ヘブル12章1〜11節「義という平安の実を結ぶために」

2019年7月14日 

訓練」ということばを、どのように受け止めるでしょう。牧会者としての歩みを始めた頃、上司の牧師は、盛んに「訓練」と言いつつ、様々な仕事を与えてくださいました。何か「これは君の成長のため役立つから……」と恩着せがましく言われているような気がして嫌でしたが、今はその一つひとつの意味が分かります。

私は小さい時から数々の農作業を当然のように手伝いましたが、父から人格的な成長のための訓練を受けた記憶はありません。母は私を褒めるばかりで、叱責することはほとんどありませんでした。そのため「何が正義か」という中心軸がいつも曖昧でした。ただ、目標を達成するということばかりが目の前にあり、そのための苦しみに耐えることはできました。

しかし、「義のために苦しむ」(Ⅰペテロ3:14) という視点は不足していたように思います。「正しすぎてはならない」と言っているだけではダメなのです。私たちは「義という平安の実を結ぶ」ために「神の子」とされたからです。そしてそれこそが「訓練」の目的なのです。

1.信仰の創始者であり完成者であるイエスを見続けながら走る

12章1節は、「こういうわけで、私たちもまた、このように多くの、雲のように私たちを取り巻く証人たちを持っているのですから、一切の重荷とまつわりつく罪を捨てて、忍耐をもって私たちも走り続けようではありませんか、目の前に置かれている競走を」と記されています。

さらに2節では、その際の走り方が、「信仰の創始者であり完成者であるイエスを見続けながら(イエスから目を離さないでいないでいながら)」と記され、そのイエスの模範が、「この方は、目の前に置かれた喜びのゆえに、十字架を耐え忍びました、辱めを軽蔑することによってですが、神の御座の右に着座されたのです」と描かれます。

ですからここでの中心的な勧めは、目の前の「競争を」「イエスを見続けながら走り続けることです。その際、私たちが「競争を目の前に置く」ことと、イエスが「喜びを目の前に置いた」ことが並行して描かれます。

私たちの競争は、驚くほど多くの証人に取り囲まれた、勝利が約束されたものですから、臆病になる必要はありません。イエスが辱めを軽蔑したように、私たちも、一切の「重荷とまとわりつく罪を捨てる」必要があるのです。

なお「多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている」(新改訳)と訳されることで、ときに「競技場で多くの観衆の励ましを受けて競技に励む」という印象を持たれる場合があります。しかし、ここでの「証人」とは、11章に記されていた信仰の模範者のことで、神の真実を「証しする」という意味合いがあります。それはギリシャ語で、マルトゥス(μάρτυς)と記され、これが後に、殉教者の意味になります。

たとえば日本のキリシタン宣教時代、日本人は殉教者を「まるちる」と呼び、また殉教の死を遂げることを「まるちりよ」と呼んで英雄視しました。

ですから、ここでの「このように多くの、雲のように取り巻く証人たちを持っている」とは、信仰の先輩の模範を持っているという意味であって、決して、「先輩たちに見守ってもらって」という意味ではありません。これが日本人的には、「ご先祖様が見守ってくださっているから」という話になります。

しかし、ここでは、私たちが目に留めるべき方は、あくまでも、「信仰の創始者であり完成者であるイエス」であって、他の殉教の死を遂げた聖人ではありません。

11章25、26節ではモーセという最高の信仰者の姿勢が、「神の民とともに苦しむこと……キリストの(ゆえに受ける)辱めをエジプトの宝にまさる富と考えたからです。なぜなら彼は、(与えられる、真の)報いに注目していたからです」と描かれていました。

つまり、イエスの1500年前のモーセも「キリストの辱め」にあずかるという意識を持っていたというのです。しかも、そこでモーセが注目していたのは、神からの最終的な「報い」であったと現実的なことが描かれています。

そしてイエスご自身も、「目の前に置かれた喜びのゆえに、十字架を耐え忍んだ」と記されます。事実、主は繰り返し、「人の子は多くの苦しみを受け……祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない」(ルカ9:22) と語っておられました。

ですからイエスは、復活の「喜び」を目の当たりにすることによって、十字架の辱めと苦しみを「耐え忍ぶ」ことができたのです。それは私たちもキリストのうちにある栄光の復活をいつも思い浮かべることによって苦難に耐えられることを意味します。

しかも、イエスの場合は、「神の御座の右に着座された」と描かれていますが、これはイエスが永遠の大祭司として、「試みられている者たちを助けることができる」(2:18) ことを意味します。

