恐ろしい相手に直面した時、すぐ「逃げ」の姿勢に入る人と、自分の恐怖感情を押し殺しながら「蛮勇」を奮おうとする人がいます。しかし、「恐れ」は神が与えてくださった大切な感覚です。心に沸き起こる様々な感情を優しく受け止めながら、それを神に打ち明けることこそ信仰者の態度ではないでしょうか。
危機に直面した時、創造主の御前に一瞬でも力を抜いて静かに祈ることができるなら、逃げでも蛮勇でもない、神が示す意外な解決の道に向かっての柔軟な臨機応変の対応ができるのではないでしょうか。
1.北王国イスラエルの滅亡とアッシリア捕囚
17章1-6節には、北王国イスラエルの滅亡の様子が驚くほど簡潔に記されます。最後の王ホセアは、アッシリア帝国に服従するように見せかけながらエジプトに助けを求め、その不誠実な態度がアッシリアの王の怒りを買い、自滅します。これは大国に挟まれた小国が陥りやすい過ちです。
しかし、神は敢えて小国イスラエルをご自身の民とすることによって、ご自身の栄光を現わそうとしておられるのです。たとえばモーセは、イスラエルへの告別説教で、「主(ヤハウェ)があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった」(申7:7旧版)と語っています。
またマザー・テレサが働きを始めようとする時、イエスは、「貧しい人をわたしのもとに引き寄せて欲しいのだ……わたしは、おまえが最も能力がなく、弱く、罪深い人間であることを知っている。だからこそ、わたしの栄光のためにおまえを用いたいのだ。おまえはそれを拒むのか?」と迫ってきたとのことです。
私たちは世の力の論理に惑わされ、イエスが、「わたしの力は弱さのうちに完全に現れる」(Ⅱコリント12:9)と約束されたことを忘れてはいないでしょうか。
「ホセアの第九年」(17:6)とは紀元前722年のことだと思われます。三年間の包囲に耐えた首都サマリアは陥落し、その住民は昔のアブラハムの寄留地ハランの東のゴザンからニネベ近郊の町ハラフ、そのまた東のメディヤの地にまで強制移住させられました。
不思議にもサマリア陥落の様子や人々の苦しみは描かれません。その代わりに、この悲劇の理由が、「こうなったのは、イスラエルの子らが、自分たちを……エジプトの王ファラオの支配下から解放した……主(ヤハウェ)に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ……異邦の民の風習……に従って歩んだからである」(17:7,8)と記されます。
神は「十のことば」において、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない……自分のために偶像を造ってはならない……それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主(ヤハウェ)であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし」(出エジ20:3-6)と語っておられました。
しかし、北王国イスラエルは分離独立して以来ずっと「金の子牛」の像を拝み(Ⅰ列王12:26-33)、神の怒りを引き起こし続けてきました。創造主が彼らを選ばれたのは、全世界に対して神の栄光と恵みを証しするための「祭司の王国」とするためでした(出19:6)。ですから、彼らが偶像や別の神を拝んでしまうなら、神の選びの意味を無に帰することになります。彼らは二百年前に滅ぼされてしかるべき国であったとも言えます。
ところが神は忍耐に忍耐を重ね、預言者エリヤやエリシャを遣わしてご自身の栄光を民に明かし続け、その後も預言者アモスやホセアなどを遣わし、彼らに悔い改めを迫り続けていました。
つまり、このような悲劇が起きたのはイスラエルの神、主(ヤハウェ)がアッシリアの神々に劣っているからではなく、イスラエルが神の民でありながら偶像の神々を拝み、「主の怒りを引き起こし」(17:17)続けてきた結果なのです。
