ヘブル11章23〜40節「もっとすぐれたものを待ち望んで生きる」

2019年6月23日 

信仰者の不思議は、どんな苦難の中にも、そこに神の恵みの種を見出すことができるということにあります。第二次大戦のとき米国に住むすべての日系人は、決められた収容所に閉じ込められました。それによって、彼らはそれまで米国で築き上げてきた富や立場を一挙に失いました。

しかし、キリスト者たちはそれらを悲劇ばかりとは受け止めなかったようです。彼らは少なくとも、最低限の生活が保障され、それによって米国人からの別の迫害から身を守られました。また収容所内において、信仰を超えた日本人としての交わりを深めることができました。

戦争が終わった時、彼らは以前の居住地に戻り、以前集まっていた教会堂を共同の仮住まいとして生活を築き直しました。その際、子供たちに、もう二度と財産を奪われても困らないように、「信仰と教育」という財産を必死に身につけさせました。その結果、日系人二世の方々の中には、医学や法律、金融の分野で成功をおさめ、戦後の米国において不動の地位を築くようになった方が数多くおられます。

そこには、ユダヤ人の歩みとの共通点が見られます。この世の苦難を通して、信仰と教育が育まれ、それが共同体としての豊かさを生み出すようになるということです。そのような文脈の中で、小生の信仰とお金の関係に関しての話も、非常に好意的に、積極的に受けとめていただけました。

私たちは「もっとすぐれたものを待ち望んでいる」からこそ、お金の奴隷にならずに、それを管理して生きることができます。日系人の過去の苦難の上に、人種を超えた教会共同体が築かれていました。

1.「信仰によって、モーセは…キリストの辱めを……宝と考えた」

11章23節は、「信仰によって、モーセは生まれてから三か月の間、両親によって隠されていました。それは、彼らがこの子のすばらしさを見たからであり、また、王の命令を恐れなかったからです」と記されています。

そこではモーセの「両親の信仰」が評価されています。そこで彼らの信仰は、幼子モーセの「かわいい」こと以上に、何か尋常ならざる可能性としての「すばらしさを見ることができた」ことに、また、「王の命令を恐れる」代わりに、イスラエルの神を「恐れた」ということに現わされていたと解釈できます。

24~28節では、さらにモーセの信仰が描かれます。その第一は、「信仰によって、モーセは成人したときに、ファラオの娘の子と呼ばれることを拒みました。それは、神の民とともに苦しむことを、一時的な罪の楽しみを持つことに対して、選び取ることによってです。それは、キリストの(ゆえに受ける)辱めをエジプトの宝にまさる富と考えたからです。なぜなら彼は、(与えられる、真の)報いに注目していたからです」(24-26節:かっこ内は原文にないことば)ということです。

ここでは「モーセの信仰」に関して、エジプトの王子の立場を捨てて、「神の民とともに苦しむこと」を「選んだ」ということに注目されます。

しかもそれは、特権的な立場をもとに「一時的な罪の楽しみを持つ」こととの比較で描かれるばかりか、さらにモーセは、キリストが受ける辱めにあずかることを「エジプトの宝にまさる富と考えた」という驚くべき解釈が記されます。

それしても、どのようにモーセは、真のイスラエルの王であるキリストの出現と「辱め」を知ることができたのでしょう。確かに彼は、イスラエルが約束の地で繁栄した後、自業自得の罪で国を失い、その後、神に立ち返ることを預言していました (申命記30章1-3節)。さらに彼は、主ご自身がイスラエルの「子孫の心に割礼を施し……心を尽くし、いのちを尽くして……主 (ヤハウェ) を愛し……生きるようにされる」という、イスラエルの民の信仰の再生のことまで預言しましたから (同6節)、そこにキリストの働きを見たとも言えましょう。

考えてみれば、主 (ヤハウェ) は異教徒の占い師バラムの口にさえ、「私には彼が見える。しかし、今のことではない……近くのことではない。ヤコブから一つの星が進み出る。イスラエルから一つの杖が起こり……イスラエルは力ある働きをする」と預言させていました (民数24:17,18)。

モーセは自分の限界を心の底から知っていましたから、信仰の目においてキリストを見ていたというのは、不思議なことではないとも言えましょう。

しかもこの最後では、「彼は、報いに注目していた」と記されています。

それは10章34、35節で、この手紙の読者の初めの日の信仰の姿勢が、「あなたがたは……自分の財産が奪われることさえ喜んで受け入れました。それは、自分たちがもっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたからです。ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。それには大きな報いがあります」(10:35) と記されていたことを思い起こさせます。

