Ⅱサムエル18章〜20章「最も身近な人が苦しみの原因となる」

2018年3月11日

以前、ある関係者の誘いで、第二次大戦の激戦地、硫黄島で開かれた日米合同記念会に参加する機会を得ました。この戦いでは22,800人の日本兵が11万人の米国兵を迎え撃って、米国兵に死傷者28,686人という太平洋戦争最大の被害をもたらしました。

不思議なのは、米国の軍隊にこれほど甚大な被害を与えた日本の栗林中将やバロン西が、米国で深く尊敬されているという事実です。日本のご遺族も、アメリカに恨みを抱いてはおられません。両国のご遺族はともに、ただこの激戦が太平洋の平和の礎となり続けることを祈っておられるという点で一致しています。

それにしても、ある生き残りの方は、硫黄島の戦いの戦闘で無くなったのは3割に過ぎず、自決と処置が6割、残りの一割は日本人の上官自身によって殺されたと記しています。実際、日本兵は96%が戦死した一方、米国兵は死傷者の24%のみが戦死ということになっています。

日本兵の場合は戦闘能力を失った者は死ぬしかありませんでした。明らかな敵が、実は敵ではなく、味方の陣営にいるはずの人が、最も恐ろしい敵であるという現実がどの時代にもあります。もともと、水や食料の補給の目途がない戦地に兵士を追いやること自体が人を人とも思わない裏切りです。

 

今回の箇所は、ダビデ王とその将軍ヨアブの間の確執がテーマになっています。それは、身近な人からのストレスに耐えている人への慰めとなるのではないでしょうか。

ダビデが「私をののしる者が敵ではありません。それなら忍べたでしょう。私に高ぶる者が仇ではありません。それなら彼から身を隠したでしょう。しかし、おまえが。私と同等の者、私の友、私の親友が・・・」(詩篇55:12,13私訳)と嘆いたときは、彼はヨアブとの関係で深く悩んでいたのかもしれません。しかし、彼は生涯ヨアブとの関係を保ち続けていたのです。

 

1.「あなたは素知らぬ顔をなさるでしょう」と言われたヨアブ

ダビデは、アブサロムのクーデターに軍事的に対抗することを避けてエルサレムを後にし、ヨルダン川東側の奥地マハナイムに到着しました。そこはヤコブが「ここは神の陣営だ」と呼んだ場所でした(創世記32:2)。そこに三方から多くの食料を含む贈り物が届きました(17:27)

第一は以前に激しく戦ったアンモン人の新指導者のショビ、また先日まで足の不自由なメフィボシェテを匿っていたマキル(9:4)、またギルアデ人バルジライなどでした。それをダビデは詩篇235節で「敵の前で、あなたは私のために食事を整え、頭に香油を注いでくださいます。私の杯は溢れています」と記したのだと思われます。それによってダビデに同行した民や兵士たちの活力が回復されました。

ダビデは自分たちの戦力が整ったのを見て、軍を三つに分け、それぞれをヨアブ、その兄弟アビシャイ、ペリシテのガテ人イタイの指揮に任せますが、同時に、自分があくまでも軍の先頭に立ちたいという思いを明らかにします(18:1,2)。彼はウリヤのことで罪を犯しましたが、本来、自分の身を守るために家来を犠牲にするような王ではなく、軍には一体感がありました。

一方アブサロムの軍隊は、利害で動く烏合の衆のようなもので、その勢いに明らかな差がありました。

 

ダビデは、家来たちから前線に出ないようにと懇願されると、今度は三人の将軍に、「私に免じて、若者アブサロムをゆるやかに扱ってくれ」(18:5)と願いました。そしてそれは兵たちにも聞こえていました。戦いはヨルダン川の東に広がる「エフライムの森」で行なわれましたが(18:6)、一気に決着がつきます。

その様子が「イスラエルの兵たちは、そこでダビデの家来たちに打ち負かされ」死者の数が「二万人となった・・この日、剣よりも密林のほうが多くの者を食い尽くした」(18:7,8)と描かれます。つまり、ダビデの敵たちは数の上では圧倒的な勢力になっていましたが、密林の中で連携を取ることができず自滅してしまったのです。

 