私たちにはイエス以外の助け手や「天に上った聖人?」のとりなし、また聖母マリアのとりなしなども必要ありません。

なお、「一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて」とは、競技者が足るための様々な重荷や、邪魔になるものを捨てて、身軽になることです。私たちは、この世の人々の期待という重荷を背負って生きています。イエスを見るよりも、人の評価が気になります。

また「まとわりつく罪」とは、「走り続ける」ことの障害となる刹那的な快楽や、競技に定められたコースから踏み外させるような惑わしであると解釈できます。イエス以外の方に目を向けることが、私たちの信仰というレースの障害となるというのです。

ただし、「走り続ける」というイメージは、プレッシャーに感じられるかもしれませんが、心配はいりません。勧められているとの中心は、「身軽になりましょう!」ということです。しかも、何よりも強調されていることは、ゴールに到達することであって、他の人との競争に勝つことではありません。あなたの固有のペースがあってよいのです。

それはイエスご自身とともに歩む生き方です。そのことをイエスは、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言われました (マタイ11:28)。ですから、息切れしながらではなく、そこには霊的な意味での「休み」があるのです。

ただ同時にそこでは、「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎ(休みを得ます」(同29節) と続いているように、その「休み」とは、昼寝をし続けるようなことではなく、イエスが提供する「くびきを負って」、主ご自身から「学ぶ」ことなのです。

それはたとえば、「上司の期待に添うように仕事をする」とか、「仲間との競争に勝って、早く出世する」という、世的なプレッシャーから自由になることです。私たちはこの世的な重荷や、この世の快楽によって、かえって日々の生活を生き苦しくしてしまってはいないでしょうか。生きるだけで大変なのですから、身軽になり、そこで「平安を得る」ことが大切なのです。

3節では、「あなたがたは罪人たちからのこのような反抗(敵意)を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。それはあなたがたの心が疲れ果てて、気力を失うことがないためです」と記されます。

ここでは2節の「十字架を耐え忍びました」という表現が、「罪人たちからの反抗(敵意)耐え忍ばれ」と言い換えらます。つまり、イエスの十字架は何よりも、罪人たちからの謂れのない「敵意(反抗)」に耐えることであったというのです。

その際の秘訣が、「辱めを軽蔑する」と記されています。新改訳では「辱めをもとのもせずに」、最新の共同訳では「恥をもいとわないで」と訳されますが、英語でも despising the shame(恥を軽蔑して)とも訳されるように、恥の感覚を押し込め、麻痺させるというニュアンスではなく、より積極的に。罪人による「辱め」の行為自体を「軽蔑する」という意味です。

たとえば私は、他の人の視線を過度に意識しすぎる「恥の気持ち」自体を「恥じて」いました。しかし、ここでは「辱め」を罪人の愚かな「反抗」として、その攻撃力を「軽く見た」という、全能の主の御手の中にある余裕が描かれています。

先に、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(9:27) と記されていたように、神の公平なさばきを信じられるなら、「謂れのない敵意」よって「心が疲れ果てて、気力を失う」という状態にならずに済むのです。

2.主はその愛する者を訓練し、むちを加えられる

4節では、「あなたがたは、血を流すまで抵抗したことがありません。罪と戦うことにおいて」と記されています。これはイエスご自身の十字架や11章に描かれた信仰の先輩のように、「血を流した」苦難にまでは、あなたがたは達していないという意味です。

それは、まだ苦しむ余地が残されているというような、苦難への覚悟を迫る表現で、「罪と戦う」とは、背教の誘惑に耐えるという意味だと思われます。先に10章29節で「神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れた(common: 普通の)ものと見なし、恵みの御霊を侮る」という罪が描かれていました。それは、クリスチャンの交わりから離れて、もとのユダヤ人の交わりに戻ることを意味しました。

そのように見ると、10章36-39節で「忍耐こそがあなたがたに必要なものだからです。それは、神のみこころを行い約束のものを手に入れるためです……しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です」とあったことからの流れが明らかになります。つまり「罪との戦い」とは、「恐れ退く」代わりに、「血を流すまで抵抗する」ことを意味するのです。

そして5節はまず、「あなたがたはこの励ましのことばを忘れています。あなたがたに向かって、息子たちに対するように語られたところの」と記され、その上で箴言3章11、12節のギリシャ語七十人訳のことばがそのまま引用されます。

そこでは第一に、「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて、気力を失ってはならない」と記されます。訓練」とは、「懲らしめ」とか「しつけ」とも訳すことができることばです。

