「『死』とは何か」という380ページを超える本が売れています。それも原書を半分近くに縮刷したもので、その前半では「魂」の存在が形而上学的に否定されているようです。しかし聖書は、「魂が肉体の束縛から解放されて天国で憩う……」との希望を語っているのでしょうか?それどころかヘブル書では、肉体を持つ人間が、霊的な存在である御使いたちに優っている面があるということが強調されます。
激しい悩みを抱いている人は、自分の意識を無くするために、死ぬことを自分から願ったりさえします。しかし、「死」は、すべてを失うことのシンボルです。私たちは死において、家族や友人と引き離され、それまで築いたもののすべてを失います。実は、不安に駆りたてられている人は、心の底で死を恐れているとも言えるのではないでしょうか。
聖書では、死は「最後の敵」(Ⅰコリント15:26)と呼ばれますが、キリストの十字架とは、何よりも死に対する勝利でした。しかも、肉体の死に恐怖を感じない人でも、死を腐敗のプロセスと見ると嫌悪と恐れを抱きます。「腐ってゆく」というのは何とも嫌なことです。肉体の腐敗や衰えを防ごうとスポーツクラブに通う人が増えていますが、私たちは「心が腐敗してしまう……」ことにも注意を向けなければなりません。
それに対して、キリストのうちにある人生は希望に満ちています。私たちの「内なる人は日々新たにされ」、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行く」と約束されているからです(Ⅱコリント4:16,3:18)。神は、私たちを、腐敗ではなく、栄光へと導いてくださいます。
1.神が多くの子たちを栄光に導くために
「神は、私たちが語っている来たるべき世を、御使いたちに従わせたのではないからです」(5節)とは驚くべき表現です。「来たるべき世」とは、「新しい天と新しい地」のことです。
これは俗に言われる「天国」とは違います。天国は今すでに存在している領域で、そこでは「御使いたち」が神に完全に従っています。主の祈りで、「天におけるように地の上でも、御名が聖とされ、ご支配が現わされ、みこころが行われるように」(私訳)と祈られているのは、この地に天の平和が実現するようにという願いです。実は、今の「世」は、その御使いたちに従わせられているのです。
それに対し「新しい天と新しい地」は、この肉体が朽ちた後、キリストの再臨とともに朽ちない身体で復活し、キリストとともに王となって治める世界です。そこでは、最初の人間がエデンの園を治めていたと同じように、私たちが創造的に世界を治めます。そこには働く喜びや創造的な芸術の喜びがあります。
私たちは「御使いをもさばくべき者」(Ⅰコリント6:3)とあるように、御使いの上にまで引き上げられるのです。そしてヘブル書の著者は詩篇8篇を引用しつつ、人間がこの世界を治める崇高な存在として創造されていることを思い起こさせます。
人はすべての生き物の中で、最もひ弱なものかも知れません。しかし、全宇宙の創造主である神は一人ひとりを「心に留められ」、「これを顧みて」(6節)ておられ、すべての人に「栄光と誉れの冠」(7節)を授けたいと願って創造してくださったのです。
それは、私たちは一人ひとりが、「神のかたちimage of God」に創造されているという意味でもあります。それは目に見えない神の、目に見える代理としてこの世界を治めるという責任が任されたという意味です。すべての人はその責任を果たしているかどうかが神から問われています。しかし人は、自分を神の競争者としてしまい、世界を混乱に陥れました。
それでイエスは、「万物の相続者」「世界を造られ」「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」であられ、「万物を保っておられる」方でありながら(1:2,3)、この世界を救うために、今の世では「御使いよりも……低いもの」とせられ(2:7)、私たちとまったく同じひ弱な人間の姿となられたのです。
そればかりか、イエスは「蔑まれ、人々からのけ者にされ」(イザヤ53:3)ながら十字架で死なれ、罪人の代表者となって、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫ばれました。
しかし神は、「死の苦しみ」を受けられたイエスを三日目に死人の中からよみがえらせ、彼に「栄光と誉れの冠」(9節)を与えてくださいました。しかも、「その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです」と、主の死の意味が同時に描かれています。
そのことが後に、「ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました」と説明されています(9:12)。