しかも、「アブサロムはダビデの家来たちに出会った・・・らばに乗って‥・大きな樫の木の・・下を通った・・頭が樫の木に引っ掛かり、彼は宙づりになった」という滑稽なほど悲しい結末を迎えます(18:9)

かつて、「イスラエルのどこにも、アブサロムほどその美しさをほめそやされた者はいなかった。足の裏から頭の頂まで・・・彼は毎年、年の終わりに、頭が重いので髪の毛を刈っていたが‥王の秤で二百シェケル(2.3)もあった」と記されていましたが(14:26)、その余りにも多い髪の毛が樫の木に引っかかったのだと思われます。

これは神の摂理の中で、彼の誇りとなっていたものが彼の破滅の原因となったことを意味します。それは、「高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ」(箴言16:18)と記されていることの実現です。

 

ひとりの男がそれを見つけてヨアブ報告しました。ヨアブは彼に、「なぜその場で地に打ち落とさなかったのか。私はおまえに銀十枚と帯一本を与えたのに」と言います。

それに対し彼はその百倍の報酬の「銀千枚をいただいても、王のご子息には手を下せません」と答えます。それの理由を彼は、王が敢えて兵士たちにも聞こえるように、「若者アブサロム」の助命をヨアブたちに命じていたのを聞いていたからと応答します(18:11,12)

そればかりか、彼は、自分がヨアブの意向に沿うために、王命に逆らってアブサロムを打っても、「王には何も隠すことができません。あなたは素知らぬ顔をなさるでしょうが」(18:13)と面と向ってヨアブへの不信を口にします。これは、「いざとなったら、あなたは私を見捨てる方です」という意味です。

 

ヨアブはダビデの姉ツェルヤの息子で、ダビデからも、「私にとっては手ごわすぎる」(3:39)と言われるほどの勇猛な将軍でしたが、家来たちの心を捉えていたのはダビデでした。そこにダビデ軍の強さの秘密がありました。

将軍ヨアブは、ダビデの甥であり、最初から最後まで彼の側にいましたが、その心は対照的でした。ヨアブは、目的のためには手段を選ばないという点で、極めて合理的で冷徹な軍人でした。

 

ヨアブは、この会話を打ち切って、「手に三本の槍を取り、まだ樫の木の真ん中に引っ掛かったまま生きていたアブサロムの心臓を突き刺した」というのですが、そればかりか「ヨアブの道具持ちの十人の若者たちも、アブサロムを取り巻いて彼を打ち殺した」という悲惨な最期が記されます(18:14,15)

その上、「彼らはアブサロムを取り降ろし、森の中の深い穴に投げ込み、その上に非常に大きな石塚を積み上げた」というのです(18:17)

それはアブサロムを神に呪われた者とみなす仕打ちで、ヨシュアのアイに対する戦いで神の怒りを買って最初の敗北の原因を作ったアカンへのさばきを思い起こさせる仕打ちです(ヨシュア7:26)

 

ヨアブはかつてダビデに、アブサロムが母の実家のゲシュル王国亡命中の際に、テコアの女を使って彼の帰国と赦免を嘆願していました(14)。それとの対比でこの残酷な仕打ちには首をかしげますが、彼はその時にもゲシュル王国との関係しか考えていなかったのかもしれません。

またこのときは自分がかつてアブサロムを助けたことが仇になっている現実を怒っていたのかもしれません。

ただし、ヨアブがこの際、「兵たちを引き止め」(18:16)同族イスラエルを深追いさせることを即座にやめさせたところを見ると、内乱の原因となった首謀者を厳しく処罰することでイスラエルの一致を回復するという大義があったとも思えます。

しかし、そこには、個々の人の痛みに寄り添うことができない全体主義の匂いが感じられます。

 

ところで、アブサロムは存命中に、「私の名を覚えてくれる息子が私にはいないから」(18:18)と言って、自分のためにエルサレム近郊の王の谷(創世記14:17参照)に記念碑を立てていました。

ところが今、神にのろわれたアカンといたと同じ扱いを受けてしまいました。アブサロムは、おだてに乗せられて戦略を誤り、自滅したのでした。それは、人の愛に渇くあまり道を誤った「なれのはて」とも言えましょう。何とも心が痛みます。

しかし私たちの残すべき記念碑とは、「私たちに中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません」(ローマ14:7)という生き様そのものではないでしょうか。

 

