エペソ5章21〜33節「新しい創造としての夫婦関係」

2018年6月3日

以前、結婚前カウンセリングで、「うまくゆかなかったら離婚もあり得るなどと決して考えてはいけない」と申し上げたところ、反対に、「そのような言い方が、かえって結婚関係を壊すことにもなり得る」と言われてしまいました。その方は米国人の精神科医で、「離婚は罪だ!」という呪縛の中で多くの夫婦が苦しんでいるのを目の当たりに見てきたからです。

それぞれユニークな組み合わせの結婚関係を杓子定規な道徳感覚で機能させようとするほど危ない教えはありません。また、神の恵みでたまたまうまく機能している夫婦が、独身の方に、結婚の祝福を語りすぎるのも問題かもしれません。それはどこかの大臣が「女性は早く結婚して何人の子を産むべき」と言ったことに似ています。

そのような人には、パウロが当時の信仰者に敢えて独身を勧めているかのように思える箇所を開くべきです。彼はコリント人への手紙第一77節で、「私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります」と、当時のユダヤ人の常識に反することを記しています。

 

この箇所は、家庭に関しての部分ですが、一人ひとりに対して、イエスからのユニークな召しがあることを何よりも心に留めていただきたいと思います。この箇所にはある意味で、途方もない理想が描かれています。それは決して人間的な努力で達成できるものではありません。自分が生まれ育った家庭や互いの関係をこの基準で評価すると、人も自分も追い詰めるだけです。

この書に記された神の創造とキリストにある再創造という大きな視点から、すべての人間関係を見直す一つの題材として家庭が描かれていると考えるべきでしょう。家庭は神のみわざの舞台です。

この書には人の常識を超えた神の奥義が記されています。その第一は1910節にあるように、「その奥義とは・・一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。天(複数)にあるものも地にあるものも、この方にあってです」ということです。

そして2章14-16節では、キリストは「ご自分の肉において、敵意を生み出す隔ての壁を打ちこわし・・・(ユダヤ人と異邦人という)二つをご自身においてひとりの新しい人間として創造し、それによって平和を実現し、両者を一つのからだとして神と和解させてくださいました」と、キリストにある「新しい創造」として異邦人とユダヤ人が一つにされたことが描かれます。

そして4章16節では「キリストによって、からだ全体はあらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ」と記されています。

つまり、キリストにある再創造とは、異なった者同士が組み合わされることなのです。そして、創造の秩序において、すべての生き物が基本的に、雄と雌それぞれの異なった遺伝子の組み合わせによって新しい命を誕生させるという不思議があります。

その創造の神秘の中に、神のかたちに創造された男と女が、キリストにあって再統合されるという前提があるのです。

1. 御霊に満たされなさい・・・キリストを恐れて互いに従い合いながら

エペソ書522節以降は、しばしば、結婚式の聖句として読まれますが、この文脈では、夫婦の関係は、「どのように歩んでいるかを、よくよく注意し・・」という日常の信仰生活の中での、「御霊に満たされなさい」という命令の具体例として捉えられるものです。

創世記2章にはエデンの園の調和が描かれ、そのシンボル的な表現が、「人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいと思わなかった」(2:25)という記述です。ところが、彼らが食べてはならないと言われた木の実を取って食べたとき、互いに裸を恥じるようになり、被害者意識に満たされ、互いを非難しあう関係になりました

そのふたりの間から最初に生まれた子供は、カイン、つまり、弟殺しです。それは互いに自分を神とする生き方の必然的な結末でした。カインの末裔から、ありとあらゆる悪が広がっていきました。簡単にいうと、人間のすべての不幸は、一組の夫婦関係から始まっているのです。

結婚には、この不幸の再生産をするという可能性が極めて高いのです。そして、事実、幸せになりたいと思って結婚したカップルが、互いばかりか、周りの世界を不幸のどん底に陥れるということが後を絶ちません。結婚ほど、恐ろしい冒険はありません。

