日本語の「教会」とはギリシャ語のエクレシアの訳で、それは「召し出された者たちの集まり」と訳すこともできることばです。その本質は「教えを受ける会」ではなく、「互いに愛し合う共同体」です。
そのように言われる割には、「この教会には愛がない」と言われる現実がどの教会にもあります。新興宗教の交わりの方がずっと愛があるように思えることがあっても不思議ではありません。しかしそれは私たちの信仰が、一人ひとりが、たったひとりで創造主と向き合うということが信仰の基礎にあることの逆の面でもあります。
一人ひとりが、どこかで、極めてユニークな神との体験を持っています。そこに他の人は入り込むことができませんし、それを安易に批評することもできません。キリスト教会は境界線(バウンダリー)を尊重する人々の集まりでもあります。
それはこの世の交わりから見たら、「よそよそしさ」が見えるかもしれませんが、この集まりは「神の作品」であって、あなたが批評すべきものではありません。気の合わない人がいたとしても、それはキリストご自身が召してくださった人ですから、あなたに拒絶する権利はありません。
それどころか、神はあなたをキリストに似た者へと成長させるために、この交わりに招き入れたとも言えましょう。それは居心地が悪く思えたとしても、そこにこそ神の「とこしえのいのちの祝福」が注がれているのです。
1.「兄弟たちが一つになって ともに生きる(住む)こと」
詩篇120篇から134篇まで続く「都上りの歌」は、異教世界に離散して住んでいる神の民がエルサレム神殿への巡礼の旅において用いられた歌だと思われます。
イザヤ2章によると、私たち日本人も「終わりに日に」礼拝者の交わりに加えられた「多くの民族」の一つで、シオンから広がってきたみおしえに従って、「さあ、主 (ヤハウェ) の山、ヤコブの神の家に上ろう……主 (ヤハウェ) の光のうちを歩もう」と励まし合っていると解釈できます (イザヤ2:2-5)。
私たちは今、異教的な弱肉強食の競争社会の中でうめきながら、天の「新しいエルサレム」が地に下ってくることを待ち望みつつ、主の日のこの礼拝に上って来ているのです。
詩篇120篇2節には、「主 (ヤハウェ) よ 私のたましいを 偽りの唇 欺き舌から 救い出してください」という訴えが記されています。著者は「平気でうそをつく人たち」に取り囲まれ、苦しんでいます。これはたとえば、どこにスパイが潜んでいるか分からない独裁国家で生きざるを得ない不安にも似ています。
現在の日本でも、「正直に自分の気持ちを言うと、とんでもない非難を受けそうで、本音が言えない……」という恐れの中で生きる場合があることでしょう。そのような場から救い出されることを願った祈りです。
さらにその5節で著者は、「ああ 嘆かわしいこの身よ メシェクに寄留し ケダルの天幕に身を寄せるとは」と、自分が置かれた状況を嘆いています。メシェクとは現在のトルコの東北部、ケダルとはアラビア砂漠に住む遊牧民で、両者とも争いを好む民族の代名詞的な意味がありました。
そのことが「この身は 平和を憎む者とともにあって久しい」(6節) という嘆きとして表現されます。さらに、そこで起こる悲惨が、「私が 平和を –– と語りかければ 彼らは戦いを求めるのだ」(7節) と描かれます。
「平和」とはヘブル語のシャロームの訳で、それは戦いがないこと以上に、すべてが整って欠けがない神の国の完成の状態を指します。それは、私たちがそのような憧れを表現すると、「何をとぼけたことを言っているのか。そんな理想ばかりを言って、生きて行けると思うのか」と、論争を仕掛けられる葛藤に似ているとも言えましょう。
私たちも「地上では旅人であり、寄留者であることを告白し」(ヘブル11:13) ながら生きざるを得ません。しかし、同時に、私たちは、「聖徒の交わり」の中にも招き入れられています。それが133篇の描写です。
詩篇133篇1節の初めは「なんという麗しさ」と訳すことができます。「麗しさ」の原文はヘブル語の「トーブ」で「善い」こと、「好ましい」こと全体を意味する一般的な基本的な言葉です。また「なんという楽しさ」と訳される「楽しさ」と訳されたことばの基本は「愉快な」とか「愛しい」という意味があります。そしてそれらの描写は、「兄弟たちが一つになって ともに生きること」を指します。