なお、続けて、神が、「万物の存在の目的であり、また原因でもある方」として描かれます。それは世界がどなたから生まれ、どなたに向かっているかを示すことであり、私たちが神に向けて創造されていることを明らかにする真理です。
その文脈の中で、「この方にとってふさわしいことであった」と宣言されながら、神は「多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたことは」と記されます(10節)。「子たち」とは原文では、「息子たち」と記されています。これは、神が私たちを、ご自身のひとり息子であるイエスと同じように見ておられることを意味します。
しかも、神の救いには、「多くの子たちを栄光に導く」という目的があり、そのために、「救いの創始者」であるイエスを、私たちの罪の贖いの代価として苦しむ者とされたという不思議なことが記されています。
三世紀から四世紀にかけ、キリストが神であることを否定する誤った教えが広がりました。それに対して、正統的な信仰を守るために戦ったのがアタナシウスです。彼の名は、高校の教科書にも出てくるほどです。彼は、「ことばの受肉」という日本語訳で80ページぐらいの文書を記しています。
その中で彼は、「ことばが人となられたのは、われわれを神とするためである」という有名な命題を記します。それは聖書が、私たちに与えられた救いを、「欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となる」(Ⅱペテロ1:4)と描いていることを基にしています。これは、私たちに与えられた約束です。
「ことば」と呼ばれるキリストが人となり、十字架にかかってくださったのは、この私たちがイエスと同じような神のご性質を持つ者に変えられるためだというのです。ここに真実の「救い」の意味があります。
それに続いて、「聖とする方」(イエス)も、「聖とされる者たち」(私たち)も、「すべて一人の方から出ています」(御父に由来する)と、不思議な表現が記されています(11節)。これは、私たちが、このままでイエスの妹、弟とされているという神秘を表すためのものです。
事実、イエスは、私たち一人ひとりをご自分の「兄弟と呼ぶことを恥とせずに」、「わたしは、あなたの御名を兄弟たちに語り告げる」(12節)と言われるというのです。これは詩篇22篇22節の引用ですが、その詩篇の冒頭のことばこそ、上記にあるようにイエスが十字架で叫ばれた「わが神、わが神……」です。
私たちも同じような絶望感を味わうことがあるかもしれませんが、イエスご自身が私たちの兄としてこの気持ちを先立って味わい、死んでよみがえり、ご自身を死の中から救い出してくださった父なる神の御名を「兄弟たちに語り告げる」というのです。
そしてイエスは、ご自身の妹や弟である私たちのワーシップリーダーとして、「会衆の中であなたを賛美しよう」(12節)と言っておられます。私たちの礼拝とは、このイエスを死者の中からよみがえらせてくださった神が、私たちをも同じように苦しみの中から救い出し、「栄光に導いて」くださることを覚える機会です。
イエスが復活し栄光に入れられた御跡に、私たちは弟、妹として従っているのです。
2.私たちと同じ「血と肉」を持つ身体となり、死の力を滅ぼしてくださった方
「わたしはこの方に信頼を置く」(13節)とはイザヤ8章17節からの引用で、それは、「私は主(ヤハウェ)を待ち望む。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を……」に続くことばです。
つまり、まわりが暗闇に見え、神の御顔が隠されているように思える中で、なお、神に信頼し、望みをかけるという意味です。これは、イエスが十字架の苦しみのただ中でこのみことばを告白しておられたことを示唆しています。
そして続く、「見よ。わたしと、神がわたしにくださった子たちは」の「子」とは、原文では「幼子」で、イエスが私たちをご自身が世話すべき無力な妹、弟と見ておられるという意味です。これは、先に続くイザヤ8章18節のからの引用で、「イエスご自身と、イエスの幼子」たちは、「シオンの山に住む万軍の主(ヤハウェ)からのイスラエルでのしるしとなり、不思議となっている」と預言されていたことと解釈できます。
それはイエスと私たちが一つになり、世界に対しての「しるし」また「不思議」とされるという意味です。だからこそ、イエスは「私たちを兄弟と呼ぶことを恥としない」(11節)と描かれていたのです。
ちなみにイエスは、復活の日に、マグダラのマリヤにご自身を現わされ、逃げまどって隠れていたご自分の弟子たちへのメッセージを彼女に託した際に、「わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい」と言われました(ヨハネ20:17)。
