この世界の歴史は「園 (garden)」から始まって「都 (city)」で終わると言われます。都市の建設には人間の知恵と力と富が費やされ、そこには貧富の格差が生まれ、うらぶれた場も生まれますが、神はそのような人間の営みを軽蔑することなく、私たちに聖霊を与え、内側から造り変えてくださいます。
そして、神は、人間の罪の性質が最も醜く現れる都市をも、内側から造り変えてくださいます。この矛盾に満ちた都市が、「いのちの水の川が流れる」、「神の都」へと造り変えられるのです。
私たちは都市の文化を築く人間の営みを軽蔑する必要はありません。そこには「神の都」の完成のつぼみを見ることができるからです。
1.「信仰によって、アブラハムは召しを受けたときに従いました」
11章7節は、「信仰によって、ノアはまだ見ていないことについてのお告げを受けたとき、恐れをもって家族を救うための箱舟を造り、それによって世界を罪に定め、その信仰をもとに、義を受け継ぐ者となりました」と訳すことができます。
新改訳脚注にあるように、ノアが箱舟を造ったということ自体が「世界を罪に定めた」と理解できます。「箱舟」は創世記6章によると、長さが約140m、幅が約23m、高さが13.5mという途方もない三階構造の建造物でした。これをノアは三人の息子とたちとともに作りました。お告げを受けてから洪水まで100年間もあったとも考えられますが、大雨が降る気配もない中、ノアは人々の嘲笑を受けながら黙々と箱舟を造り続けたことでしょう。
当然、彼は人々に「神は暴虐で満ちた地を滅ぼす」(創6:13) と語ったことでしょう。その際「箱舟」は、神の厳しいさばきを警告するシンボルになるという意味で、それが「世界を罪に定めた」ことになったと解釈できます。
同時に、ノアは「まだ見ていない」神のさばきを真実に受けとめたという意味において、「その信仰をもとに、義(正しさ)を受け継ぐ者」となったのです。
8節は、まず、「信仰によって、アブラハムは召しを受けたときに従いました」と、「従った」ということが強調されています。
その上で、その内容が、「それは相続財産として受け取るべき地に出て行くためでした」と説明され、さらに「どこに行くかを知らないまま、彼は出て行きました」と、「出て行く」ということばが二度記されます。つまり、「信仰」は、「従うこと」であり、それが具体的な「行動に現わされる」ということになります。
しばしば、「私たちは、行いではなく、信仰によって救われる」と言われますが、それは善い行いを心がけなくても良いという、居直りを助長する教えではありません。
使徒ヤコブは、「行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます」という逆のことを言ってもいるからです (ヤコブ2:18)。行いの伴わない信仰は「死んだもの」(同2:17) とも呼ばれています。
9節は、「信仰によって、彼は約束された地に他国人のように住みました」とまず述べられ、それを説明するように、「同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしながら」と記されます。
つまり、ここでの「信仰」とは、不安定で不快な天幕生活に耐えることを意味します。そして、その理由が10節では、「それは堅固な土台を持つ都を待ち望んでいたからです。その設計者また建設者は神です」という希望が描かれます。
これまでのところで、私たちは「イエスの血によって」、「大胆に」、天にある「本物の聖所」に入ることができると繰り返し述べられてきましたが (8:2,9:24,10:19等)、ここでは突然、「都」ということばが登場します。それは、黙示録21章2,3節では「聖なる都、新しいエルサレムが……天から降ってくる……見よ、神の幕屋が人々とともにある」と描かれるものと同じです。
つまり、「天の聖所」と「新しいエルサレム」としての「都」は同じものを指しているのです。そこには、豪華な邸宅が建設されている間に、仮住まいとしての天幕生活の不便に耐えるようなニュアンスがあります。しかも、その「都」は、神ご自身が神の民とともに永遠に住むことができるために、ご自身で設計、建設されたものであると説明されています。
さらに11節は、多くの訳で、「信仰によって、サラ自身も不妊であったのに、子を宿す力を受けました」と記されます(新改訳脚注参照)。その上で、「すでにその年を過ぎた身でありながら」と続き、さらにその理由が「それは約束してくださった方を真実な方と考えたからです」と説明されます。
そして12節は、「それで、一人の人から生まれたのです、死んだも同然の人から、天の星のように多数の、また海辺にある砂のように数えきれない子孫が」と記されます。ここでの「一人の人」とは、明らかにアブラハムのことですから、11節の主語を今回の「新改訳2017」のように「アブラハム」として理解する方が、一貫性があるかもしれません。ただ、サラとアブラハムの信仰が一体とされた結果として子が生まれたとも言えますから、どちらでも良いのかもしれません。