「ともに生きる」と訳されたことばは、直訳では「ともに住む」と訳すべきことばです。ただそれでは、この世の交わりを離れた集団生活をイメージする人もいるので、「ともに生きる」と敢えて訳しています。
ナチス・ドイツに抵抗した牧師のディートリッヒ・ボンヘッファーの名著に「共に生きる生活」という小論文があります。その冒頭で彼は、「キリスト者にとって、彼が他のキリスト者との交わりに中で生きることを許されているということは、決して自明なことではない。イエス・キリストは敵のただ中で生活された……十字架の上で、彼は悪人や嘲笑者に取り囲まれて全くひとりであられた……だからキリスト者も、修道院の孤独な生活へと隠遁することなく、敵のただ中にあって生活するのである……
不信仰者の間に散らされながら、遠い国でイエス・キリストを思うという形で一つにされているのである……教会が、この世において神のみ言葉と聖礼典とのために、目に見える形で集まることを許されているということは、神の恵みである。すべてのキリスト者が、この恵みにあずかれるわけではない。囚われ人、病人、散らされて孤独でいる人、異教の国における福音の宣教者、などは ただひとりである。
彼らは、目に見える交わりが恵みであることを知っている……ほかのキリスト者が、肉体をもって共にいるということが、信仰者にとっては、つきることのない喜びと励ましである……」と記しています。
「ともに生きる」ことの幸いは、孤独を通してこそ見えるという面があります。
それは、野球のイチロー選手が引退会見で、「メジャーリーグに来て、外国人になったことで、人の心をおもんばかったり、人の痛みを想像したり、今までなかった自分が現れたんですよね。この体験というのは、本を読んだり、情報を取ることはできたとしても、体験しないと自分の中からは生まれないので、孤独を感じて苦しんだことは多々ありましたけど、その体験は未来の自分にとって大きな支えになるのだろうと、今は思います」と言われたとおりです。
私たちも詩篇120篇に描かれたような敵のただ中で、ただキリストにあって、まさに恵みによってともに、主を礼拝する恵みにあずかることができています。
それは決して当たりのことではありません。ただその際、私たちが注意すべき二つの真理を、ボンヘッファーは次のような有名な逆説で表現します。
「ひとりでいることのできない者は、交わりに入ることを用心しなさい。彼は自分自身と交わりとをただ傷つけるだけである。神があなたを呼びたもうた時、あなたはただひとりで神の前に立った。
ひとりであなたはその召しに従わなければならなかった。ひとりであなたは自分の十字架を負い、戦い、祈らねばならなかった。そしてあなたはひとりであなたは死に、神に弁明するであろう……もし、あなたがひとりでいることを望まないなら、それはあなたに対するキリストの召しを否定することである……」
しかし、その逆の命題もまた真である –– 「交わりの中にいない者は、ひとりでいることを用心しなさい。あなたは教会の中へと召されたのである。召しはあなたのみに向けられているのではなく、あなたは召された者の教会の中で、自分の十字架を負い、戦い、祈るのである。
あなたはひとりではない。たとい死の時においても、あなたはひとりではない。最後の裁きの日に、あなたはイエス・キリストの大きな教会の一つの肢となるであろう。
あなたが兄弟の交わりを軽蔑するなら、あなたはイエス・キリストの召しを否定するのであり、そうすれば、あなたがひとりでいることは、あなたにとってわざわいなことになるであろう」
われわれは次のことを知る –– ただ交わりの中においてのみ、われわれはまさしくひとりであることを学ぶのであり、またただひとりであることにおいてのみ、まさしく交わりの中にあることを学ぶのである……このふたつは、同時に、イエス・キリストの召しと共に、始まるのである。
