しばしば、多くの人は聖書に誤った問いかけをして、混乱してしまいます。その一つに、「一度、救いの喜びを体験した人が、サタンの攻撃に屈して、信仰を失うことがあるだろうか?」という問いがあります。ヘブル書6章1-8節は、それに明らかに「そのとおり」と語っているように見えます。そして、諸教会の現実としては、洗礼を受けた人々の半数以上が、信仰から離れるという悲しい現実があるとも聞きます。
しかし、この書は、そのような「信仰の破船」(Ⅰテモテ1:19)にあいそうな人を再び、大祭司イエスに結びつける目的で記されています。信仰とは、神の約束と誓いに信頼することです。
神はあなたをサタンの攻撃から守り通すことができます。神が偽ることはありません。信仰とは、イエスにすがって生きる自由とも言えます。
1.キリストのうちに、「聖徒の交わり」のうちに、生き続ける
6章7,8節ではキリスト者が「土地」に例えられ、うまく雨を吸い込で、有用な作物を生み出すなら「神の祝福にあずかる」一方で、「茨やあざみを生えさせるなら、無用とされ、やがてのろわれ、最後は焼かれてしまいます」と警告されます。それは、4,5節に描かれた、神からの恵みを無駄に受けた「見せかけの信者」のことを指します。
この「祝福」と「のろい」の対比は申命記27-30章などに描かれていたテーマであり、その最後でモーセはイスラエルの民に、「私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためである。まことにこの方こそあなたのいのちであり、あなたの日々は長く続く。あなたは、主(ヤハウェ)があなたの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われたその土地の上に住むことになる」(同30:19,20)と厳しく迫っていました。
しかし、その後のイスラエルの歴史は、自分たちで「のろい」を選び取ってしまい、土地をバビロン帝国に奪われ、捕囚とされるというものになりました。
しかし9節ではこの手紙の読者に関しては、「さらに良いこと、救いに結びつくことを確信しています」と記し、この新約の福音に生きる者は、過去のイスラエルの歴史のようにはならないと言っています。
その理由の第一は、彼らがキリストのからだである教会の「聖徒たちに仕えてきたこと、また仕え続けている」ことに関して、「神は不誠実な方ではないので、あなたがたの働きや愛を忘れたりはしない」からであると記されます(10節)。
それは、聖徒に仕えることは、キリストに仕えることであり、キリストの「兄弟」と見られる立場に身を置くことだからです。キリストのからだの一部とされた者が、「のろわれる」ことはあり得ません。
そして、11、12節では、一人ひとりが、「聖徒たちに仕えてきた」のと「同じ熱心さを示す」ことによって「最後まで希望についての確信に満たされること」を「切望します」、また、「怠け者」になることなく、信仰を全うした人の模範に「倣う者となる」ことによって、「約束されたものを受け継ぐこと」を「切望します」と記されています。
つまり、ここでは「聖徒たちに仕える」ことと、「聖徒たちに倣う」ことが一体のこととして描かれ、それによって「希望についての確信に満たされ」「約束されたものを受け継ぐ」ということが確かにされると保証されているのです。
当時、ユダヤ教に属するユダヤ人だけの交わりは、ローマ帝国の中でも白い目で見られながらも、その存在や信仰形態は社会的に認知され、迫害の対象にはなりませんでした。それでユダヤ人クリスチャンの中には、ユダヤ人だけの交わりに戻ることによって、この世での迫害を避け、平安を得られると思わせる誘惑がありました。そこにこの手紙が記された目的があります(10:25参照)。
一方、ユダヤ人と異邦人がともに食事をし、一つの家族となるという聖書的な「聖徒の交わり」は、異教徒とユダヤ人の両方から異端視され、攻撃されました。ただ同時に、周囲の人々の中には、その交わりを不思議に思い、「見よ。奴らは互いに愛し合っている」「奴らは仲間のためならいつでも死ぬ覚悟でいやがる」と、軽蔑と称賛が混ざった評価もありました(テルトゥリアヌス「護教論」39:7)。
そして、その愛の交わりこそが、ローマ帝国の中でキリスト教徒が爆発的に増えた最大の原因だったのです。私たちの場合も、キリストの愛のうちに生きるとは、神の家族である教会の交わりを何よりも大切にして生きるということであることを忘れてはなりません。
クリスチャンは、個人としてよりも、愛の交わりとして尊敬されるべきなのです。
先の「怠け者」ということばは、5章11節後半でも「聞くことに対して怠け者に(新改訳:「鈍く」)なっている」と用いられます。それは彼らが「初歩的な教えを後にして、成熟を目指して進もう」とする姿勢がない「怠け者」の姿勢に留まっていることを批判するためです。
読者はユダヤ教で大切にされたアロンの大祭司職の枠に留まったままで、それを超えた「メルキゼデクの例に倣う」(5:10)大祭司職を理解する必要があったのです。