どちらにしてもこの背後には、創世記15章2-6節の記事があります。
そこでは最初に、アブラハムが神に向かって「私は子がないままで死のうとしています」と嘆いたことに対し、主 (ヤハウェ) は彼を外に連れ出し、「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい」と言われ、「あなたの子孫はこのようになる」と保証してくださいました。
それに対する反応が、「アブラムは主 (ヤハウェ) を信じた。それで、それが彼の義と認められた」と記されます。使徒パウロは、これを前提に、「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えている」と述べ、さらに、「働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じる人には、その信仰が義と認められます」と記します (ローマ3:28、4:5)。
つまり、「信仰義認」と呼ばれる教理の背後に、創世記15章のアブラハムの信仰があるのです。しかも、絶望を味わっていた彼に希望を生み出すのは神ご自身のみわざなのです。
創世記の物語では、アブラハムに信仰を生み出し、その信仰を義と認め、彼に報酬を与えたのは神ご自身であるということが強調されています。ただ同時に、その結果としてアブラハムの行動が生まれました。
しかも、パウロがローマ人への手紙で中心的に問題にしているのは、異邦人が割礼や食物律法などを守ることなしに、イエスを救い主として信じることによって神の前に義と認められるということであって、道徳的な善行を積むかどうかということは議論の対象になっていません。
信仰か、善い行いかの対比をそこに読み込むのは文脈違いです。善い行いは信仰から必ず生まれるということを私たちは知るべきです。
2.「神が彼らのために都を用意されたのです」
13節は、「信仰をもとに、これらの人々はみな、死にました。約束のものを受け取ることがないままに、遠くからそれを見て喜び迎え、地上においては旅人であり、寄留者であることを告白していたのです」と記されます。
「信仰をもとに(信仰の人として)」とは、「信仰を抱きつつ」(共同訳)とも訳すことができますが、その本質は、約束のものを実際には受け取ることができない状態でありながら、それを「遠くから見て」、それが実現したかのように「喜び迎える」という姿勢です。
その際、この「地上において」は、まだ目的地に達していないという意味で、「旅人であり、寄留者であることを告白している」と記されています。
さらに続けて、「それは彼らがそのように言うことで、自分の故郷(父の町)を探し求めていることを明らかにしていたからです」と記されています (14節)。「故郷」とは英語で fatherland と訳されることもあることばで、出生地というよりも、自分の父に属する居住地という意味で、彼らはそれを「探し求めていた」と描かれています。
ですから15,16節では、「もし彼らが思い起こしていたのが、出てきた所であるなら、帰る機会を持っていたことでしょう。しかし、今、彼らが憧れていたのはもっとすぐれたもの、天にあるものでした。それゆえ神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです」と記されます。
「彼らが憧れていた」のは、出生の故郷ではなく、真の意味での父の居住地で、それはこの地ではなく「天にあるもの」でした。彼らが天の父の居住地に「憧れている」ということ自体が、自分のアイデンティティーの基礎を、人間的な出生ではなく、天の父なる神に置くということの告白になります。
それを聖なる神ご自身が喜ばれ、「(あんな惨めな、放浪の民にとっての)神と呼ばれることを恥となさいません」と記さていると解釈できます。これは2章11節で、「イエスは彼ら(私たち人間)を兄弟と呼ぶことを恥とせずに」と記されていたのと同じ表現で、御父は「私たちをご自分の子と呼ぶ」ことを「恥とされない」とも解釈できます。
ルカ15章に描かれた放蕩息子は、父の財産をよその国で使い果たし、飢え死にしそうになって初めて、「父のところ」に帰ろうと思いつきます。その際、「私は……あなたの前に罪ある者です。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人のようにしてください」と言うことを決意します。
そして彼が「自分の父のもとに向かった」と描かれます。するとそこですぐに、「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした」と驚くべき情景が描かれます。
そればかりか、父は彼の謝罪を聞く間もなく、息子としてのしるしとして「手に指輪をはめ」させます。父は、この放蕩息子の「父と呼ばれることを恥としなかった」のです。