一方、中東全域を支配したアッシリア帝国は、バビロンやその近郊のクテ、またアラムの北のアワ、ハマテ、セファルワイムの住民をサマリアの町々に強制移住させました(17:24)。ところが、「彼らがそこに住み始めたとき、主(ヤハウェ)を恐れなかったので、主(ヤハウェ)は彼らの中に獅子を送り込まれ……彼らの何人かを殺した」(17:25)という悲劇が起きます。
それに対し、アッシリアの王は「サマリアから捕らえ移された祭司の一人を」イスラエルの地に戻させ、彼は「ベテルに住み、どのように主(ヤハウェ)を礼拝するべきかを教え」ます(17:27,28)。その結果、「彼らは主(ヤハウェ)を礼拝」するようになったのですが、同時に、「自分たちが捕らえ移される前にいた国々の慣わしによって、自分たちの神々にも仕えていた」ということになりました(17:33)。
しかし、彼らが聞くべきだったことは、「主(ヤハウェ)はイスラエル人と契約を結び」「ほかの神々を恐れてはならない。これらを拝み、これに仕えてはならない」と命じられたことでした(17:35)。彼らは律法を学び、イスラエルの民の間に住んだ「在留異国人」と同じ立場にしていただくことは可能だったはずです。
それによって生まれた礼拝習慣が、「しかし、彼らは聞かず、以前の彼らの慣わしのとおりに行った。このようにして、これらの民は、主(ヤハウェ)を礼拝すると同時に、彼らの刻んだ像にも仕えた…今日もそうである」(17:40,41)と記される混合宗教(シンクレティズム)です。これが後のユダヤ人たちに軽蔑されるサマリア教の始まりです。
そして、これこそ日本の宗教的土壌に深く根付いている考え方でもあります。しかし、神はご自身を「ねたみの神」と紹介しておられます。聖書の神のご機嫌を取ろうとしながら、同時に、日本古来の文化に根付いた神々を拝むというのは、自由なようで、自分を窮屈にしています。
「ねたみの神」である方の真実な愛を期待できなくなるからです。複数の神々の祟りを恐れ、どっちつかずの信仰を守ろうとするなら、いつまでも自分で自分の身を守る緊張感から抜け出せず、そこに心の自由はありません。
2.ヒゼキヤの宗教改革とアッシリアの攻撃の前にした心の揺れ
サマリアが陥落する六年前、ユダ王国ではアハズの子ヒゼキヤが王となりましたが、彼はアハズとは正反対に、「ダビデが行ったとおりに、主(ヤハウェ)の目にかなうことを行った」(18:3)と描かれます。
そして、何とソロモン王以来エルサレムの東の山に据えられていた「高き所を取り除き」(18:4)と記されます。これはユダ王国の王としては画期的なことです。そればかりか、モーセの作った青銅の蛇までも打ち砕きました。それは、主がモーセに命じて作らせたものが、彼らが犠牲をささげる偶像となっていたからです(18:3,4)。
そして、「彼はイスラエルの神、主(ヤハウェ)に信頼していた。彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった」(18:5)と描かれます。ソロモン以来の歴代の王は、高き所での礼拝を残したばかりか、生涯の最後に主に背くということがありましたが、ヒゼキヤはエルサレム神殿でのあるべき姿での礼拝を全うした初めての王であると言えるかもしれません。
歴代誌によると、彼は約束の地にまだ残されていた北の十部族それぞれに使いを送り、彼らをエルサレム神殿での過越の祭りに招きました(Ⅱ歴代誌30:1-20)。これは、まさにソロモンが神殿を建てた原点に立ち返らせる画期的なことでした。
その結果として、「主(ヤハウェ)は彼とともにおられた。彼はどこへ出て行っても、成功を収めた」(18:7)という祝福の時代が訪れました。そして、「ヒゼキヤ王の第四年」(18:9)に、アッシリアの王がサマリアに攻め上って、三年後に首都を陥落させたということが再度描かれます。これは前王アハズとの共同統治に期間であると推測できます。
そして、彼単独の支配が始まるのはサマリア陥落から7年後の紀元前715年ごろかと思われます。その時期に、Ⅱ歴29-31章に描かれたエルサレム神殿の全面的な修理と、まだ残されていた北王国の民を過越の祭りに招待する(同30:10,11)ということが行われたのだと思われます。
