Ⅱ列王記14章〜16章「神の子としての謙遜と誇りに生きる」

2018年10月28日

多くの人は、成功すると傲慢になり、失敗すると卑屈になります。傲慢から人を人とも思わない傍若無人が、卑屈から被害者意識にとらわれた自己憐憫が生まれます。どちらも愛の交わりを壊すものです。傲慢な人の前では息がつまります。そればかりか、危なくて仕事を任せることはできません。しかし、一方で、誇りを忘れた卑屈な人間はどこかで人を裏切るような気がします。英語のPrideは、「傲慢」とも「誇り」とも訳せ、Humbleも「謙遜」とも「卑屈」とも訳せます。このように善悪両方の意味があるのはヘブル語でもギリシャ語でも同じです。傲慢も誇りも、基本の意味は「高さ」を、反対に、謙遜も卑屈も基本は「低さ」を表し、心の状態としては区別がつきにくいものですが、これらに決定的な差をもたらすものこそ、私たちの創造主との関係です。創造主の御前で「謙遜」な人こそ、人の前で「卑屈」にならずに、誇りある生き方ができるからです。キリスト者は、本来、順境の日にも謙遜に神のみわざを喜び、どのような逆境の中でも「神の子」としての「誇り」を忘れずに、日々の勤めを誠実に果たすことができるはずではないでしょうか。

1.「アマツヤは塩の谷で一万人のエドム人を打ち殺し……人々が彼に対して謀反を企てた」

ダビデ王国9代目の王ヨアシュは、アハブの娘アタルヤの手から奇跡的に助け出され、ユダ王国再出発の王とされましたが、祭司エホヤダの死後、神に背いてしまいます。そしてアラムの王ハザエルに屈服したあげく、家来たちに殺されました。その後、彼の子アマツヤがエルサレムで王となり、29年間、国を治めます。そして、力をつけた後、自分の父である王を殺した者たちに復讐し、彼らを殺しました。ただ、その子達は殺しませんでした。それはモーセの律法(トーラー)の書に記されていること(申命記24:16)に従ってのことでした(14:5,6)。それは彼が主の御教えにしたがって国を治めていたしるしとも言えましょう。

そしてアマツヤは、死海の南端の「塩の谷」で、エサウの子孫の「一万人のエドム人を打って」、その南東約20kmの町セラを制圧します。ところが彼は、その後、エドムの神々を持ち帰り、「その前で伏し拝み、犠牲を供えていた」というのです(Ⅱ歴代誌25:14)。負けた国の神々を拝むとは何とも不思議です。それは復讐を恐れてなのか、その偶像がよほど刺激的だったかのどちらかでしょう。主は彼に落とし穴を用意されました。それはアマツヤを傲慢のままに置いて、北王国イスラエルとの戦いに向かわせることでした。

このときのイスラエル王ヨアシュは、アハブ家を滅ぼしたエフーの孫で、預言者エリシャの最後の指導を受け、北の国アラムに三度の勝利を治めていました。彼はアマツヤを「レバノンのあざみ」に、自分を「レバノンの杉」にたとえながら、「あざみ」が「」を慕っても、「野の獣」によって「踏みにじられる」だけだと、自分の分をわきまえるようにたしなめます(14:9)。そして彼に、「あなたはエドムを打ち破って、心が高ぶっている誇ってもよいが、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、あえてわざわいを引き起こし、あなたもユダもともに倒れようとするのか」(14:10)と言いました。これはまさに神が語らせたことばでしょう。私たちも、成功を誇っても良いのですが、神から与えた限界(バウンダリー)を超えるなら自滅せざるを得ません。

しかし、アマツヤが聞き入れなかったので、イスラエルの王ヨアシュは攻め上」(14:11)ります。ユダの軍はエルサレムの西約20kmのベテ・シェメッシュで打ち負かされ、そこでアマツヤは捕虜とされます。ヨアシュは、エルサレムの城壁の北の部分180m近くを破壊し、「(ヤハウェ)の宮と王宮の宝物倉にあったすべての金と銀、すべての器、および人質を取って、サマリアに帰」りました(14:13,14)。これは後のバビロン捕囚の前触れと言えましょう。アマツヤが主の前に謙遜だったとき、エドムに勝ち、高ぶったとき捕虜とされました。まさに「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」(箴言18:12)とあるとおりです。

