2018年7月29日
現代のシリヤの混乱は、2006年から2011年にかけての史上最悪の旱魃(かんばつ)によって国土の6割が荒廃したことによると言われます。この地方には、人類史上最古の都市国家がいくつかありました。古代の権力は灌漑事業と穀物の管理のために生まれましたが、人類最古の政治秩序があった地域が無政府状態になっています。
それは、アサド政権が親類縁者を大農場主に引き上げ、地下水の汲み上げを無計画に認め、貧しい農民が土地を失って都市に流入する中で、旱魃難民に何の援助もしないばかりか、古代から続くユーフラテス川から水を引く灌漑事業にも力を注がなかったためであると言われます。
北王国イスラエルの混乱した政治の機能を回復させるために、主は預言者エリヤを立てられました。彼は大きな使命感に動かされていましたが、同時に、「ただ私だけが……」という意識にもなってしまいました。そのような意識が高じてしまうと、自分が息詰まるか、まわりの人が息詰まるかのどちらかになります。
カルメル山で天からの「主(ヤハウェ)の火」をもってエリヤの祈りに圧倒的に答えられた神が、シナイ山では不思議にも、「かすかな細い(沈黙の)声」によって憔悴したエリヤに語りかけられました。
人は、勇猛に戦った後に、激しいうつ状態に陥ることがあります。三千年前の信仰の勇士の心の揺れは現代の課題です。
1.「私が仕えている万軍の主(ヤハウェ)は生きておられます」
北王国イスラエルの創始者ヤロブアムから七代目の王アハブは、首都サマリアにバアルの神殿を建て、アシュラ像も作りました。「彼にとっては……ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことで……イスラエルの神、主(ヤハウェ)の怒りを引き起こ」します(16:32,33)。
主(ヤハウェ)は預言者エリヤを遣わし、「私が仕えているイスラエルの神、主(ヤハウェ)は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない」と言わせます(17:1)。アハブは彼を恨み、殺そうとしますが、神は彼を養い続けます。
そして、飢饉になって「三年目」だと思われますが、主はエリヤに、「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう」と言われます(18:1)。
神がイスラエルの民が飢饉で苦しんでいるのをご覧になり、雨を降らせようとしておられるのですが、それがバアルによるものではなく、主の憐みによって起きることをアハブに事前に伝えておく必要がありました。それで「エリヤはアハブに会いに出かけ」ます(18:2)。
そこで突然、「アハブ王は宮廷長官オバデヤを呼び寄せた」と記されます。さらに、「オバデヤは主(ヤハウェ)を深く恐れ」(18:3)る人で、女王イゼベルによる迫害の中で、主(ヤハウェ)の預言者百人を「洞窟の中にかくまい、パンと水で彼らを養った」というエピソードが記されます。
アハブはオバデヤと手分けして、「馬とらばを生かしておく草」を捜しに出かけました。それはアハブが、多くの民が飢饉で苦しむことよりも、軍事力を保つことに心を集中させていたことを示します。まるで現在のシリヤの支配者と同じと言えましょう。
そのような中でオバデヤが牧草地を捜し回って進んできたとき、「エリヤが彼に会いに来た」(18:7)と記されます。エリヤはアハブへの取次ぎを求めますが、オバデヤは彼に、「あなたの神、主(ヤハウェ)は生きておられます」(18:10)と言いつつ、自分がエリヤの居場所を教えた場合に、今までと同じように、主がエリヤを隠すので、自分が結果的に王の怒りを受け、「彼は私を殺すでしょう」と言います(18:12)。
なおその際、オバデヤ自身の口で、彼が「主(ヤハウェ)の預言者百人……を養った」ことが繰り返し記されます(18:13)。著者はこのことを二回も記録し、預言者はエリヤだけではなかったことを強調しようとしているように思えます。
エリヤは、「私が仕えている万軍の主(ヤハウェ)は生きておられます」と言いつつ、「必ず私は、今日、彼の前に出ましょう」と告げ、安心させます(18:15)。主の命令に従うなら、誰も恐れる必要がないからです。
アハブはエリヤに会いに来ますが、開口一番、「おまえか。イスラエルにわざわいをもたらす者は」(18:17)と言います。それは、エリヤのことばをきっかけにイスラエルに三年間も雨が止まった現実があるからです。
アハブはエリヤが仕えている「主(ヤハウェ)は生きておられる」ことを認める代わりに、彼を災いの元凶と見ました。これに対しエリヤは、アハブとその父の家こそイスラエルを煩わしている根源であると語ります。なぜならこの飢饉はアハブが「主(ヤハウェ)の命令を捨て……バアルの神々に従っている」ことへのさばきだからです(18:18)。
その上でエリヤは王であるアハブに命令を下すかのように、「イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と四百人のアシュラの預言者」をカルメル山に集めさせます(18:19)。