それにしても、やはり、人間にとっての最後の願いは、「私を覚えて欲しい」に尽きるのだと思われます。硫黄島を訪ね、そこにある洞窟の中に入って私は同じ叫びがあるように感じました。

彼らは暗い灼熱の洞窟の中で、水を求めて苦しんでいました。そして、同時、彼らが心の底から叫んでいたのも、「私たちを忘れないで欲しい」という訴えではないかと感じました。

硫黄島の戦いは216日の米軍上陸から始まり、2月末に飛行場が陥落すると、米軍は遺体を放置したまま、その上を舗装して3月初めには飛行場の整備を完了します。その結果が310日の死者10万人、被災者100万人をもたらした東京大空襲に結びつきます。

私たちは硫黄島の戦いには、東京を米軍のB29による絨毯爆撃から守るという使命があったことを忘れてはなりません。私たちは戦争を憎むべきですが、兵士の方々が流された血が無駄であったと判断するほど、犠牲者に失礼なことはありません。しかも、その共感力の欠如が、次の戦争につながるのです。

 

2.ダビデの嘆きとヨアブとの確執

この戦いの勝利を祭司ツァドクの息子アヒアマツは、すぐに知らせたいと願います。その心は、「主(ヤハウェ)が敵の手から王を救って、王のために正しいさばきをされたことを伝えたい」(18:19)という純粋な動機でした。彼はかつてアヒトフェルによるダビデ追討計画を命がけで知らせた人であり、ダビデが「あれは良い男だ。良い知らせを持って来るだろう」(18:27)と言ったのも無理がありません。

しかし、彼は、ダビデに会い、その心の痛みに触れると、アブサロムの死を自分で告げることができませんでした。一方、ヨアブは敢えて、ダビデの気持ちを察することができない異邦人であるクシュ人によって、王子の死を知らせました。それは彼であれば、アブサロムの死を、王の敵の当然の報いと報告すると思われたからです。

 

知らせを聞いたダビデは、身震いしつつ号泣しますが(18:33)、ここで、「わが子よ」ということばが五回、アブサロムという名も三回も繰り返され、彼は、「ああ、私がお前に変わって死ねばよかったのに」とさえ言います。

アブサロムが反乱を起こしたのは、自分が父から疎まれ、憎まれていると思い込んでいたからですが、その最大の原因はダビデの沈黙でした。それにしてもこの悲劇は、「親の心、子知らず」ということわざの通りです。残念ながら、多くの人が神の燃えるような愛を知らずに、自分勝手な道に迷い込んでいます。

 

神もご自身への反抗を繰り返す北王国イスラエルに対するさばきを宣言しながら、同時に、「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」(ホセア11:8)と言われます。その愛のゆえに神はご自身の御子を世に遣わしてくださいました。

息子に命を狙われながら、自分が身代わりになりたかったと泣いた父ダビデと同じお気持ちを、神は私たち一人ひとりに対して持っておられます。

 

ただし、この場合、ダビデがその死を悼んでいるのは敵の大将であって、これでは命をかけて戦って帰って来た兵士たちの労は報われません。その様子が、「兵たちはその日、まるで戦場から逃げて恥じている兵がこっそり帰るように、町にこっそり帰ってきた」(19:3)と描かれます。

そこでヨアブはその気持ちを代弁するかのように、「今日あなたのいのちと、あなたの息子、娘たちのいのち、そして妻や側女たちのいのちを救ってくれたあなたの家来たち全員に、あなたは今日、恥をかかせられました・・・もしアブサロムが生き、われわれがみな今日死んだなら、それはあなたの目にかなったのでしょう」(19:5,6)と迫ります。

そして、王が顔を見せて、家来たちの労をねぎらわなければ、皆が今夜中に去って行くことになり、それは「あなたの幼いころから今に至るまで」の「どんなわざわいよりもひどいものとなるでしょう」と警告します(19:7)。ヨアブの激しいことばの背後には、自分の手でアブサロムを虐殺したという負い目があったのかも知れませんが、彼のことばは極めて合理的でした

ダビデは驚くほどに感受性が豊かでしたが、それが仇になることもあり、ヨアブのような冷徹な人の支えも必要でした。しかしこの弱さこそ、ダビデの魅力ではないでしょうか。

 