しかも私たちは「成熟を目指して進む」ことに恐れを抱く必要はありません。私たちの大祭司イエスは、「もろもろの天を通られた、神の子」であられますから、キリストのうちに生きる者の最終的な勝利は確定しています。
同時に、主は「私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれた」と記されているように、私たちはこの方に向かってすべての恐れや悩みを訴えて、主の慰めを受け、キリストのうちに生き続けることができます(4:14,15)。
2.アブラハムへの契約は、彼の子孫すべてに及ぶ
6章13節は原文で、「アブラハムに対して神が約束する際、ご自分が誓うことができる偉大な方がいなかったので、ご自分にかけて誓われました。『あなたを、祝福をもって祝福しないということはあり得ない。必ず、あなたを増やして増やす』と言われながら」と記されています。
これは創世記22章1-18節の記事に基づきます。アブラハムは、神の不当とも言える命令に従い、自分のひとり子のイサクをモリヤの山で全焼のささげものとして屠ろうとしました。
そのとき主の使いが彼の手を差し止めて、「今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった」と言われ、主はさらに「わたしは自分にかけて誓う……あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、確かにわたしは、あなたを大いに祝福しあなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に従ったからである」と言われました。
アダムは、自分を善悪の基準に置くことで、神が造られた世界を混乱させる源となりましたが、アブラハムは徹底的に神を善悪の基準とすることで、世界の「祝福の基」となったと言えましょう。
イスラム教のコーラン2章124節ではこれを基に、「アブラハムが、ある御言葉で主から試みられ、彼がそれを果たした時を思い起せ。『われはあなたを人びとの導師としよう。』と主は仰せられた」と記されます。イスラムとはアブラハムの服従の姿勢に倣う教えであり、教祖のマホメッドはアブラハムの信仰に最も近い者として位置づけられます(同3:68)。
ただ興味深いのは、そこでアブラハムが主に、「またわたしの子孫までもですか?」と尋ねたところ、主が「われの約束は,悪行をした者たちには及ばない」と仰せられたと記されている点です。
聖書では、アブラハムへの祝福はその子孫にまで及ぶと強調されているのですが、コーランではアブラハムの祝福はその子孫に及ぶことはなく、すべて人がそれぞれの行いによって主のさばきを受けると記されているのです。その点ではイスラム教の方がずっと合理的で平等に思えます。
しかし、そこに同時にイスラム教の厳しさがあります。そこでは繰り返し神の恐ろしい死後のさばきが警告されています。
たとえばコーラン4章56節には、「本当にわが印を信じない者はやがて火獄に投げ込まれよう。彼らの皮膚が焼け尽きる度に、われは他の皮膚でこれに替え、彼らにあくまで懲罰を味わわせるであろう。誠にアッラーは偉力ならびなく英明であられる」と記されています。
一方でその直後には、「だが信仰して善い行いに励む者には,われは川が下を流れる楽園に入らせ,永遠にその中に住まわせよう。そこで彼らは,純潔な妻たちを持ち,われは涼しい影にかれらを入らせるであろう」と描かれます。
さらに56章では「至福の楽園」のようすが、彼らは錦織の寝台の上に向かい合って寄り掛かる。永遠の少年たちがその間を巡り酒杯を献げるが、泥酔することはない……大きい輝く眼差しの美しい乙女がその行いに対する報奨である……そこで彼らはただ「平安あれ」「平安あれ」と言われる……長く伸びる木陰の絶え間なく流れる水の間で豊かな果物が絶えることがない……そこにいる乙女たちは永遠に汚れない処女で愛しい同じ年配の者たち」と描かれます。
一方、地獄のようすが、「彼らは焼け焦がすような風と煮え立つ湯の中、黒煙の影に……いる。彼らは以前、裕福で享楽に耽り、大罪を敢えて犯していた……彼らは煮え立つ湯を飲む、喉が乾いたラクダが飲むように。これが審きの日の彼らへのもてなし」と描かれます。これが砂漠に住む男たちへの分かり易い極楽と地獄の描写でした。聖書とは大きく異なります。
イスラム教においては、創造主の前での個々人の平等が強調されます。それで、「本当に(コーランを)信じる者と、ユダヤ人、サ―ビア教徒(バプテスマのヨハネの信奉者)、キリスト教徒でアッラーと終末の日を信じて善い行いに励む者には、恐れもなく憂いもないであろう」(5:69)と、さばきの際には宗教を超えて平等に扱われると記されます。
それに対し、聖書では神の一方的な選びが強調され、それは人間的には、不合理、不平等とも見られます。しかし、聖書の神は、救われるに値しない者を選び、その人にご自身の圧倒的な愛と恵みを示すことによって、世界の人々をご自身のもとに招く方です。
たとえば、聖書に描かれたイスラエル民族の名の由来であるヤコブの生涯を見て、どこに彼の人格の高潔さに感動する人がいるでしょう?