アハブは彼の迫力に負けたのでしょうが、アハブ自身が旱魃(かんばつ)に困り切っていたという面もあります。そこはイスラエルの穀倉地帯イズレエル平原の西北、地中海に面する600メートルぐらいの高さの山です。
エリヤはイスラエルの民を集めさせ、彼らに向って「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか」と、主(ヤハウェ)に従うかバアルに従うかの選択を迫ります(18:21)。彼らは両方を神としてあがめる混合宗教に陥っていたからです。これは日本人的な宗教意識に通じます。
武力を持つアハブ王はエリヤに対しては驚くほど無力でした。オバデヤさえも自分の命を守ることに必死でした。しかしエリヤは死の脅しを軽蔑するかのように、大胆に王の前に現れ、多数のバアルの預言者たちを集めさせます。エリヤは主からの使命に生きており、だれも彼の代わりになる人はいません。
私たちも一人で異教徒たちの前に立たなければならないことがあります。そのとき、主にある主導権を発揮することが大切です。
何事も、逃げ越しになった時点で敗北が決まります。それは熊に出会ったとき、逃げだしたら死を招くのと同じです。追いかけるのは動物の本能だからです。恐れを隠して断固として、しかも優しく向き合うことが大切とのことです。
同じように、私たちは自分を迫害する者に対して逃げ腰になってはなりません。あなたが仕える「主(ヤハウェ)は生きておられます」。偶像の神々はあなたに対して何の力も持っていません。
2.「主(ヤハウェ)よ。あなたがイスラエルにおいて神である……ことが明らかになりますように」
エリヤは民に向い、「私一人が主(ヤハウェ)の預言者として残っている。しかし、バアルの預言者は四百五十人だ」(18:22)と言いつつ、二頭の雄牛を用意させ、どちらの「全焼のささげ物」に火が下るかを見させようとします。
「私一人が……」という告白には危なさもありますが、このような自覚こそ全体の流れを変える力になります。日本人にはこのような意識が弱いため組織の自浄能力に欠けが生まれるとも言われます。
「バアルの預言者たちは……朝から真昼までバアルの名を呼んだ」のですが、「何の声もなく、答える者もなかった」と記されます(18:25,26)。エリヤは彼らを嘲って、「もっと大声で呼んでみよ……もしかすると、寝ているのかもしれないから……」と言いますが、「彼らはますます大声で叫び……剣や槍で、血を流すまで自分たちの身を傷つけ」ます。
このような騒ぎが、「ささげ物を献げる時」と呼ばれる夕方まで続きますが、その結論が、「何の声もなく、答える者もなく、注目する者もなかった」と描かれます(18:27-29)。
一方、エリヤは民全体を自分のそばに近寄らせ、壊れていた主(ヤハウェ)の祭壇を立て直します。その際、イスラエルの十二部族にちなんだ十二の石を用い、その上に薪(たきぎ)を並べ、切り裂いた一頭の雄牛を置きます。
そして、四つのかめに水を満たさせ、それを三度にわたって、全焼のささげ物と薪の上に注がせます。つまり、水がない中で、かめで十二杯もの水を用いて、徹底的に敢えて、火がつきにくい状態を作り出します(12杯も12部族に通じる)。そして、水は、祭壇の周りに掘った水に満ちます。
その上でエリヤは、「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主(ヤハウェ)よ。あなたがイスラエルにおいて神である……ことが明らかになりますように……私に答えてください……そうすればこの民は、主(ヤハウェ)よ、あなたこそ神である……ことを知るでしょう」と祈ります。それはバアルの預言者とは対照的な、静かで確信に満ちた祈りだったことでしょう。
19世紀のドイツの音楽家メンデルスゾーンは、38歳で天に召される年、このエリヤの生涯をオラトリオとして描きますが、バアルの預言者たちの熱い祈りと、エリヤの祈りの対比を効果的な音楽で表現しました。
ここに私たちにとっての祈りの模範があります。主(ヤハウェ)は私たちの苦しみをあわれんで助けてくださいますが、それ以上に、何物に支配されない自由な主権によってこの世界の歴史を動かしておられる方です。
ですから私たちも世界に対する神の救いのご計画に心を合わせるように祈ることが大切です。熱心さ以前に、それを願う心の動機が問われているのではないでしょうか。
それに対する主(ヤハウェ)の答えは対照的に激しく、「主(ヤハウェ)の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、溝の水もなめ尽くし」ました(18:36-38)。これを見た民は、「主(ヤハウェ)こそ神です」と繰り返し告白します。それでエリヤは彼らにバアルの預言者たちを殺させます。
それからアハブに「上って行って、食べたり飲んだりしなさい。激しい大雨の音がするから」と言います(18:41)。それは王を主(ヤハウェ)の食卓に招き、信仰の回復を願ったことかもしれません。
一方、「エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔を膝の間にうずめ」ます(18:42)。これは謙遜な祈りの姿勢です。そして、若い者に何度も様子を見させると、七度目に「小さな濃い雲が海から上ってくる」のが見られました。