そして18章13節に描かれる「ヒゼキヤ王の第十四年」とは、単独支配に移ってからの年数で、サマリア陥落から21年後の紀元前701年のことかと思われます。そのときアッシリアの王センナケリブが「ユダのすべての城壁のある町々を攻め上り、これを取った」(18:13)という絶体絶命の危機が訪れます。
彼はエルサレムの西南西50kmぐらいに位置する町ラキシュ近郊の本陣から、ヒゼキヤに服従を迫ってきました。残念なことにヒゼキヤはこのとき「私は過ちを犯しました」と言ってアッシリア王に屈服し、大量の金銀を貢いでしまいました(18:14)。
このときの金の量だけでもおよそ一トンで、現在の価格にすると約50億円に相当し、それは自分がせっかく主の宮の再建のために張り付けた金を剥ぎ取っての対応でした(18:16)。それは、とっさに、軍事力の違いをこの世の常識的な判断で測り、それに身を任せたからでしょう。
ただし、アッシリアの王は、すぐに金が出てきたことでエルサレムに引き寄せられるかのように、かえって攻撃をしかけてきます。このときヒゼキヤは恐れの感情に圧倒されて、冷静な判断ができなくなったのでしょう。
しかし、ヒゼキヤはすぐに主に立ち返りました。すると、アッシリア王の使いのラブ・シャケはエルサレムの住民すべてに聞こえるようにヘブル語で、「ヒゼキヤにごまかされるな……『主(ヤハウェ)は必ずわれわれを救い出してくださる。この都は決してアッシリアの王の手に渡されることはない』と言って、おまえたちに主(ヤハウェ)を信頼させようとするが、そうはさせない」と語ります(18:29,30)。
そして、アッシリアの王が用意する今までと同じような豊かな土地に移住し、「生き延びて死ぬことがないように」と迫りました(18:32)。そればかりか、「国々の神々は、それぞれ自分の国をアッシリアの王の手から救い出しただろうか……主(ヤハウェ)がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか」(18:32、35)と言って、主(ヤハウェ)を侮りました。
これに対する反応が、「ヒゼキヤ王はこれを聞くと衣を裂き、荒布を身にまとって、主(ヤハウェ)の宮に入った」(19:1)と描かれます。これこそアッシリア軍がユダの国に攻め入った時に最初に取るべき態度でした。そして、彼は家来たちを預言者イザヤに遣わし、主(ヤハウェ)への執り成しの祈りを頼みます。
その際の3節後半の文は、厳密には「息子たちが子宮頸開口部にまで来ているのに、産み出す力がないから」と訳すことができます。つまり、目の前には誕生の喜びと同時に、死産の可能性があるという葛藤です。
ただ続くことばは、「おそらく、あなたの神、主(ヤハウェ)は…聞かれたことでしょう」と、躊躇しつつ主(ヤハウェ)を「イザヤの神」と呼ぶ表現で、彼に「あなたは、まだいる残りの者たちのために祈りの声を上げてください」と願ったものです。ヒゼキヤは一度、アッシリア王に服従を見せたので、主の前で過度に臆病になってしまっていたのでしょう。
それに対して、主は、「アッシリアの王の若い者たちがわたしをののしった、あのことばを恐れるな。今、わたしは彼(アッシリア王)のうちに霊を置く。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き上げる。わたしはその国で彼を剣で倒す」(19:6,7)という不思議な計画を告げられます。主は、戦う前にアッシリアの王の心を動かすばかりか、彼がもっとも安全と思う場所で、彼の命を奪うというのです。
私たちが困難に陥ったとき、すぐに、「今、右に進むべきか、左に進むべきか」と地上的な知恵を求めます。しかし、もっとも大切なことは、主のみこころに従って主を礼拝するという原点に立ち返ることではないでしょうか。
ヒゼキヤは、アッシリアの危機が迫る中で、主へのあるべき礼拝の姿に戻る事を必死に求めました。ただ、それでもアッシリア王の恐怖が迫るとパニックに陥り、一時的に屈服しました。
そのような心揺れに対し、イザヤは、「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る」(イザヤ30:15)と語っています。残念ながら、多くの信仰者が、「私はみこころがわからない……」と嘆きながら、時間と財を主に聖別するという、今明らかなみこころに従おうとはしていません。