モーセが目の前の苦難に耐えられたのは、主が彼の驚くべき犠牲に正当な「報い」を与えてくださる方であることを知っていたからなのです。それは使徒ペテロも、「愛する者たち……キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊……が……とどまってくださるからです」(Ⅰペテロ4:12,13) と語っているとおりです。

27,28節は、「信仰によって、彼はエジプトを立ち去りました。王の憤りを恐れることなく、目に見えない方を見るにようにして、忍び通したのです。信仰によって、彼は過越を行い血を振りかけました。それは、長子を滅ぼす者が自分たちに触れることがないためでした」と記されます。

ここでは「信仰によって」、「エジプトを立ち去り」、また「過越のいけにえの羊を屠り」、その「」を家の「鴨居と二本の門柱に塗った」ことが強調されます (出エジ12:21、22参照)。

そこでは、その行動を妨げる「王の憤り」がありながらも、「目に見えない方を見る」ことで、苦難を「忍び通した」こと、また、「長子を滅ぼす者」が家の中に入ることのないようにしたというそれぞれの意味が描かれます。どちらにしても、信仰は行動として表現されています。

29,30節では、主語が明記されていませんが三人称複数形の動詞が用いられているので、イスラエルの人々のことが描かれていると分かります。そこでは、「信仰によって、人々は紅海を渡りました、乾いた陸地を行くのと同じように。エジプト人たちは同じことを試みましたが、(水に)呑み込まれてしまいました。信仰によって、エリコの城壁は崩れ落ちました、人々が周囲を七日間回ったときのことです」と記されています。

ここでは「信仰によって」、人々が「紅海を渡った」ということと、その対比でエジプト人が海に「呑み込まれた」ことが描かれます。

また、「信仰によって」、人々がエリコの城壁を崩したというのではなく、「城壁が崩れ落ちた」という結果になったことが強調されます。彼らが取った行動とは、ただ黙々と城壁の周りを七日間」巡り歩いたということです。

ここでは「信仰私たちの前の道を開き、また目の前の障害を取り去るということが強調されます。私たちがそこですべきことは、ただ黙々と前進することだけです。

2.「釈放されることを拒んで拷問を受けました。それはもっとすぐれた復活を体験できるため」

32-34節では、「これ以上、何を言いましょうか。それは私には時間が足りなくなるからです、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについて語るとするなら……。彼らは信仰を通して (through faith )、国々を征服し、正義を行い、約束のものを手に入れ、ライオンの口を塞ぎ、火の勢いを消し、剣の刃を逃れ、弱い者から強い者とされ、戦いの勇士とされ、他国の陣営を敗走させました」と描かれます。

ここでは、信仰の勇士たちのことがまとめて描かれ、具体的な6人の名が三組ずつ引用されます。ここでギデオンバラクサムソンエフタダビデサムエルの三組でそれぞれ時代の順番が逆に記されますが、それは最後のサムエルが七番目の預言者たちに通じるからだと思われます。

その上で、具体的な行動が順不同で、三項目ずつ、三度にわたって描かれます。最初の三項目の「国々を征服し、正義を行い、約束のものを手に入れ」とは、ダビデ王国の確立へのプロセスを指しているとも言えましょう。それらを含め、それに続くすべてが「信仰を通して」ということばでまとめられます。

たとえば、「ライオンの口を塞ぎ」という行動は、サムソン(士師14:5)とダビデ (Ⅰサムエル17:35) の二人に適用できることとも言えますが、同時に、ダニエルがエルサレムの神に向かって祈り続けることでライオンの穴に投げこまれたことを指すかもしれません (6:16)。

なお、「火の勢いを消し」とは、ダニエルの三人の友人がネブカデネザルの巨大な金の像を拝むことを拒んで「火の燃える炉に投げ込まれ」ながら、焼かれなかったことを思い起こさせるとも言えます (同3:15,27)。また「剣の刃を逃れ」とは、エリヤやエリシャに適用できます。

一方で、「弱い者から強い者とされる」という変化や、「戦いの勇士とされ」、「他国の陣営を敗走させる」という行動は、ここに登場するすべての人々に適用できることです。どちらにしてもこれらは私たちも「信仰を通して (through faith )」、この世のサタンとの戦いにおいて現実化できることです。

後に使徒パウロは、これらをまとめるように、「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」と告白しました (ピリピ4:13)。私たちは神から備えられた可能性を、不信仰のゆえに、閉ざしてはいないでしょうか。

35節では、「女たちは、その死者たちを復活によって受け取りました。また他の人たちは、釈放されることを拒んで拷問を受けました。それはもっとすぐれた復活を体験できるためです」と記されますが、ここでは「復活」ということばが二度、繰り返されます。