それぞれが、深い淵と危険とを内蔵している。ひとりでいることなしに交わりを望む者は、言葉と感情の空虚さ(上滑りな会話への絶望)に陥り、交わりなしに一人でいることを求める者は、虚無と自己幻惑と絶望の深み(絶望的な孤独感)に滅びる」
2.「主 (ヤハウェ) がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられかのだから」
「兄弟たちが一つになって ともに生きる」ことの「麗しさ」と「楽しさ」が、祭司の上に注ぐ任職の油、また、ヘルモンの露にたとえられます。
2節の原文は、「頭に注がれた麗しい油のようだ それはひげに滴(したた)り落ちる それはアロンのひげに、そこから衣の端にまで滴り落ちる」と訳すことができます。「麗しい油」と訳すのは、最初の「なんという麗しさ」と同じトーブ(善)ということばが用いられているからです。
「ひげに滴(したた)り落ちる」ことが「麗しい」と響かないのは、祭司職の任職儀式の荘厳さを理解しにくいからです。出エジプト記29章1-9節には、アロンを祭司として任職する際の手続きが描かれています。彼は「栄光と美を表す聖なる装束」(28:2) を身に着け、「頭にかぶり物をかぶらせ、そのかぶり物の上に聖なる記章を付け」、その上で「注ぎの油を取って彼の頭の上に注ぎ、彼に油注ぎをする」と描かれていました (29:6,7)。
不思議なことに、任職の油は、ターバンのような「かぶり物」の上からなされるのです。それは装束をも聖くする必要があるからです。しかもこの「油注ぎ」は後にキリスト(油注がれた者)を示唆する特別な儀式ですから、このためだけに調合された特別な油を使い切ります。それが祭司の誇りである「ひげ」に滴り落ち、さらに「衣の端まで滴り落ちる」のです。
ですから、この「アロンのひげ」への描写は、イスラエルの民の真ん中に創造主ご自身が住んでくださる祝福の原点を思い起こさせる表現と言えましょう。なぜなら、祭司の働きがあってこそ、神が汚れたイスラエルの民のただ中に住むことができたからです。
その際に用いられる「注ぎの油」に関しての作り方は、出エジプト記30章22-25節に記されます。そこには四種類の最上の香料をオリーブ油の1ヒン (3.8ℓ) に混ぜますが、その調合割合は、液体の没薬の500シェケル (5㎏)、香りのよいシナモンを250シェケル (2.5㎏)、香りのよい菖蒲を250シェケル (2.5㎏)、桂枝(桂の枝から作られる生薬)500シェケル (5㎏) を用います。
このように仕上げられた「聖なる注ぎの油」は、会見の天幕とその中に置かれた聖なる器具を聖別するためと、祭司の任職のためだけに用いられました。
この注ぎの油が種類の異なったものが合わせられることですばらしい香りを放つことは、教会において異なった種類の人々が組み合わされて、キリストの香りを放つことができることを象徴するとも言えましょう。
しかも新約においては、私たち一人ひとりが、聖霊による油注ぎを受けた「王である祭司」(Ⅰペテロ2:9) とされています。そして、私たちは教会の交わりにおいて、互いが互いの祭司として奉仕するように召されています。それは何よりも互いのために祈り合う関係です。
そればかりか私たちは祭司として、主にある兄弟の罪の告白を聞き、みことばを用いて赦しの宣言をすることさえできます。それをイエスは、「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります」(ヨハネ20:23) と表現しました。
私たちは何と、キリストの代理大使として、この世の人々を神につなぐ使命が与えられているのです。キリスト者はみな、「王である祭司」として油注がれた者でもあるのです。
3節では、「兄弟たちが一つになって ともに生きる」ことの「麗しさ」「楽しさ」が、「ヘルモンの露のようだ。それはシオンの山々に滴り落ちる。主 (ヤハウェ) がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられかのだから」と記されています。