しかも、主の救いは、しばしば、人の思いもつかない奇想天外な方法でもたらされます。あなたも自分の歩みを振り返るとき、「右でも左でも、あれでも、これでもなかった」という不思議な解決を見たことでしょう。
3.「やめよ。知れ。わたしこそ神……」
その直後に、アッシリアの王は、「クシュ(エチオピア)の王ティルハカ」が「今、戦うために出てきている」と聞いたと記されます(19:9)。これは「うわさ」ではなく、目の前の現実でしたが、先の「うわさ」とは単に「知らせ(単数形)」と訳すことができることばで、アッシリアの王に「恐れの霊」を置いたという先に語られた主のみわざの一部と解釈できます。
このときアッシリアの王は、エチオピア、エジプト連合軍に立ち向かうため、急いでヒゼキヤを屈服させる必要を感じていました。それで、今度は敢えて使者たちに「手紙」(19:14)を持たせて、「おまえが信頼するおまえの神にだまされてはいけない……」(19:10)と迫ってきました。
ヒゼキヤはその手紙を主(ヤハウェ)の宮に持って行き、「主(ヤハウェ)の前に広げ」(19:14)、「主(ヤハウェ)よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です……主(ヤハウェ)よ。御耳を傾けて聞いてください。主(ヤハウェ)よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセンナケリブのことばを聞いてください」(19:15-17)と不躾なほどに大胆な祈りをささげます。
先に預言者イザヤに執り成しの祈りを頼んだのと何と対照的なことでしょう。その上で、「アッシリアの王たちが、国々とその国土を廃墟としたのは」、それらの国々の神は人間が作った偶像に過ぎなかったからと述べます。
そして、今度は「イザヤの神」ではなく、「私たちの神、主(ヤハウェ)よ」と呼びかけながら、「どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主(ヤハウェ)よ、あなただけが神であることを知るでしょう」(19:15-19)と訴えました。これは私たちが危機に陥ったときに、固有名詞を変えながら、用いることができる祈りの模範です。
それに対し、主は預言者イザヤを通して、アッシリア王へのことばを告げます。それは19章21-28節に記された長い詩文です。その核心は、彼が、イスラエルの聖なる方を「そしり、ののしった」ことばが、そのまま彼の上に降りかかるということです。
しかも、彼が誇っている勝利などは、主がイスラエルに現したみわざに比べたら、小さなことに過ぎないということです。
その上で主は、「おまえが座るのも、出てゆくのも、おまえが入るのも、わたしはよく知っている……おまえがわたしに向かっていきり立ち、おまえの安逸がわたしの耳に届いたので……おまえを、もと来た道に引き戻す」(19:27,28)と告げます。
29-31節はヒゼキヤ自身に語られた慰めです。その第一は、アッシリア軍に蹂躙された国土の回復で、三年目には完全に回復するという約束です。
そこでさらに、「逃れの者、残された者は、下に根を張り、上に実を結ぶ……万軍の主(ヤハウェ)の熱心がこれを成し遂げる」と感動的に語られます。この表現はバビロン捕囚後のエルサレムの回復にもつながる表現です。
そして32-34節はこの預言の第三部でアッシリアの王が「もと来た道を引き返し」と語られ、救いの理由が、主と主の「しもべダビデのため」と記されます。
その後、「その夜、主の使いが出て行き、アッシリアの陣営で十八万五千人を打ち殺した……アッシリアの王センナケリブは陣をたたんで去り」(19:35,36)と神の不思議な救いが描かれます。ヒゼキヤは屈服することも、無謀な戦いに出る必要もなく、想定外な主の救いを体験できたのです。それは主がヒゼキヤの祈りを「聞いた」(19:20)と言われたことが「その夜」(19:35)実現したということです。
ただし、それに続く「帰ってニネベに住んだ。彼が自分の神ニスロスクの神殿で拝んでいたとき、その息子たち……は、剣で彼を打ち殺した」という記述には時間のずれがあります。多くの記録からすると、センナケリブはその後20年間ニネベからアッシリア帝国を治め、紀元前681年に暗殺されたということは確かだからです。