逃亡した弟子を「わたしの兄弟」と呼ばれたのです。そこでイエスは、弟子たちも、同じ父であり同じ神である方のもとに「上る」ことを示唆しています。
なお、真の指導者は、自分に従ってくる者たちの苦しみを体験している必要があります。火の中に飛び込む救助隊の指導者が、火の中をくぐり抜けた体験を持っていないなら、どうして隊員は彼の指示に従おうという勇気が湧いてくるでしょう。
それと同じように、キリストは私たちと同じ苦しみを体験されたことが、「子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、これらのものをお持ちになりました」(14節)と記されています。それは、世界の創造主であられる方が、ご自分を低くして、私たちと同じ「血と肉」のからだを持つ者となられたという意味です。これは、王様が奴隷になることよりも、はるかに驚くべきことです。
「血と肉」を持つとは、飢え渇き、病になり、やがて死んで行く、不自由な身体を意味します。神にとって唯一できないことは、死ぬことかもしれませんが、イエスはその不可能を乗り越えられました。それは、本来、永遠に死を味わうことのない方が、死の苦しみに服するためです。
ところで、人間が死に支配されるようになった経緯を、聖書は、人類の母のエバが、「その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、その木は賢くしてくれそうで好ましかった」(創世記3:6)という欲望に負けて、滅びる者となったことにあると説明します。
その後、「欲によって滅びる」という原理がすべての人を支配しています。事実、神が創造された美しい世界は、人間の欲望によって、救いがたいほどに腐敗してしまいました。その原因は、神のかたちに創造された人間が、神から離れて生きるようになったためですが、人間の腐敗は、「教え」や「悔い改め」では癒しがたいほどに進んでしまいました。
それに心を痛められた神は、ご自身の御子をこの世界に遣わしてくださいました。御子は私たちの創造主であられますが、ご自身でこの腐敗して行く肉体を持つ人間となることによって、腐敗する身体を不滅の身体へと変えようとしてくださったと考えることができます。
すべてのいのちの源である方が、死と腐敗の力を滅ぼすために、敢えて、朽ちて行く身体を持つ人間となられたばかりか、最も惨めな十字架の死を自ら選ばれたのです。
しかし、同時にここでは、イエスが「血と肉をお持ちになられた」理由が、「それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした」(14,15節)という驚くべき説明がなされます。
その意味は、キリストの弟子たちに起こった変化によって知ることができます。ローマ帝国は、紀元三百年頃まで、クリスチャンを絶滅しようと必死でした。彼らは皇帝を神として拝む代わりにイエス・キリストを神としてあがめていたからです。ところが殉教者の血が流されるたびに、クリスチャンの数が爆発的に増えてしまったのです。
紀元198年頃にテルトゥリアヌスは、圧政者に向けて、「いかにあなたがたの残酷さがより手の込んだものとなったとしても、それはすべてなんの役にも立たない。それはむしろ、我々の宗教の魅力となっているのだ。あなた方が我々を刈り取れば、その都度、我々の信者は倍加するのである。キリスト教徒の血は、種子なのである…あなた方によって死に定められるや否や、我々は神によって釈放されるのである」と記しました。
それは、クリスチャンたちの、死の脅しに屈しない姿が、人々に感動を与えたからでした。そこには、真のいのちの輝きが見られました。そして紀元304年の大迫害の8年後に、ローマ帝国はその政策を大逆転して、イエスの前にひざまずきました。
現在の日本に、幸い、そのような大迫害はありません。ただ、たとえば、重度の癌の苦しみに会う人は数多くいます。しかし、イエス・キリストを信じる人の中には、その死の苦しみの中で不思議なほどの平安に満たされ、いのちを輝かすことができる人々がいます。それは、キリストのいのちが、死の力に打ち勝っているしるしと言えましょう。
「私は死など恐れない!」と豪語してはいても、自分の評判が傷つくことや孤独、財産が失われることを恐れているなら、それこそ、「死の恐怖につながれて奴隷となって」いる状態にあるとも言えます。もし、本当に、死に打ち勝った結果として、死の恐れから解放されているとしたら、その人は、もっと余裕を持って他の人のことも配慮しながら生きていられるはずだからです。
もしその人が、この死の恐怖を単に心の底に押し殺しているだけなら、無意識のうちに恐れに支配されてしまい、まるでネズミのように、刺激や衝動に反応するだけの生き方をしてしまいます。
3.あわれみ深い、真実な大祭司となられた方