しかも、私たちはみな男女が一体となるという営みによって、この世に生を受けています。今回の教えと無関係に生きられる人は誰もいません。

しかも、この教えは、18節の「御霊に満たされなさい」という主動詞を修飾する四つの分詞節の最後として登場します。

その第一は、「詩と賛美と霊の歌とをもって互いに語る」(5:19)こと、第二は、「主に向かって、心から歌い、楽器を奏でなさい」です。

第三は、「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい」(5:20)で、最後の第四が、「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい」(5:21)という勧めです。

つまり、「御霊に満たされる」というキリストにある再創造のみわざは、互いを尊敬し、従い合うという人間関係の中に現され、何よりも、夫と妻の関係に表されるというのです。

 

2.妻たちよ。主に対するように自分の夫に・・教会がキリストに従うのと同じように

「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい」(5:22)と訳されていることばは、厳密には、「妻たちよ。主に対するように自分の夫に」と記され、この節の原文には「従いなさい」という動詞はありません。分かりやすい翻訳のために「従う」という動詞を入れざるを得ないにしても、原文にはない命令形を二回も入れてしまっては、妻への一方的な服従命令が強調されていると誤解されます。

これはあくまでも、すべての信仰者に命じられている「互いに従いなさい」という枠の中で、妻に率先してその命令を夫との関係の中で実践するようにと勧めるものです。これは歴史的、社会的に服従を強いられている女性に向かって、被害者意識から自由になって、「従う」ということをキリストの視点から見直すという発想の転換を迫るものです。

 

しかも、「互いに従う」は分詞であり、主動詞は「御霊に満たされなさい」です。つまり、妻は、主を心から礼拝し、賛美し、感謝をささげるという信仰生活の中で、心から夫に仕えるという創造的な生活が勧められているのです。

現実には、女性の方の信仰がしっかりしている場合が多いのですが、これは妻の側が、不信仰な夫に気遣い、自分の主体的な信仰を押し殺し、夫に盲従するという勧めでは決してありません。

 

続けて原文の順番では、「なぜなら、夫は妻のかしらだからです。それはキリストが教会のかしらであるのと同じです。主ご自身がそのからだの救い主なのです」(5:23)と記されます。

先に、「教会はキリストのからだ」(1:23)と描かれていましたが、それを基に夫と妻の関係が「かしら」と「からだ」で描かれています。つまり、それは上下関係の記述というより、妻を真に生かすことができるのは夫であるという意味です。

 

神は創造の初めに、土から男性を創造し、彼に土地を耕させ、すべての生き物に名前をつけさせるという創造的な責任を全うさせた上で、彼に深い眠りを与え、彼のあばら骨から女を作り上げました。

つまり、夫の目の前には初めから、土地を耕し、獣を治めるという仕事があったのに対し、妻が目覚めたときには夫がおり、夫の主導の語りかけによって女が妻とされたという経緯があります。

以来、夫は、仕事に生きがいを感じる傾向が強いのに対し、妻は何よりも夫の愛情を求める傾向があります。どこの家庭でも夫と妻の不満には同じような傾向が見られます。

たいてい、夫は、「妻は僕がどれだけ仕事で苦労しているかわかろうともしない・・・ただでさえ疲れているときに、結論の見えない話をだらだらとしたがる・・・」というものであり、妻の不満は、「夫は、私に関心を向けてくれない。私の話を聞いてくれない。利用することばかり考えて、私の人格を無視している・・」というものです。

まして、この手紙が記された二千年前は、徹底的な男尊女卑の社会でした。妻は、夫の財産の一部かのように見られ、家の中に閉じこもり、家事と子育てに専念することが求められていました。残念ながら、夫が妻の心理状態に責任を負うという考えはありませんでした。

 

そのような中で、創造主は、妻に向かって、夫が創造された後で、妻が創造されたという創造の秩序に立ち返り、すべてにおいて夫を立てるという生き方を全うするように求めたのです。なぜなら、最初の人間が、善悪の知識の木の実を食べて以来、夫も妻も、自分を基準に人をはかるようになっているからです。

夫には夫の理屈があり、妻には妻の理屈があります。そして、愚かなプライドに囚われている男性に限って、妻の意見に従うことに強い抵抗を感じます。妻がことばで相手を屈服させようとすると、言語能力に劣っている男性は、暴力で相手を屈服させようとします。