ところが彼の兄は、彼のことを「遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子」としか見ていません。兄は彼を「弟と呼ぶことを恥としました」。
ヘブル書8章10節では「新しい契約」に関して、神ご自身が「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」と記されていました。これは天国の希望というより、エレミヤ書31章の文脈で明らかなように、イスラエルの地が新しくされ、そこに喜びをもって住むことを意味しました。
そこでは「彼らは来て、シオンの丘で喜び歌い、主 (ヤハウェ) が与える良きものに、穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油、羊の子、牛の子に喜び輝く。彼らのたましいは潤った園のようになり、もう再び、しぼむことはない……おとめイスラエルよ、帰れ。これらの、あなたの町に帰れ。背信の娘よ、いつまで迷い歩くのか。主 (ヤハウェ) はこの地に、一つの新しいことを創造される」と記されています(12,21,22節)。
つまり、「天の故郷」に「憧れる」とは、私たちが天に上ること以前に、この地に「新しいエルサレム」が「天から降って来る」ことに「憧れる」ことに他ならないのです。この目に見える世界が「新しくされる」とき、私たち自身も新しくされていなければ世界をまた混乱に陥れることになるので、私たちもキリストにあって造り変えられる必要があるというのが、聖書の語る人間の救いの話です。
3.アブラハムは、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えた
17節は、「信仰によって、アブラハムはイサクを献げました。それは試みを受けてのことで、自分のひとり子を献げることでした。それは彼が約束を受けてのことでした」と記されます。ここでは「献げる」という動詞が敢えて二回も繰り返され、アブラハムが自分の「ひとり子」であり、約束の子である「イサクを献げる」ことの葛藤が示唆されます。
そしてそのようにできた理由が、18、19節において、「それはアブラハムに対して、『イサクにあって、あなたの子孫が起こされる』と言われ、彼は考えたからです、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると、そこで比喩的には、彼を取り戻したのです」と記されています。
つまり、ここではアブラハムが、「イサクにあって」、自分の「子孫が起こされる」ということを信頼していたからこそ、イサクの復活を信じて、途方もない神の命令に従うことができたということが記されています。
アブラハムは、自分の子孫が天の星のように、海辺の砂のように増えるという約束が、「イサクにあって」実現するということに信頼していたからこそ、「イサクを献げる」ことができたと記されています。
それは神を、真の意味で、「いのちの創造主」であると信じることを意味しました。それは、「不妊の女」であったサラから子が生まれるという約束に信頼することと同じです。
アブラハムが神の前に「義と認められた」のは、アブラハムの子孫が天の星のように増え広がるということを信じたからですが、このヘブル書では、そのことと、アブラハムの人生の晩年の信仰の完成の状態が切り離せないこととして描かれています。
それにしても、神がアブラハムに、「ひとり子を献げる」ように命じられたことは、どう考えても不条理なことです。それは到底正当化できない無茶な命令とも言えます。アブラハムがそこでどれほど苦しんだかが想像されましょう。
しかし、最初の人アダムは、自分の価値判断で神に逆らったことによって全人類に悲劇をもたらしました。ですから、神は敢えて、人間の常識的な価値観に従うか、「神に従う」のかというチャレンジをすることによって、彼にアダムの罪を乗り越えさせたとも言えます。つまり、アブラハムはアダムの罪を逆転させたからこそ「信仰の父」と呼ばれるのです。
ヘブル書は、アブラハムの信仰を、不妊の女サラから子孫が生まれると信じたことにさかのぼって描きます。つまり、彼がイサクの復活を信じることができたのは、サラから生まれたイサクを通して神の約束が成就するということを、あらかじめ信じることができていたことの結果なのです。
私たちもときに、目の前に厳しい選択を迫られることがあるかもしれません。そのとき、神の永遠の視点、より大きな約束の視点から、自分の歩みを見ることが大切であると言えましょう。
たとえば、私の場合は、大学時代に信仰に導かれ、真剣に神に祈りながら就職先を決めたつもりですが、入社三日目に、「みこころを読み間違えてしまった……」と深く後悔しました。しかし、今はそれが自分にとっての大きな財産になっていると信じることができています。