そしてここではまず「訓練を軽んじる」ということが、「叱られて、気力を失う」という状態を生み出すと描かれます。この「気力を失う」とは、先の3節の終わりに記されていたことばと同じです。それは、イエスが「罪人たちからの反抗(敵意)を耐え忍ばれた」ことを忘れることから生まれると言えましょう。

第二の引用として、「主はその愛する者を訓練し、むちを加えられる、受け入れるすべての子に対して」(6節) と記されます。ここでは「訓練」ということばが繰り返され、それがさらに具体的に「むちを加える」と言い換えられます。これは最近話題の「体罰」を意味することばで、この同じことばが「イエスが鞭打たれる」という場面に用いられます。

箴言のヘブル語では「叱る」と訳されることばが用いられていますが、ヘブル書の著者はギリシャ語七十人訳の「鞭打つ」ということばをそのまま採用しています。なお箴言13章24節では、「むちを控える者は自分の子を憎む者。子を愛する者は努めてこれを懲らしめ」と記されていますが、その場合の「むち」とは「こん棒」とも訳せることばで、羊飼いが狼などと戦うために用いる道具です。

ここでの「むち」と訳されているふたつの道具とも、体罰のために用いられることは間違いありません。

日本では最近、親権者による体罰禁止を明記した児童虐待防止法と児童福祉法の改正案が衆院本会議で可決され、来年4月から施工されます。たとえば、スウェーデンでは1960年代は9割以上の親が子供に体罰を加えていましたが、1979年には体罰禁止法が可決され、2,000年代には体罰を行う親は1割にまで激減します。それに伴い、子どもの犯罪や自殺の明らかな減少が確認されたとのことです。

それを受けて、「しつけ」が厳しいドイツでも、2,000年に体罰を全面的に禁止する法案が可決されます。その理由は、体罰が外的な恐怖によって子どもをコントロールする方法であり、それは子どもの自尊心を傷つけ、自分で自分を律するという自立心を育てることができないからとのことです。

しかも、体罰には即効性がありますから、親も体罰によって子どもを制御することを習慣化させる危険があるとも言われます。

それからすると、聖書の記述は、現代には適用できないと言われるかもしれません。しかしこの問題は、白か黒かという all or nothing で判断できるものではありません。今から数千年前は、親が自分の子どもを正しくしつけて、社会や家族への責任を果たす者と成長させられなければ、親自身の老後が成り立たなくなりました。社会保障などはなかったからです。ですから、子育ては共同体において、将来を左右する一大事でした。

ところが現代は、社会保障の進展に伴い、家族の一体感が薄れ、子どもが親にとって足手まといになるという現実さえ生まれています。その結果、子どものしつけの目的が、親の生活の自由を邪魔させないという極めて刹那的なことにさえなっています。

実は、体罰の良しあし以前に、親としての切迫感を伴った責任意識、子育ての真剣さが問われています。本当の意味で親になり切れていない親にとって、体罰は麻薬のような作用を持ちます。恐怖によるコントロールは即効性があるからです。

しかし、親には、体罰禁止法に反してでも、命がけで子どもを訓練する必要に置かれる場合があるかもしれません。たとえば、自分の子どもが犯罪やいじめなどの反社会的行動に加担しようとしていることが分かり、論理的な説得では聞いてもらえないようなとき、どう行動するかが問われます。

しかも、それ以前に、小さいころから「親を恐れる」という訓練が必要ですが、畏敬も恐怖もヘブル語での区別はありません。心理的には同じ感情だと言えます。ときには恐怖心を与えるような訓練によって、子どもに親を「恐れ敬う」感情を植え付ける必要がありましょう。それができていない場合は、思春期を超えた子どもを従えることはできません。

5節にあったように、叱責には「気力を失わせる(気落ちさせる)」作用を持つという恐れがあります。しかし、それは日ごろの「訓練を軽んじた」結果として生まれていることと記されているのです。私たちは改めて、愛情のこもった「訓練」の、より積極的な意味を考える必要があるのではないでしょうか。

3.「この方は、私たちの益のために、ご自身の聖さにあずからせようとして訓練される」

7節では突然、「訓練として、あなたがたは耐え忍びなさい」という文章が登場します。これは直接的には、前節の、「主は…むちを加えられる」ということを指しています。またそれは現実的に、「罪と戦うことにおいて、血を流すまで抵抗する」ということで、ユダヤ人たちからの迫害に耐えることを意味しました。