それに対し、神は女性に、キリストの生き方に習うことにおいて主導権を持つように命じたのです。キリストの生き方とは、徹底的に人の気持ちに寄り添い、仕えるという生き方です。当時の宗教指導者が、ことばだけで人を動かそうとしたときに、イエスは無言で弟子の足を洗うという行動で、弟子の心を変えようとされました。

つまり、妻は、夫との権力闘争に打ち勝って主導権を取ろうとするのではなく、キリストに従って夫に徹底的に仕えるという生き方で、夫の心を変えることを勧めたのです。そして、それでこそ、キリストが教会を生かすように、夫が妻を生かすことができるのです。

 

なお、「教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい」(24節)と訳されていることばも、厳密には、「教会がキリストに従うのと同じように、妻は夫に対しなさい、すべてにおいて」と記され、妻に関して「従う」という動詞はありません。

ここでも、「教会がキリストに従う」という姿に、妻が率先して倣うようにという勧めで、「互いに従い合う」という意味での模範を示すことが期待されていると言えます。

 

そして、実際、コリント第一の手紙七章においては、当時においては天地をひっくり返すほどに画期的な形で、「信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません」(15節)などと、夫婦関係における信仰上の男女同権を語っています。当時の妻が夫の信仰に従う義務があると見られていたのと正反対です。

神は、決して、すべての妻に、家の中に閉じこもって家事と育児に専念するように命じているわけではありません。実際、女性の社会進出が際立っているのは、基本的にすべてキリスト教国ではないでしょうか。妻と夫の役割分担が逆転したってよいのです。

ただし、妻には、夫の存在が家庭の基礎であるということをまず認め、権利を主張する前に、尊敬の心をもって互いに仕え合うということでの主導権を発揮するように命じられたのです。

 

女性によっては、横暴な男性に仕えなければならないこともあるかもしれませんが、しばしば、キリストに出会うことができた後で、「こんな最低の男に仕えなければならないなんて・・・と苦々しい思いで一杯だったけれども、私は愛するイエス様にお仕えすることの一環として、キリストへの礼拝の一部として、夫に仕えるのだ・・・と言い聞かせることができるようになりました。

キリストに仕えるということを思い浮かべると、夫に仕えることがさほど苦痛ではなくなりました。それどころか、そのような気持ちで夫に接していると、夫の表情も変わってきました。顔も見るのも嫌だったのに、夫の良いところがわかるようになりました・・・」と言われます。

これは、どこかの特別な証しではなく、ほんとうに、クリスチャン女性によくある証しなのです。

 

3.キリストが教会を愛したように、妻を愛する・・・とは

「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい」(5:25)とありますが、原文でも、妻の場合にはとは対照的に、「愛する」という動詞が二度も登場します。夫に対しては、「妻を愛しなさい」という絶対的な有無を言わせない命令形が記されているのです。

そればかりか、キリストが教会を愛し、そのためにご自身のいのちを犠牲にされ、それによって栄光の教会をご自身の前に立たせてくださるという途方もない救いのみわざを示しながら、「そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません」(5:28)と命じられています。これは厳密には、「だから夫には、妻を愛するという負債、または責任がある」と記されています。

つまり、夫が妻を真心から愛そうと努めないということは、キリストへの何よりの不従順になるという断固とした迫りが記されているのです。

そして、パウロは夫が自分の妻を愛すべき理由を、「主の救い」のみわざに結び付け、「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです」(5:26、27)と描きます。

キリストは教会をご自身の花嫁として御前に立たせることを最大の喜びとしていますが、同じように夫は妻を自分自身の身体として美しく成長させることに喜びを感じるべきだというのです。

ここで「しみや、しわや、そのようなものの何一つない」ということばは、女性の美を意識させる表現です。多くの男性は女性の美しさを喜びますが、キリストが罪人の集まりを、「聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会」へと導くように、夫は妻の心身の状態を徹底的に気遣うべきなのです。

もし、夫がそうするなら、妻は、年を経るにしたがって、内側から湧き上がるような美しさに満たされることでしょう。つまり、妻の美しさにかげりが出てくるのは、夫に責任があるとも言えるのかもしれません。