16節の文章は、「それは明らかに、イエスが御使いたちに注目するのではなく、アブラハムの子孫に注目してくださったからです」と訳すことができます。御使いは助け出されることを必要としていませんが、ここでは主が、明らかに神に近い御使いたちよりも、神から離れた人間に注目し、人間と一体の者となろうとされたという意味と理解できます。
そのことが、「そのためにイエスはすべての点で兄弟たちと同じにされなければなりませんでした。それは神の御前への、あわれみ深い、忠実な大祭司となるためであり、民の罪を贖うためでした」(17節私訳)と記されます。人間の場合の兄は、妹や弟と同じ親のもとで同じ所に住み、同じ物を食べて育ち、しばしば通う学校まで同じです。妹や弟は、それを見ながら育つことができます。主はそのような先駆けとなるために私たちと同じ姿になられました。
しかも、そこには、イエスが父なる神と罪人との「仲介者」としての「大祭司」となられたことも描かれます。「あわれみ深い」とは、私たちの痛みや悲しみを、ご自分のことのように一緒に感じてくださる感覚を意味します。また、「忠実」とは、「真実」とも訳され、頼ってくる者を決して裏切らない真実さを意味します。
アタナシウスは、キリストがローマ帝国にもたらした変化を、「十字架のしるしによってあらゆる魔術は終わりを迎え、あらゆる魔法も無力にされ、あらゆる偶像礼拝も荒廃させられ、放棄され、非理性的な快楽は終わりを迎え、すべての人は地上から天を見上げている」と証しています。キリストのすばらしさが明らかになるにつれ、人は、自然に、偶像礼拝や魔術に見向きもしなくなって行ったのです。
偶像礼拝では、「戦いの神」や「快楽の神」が人々を戦いや無軌道な性の快楽に向かわせましたが、当時の人々は、「キリストの教えに帰依するや否や、不思議なことに、心を刺し貫かれたかのように残虐行為を捨て・・・平和と友愛への思い」を持つようになり、また、「貞節とたましいの徳とによって悪魔に打ち勝つ」というように、生き方の変化が見られたというのです。それは、イエスの「あわれみ」と「真実」に触れたことで、価値観が根本から変えられたからです。
イエスは世界の価値観を変えました。イエス以外の誰が、社会的弱者や障害者に人間としての尊厳を回復させ、また、結婚の尊さや純潔の尊さを説いたことでしょう。イエスの御名があがめられるところでは、自然に、偶像礼拝や不道徳は力をなくして行きます。不条理や不正と戦うこと以前に、キリストが世界に知られるようになることこそが大切なのです。
しかもイエスが「大祭司」となられたのは、「民の罪を贖うためでした」と記されますが、大祭司は民の罪のために動物の血をささげますが、イエスは何とご自分の血を、民の罪の贖いの代価とされたのです。
アタナシウスは、「主の死は、すべての者のための身代金であり、この死によって『隔ての壁』が取り壊され、異邦人の招きが実現し、イエスは一方の手で旧約の民を、もう一方の手で異邦人からなる民を引き寄せ・・われわれのために天への道を開いてくださった」と語っています。
イエスは十字架に上り、空中で死ぬことによって、天への上昇路を開いてくださいました。それは、「私たちはみな……栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます」(Ⅱコリント3:18)ということの第一歩でした。
最後に、「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです」(18節)と記されています。そうであるならば、あわれみに満ちたイエスにとって最も悲しいことは何でしょうか?それは私たちが、心の底で味わっている悲しみや不安やさみしさを認めず、主の御前で隠すことではないでしょうか。
たとえば、私は、長い間、自分の内側にいる寂しがり屋の声を圧迫してきたとふと気づかされました。イエスは、私のうちに住む、寂しがりやの私と交わりを築きたいと願っておられるのに、イエスの語りかけを心で味わう前に、自分で動き出してしまいます。そして、無意識のうちに、自分のうちにある名誉欲などという欲望に駆り立てられ、滅びに向かおうとするのです。
今、改めて思います。この私が「母の胎」のうちにいる時から、神は私を「わたしの息子よ」と目を留めておられ、時が来ると、私にイエスを「救いの創始者」として示してくださいました。イエスは私を「私の弟よ」と呼び、私を礼拝者の交わりに加えてくださいました。
イエスは私に代わって「死の力を持つ悪魔」と戦い、勝利を得られ、「大丈夫だから、わたしについてきなさい」と招いておられます。たとい、様々な過ちを犯していても、イエスは大祭司として、私たちの側に立って、父なる神にとりなしてくださいます。
ですから、恐れることなく、すべての思い悩みを、いつくしみ深いイエスにお話ししましょう。