彼の名がイスラエルと呼び変えられ、彼が神の民の父と呼ばれるのは、神の一方的なあわれみであり、私たちもただ、その「栽培されたオリーブに接ぎ木された」存在に過ぎません(ローマ11:18)。
実は、この不合理とも思える選びの教理こそが、罪深い私たちが救いの確信に憩うことができる基本なのです。
この神の選びによる約束は、すでに創世記12章1-3節で、主がアブラムに「あなたは、あなたの土地……あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい(「あなたは祝福の基となる」(聖書協会共同訳))……地のすべての部族は、あなたによって祝福される」と言われたことから始まりました。
ここで興味深いのは、アブラハムへの祝福は「国民」として現わされること、またアブラハムは個々人にとっての信仰の模範である前に、「祝福の基」として描かれていることです。
しかもローマ人への手紙4章13-16節では、「世界の相続人となる約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によってであった……こうして、約束がすべての子孫に、すなわち律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です」と記されています。
つまり、異邦人クリスチャンも「アブラハムの子」とされているのです。しかも、アブラハムの子孫がカナンの地を受け継いだように、私たちは全世界の相続人となるのです。イスラム教が描く極楽世界ではなく、私たちは「新しい天と新しい地」を治める者とされるのです。
さらに創世記15章では、主がアブラハムに「深い眠り」を与えながら、主が燃えるたいまつとして、切り裂かれた動物の間を通り過ぎることによって保証された約束です。それは当時の契約の儀式に沿ったことで、もし約束を破ったなら、自分も切り裂かれることを受け入れるという、命をかけた約束です。
ただこのときアブラハムは眠ったままでしたので、切り裂かれた動物の間を通り過ぎはしませんでした。神ご自身だけがそれを命がけで守ると保証されたのです。神が一方的に守ると保証してくださった「契約」でした。
さらに17章では、主が、アブラムが99歳のとき、彼に「アブラハム」という新しい名を与えて「多くの国民の父とする」ことを保証しました。それと同時に彼の子孫が、「契約のしるし」としての「割礼」を受けることが命じられました。
その際、主は、「わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる」(7節)とその子孫の祝福を約束しておられます。つまり、アブラハムへの祝福はその子孫全体に及ぶものなのです。
3.「私たちの先駆けとして幕の内側に入られた大祭司」
15節では「このようにして、アブラハムは忍耐の末に約束(のもの)を得たのです」と記されますが、ここでは厳密には、「約束を得た」としか記されていません。ただそれは約束だけを得たという以上に、イサクにおいて「約束されたものを得た」と理解して良いのだと思われます。
続けて、「なぜなら人々は、自分より偉大な方にかけて誓います。そして、その誓いがあらゆる反論に対する最後の保証になります」(16節)と記され、「誓い」が、人間の間でさえ、約束が実現することの最後の保証と見られると語られます。
そしてさらに、「そこで神は同じように明らかにしたいと願われて、約束の相続者たちにご自身の計画の不変性を証明するために、誓いをもって確証したのです」と記されます。
ここでは神の計画が変わり得ないということが、ご自身の「誓い」によって、さらに明らかにされたということが強調されています。これは13節で、「アブラハムに対して神が約束する際、ご自分が誓うことができる偉大な方がいなかったので、ご自分にかけて誓われました」ということを振り返った表現です。神の「誓い」の重大性が思い起こされます。
18節の原文では、「それは、この二つの不変性の事柄を通して-このことについて神には偽ることは不可能ですから-私たちが力強い励ましを受けることができるためです。私たちは避難してきた者たちです、目の前に置かれている希望を捕らえようとして」と記されています。
「この二つ」とは、これ以前の「約束」と「誓い」のことを指すことは明らかですが、原文では明記されていません。ただそれを通して、「不変性」ということばに注目が集められます。聖書のストーリーの核心こそは、「アブラハム契約」です。