ヘルモン山はイスラエルの最北端の標高2,800mに達する万年雪をたたえる連山で、そこには大量の露が発生します。エルサレムにあるシオンの山々はそこから南に200kmも離れていますから、ヘルモンの露がエルサレムを潤すことは地理的に考えられないという見方もあります。
しかし、夏の日照りで乾ききった季節に、ヘルモンの露が遠いエルサレムまでを潤すというのは、現地では可能であるという解釈もあります。ハガイ1章10節ではイスラエルの民が神の家のことを後回しにして、自分の家のために走り回った結果、「天は露を滴らすのをやめ、地は産物を出すのをやめた」ということが起きたと記されます。
夏に雨が降らないイスラエルの地においては、天から降る露こそが、地の産物を生み出す力になっています。遠いヘルモンの露がはるか南のエルサレムを潤すというのは、まさに神がこの地に起こす奇跡といえましょう。そのように、兄弟愛は、神がもたらす奇跡であると、ここでは敢えて描かれていると考えるべきでしょう。
ヘルモンの露は約束の地全体を潤す奇跡的な力を持っており、それは200kmも南のエルサレムをも潤すことができるとの同じように、私たちの兄弟愛は世界を潤す力を持っています。
さらに3節の後半の原文は、「なぜなら、主 (ヤハウェ) がそこに命じられたからである、いのちの祝福をとこしえまでに」と記されています。「そこ」とは、「兄弟たちが一つになって ともに生きる」その交わりの場を指すと理解すべきでしょう。
それは、この詩篇において「滴り落ちる」ということばが三度繰り返されることからも明らかです。そこに神の祝福が、アロンの頭に注がれた油のように、また、衣の端にまで及ぶ油のように、またエルサレムを潤すヘルモンの露のように、豊かに、奇跡的に注がれることになるのです。
3.「さあ、主 (ヤハウェ) をほめたたえよ(祝福せよ) 主 (ヤハウェ) があなたを祝福してくださる」
詩篇134篇は「都上りの歌」の最後の頌栄的な歌で、前の詩篇の「祝福」と同じの英語で bless と訳されることばが三度繰り返されます。
第一は、「主 (ヤハウェ) をほめたたえよ (祝福せよ) 主 (ヤハウェ) のすべてのしもべたち 夜通し 主 (ヤハウェ) の家で仕える (立つ) 者たちよ」という呼びかけです。
第二は、「聖所に向かって手を上げ 主 (ヤハウェ) をほめたたえよ(祝福せよ)」という呼びかけです (2節)。
そして第三は、「主 (ヤハウェ) がシオンからあなたを祝福してくださるように 天と地を造られた方が」という呼びかけです (3節)。
「祝福する」ということばには「ひざまずく」という意味があります。「主をほめたたえる(祝福する)」とは、主の御前にひざまずき、主がすべての祝福の源であることを覚えることです。
そして、主の前にひざまずく者を、主は祝福してくださいます。ウエストミンスター教理問答の最初では、「人間のおもな最高の目的な、何であるか」という問いに、「人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし(神をほめたたえ)、永遠に神を全く喜ぶことである(原文:Man’s chief and highest end is to glorify God, and fully to enjoy him forever)」と記されていますが、私たちが「神のかたち」に創造されていることの意味は、永遠に神をほめたたえ、神を喜ぶことにあるのです。
その反面教師の姿が、サムエルが祭司エリの家に預けられて間もなくのときに描かれます。主は、自分の息子たちに主を恐れることを教えられなかった祭司エリに、「なぜあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて……」と言われながら、「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられる」と戒めました。
つまり、主をほめたたえる(祝福する)者は、主によって祝福され、主を軽んじる者は、主から軽んじられ、のろわれるという恐ろしい対比が描かれているのです。