それでエリヤはアハブに何と、「大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい」と伝えます(18:44,45)。しばらくすると、激しい大雨が降りますが、「主(ヤハウェ)の手がエリヤの上に下ったので」、彼はイズレエルにある27kmも離れたアハブの夏の宮殿まで、王の車の前を超人的に走り続けることができました(18:46)。
アハブは王でありながら、エリヤに受動的に従うばかりでした。それは主の手がエリヤに下り続け、主がエリヤをご自身のしもべとして用いておられたからです。
バアル神もアハブ王も、ともにエリヤの挑戦に「何の声もない」という点で同じです。私たちの主(ヤハウェ)は、あなたが御子イエスの御名によって祈るなら、たった一人の訴えにも誠実に答えてくださいます。
人間の信仰の熱心さが奇跡を生むのではありません。どんな奇跡を行なうことができる神ご自身の自由な主権が、不可能を可能にしてくださるのです。
3.「火の後に、かすかな細い声(澄んだ沈黙の声)があった」
アハブは妻のイゼベルにすべてのことを報告します。このシドンの王女こそがバアル礼拝推進の中心人物でしたから、彼女は激しく怒り、「明日の今ごろまでに」、エリヤをバアルの祭司たちのように殺すと通告します。彼女はイスラエルの民の手前、即座に殺す代わりに、彼が逃げ出すのを期待したのだと思われます。
ところがエリヤは、それまでとは打って変わって、「それを知って立ち、自分のいのちを救うために立ち去った」ばかりか、南王国ユダの最南端のベエル・シェバまで逃れ、自分の死を願って、「主(ヤハウェ)よ。もう十分です。私のいのちを取ってください」とまで願います(19:1-4)。
このエリヤの心境の変化は、しばしば、「燃え尽き症候群」とも解説されます。国全体が主に立ち返ることを期待し、バアルの預言者たちと全精力を傾けて戦い勝利したはずなのに、イゼベルは迫害の手を強めただけでした。自分の労苦が実を結んでいないと思われ、それまでの緊張感の反動で、彼の心は萎えてしまったのでしょう。
メンデルスゾーンは多くの詩篇を音楽にし、そこでしばしば、主が沈黙のうちに、ご自身の御顔を隠しておられると思える中での信仰者の祈りを表現しますが、ここでもエリヤの絶望感をチェロの低音で始めながら、彼が自分の気持ちを激しく表現するメロディーへと調子へと変化させます。
自分で自分の命を断とうとすることと、死にたいほどの気持ちを神に訴えるのは天地の差があります。彼は絶望感を祈ることで神の働きに心を開いているのです。
なお、彼が「エニシダの木(当地によくある3mぐらいの高さの木)の下で」疲れ果てて眠っていると、ひとりの御使いが優しく寄り添うように触れて、「起きて食べなさい。」と言って、パンと水を用意してくれました。
彼がそれを食べて飲んで、また横になると、「主(ヤハウェ)の使い」はもう一度戻ってきて、優しく彼を起こしながら、「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ遠いのだから」と言います。すると彼は「この食べ物に力を得て、四十日四十夜歩いて、神の山ホレブ(シナイ山)に着いた」というのです(19:5-8)。
不思議にも、エリヤは最初、恐れに囚われて逃げていただけだったのですが、神はその逃亡の旅を、イスラエルの信仰の原点、律法が与えられた山への積極的な旅へと変えてくださいました。
エリヤはそこに到着すると、洞穴に入って一夜を過ごします。すると主は、「エリヤよ。ここで何をしているのか」と問いかけられます。それは彼との対話を求める招きです。
彼は、「私は万軍の神、主(ヤハウェ)に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました」と、自分と彼らの姿勢を比較した上で、「ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています」と答えます(18:9,10)。
そこでは、オバデヤが百人の預言者たちを匿って養ったことも、主が天から火を降らせてくださったことも忘れられているかのようです。しばしば、人は、うつ状態に陥ったとき、悪いことばかりを思い出し、自分の現実を事実以上に悲観的に見てしまいます。
それに対し主は、「外に出て、山の上で主(ヤハウェ)の前に立て。見よ。主(ヤハウェ)が通り過ぎるから」と招かれます(19:11私訳)。かつてモーセはイスラエルの不従順に苦しみ抜き、「主がともに歩まれる」ことのしるしを求め、それに主は答えてご自身の栄光を見せられましたが、それが再びここで起きるというのです(出エジ33:18-34:7)。
そして、「主(ヤハウェ)の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主(ヤハウェ)はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主(ヤハウェ)はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主(ヤハウェ)はおられなかった」と繰り返されます。