それは11章19節でアブラハムがイサクの復活を期待できたからこそ、「ただ一人の子を献げ」ようとしたことを思い起こさせます。

ここに記された「女たち」とは、エリヤが貧しいツァレファテの女の息子を「生き返らせた」こと (Ⅰ列王17:17-24)、またエリシャが豊かなシュネムの女の世話を受けたときに、不妊の彼女に男の子を誕生させ、またその子が「死んで横たわっていた」ときにその子を「生き返られせた」ことを思い起こさせます (Ⅱ列王4:8-37)。

それにしても続く、「もっとすぐれた復活を体験できるために」、「釈放されることを拒んで拷問を受ける」というのは驚くべきことです。

そのことはたとえば、旧約外典Ⅱマカバイ書7章において、ギリシャの王アンティオコスが七人の兄弟とその母親を捕らえ、律法に反して豚肉を食うように強いたときの情景を思い起こさせます。

兄弟たちは次々と舌を切られ、頭皮を剥がされ、生きたまま鍋で焼かれますが、残された者たちは、王に向かって、「悪人よ、お前は我々を今の生から解き放つが、世界の王は、ご自身の律法のために死ぬ我々を、命の永遠のよみがえりへと復活させてくださる」と告げます (9節)。

次々と六人が雄々しく殉教の死を遂げると、王は慌てて七番目の息子に「王の友」としての地位という報酬まで約束し、背教を促しました。それに対し母は驚くべきことに、「息子よ、お前を九か月の間胎内に宿し、三年の間乳を飲ませ、お前を養い、この年になるまで育ててきたこの私を憐れんでおくれ…この死刑執行人を恐れず、兄たちに倣って、死を受け入れなさい。それは憐れみの中で私が、お前の兄たちと共にお前を受け取るためなのです」と言い、殉教の死を促します (27, 29節)。

この書は当時のユダヤ人の中で愛読されていた殉教の勧めですから、その記事がこの背景にあったとしても不思議ではありません。私たちは旧約外典を霊感された聖典とは認めませんが、そこには当時の時代のユダヤ人の中で語られ、伝承されていたことが記されています。

また36-38節では、「また、ほかの人たちは嘲られ、鞭で打たれる試練を受けました。そればかりか、鎖につながれ、牢にいれられることさえも。また、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、困窮し、圧迫され、虐待されました。この世は彼らにふさわしくなかったのです。彼らは、荒野をさまよいました。山、洞穴、地の穴を」と記されています。

伝承によると預言者エレミヤは最後にエジプトに逃亡したユダヤ人たちに連行されていましたが (エレミヤ43:7)、そこで「石打の刑」で殺されたとのことです。

預言者イザヤは、ヒゼキヤ王に用いられましたが、その子のマナセはユダの民に偶像礼拝を行わせたばかりか、「咎のない者の血まで大量に流した」(Ⅱ列王21:16)と記されますが、伝承によればイザヤはその際、木ののこぎりで真っ二つにされたとのことです。

また、「羊ややぎの皮を着て歩き回り」とは、預言者エリヤが「毛衣を着て、腰に皮の帯を締めた人」と描かれ (Ⅱ列王1:8)、バプテスマのヨハネが「らくだの毛の衣を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」(マルコ1:6) と描かれた記事を思い起こさせます。それは預言者たちが政治権力者の迫害を受け、荒野をさまよっていたことを指します。

使徒パウロも、詩篇44篇22節を引用して、神に向かって「あなたのために、私たちは休みなく殺され屠られる羊と見なされています」と告白しながら、それと同時に、「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です」と宣言しています (ローマ8:36,37)。

3.「私たちを抜きにして、彼らが完全な者とされることがないため」

39節では11章全体をまとめるように、「これらの人たちはすべて、その信仰を通して称賛されましたが、約束されたものを手に入れることはありませんでした」と記されます。

これは13節で、「信仰をもとに、これらの人々はみな、死にました。約束のものを受け取ることがないままに、遠くからそれを見て喜び迎え、地上においては旅人であり、寄留者であることを告白していたのです」と記されていたことを思い起こさせます。

ただしその前提には、10章13節の「忍耐こそがあなたがたに必要なものだからです。それは、神のみこころを行い約束のものを手に入れるためです」という、明確な希望が約束されていました。

その希望に関して40節では、「神は私たちのために、もっとすぐれたものを用意しておられました。それは、私たちを抜きにして、彼らが完全な者とされることがないためです」と記されます。