私たちはある意味で、より大きな幸せを体験できると思って、キリストに従い始めましたが、実際に、信仰せ活を全うしようとすると様々な困難に直面し、「こんなはずではなかった……」と思うことがあるかもしれません。私たちはそのような様々な困難を、「訓練」と見るように召されています。

しかもそのような困難は、神のご支配が自分の生活には及んでいないというような意味ではなく、「それは、あなたがたをご自身の息子たちとして扱っている」ことのしるしであるというのです。

さらに、「父が訓練しないというのは、どのような息子でしょうか」と問われながら、8節では、「もしあなたがたが訓練を受けていないとしたら、それはすべての者があずかるはずのものですが、あなたがたは私生児であって、息子ではありません」と記されます。

ここでの「私生児」とは、法的な意味での「息子」としての権利や立場を持っていない子どもを指します。それに対し、「息子」の立場を持つ者は、親から厳しい訓練を受けるのが当然であるというのです。

9節では、「さらに、私たちは、私たちを訓練する肉の父を持っていました。そして私たちは尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従すべきではないでしょうか、そして私たちは生きます」と記されています。

この背後には先の箴言3章があります。その最初で箴言の作者は、「わが子よ、私の教えを忘れるな。心に私の命令を保つようにせよ。長い日々と。いのちと平安の年月が、あなたに増し加えられるからだ……心を尽くして主 (ヤハウェ) に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる」(1,2、5、6節) と記されていました。

それは簡単に言うと、「霊の父」に服従することによって、本当の意味での「いのち」を体験できるという意味です。

10節では、「なぜなら、彼らはわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、この方は、私たちの益のために、ご自身の聖さにあずからせようとして訓練されるのです」と記されています。

ここでは、私たちが受ける訓練は、「神の聖さにあずかることができるため」であるという途方もないことが描かれています。使徒パウロはガラテヤ人への手紙4章19節で、「私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」と記していますが、「神の聖さにあずかる」とは、まさに、私たちのうちに「キリストが形造られる」ことにほかなりません。

それは私たちが十字架の道を歩んだ、キリストの生き方に倣うことを指していると言えましょう。

11節ではさらに、「すべての訓練は、そのときは(当座は)喜ばしいものではなく、かえって苦しく(悲しく)思えるものですが、後になると、平安の実を、これによって鍛えられた人々に、義を結ばせます」と記されています。

つまり、「平安の実を結ぶ」ということが、「義を結ぶ」と言い換えられているのです。それを前提に、新改訳は、「義という平安の実を結ばせます」と訳しています。それは、目の前の状況が自分の期待に反するような悲惨な状態であっても、主のご支配のあわれみと真実とに信頼し、神の目に「」と見られることを行い、そこで「平安を味わう」ことと言えましょう。

それは詩篇84篇5-7節では「なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり 心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも そこを泉の湧く所とします……彼らは力から力へと進み シオンで神の御前に現れます」と描かれます。

義という平安の実」とは、創造主との真実な交わりのうちに生きることです。義ということばは英語で righteousness と記されますが、これは right relatedness(正しい関係)と読み替えるとその意味が分かるとも言われます。私たちは「神の正義」と言いながら、自分を絶対化して人を裁くことがあるからです。

しかし、神の正義の基準は、どこにでも明確にあります。そして、私たちはその基準によって、創造主ご自身から、「よくやった。良い忠実なしもべだ」(マタイ25:21) と言っていただけることを喜ぶのです。神のみこころを行うために生かされているという平安、それこそが「義という平安の実」と言えましょう。

私たちは「愛と正義の住む新しい天と新しい地を待ち望みながら、神のかたちで生きるようにこの地に遣わされています。私たちはキリストの姿に似た者となることを目指しながら、神の愛」をこの地に広げるために生かされています。


「新しい創造を歌う」New Creation for the Shalom
曲:Wie schön leuchtet der Morgenstern
原曲:Philipp Nicolai 1599

  1. キリストの愛に やすらぎ癒され 御姿に似る
    すべての疲れし 重荷負いし者 御もとに来たれ
    主イエスと ともに歩む日の幸い 恵みは尽きせじ
  2. 新しい創造(そうぞぅ) ここにて喜び シャロォーム望む
    愛と正義住む 御国を待ちつつ 今日(きょう)も生かさる
    十字架の 主イエスのくすしきみわざよ すべてが新たに
  3. 主イエスに倣いて 御神のかたちで ともにこの地に
    ひとり子をも世に 遣わせし御父(みちち) われら遣わす
    御霊(みたま)よ われら愛の器(うつわ)となし 御国をこの地に