たとえばミカ書最後では、「あなたはヤコブにまこと(エメット:真実)を、アブラハムに恵み(ヘセド:不変の愛)をお与えくださいます。昔、私たちの父祖たちに誓われたように」(7:20私訳)と記されます。それは預言書の基本テーマは、アブラハム、ヤコブとの契約を成就してイスラエルを「祝福の基」とするという、神の救いの計画だからです。
私は小預言書までを解き明かし続けたことで、その真理が身に染みました。神はイスラエルの民が契約を破ったことにさばきを下し、彼らを徹底的に砕くことによって、彼らが再び全能の主に頼り直すようにと導きました。
そしてイエスは、イスラエルへの「のろい」を十字架で引き受けることによって、「アブラハムへの祝福が異邦人に及ぶ」という「救い」の道を開いてくださったのです(ガラテヤ3:13,14)。
さらに19節では、先の文章の最後に記された「希望」ということばを受け、「それ(希望)を、たましいの錨のようなものとして私たちは持っています。これ(錨)は安全で、不動なもので、それ(希望)は垂れ幕の内側にまで入って行きます。そこに私たちのための先駆者としてイエスは入りました。それはメルキゼデクの例に倣う、とこしえの大祭司になってのことでした」と記されています。
「錨」は船が嵐によっても流されないようにするために使われます。私たちはこの世にあっては様々な誘惑に遇いますが、イエスにつながっている私たちは流される心配がありません。
イエスはアロンの子ではありませんでしたが、「メルキゼデクの例に倣って」、垂れ幕の内側に入られました。それは私たちの「先駆者」としてのことで、私たちもそこに入ることが保証されたのです。イエスが十字架で息を引き取られたとき、「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(マタイ27:51)のはそのためです。
ですから、私たちはイエスの十字架の基に身を置くことによって、アブラハムが神と親しく語り合ったように、神と語り合うことができます。それが「アブラハムの子」とされたという意味です。
つまり、6章の1-8節で背教の可能性と、背教者に対する厳しいさばきが語られていたことと対照的に、私たちの大祭司は私たちを守り通すことができるということが記されているのです。
イスラム教のコーランでは、イエスは、神に徹底的に従った「信仰者の模範」とされていますから、彼が十字架にかけられて殺されることなどあり得ないと言われます。そのようにユダヤ人には「見えた」だけで、実際は「アッラーが彼を引き上げたのだ」と記されます(4:157,158)。
イスラム教徒はイエスを「救い主」ではなく「信仰の模範」としか見ていません。イスラム教では、「信仰告白」「礼拝」「喜捨」「断食」「巡礼」の五つの行を守ることを中心に、日常生活が形成されて行きます。特に、夜明け、正午、午後、日没、夜中の五回に渡って、メッカの方向に跪き頭をつけて礼拝することは良く知られています。そこに見られるように神をあがめ、神に徹底的に服従する日々の生活の仕方こそが信仰の中心です。
聖書に繰り返し語られる「救い」の保証はありませんが、教えられた生き方を日々続ける中に「平安」が生まれるとも言われます。
それと対照的に、ヘブル書は、イエスを神の右の座に着いておられる大祭司であるとともに、「先駆け(先駆者)」として描きます。それは、私たちの目標が、キリストとともに「神のために……祭司とされ」、キリストとともに「地を治める」ことだからです(黙示5:10)。それでイエスは、私たちをご自身の「兄弟」と呼んでくださいます(2:11)。
残念ながら多くの人々は、キリストのうちにある信仰生活を、イスラム教のように、さばき主なる神の前で聖い生き方を全うして、天国に入れてもらうことのように理解してはいないでしょうか。しかし、クリスチャン生活とは、寝ても覚めてもイエスの御名を呼び、主との交わりの内で、創造的に、それぞれに与えられた「神のかたち」としての個性を生かす、ダイナミックな生き方なのです。
ルールに従うのではなく、イエスとその聖徒との交わりの内に生きる生活です。信仰とは、イエスの模範に従うという以前に、イエスにすがり、イエスの執り成しによって父なる神に大胆に期待することができる、自由な生き方なのです。