それはかつて主がシナイ山に下りて来られた情景を思い起こさせる栄光の現れですが(出エジ19:18)、主は今、そのようにご自身を現わす代わりに、敢えてご自身を隠しておられると、優しく彼に伝えておられるのかもしれません。
そして最後に、「火の後に、かすかな細い声(原文「澄んだ沈黙の声」NRS訳はa sound of sheer silence)があった」と記されます(19:12)。カルメル山で主は天からの燃える火でご自身の栄光を現されましたが、今は、沈黙の中にご自身を現しておられるのです。
エリヤは今、神の沈黙に苦しんでいましたが、主は疲れた彼に寄り添うように、その沈黙を通してエリヤを招いておられました。
ですから、「エリヤはこれを聞くと」初めて、「外套で顔をおおい」ながらも、「外に出て」、「主の前に立つ」ことができました(19:13)。
不思議に、この沈黙?の声は、エリヤに「聞く」ことができたのですが、それは、詩篇27篇8節にあるように、「わたしの顔を慕い求めよ」との神の招きの声が、自分の心の奥底から語りかけられることに似ているでしょう。
昔、サイモンとガーファンクルの sound of silence という曲が流行りましたが、その由来がここにあるかのようです。そこには言葉にならない人の心の声に耳を傾けて欲しいとの訴えが込められ、それが多くの人々の共感を誘いました。
同じように、神は「沈黙?の声」を通して私たちを招いてくださいます。メンデルスゾーンは、二度の「主(ヤハウェ)が通り過ぎられ」という力強い合唱に合わせ、激しい大風と地震と火を描きつつ、「その中に主(ヤハウェ)はおられなかった」と三度繰り返し、最後に「囁(ささや)きの中で主が近づいて来られた」と優しく繰り返します。
私はその音楽を聴きながら、神がどれほど傷つき易い心をいたわり、優しく寄り添ってくださるのかと、深い感動に満たされました。あなたの心も様々なことで傷つき、心が萎えてしまうことがあるでしょうが、神はご自身の力を抑えながら、静かに優しくあなたを招いておられるのです。
ところで主は、「洞穴の入り口に立った」エリヤに、洞穴の中のときと同じ質問をし、彼は全く同じ言葉で答えます。つまり、「沈黙の声」の前後で対話の内容が同じなのです。それは主が、エリヤの悲しみを正面から受け止められた証しとも言えます。
なお、この箇所は、主は私たちに「かすかな細い声」で語られると解釈されがちですが、主はエリヤに明確な声で語られたということを忘れてはなりません。沈黙の中で主の御前に静まることの勧めが、聖書のことばにとって代わるようなことはあってはならないからです。
そこで主は不思議な命令を下します。それは、はるか北の北王国イスラエルの北の国アラムに行って、イスラエルを脅かす異教徒を王に立てること、またアハブの家を滅ぼすイスラエルの王としてニムシの子エフーを立てること、そして、彼に代わる預言者としてエリシャに油を注ぐようにという命令でした。
それは神が、ご自身を隠しながらも、この世の王たちをご自身の意思で立て、またさばくという意味です。
その上で主は、「わたしはイスラエルの中に七千人を残している」(19:18)と、バアル礼拝に屈しない信仰者を保つと約束されます。これこそが、「ただ私だけが残り」というエリヤの訴えに対する答えだったのです。
パウロはローマ11章でエリヤの訴えと主の答えを引用し(3,4節)、「主はご自分の民を退けられたのではありません……恵みの選びによって残された者たちがいます」(2,5節)と記します。
その上で、「神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく……すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです」(33,36節)と結びます。
エリヤのうつ状態の原因の一つは自意識過剰にあった可能性があります。彼は、天から火を降らしてくださる神の圧倒的な力ばかりか、人と人との争いや協力の中に「沈黙の声」を発せられる目に見えない神のご支配を認める必要があったのです。
私たちは責任逃れのような気持ちで、「だれか他の人が……」と言うことがありますが、それは敵に背を向けるという敗北の始まりになり得ます。そのようなとき、「私一人が……」という気持ちで主にすがるなら、主は不思議な解決をもたらしてくださることがあります。
しかし、これが自意識過剰になるとき、主は、「わたしは七千人を残している」という、主の民との協力関係をも思い起こさせてくださいます。全責任を一人ででも引き受ける覚悟と同時に、自分の力が尽きても神は別の人を立ててくださるという謙遜さも持っていなければ、自分自身が燃え尽きるか、人を振り回すかのどちらかになります。
その際、すべてを支配される「主(ヤハウェ)の前に立つ」ことこそが、「一人でいる」ことと「ともにいる」ことの調和の原点でしょう。そのため主は、「天に雷鳴を響かせ」(詩篇18:13)、また「沈黙」のうちにと、ときに対照的な姿で近づいてくださいます。