、すでにその市民とされています。私たちはこの世界の人々に、キリストご自身が全世界の王として、この世界を保ち、完成に導いていることを証しするとともに、主のからだである普遍的な教会を通して神のご支配をこの地に広げて行くのです。
ジョン・ニュートン作詞の「栄光あふれるシオン(讃美歌194『栄えに満ちたる 神の都は』)」は、1797年のハイドン作のオーストリア皇帝賛歌のメロディーで親しまれます(後にドイツ国歌で採用)。その4、5番目の歌詞は以下のように訳すことができます(4番は教会福音賛美歌228)
4.御民は 主イエスを信じて仰ぎ 血潮に洗われ 恵みを受ける
とうとい王なる祭司とされて 感謝と讃美を神に献げる
5.われらは天(あめ)なるシオンの民ぞ!誉れと富との惑わしあれど
主イエスの十字架 われらの誇り 御国の喜び 日々新たなる