その上で、パウロは、「自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです」(5:28、29)と言います。つまり、「キリストが教会を愛されたように・・自分の妻を愛しなさい」という絶対命令は、自分自身を大切にすることと同じだというのです。

妻を奴隷のように扱っている男性は、自分の身を憎んでいるのと同じです。女性には、一般的に、子育ての能力が男性以上に与えられています。それは、一人に仕え続けるという能力です。男性はしばしば、社会的な影響力で自分の能力を測りますが、彼を育てたのは母の献身的な愛です。ただ、母の愛情は、かなり本能的な部分から生まれますが、妻の夫に対する愛情は、夫婦の相互関係から生まれます。

多くの男性は、自分の責任を果たさずに、妻に、母親代わりを期待しますが、それは本末転倒です。妻が夫を養い育てる前に、夫がキリストに倣って、妻を養い育てるのです

多くの男性は、仕事を引退した後、自分が妻を愛してこなかったことのつけを支払わされます。社会的な立場を一切失った男性は、なんとも言えない惨めさを味わいます。そのとき心の支えになるのは、妻しかいません。

そして、妻は母ではありませんから、あなたを無条件に愛することなどできないのです。妻を愛するものは自分を愛し、妻を憎むものは自分を憎むという真理をそのときに悟っても遅すぎます。

キリストがご自身のからである教会を通してご自身の栄光を現わすように、夫は妻を愛することによって自身の真の誇りと生きがいを体験することができます。夫婦の一体感こそ最高の力の源だからです。

その上で、「私たちはキリストのからだの部分だからです。『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです」(5:30-32)と記されます。

この「奥義」とは、最初に述べた、「一切のものが、キリストにあって、一つに集められる」(1:10)というキリストにある再創造のみわざの一環として認められるべきものです。つまり、夫婦関係にこそキリストの圧倒的な救いのみわざが現わされるのです。

その際、極めて人間的な夫婦関係を、キリストと教会との神秘的な関係から見直す必要があります。実際、イエスは、「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」(ヨハネ13:35)と言われました。

つまり、クリスチャンホームが愛の交わりとして形成されていることこそ何よりも最も効果的にキリストの愛を証ししているのです。世に福音を語る以前に、福音の力を夫婦関係で味わうべきでしょう。

   最後に、「それはそれとして、あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい」(5:33)と記されます。ここで、「妻もまた、自分の夫を敬いなさい」の「敬う」とは「恐れる」ということばと同じです。

これは次の子供のことにもつながりますが、妻が夫を軽く見ていると、子供も父親を軽く見るようになります。しかし、父親は神が家庭に立てた最高の権威です。妻が、夫を恐れ敬うこともなく軽く扱っていると、子供もこの世の権威を軽く見るようになり、また神の権威をも軽く見るようになります。

現代の日本は、権威喪失の時代です。福音が届かない原因に、その問題があるのかもしれません。

アダムとエバが神に背いた結果は、互いに自分を被害者に仕立てて、相手を非難するという生き方の始まりになりました。それは、神の最高傑作でありながら、自分を神の競争者にしたいと思ったことから始まっています。それに対して、パウロは、キリストの生き方を美しく描いています。

それはピリピ2章3節以降の勧めとキリスト賛歌において、「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」と描かれています。これは決して、相手の能力が自分よりも優れていると思い込むことではなく、目の前の人を自分が仕えるべき主人のように無条件に尊敬することの勧めです。様々な技能は主人ではなく奴隷にこそ必要だからです。

そして、その上で、「それはキリスト・イエスに見られるものです。キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり・・自分を低くして・・十字架の死にまで従われました」というキリストの模範が示されます。

御霊に満たされるとは、この生き方に習うことにほかなりません。互いの正義や権利を主張しあって争う人間関係ではなく、キリストにある平和を求めるのです。

ただし、イエスは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3)と言われました。なぜなら、「御霊に満たされる」ための大前提こそが、自分の心の貧しさ、無力さ、意思の弱さに嘆くことにあるからです。

自分で自分を変えられないと認める人の中にこそ、創造主である御霊のみわざが現されるからです。互いに正義を主張し合う関係から、キリストの愛に包まれ、その愛に動かされて互いに仕え合う関係へと成長しましょう。