なお、アマツヤは、イスラエルの王ヨアシュの死後、十五年間も生きながらえますが(14:17)、それは北王国の傀儡政権としてであったのだと思われます。そして最後に、彼は家来の謀反によって殺されます(14:19)。何と、ダビデの血筋の王が、親子二代にわたって家来の謀反で殺されたというのです。

なお、ここでユダの民はアマツヤの子アザルヤを十六歳で王に立てたとありますが(14:21)、それはアマツヤが捕らえられてすぐのことだったと思われます。つまり、ユダ王国には十五年間ふたりの王がいて、最終的に北王国イスラエルの支配から独立することを願った人々がアマツヤを殺したとも考えられます。

ユダの王のヨアシュアマツヤ家来によって王として立てられ最後に家来によって殺されました。ふたりに共通することは、順境の中で神を忘れ、他の偶像の神々に心を寄せ、預言者たちの声を退けたあげく、隣国との戦いに負けて、家来たちの信任を失ったということです。血筋の高貴さは、協力関係を築く上では役に立ちますが、自分の能力を過信するきっかけにもなります。古来、人々が王を求めるのは、国としてのまとまりを保つためです(申命記17:14-20)。それは人と人との利害の対立を調整する機能でもありますから、人々の声を聞くことができない指導者はそれだけで失格です。彼らは、国を治めるという使命のために、神と人とによって立てられた器なのです。「立てられた」者としての「誇り」を持つことは、広い視野から政治を行うために大切ですが、使命を忘れた特権意識に溺れるなら存在意義がなくなります。

2.「イスラエルの苦しみが非常に激しいのを、主(ヤハウェ)がご覧になったから」

ユダの王アマツヤの大敗北の後、北王国イスラエルでは、ヨアシュの子ヤロブアムがサマリアで王となります(14:23、紀元前793-753年)。彼は初代の王と区別するためヤロブアム二世と呼ばれますが、彼の治世下でイスラエルはアラムを圧倒し、ダマスコのはるか北のレボ・ハマテから、南はアラバの海と呼ばれる死海までも占領しました(14:25)。これは北の占領地の範囲に関する限り、ダビデ、ソロモン時代に匹敵します。しかも、41年の治世はダビデ、ソロモンを上回り、北王国では最長です。ところが彼の資質に関しては、「彼は主(ヤハウェ)の目の前に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべての罪から離れなかった」(14:24)としか記されず、この繁栄の理由は、「(ヤハウェ)が……アミタイの子ヨナをとおして語られたことばのとおりであった」と描かれます。ヨナ書によると、彼はアッシリアの首都ニネベ(現在のイラク北部クルド人自治区)で主のさばきを宣べ伝え、彼らを悔い改めに導きました。このときのアッシリアは、北のウラルトゥ王国との戦いに苦しみ、南の国々への影響力を失っていたときでもありました。

そして、ヨナは、ヤロブアム二世の繁栄の理由を、「イスラエルの苦しみが非常に激しいのを、(ヤハウェ)がご覧になったからである。そこには、奴隷も自由な者もいなくなり、イスラエルを助ける者もいなかった……それでヨアシュの子ヤロブアムによって彼らを救われたのである」(14:26,27)と述べたのです。つまり、この繁栄は、アッシリアの一時的弱体化のおかげで、その背後に、主(ヤハウェ)のあわれみの御手があり、その主がヤロブアムを用いてくださっただけなのです。ところが彼は、それを悟ろうとしませんでした。

この時代に預言者アモスが現れ、イスラエルが見せかけの平和に溺れていることに対し、「あなたがたは、わざわいの日を遠ざけているつもりで、暴虐の時代を近づけている……しかし、イスラエルの家よ、今わたしは、あなたがたに敵対する一つの国を起こす」(アモス6:3,14)と警告します。皮肉なことに、アッシリアはヨナのことばを聞いて悔い改め、急速に力を回復してきます。一方、イスラエルは自分たちの繁栄が国際政治上の一時的空白から生まれたことを忘れて、傲慢になり、預言者アモスの警告を無視しました。そして、ヤロブアム二世の死後、たった二十年で北王国イスラエルはアッシリアによって滅ぼされます。