ただ、主のことばの実現には、私たちの予想を超えた期間があります。大切なのは、成就したという歴史的事実です。
これらの経緯はイザヤ36,37章にもほぼ同じに、Ⅱ歴代誌32章でも簡潔に記されます。同じことが三度も記録されるのは極めて異例です。これは主が紅海を分けてイスラエルの民を救い出したことに匹敵します。それは詩篇46篇で歌われている救いでもあります。
この詩はその約150年前の歴代誌第二20章のヨシャファテ王の戦いの際に生まれたと思われますが、ヒゼキヤはこれを聖歌隊に、「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、すぐそこにある助け……」と歌わせたのかもしれません。
すると文字通り「神は夜明け前に、これを助けられる……主は地上に驚異を置かれた。主は地の果てまで戦いをやめさせ、弓を折り、槍を砕き、戦車を焼かれた」という救いが実現します。
その10節は、「やめよ。知れ。わたしこそ神」(または「静まれ。そして知れ、『わたしこそ神、国々の上におり、地のはるか上にある』」(私訳)と、右往左往するのをやめ、主の前に静まり、主のご支配が全地覆っていることを知るようにと訴えます。
マルティン・ルターは宗教改革に着手して十年後、精神的にも肉体的にも瀕死の状態に陥りました。その中で彼の何よりの慰めとなったのが詩篇46篇で、彼はそれをもとに「神はわが砦」という賛美歌を作りました。
その一番の歌詞の後半は、「古き悪魔、知恵を尽くし 攻め来たれば 地の誰もが かなうこと得じ」と訳すことができます。まるで悪魔の勝利を歌うような歌詞に多くの人は驚きますが、それこそがルターが味わった現実でした。
そして二番目の歌詞の最初は、「私たちの力によっては何もできない。このままでは敗北するしかない」と、さらに歌われます。J.S.Bachはそれをもとにカンタータ[YouTube動画]を記しましたが、この歌詞をソプラノで歌わせながら、それに重ねるように力強いバスの声で、「神によって生まれたすべての者は、勝利に向かう者として選ばれている」と繰り返し歌わせます。
さらにルターの讃美歌では悪魔の攻撃の恐ろしさが描かれ、四番目の歌詞では、「主のことば」が人々の心に届かない現実が、またさらに「わが命も、わが妻、子も とらばとりね」などという厳しい現実が歌われます。しかし、それこそルターが追い込まれていた心の現実であり、そのぎりぎりのところで神の勝利が歌われている歌詞が、悩む人々の心に届いたと言えましょう。
バッハのカンタータではこの四番の前に、アリアで、「我々の心は信仰によって神を抱いており、負けはしない。負けないことで、敵を打ち破る」と歌わせます。まさに、敵の攻撃に負けそうで負けないという現実こそが、私たちに与えられた平和を広げる、人間の力に頼らない勝利と言えましょう。
私たちは目の前の厳しい現実の前に、屈服するか、戦うかという二者択一を迫られます。しかし、そのどちらも、悪魔が用意した土俵に入ることではないでしょうか。
それに対し、ヒゼキヤ王が導かれたのは、目の前の現実を主の御前に祈りによって差し出すということでした。そして、主ご自身が奇想天外な解決を与えてくださいました。
目の前の敵の前から逃げず、悪魔に屈しないところに勝利が生まれたのです。
《解説》
- 6分30秒ぐらいからの2曲目で「Alles, was von Gott geboren, ist zum Siegen Auserkoren」とバスで歌われ
- ソプラノで「Mit user Macht ist nichts getan wir sind gar bald verloren」と歌われます
- また7曲目の22分くらいから「Es bleibt unbesiegt und kann die Feind Schlagen」
- 最後の8番の曲がふだん歌われる讃美歌をそのまま歌ったもので、「わが命も財産も名誉も子供も妻も奪うに任せよ 彼らは何の勝利も得られない 神の国はなおわれらに留まるのだから……」と歌われます