何とそれは、今まで描かれたノアアブラハムモーセダビデなどの信仰の勇者たちが、「私たちを抜きに」、「完全にされることがない」という意味です。私たちの目には、彼らはすべて別格の聖徒たちと思えますが、最終的な復活に「まだあずかってはいない」という意味で、不完全な状態に留まっているのです。

約束されたものを手に入れる」こと、「完全な者とされる」ことの両者とも、「堅い基礎の上に建てられた」、「神が彼らのためにを用意された」と描かれた「新しいエルサレム」に入ることを指します( 11:10,16, 黙示21:2)。

なお、「完全にされる」ということでは、5章8-10節ではキリストご自身の歩みが、「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者とされ……神によって大祭司と呼ばれました」と記されていたことを思い起こさせます。まさに、「復活」によって「完全な者とされ」なければ、永遠の大祭司とは呼ばれなかったのです。

さらに7章28節では、御子が「永遠に完全にされた方」と敢えて呼ばれています。これも、キリストの復活によって実現したことです。つまり、この書では、信仰者が「完全にされる」ということが、キリストに倣って復活することを指しているのです。

多くの人々は、死後に私たちのたましいが不自由な肉体から解放され、永遠の祝福にあずかり、パラダイスにおいて、アブラハムやモーセやダビデと語り合っているかのように思い浮かべます。しかし、聖書は、パラダイスの情景を描く代わりに、「新しいエルサレム」の姿を描きます。そこに入れていただく前に、すべての聖徒の復活が、私たちの復活と同時に起こると示唆されているのです。

そしてキリストの復活こそは、「眠った者の初穂」として描かれ、キリストの来臨のときに「キリストに属している人たち」が復活にあずかると記されています (Ⅰコリント15:20,23)。

そして私たちのうちに聖霊が宿っていることの意味が、「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自身の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださいます」(ローマ8:11) と記されています。

私たちは創造主なる聖霊を宿していることによって、すでに今この時から、来たるべき世のいのち、復活のいのちを先取りして生き始めることができるのです。永遠のいのちとは、復活のいのちが今から始まっていることを意味するのです。

私たちは誰もが、平穏無事な、安心の日々を過ごしたいと思うのが人情です。しかし、何の危険もない人生というのは、「いのちの喜びのない、退屈な人生」とも言えるかもしれません。

モーセもそれ以降の信仰の指導者たちも、目の前の安心を捨てて、神の導きの中を大胆に生きることができました。そこでの「信仰」とは、明日の希望を見る力として、またそれによって目の前の苦難に耐える力として現わされます。

どの信仰者も、「約束されたものを手に入れることはなかった」という共通点があることは驚くべきことです。しかし、この地で安心を得ることができないという霊的な事実が、心の奥底で納得できるなら、かえってそこに不思議な喜びが生まれるのかもしれません。

20世紀初めの英国の小説家G.K.チェスタトンは、「現代の思想家が耳にタコができるほど繰り返しているところでは、私はまさにいるべき場所にいるという話であったが、しかしその話を鵜呑みにしてみても、私はやっぱり心が少しも晴れやかにはならないでいた。ところが今や私は、お前はいるべきでない場所にいるのだと聞かされた。すると私の魂は、春の小鳥のように嬉々として歌い出したのである。この新しい知識の光によって、幼い日々の暗い家の忘れられていた部屋が次々と発見され、明るい光に照らし出されてきたのである」と記しています。

G・K・チェスタトン

私たちは自分がこの地では「旅人、寄留者」に過ぎないということを自覚し、同時に、「完全な者とされる」という希望を抱くことで、この地のどのような暗闇の中にも天国の前味のようなものを発見し、喜ぶことができるようになります。

讃美歌355番は宮川勇という牧師が、日本を経済恐慌が襲っていた1921年に、黙示録21、22章を黙想して、無限の歓喜と平和に満たされた体験を歌ったものです。

「我ならぬ我の 現れ来て」とは栄光の復活に預かる希望を、「見ずや 天地ぞ 改まれる」とは、「新しい天と新しい地」の実現を歌ったものです。

2番の「美しの都エルサレムは 今こそ降りて 我に来つれ」とは、私たちの希望が、たましいが肉体から解放されてパラダイスに憩うというより、「新しいエルサレムが」この地の私のもとに「天から降って来る」ことにあることを歌ったものです。

私たちは、この地に神の国が完成することを待ち望んでいるからこそ、この地での「一時的な罪の楽しみ」の代わりに、キリストの辱めにあずかることを喜び、この地に希望を見出すことができるのです。そして、この世界と私が完成に至るまで、主がともにいて導いてくださいます。