これは第一次世界大戦後の日本と似てはいないでしょうか。欧米諸国が互いに争い、東アジアに手が回らなくなっていたとき、日本は自分こそがアジアの盟主であると勝手に思い込んでいました。力の均衡という国際政治の現実を無視した傲慢さが、日本を軍事的な冒険へと駆り立て、悲劇に至りました。

3.「主(ヤハウェ)が王(ウジヤ)を打たれたので、彼は死ぬ日までツァラアトに冒された者となり」

イスラエルの王ヤロブアムの第二十七年に、ユダの王アマツヤの子アザルヤが王となった」(15:1)とありますが、彼の別名のウジヤの方が聖書では一般的です。彼は父アマツヤが北王国に負けた直後から実質的にユダの王であり、「彼は十六歳で王となり、エルサレムで52年間王であった」(15:2)という支配の開始時期は上記のヤロブアムの第27年よりもずっと早い時期だと思われます。先に、「彼は……エイラトを築き直し、それをユダに復帰させた」(14:22)と述べられていましたが、これは南の端、アカバ湾の入り口を回復したことを指します。またⅡ歴代誌26章によれば、彼はダビデと同じようにペリシテ人の地を支配したばかりか、死海の北東のアンモン人の貢物を受けるまでになっており、絶頂期の北王国と競合する力を持っていました。このことが、「こうして、彼の名はエジプトの境にまで届いた。その勢力がこの上なく強くなったからである」(Ⅱ歴代26:8)と記されます。つまり、ウジヤは、北のヤロブアムと同時期にイスラエル南部でダビデ、ソロモン時代の支配地をほぼ回復したのでした。しかし、これらの安定は、たまたま南のエジプトも北のアッシリアも力を失っていた時期であったことの結果に過ぎません。当時の世界情勢からしたら、イスラエルもユダも、吹けば飛ぶような小国でした。彼らが唯一の創造主である主(ヤハウェ)を礼拝し、主の律法(トーラー)を受けているのでなければ、ウジヤの名前など歴史に残ることはありえませんでした。ユダにとって偉大な王の名が、列王記でこれほど小さくしか扱われないのは、そのためだと思われます。

実際ここでは、「彼は、すべて父アマツヤが行ったとおりに、主(ヤハウェ)の目にかなうことを行った……主(ヤハウェ)が王を打たれたので、彼は死ぬ日までツァラアトに冒された者となり、隔離された家に住んだ」と、彼の生涯の光と影が何の説明もなく記されています(15:3-5)。これが歴代誌では、「彼が強くなると、その心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた」(Ⅱ歴代誌26:16)と記されます。それは彼が祭司の働きを奪って神殿に入り、主に香をたこうとした結果、神殿の中で、額に突然、ツァラアトが現れたことを指します。

彼は隣国の絶対王政の影響を受け、彼自身が宗教的にも最高権力者になり、神の律法が命じる礼拝形式を破ろうとしたのです。しかし、ユダ王国は、唯一の神、主ヤハウェを礼拝する「神の国」でした。そこでは神の律法が王権の上に立ちます。それは、現代の法治国家と似ています。どれほど強い権力者であっても、法を犯すなら失脚させられ、牢屋に入る可能性があります。ですからここは、「ウジヤは、かわいそうに、少しの過ちで神の罰を受け、重い皮膚病にかかった……」というよりも、今から三千年近く前の国で、現在の法治国家と同じ原則が守られていた不思議にこそ目を留めるべきでしょう。ウジヤも驚くべき繁栄を築きながら、主の前に傲慢になって自滅しました。それは彼の父や祖父の場合と同じです。彼ら三人に共通するのは、最初、主に喜ばれる政治を行い、順境の中で傲慢になり、主を恐れなくなったことです。