しかも、主が私たちを「祝福」してくださるとは、主ご自身が私たちの前に「ひざまずく」かのように、ご自分を低くして、ご自身のすべてを私たちに分かち合ってくださることです。それは神の御子キリストの生き方に何よりも現わされています。それは、私たちが主の御前に「ひざまずく」ことに対する、神ご自身の対応です。
反対に神の前で高ぶる者に対しては、神は見下ろすようにさばきを下されます。それは、「まことにあなたは 苦しむ民を救い 高ぶる目を低くされます」(詩篇18:27) と記されているとおりです。
なお、1節の終わりでは「夜通し 主 (ヤハウェ) の家で仕える(立つ) 者たち」のことが覚えられ、その直後に3節の冒頭で、「聖所に向かって手を上げ 主 (ヤハウェ) をほめたたえよ(祝福せよ)」と促されます。これは、疲れを覚えている人に、なお、「手を上げよ、聖所に向かって」と励まされていることとして理解できます。
私たちもときに、疲れを覚えて、「主をほめたたえる」ような気持ちになれないと思う時があることでしょう。しかし、そのように気持ちがついてゆかないときでも、「手を上げ」て、主をほめたたえるという姿勢を取ることで、私たちの気持ちが変えられるということがあります。
それは、行動が気持ちの変化を生み出すという心理学的な知恵でもあります。私たちの行動が、そのときどきの気分に支配されすぎてはいけません。
最後に、「主 (ヤハウェ) がシオンからあなたを祝福してくださるように 天と地を造られた方が」と記されます。この「天と地を造られた方」という表現は詩篇121篇にもありました。そこでは、「私の助けはどこから来るのか。私の助けは主 (ヤハウェ) から来る。天地を造られたお方から」と記されていました (1,2節)。
私たちが「主の前にひざまずく」ときに、天と地を造られた方ご自身が私たちに向かってひざまずき、私たちにご自身の力を分かち合ってくださいます。主の前にへりくだり、主をほめたたえることの祝福がそこにあります。
私たちはどれほど気分的に落ち込んでいても、主を礼拝し、主に向かって手を上げるという行動を選ぶことはできます。そこから私たちの人生は変えられて行きます。
先の詩篇133篇にもあったように、「主のとこしえのいのちの祝福」は、主をともに礼拝する交わりのただ中にあります。主をほめたたえることと、互いに愛し合うことは、切っても切れない関係があります。そこにこそ「いのちの祝福」があるからです。
詩篇133篇、134篇は15の「都上りの歌」を締めくくるもので、「天のエルサレム」に向かっての巡礼の旅の歌とも言えます。
ただ、「天のエルサレム」は地に下って来るのですから、私たちはこの地の責任に目を向ける必要があります。私たちはこの世に神の平和を広げるために遣わされます。その派遣基地がこの教会の交わりです。
確かにこの「交わり」は欠けだらけで、様々な課題があります。しかし、「主 (ヤハウェ) がそこに とこしえのいのちの祝福を命じられた」という霊的な現実を忘れてはなりません。
「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところ」(エペソ1:23) だからです。キリストの教会において、主をほめたたえる(祝福する)者にこそ「祝福」が約束されているのです。
詩篇133篇 都上りの歌 ダビデによる 見よ なんという麗しさ なんという楽しさだろう (1) 兄弟たちが一つになって ともに生きる(住む)ことは 頭に注がれた麗しい油のようだ それはひげに滴(したた)り落ちる (2) それはアロンのひげに、そこから衣の端にまで滴り落ちる ヘルモンの露のようだ。それはシオンの山々に滴り落ちる (3) 主(ヤハウェ)がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたのだから 詩篇134篇 都上りの歌 さあ、主(ヤハウェ)をほめたたえよ(祝福せよ) (1) 主(ヤハウェ)のすべてのしもべたち 夜通し 主(ヤハウェ)の家で仕える(立つ)者たちよ 聖所に向かって手を上げ 主(ヤハウェ)をほめたたえよ(祝福せよ) (2) 主(ヤハウェ)がシオンからあなたを祝福してくださるように (3) 天と地を造られた方が