またその後も、「もっと早く神学校に入っていれば……」と後悔したことも、「金融の学びなどをしたことはすべて無駄だった……」と思えたこともありました。しかしそれが今は、すべてが生かされるようになっています。
また、今、東京都心ミニストリーの責任を担う中で、「これこそ自分が夢に見ていた伝道だ、もっと早く取り組んでいれば……」と思うこともあります。しかし、この働きをチームワークでできるようになるためには、今までの体験が本当に必要でした。
もともと、人に働きを任せるのが大の苦手な性格です。しかし、今は、この教会から離れることはできないと心から思っているからこそ、また、自分の限界を心の底から味わうようにもなってきているからこそ、この責任が委ねられたのかと思います。そこに、神の壮大な長期的なヴィジョンの展開の可能性が見られます。
20-22節は、「信仰によって、イサクはこれから起こるべきことに関して、ヤコブとエサウを祝福しました。信仰によって、ヤコブは死ぬときに、ヨセフの息子たちをそれぞれ祝福しました。また自分の杖に寄りかかって礼拝しました。信仰によって、ヨセフは臨終に際して、イスラエルの子らの脱出について思い起こしました。そして、自分の遺骨について指示を与えました」と記されています。
ここには、「信仰によって」、イサクもヤコブもヨセフも、自分の子孫のことを考えて必要な祝福や指示を与えたということが記されています。つまり、聖書が描く「信仰」は、私たちに後の世代のことを考えさせるというのです。それは今の私たちにとっては、自分たちの子孫、この教会の将来のことや、また東京の将来、日本の未来のことを考えることでもあります。
私たちには今、子供たちの将来を考えて、何らかの果たすべき責任があります。それは何よりも、信仰の遺産を受け継がせることとも言えましょう。信仰継承は、神から与えられた重大な責任です。子どもの自主性を尊重するのは当然ですが、それを親の怠慢の言い訳にしてはなりません。
ヨセフは自分の死に臨んで、創世記15章に記されたアブラハム契約のことを意識しました。そこには、アブラハムの「子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる」と記されながら、そこに現わされる神のみわざが、「しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る」と預言されていました (13,14節)。
ヨセフは、兄たちによって奴隷に売られ、エジプトにおいて総理大臣に引き上げられたとき、自分を通して、アブラハム契約が実現することを信じることができました。そして、イスラエルの子孫たちにそれを繰り返し思い起こさせるシンボルとして、自分の骨を約束の地に「携え上る」ようにと「誓わせ」ました (創50:24,25)。
ヨセフの命令はその400年後に成就しました。私たちも、神の壮大なご計画の中から自分の現在の生活を見直し、また子孫にその使命を知らせる必要があります。それが私たちにとっては、「新しい創造を ここで喜び シャロームを待ち望む」という当教会のヴィジョンです。
この世界は、キリストあって既に新しくされ、神の平和(シャローム)の完成に向かっています。それをいつでもどこでも思い巡らしながら、いまここで神の平和を広げるために働く使命があるのです。
ですからイエスも私たちに向かって、「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」と言われました (マタイ5:9)。
アブラハムがイサクの復活を考えることができたということと、ヨセフが自分の骨を、イスラエルの出エジプトのシンボルとさせたということには深い結びつきがあります。「復活を考える」ということは、目の前の現実がどれほど自分の期待に反しているように見えても、そのあとを信じられることです。
ですから使徒パウロはキリストが死の力に打ち勝ったということをⅠコリント15章で語った後で、「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから」と記しています(58節)。
私たちは自分の労苦が無駄になったように見えると、落胆しますが、主にあっての労苦は無駄にならないと保証されています。
私たちは十字架にかけられた当時の犯罪人を「人生と主」として崇めているのです。私たちの信仰はすでにこの世の常識を超えています。それこそ、まさに聖霊の働きの現れです。聖霊は私たちに、真の夢の実現を信じさせてくださいます。
イエスは十字架にかけられた強盗に、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と約束されましたが、聖書のどこにもそのパラダイスの姿は描かれていません。私たちに示されるのは、完成された「都」としての「新しいエルサレム」です。そこにこそ私たちの希望があります。