4.「彼は主(ヤハウェ)の目に悪であることを行い」―北王国イスラエルの滅亡に向かっての混乱―

一方、北王国ではヤロブアム二世の死後、彼の息子ゼカリヤが王になりますが、たった六ヶ月の後、家来に殺されます。これはアハブ家を滅ぼしたエフーの子孫は四代までイスラエルの王座に着くと預言されたとおりでした(15:12)。しかし、ゼカリヤを殺したシャルムも一ヶ月で殺され、メナヘムが王となります。彼は十年間サマリアを治めますが、アッシリアの王プルに卑屈になり、貢物を贈ることで独立を保ちました。

ところが、メナヘムの子ペカフヤも、また二年後に、レマルヤの子ペカによって倒されます。なお、ペカは二十年間サマリアで王の地位を保ったと記されますが(15:27)、彼の支配はメナヘムの最初の時期から重なっていたと考えないと計算が合いません。つまり、アッシリアに対する対応で穏健派のメナヘムと強硬派のペカが争い、ついにペカがサマリアで唯一の王となったということだと思われます。しかし、まもなく、この傲慢さのゆえに、アッシリアの王ティグラト・ピレセル(プル)によって徹底的に北部と東部を占領され、その住民がアッシリアに捕らえ移され、北王国にはエフライムの山地しか残りませんでした(15:29)。

これらの四人の王とも同じく、「彼は主(ヤハウェ)の目に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪から離れなかった」(15:9,18,24,28)と描かれます。これは北王国イスラエルの王の罪を示す定型句でもあります。そして、わずかに残ったサマリアでは、穏健派のエラの子ホセアがペカを倒して王になります。なお、このホセアが北王国最後の王になります。目の前の脅威への対応をめぐって内部抗争を繰り返し自滅するというのは、国の滅亡の方程式のようなものです。しかし、困難の中で常に求められるのは、原点に立ち返り、「どこから落ちたかを思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい」(黙示2:5)との命令に従うことではないでしょうか。それは預言者たちが何度も語ってきたことでした。

ヤロブアムの時代の繁栄の直前、彼の父ヨアシュは死に瀕していたエリシャの助けを得てアラムに三度勝利し、その勢いで南の王アマツヤにも勝利しました。これを通してヨアシュはエリシャの神に立ち返るべきだったのです。しかし、その子のヤロブアムも繁栄が主のあわれみであることを忘れました。その後の王たちは、卑屈と傲慢の狭間に大きく揺れながら、主に祈ることをすっかり忘れていました。

一連の政治的混乱の中で、主は預言者ホセアを通して、「このわたしがエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いたのだ。しかし、わたしが彼らを癒したことを彼らは知らなかった。わたしは、人間の綱、愛の絆で彼らを引いてきた……わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている……イスラエルよ。あなたの神、主(ヤハウェ)に立ち返れ」(11:3,4,8、14:1))と熱く語っておられます。

5.「気を確かに持ち、落ち着いていなさい。恐れてはならない」

ペカの時代に南王国ユダを治めたのがウジヤ子ヨタムでした。「彼は、すべて父ウジヤが行ったとおりに、主(ヤハウェ)の目にかなうことを行った」(15:34)と記されます。彼は16年間王位に留まりますが、Ⅱ歴代誌で、「彼が、自分の神、主(ヤハウェ)の前に、自分の道を確かなものとした」(27:6)と、それまでの王たちの晩年の悲惨とは対照的な姿が描かれます。さすがに三代続いた悲劇から学んだのではないでしょうか。

ところが、ヨタムの子のアハズは、ダビデの子でありながら北王国の「イスラエルの王たちの道に歩み、主(ヤハウェ)がイスラエルの子ら前から追い払われた異邦の民の、忌み嫌うべき慣わしをまねて、自分の子供に火の中を通らせることまでした」(16:3)と描かれます。これは、アンモン人の神モレクへの礼拝行為でした(レビ18:21)。これはソロモン王が「エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた」(Ⅰ列11:7)なかで行われていたことで、歴代の王に関しても「(ヤハウェ)の目にかなうことを行った」ということばとともに「ただし、高き所は取り除かれなかった。民はなおも、その高き所でいけにえを献げたり、犠牲を供えたりしていた」ということばが繰り返されていました(12:3,14:4,15:4)。そこにユダ王国の堕落の種があったのです。さらにそこにアハブの娘アタルヤによって大々的に導入されたバアル礼拝が結びつき、イスラエルの民の偶像礼拝が加速されます。そしてアハズ王は、まさにその偶像礼拝の誘惑に身を任せたのでした。

このときアラムの王レツィンイスラエルの王ペカがエルサレムに攻め上ってきます。それは南王国ユダを対アッシリア同盟に招き入れようとして拒絶されたためです。するとアハズは、より恐ろしい敵のアッシリアの王ティグラト・ピレセルに貢物を贈って援軍を求めます。これは地域の争いの解決のために広域暴力団の助けを求めるようなものです。そこで彼はアッシリアの王に、「私はあなたのしもべであり、あなたの子です。どうか、上ってきて、私を攻めているアラムの王とイスラエルの王の手から救ってください」(16:7)と、自分が神の国の王、ダビデの子であるとの誇りを忘れ、同胞を売るような卑屈な懇願をします。

そればかりかアハズは、ダマスコを占領中のアッシリア王に会いに行き、そこの祭壇を見て、その設計図を得、エルサレム神殿での礼拝形式を根本的に変えてしまいます。彼は神殿の庭にある巨大な車輪つきの洗盤や、直径4.4mもあった巨大な鋳物の海までも分解してしまいます。これはすべて、「アッシリアの王のため」(16:18)だと思われます。アッシリアはこのとき民族を混ぜ合わせる政策を行っていましたから、エルサレム神殿の独自性を保つことはアッシリア王への反抗とみなされるおそれがあったのでしょう。ここでアハズは、卑屈な宗教的妥協によって危機を乗り越えようとしています。これは日本の教会がかつて戦時中に、教会内に神棚や天皇のご真影を飾って、迫害を逃れようとしたことと同じです。

預言者イザヤは、アハズがこのような妥協に走る前に、主のことばを彼に、「気を確かに持ち、落ち着いていなさい。恐れてはならない。あなたは、これらの二つの燃える木切れの燃えさし、アラムのレツィンとレマルヤの子(イスラエル王ペカ)の燃える怒りに、心を弱らせてはならない」(イザヤ7:4)と伝えました。そして、アハズがそのことばを拒絶したとき、神の救いはずっと遅くなるという意味で、「見よ。処女が身ごもっている。そして、男の子を産み、その名を『インマヌエル』と呼ぶ」という預言を語ります(同7:14)。そして、イスラエルの最終的な救い主が、これから七百年あまりたってベツレヘムに生まれます。救いは途方もなく遅れたように見えますが、主がダビデに、「あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまで堅く立つ」(Ⅱサムエル7:16)との約束は成就したのです。

イスラエルという名はヤコブに与えられた「神の民」としての新しい名前でした。それはヤコブが「神と戦った」結果として与えられた名前でしたが、そこには「神が戦ってくださる」という意味が込められていました。神はエジプトやアッシリアという巨大な帝国には挟まれた小さな国イスラエルを通してご自身の栄光を現わそうとしておられました。ところがイスラエルは、神の民としての誇りと使命を忘れてしまいました。

預言者イザヤはそんなイスラエルに対して、ご自身を「主なるヤハウェ、イスラエルの聖なる方」と啓示する方のことばを、「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る」(30:15)と伝えました。そしてその主は、「あなたがたに恵みを与えようとして待ち……あわれみを与えようと立ち上がられる」(30:18)というのです。私たちはときに自分の願いが無視されていると感じることがありますが、それは、健全な親が子供の願い通りにはものを与えないのと同じです。使徒ヤコブは、「求めても得られないのは、自分の快楽にために使おうと、悪い動機で求めるからです」と記しています(ヤコブ4:3)。ただ私たちは自分が「神の子」として神から「ねたむほどに」慕われていることを忘れずに、主の御前に静まり、動機を正していただく必要があります。ヤコブは「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます」と聖書の真理を簡潔に述べています(同4:5、10)。