ところで、敗北して逃げていた北のイスラエル十部族は、自分たちの無節操さを恥じもせず、「われわれが油を注いで王としたアブサロムは、戦いで死んでしまった」(19:10)と言いながら、再びダビデを自分たちの王にすぐに担ぎ上げようとします。

この変わり身の早い人々に頼ることは危険極まりません。それに気づいたダビデは、エルサレムにいるユダ部族の長老たちに、「あなたがたは、なぜ王を王宮に連れ戻すことをいつまでもためらっているのか」(19:11)と言いつつ、まず同族との関係の修復を願います。

その際、何と、アブサロムの将軍であった「アマサ」(17:25)を、ヨアブの代わりの将軍に立てると約束します。アマサはダビデの姉アビガルの子であり(Ⅰ歴代2:16参照)、またヨアブ母ツェルヤはアビガルの姉で、アマサとヨアブはいとこ同士で、ふたりともダビデの甥です。このアマサがダビデの敵をまとめていたのですから、彼を味方につけることは大きな意味があります。ダビデが彼を「あなたは私の骨肉ではないか」(19:13)と呼んだのはそのような関係があったからだと思われます。

その結果が、「すべてのユダの人々は、あたかも一人の人の心のように心を動かされた」(19:14)と記されます。ダビデは利害よりも信頼関係の回復を優先しました。

 

なお、この際、ダビデはアマサを「ヨアブに代わって‥私の軍の長」として任命しましたから(19:13)、それはヨアブを解任したということになります。それはアブサロムの最後を聞いたからでしょう。ダビデはヨアブのことで心を悩ましながらも、その能力を買っていましたが、家来たちの前で王命に背く態度を看過はできません。

ヨアブは人の心に無頓着すぎます。彼は自分こそ王を支えていると思っていたことでしょうが、ダビデの死後すぐに自滅します。ダビデが人々の心を捉えていなければ、ヨアブは家来たちを従えることができなかったのです。

最も身近な人との関係で悩むというのが人間の常です。近くにいるほど、発想の違いが耐え難いものに感じられるからです。しかし、それは互いが必要としていることのしるしかもしれません。

 

3.イスラエル王国の一致のために和解を最優先したダビデ

ところでダビデを最初に迎えた人として描かれているのは、何と、かつてダビデを激しくのろったシムイでした。彼は、「千人のベニヤミン人」を引き連れてダビデの赦しを請います。

ヨアブの兄弟アビシャイは、彼は「死に値する」と主張しますが、ダビデは自分がベニヤミン人をも従える全イスラエルの王となっていることを前提に、すべての戦いの終結を宣言し、シムイに「あなたは死ぬことはない」と誓います(19:16-23)

 

続いてサウルの孫でヨナタンの息子メフィボシェテが王を迎えに来ますが、彼は王が出て行った日から今まで、「ひげも剃らず、衣服も洗っていなかった」ほどにダビデの心とともにありました(19:24)。そして、自分が王に従えなかった理由を、家来ツィバに欺かれ、捨て置かれたと弁解します。

ダビデは事の真偽を確かめようともせずに、メフィボシェテとツィバの両者が並び立つように財産の折半を命じます(19:24-30)。突き詰めても分らないことは、両者が並び立つように計るのが交わりを保つ秘訣だからではないでしょうか。

 

一方、ギルアデ人バルジライは、ダビデをヨルダン川で見送るために進んで来ました。彼はダビデが最も辛く貧しかったときに養い続けてくれた恩人です。

ダビデはエルサレムで彼に恩返しをさせて欲しいと願いますが、彼は自分が高齢すぎて重荷になることを恐れ、息子のキムハムを託します(19:31-39)

 

ところがダビデがヨルダン川を渡ったところで、北イスラエルの十部族とダビデの部族ユダとの間で、王家の主導権争いが生じます。その際、「ユダの人々のことばは、イスラエルの人々のことばよりも激しかった」(19:43)と記されます。

そこで「よこしまな者で」シェバというベニヤミン人が、「ダビデには、われわれのための割り当て地がない」(20:1)と、北の十部族に独立を訴えます。

そこで、「そのため、すべてのイスラエル人は、ダビデから離れて、ビクリの子シェバに従って行った」(20:2)というのですが、その変節ぶりにはあきれるばかりです。ここには、後の北王国イスラエルと南王国ユダの分裂のはしりをみることができます。

ダビデはその危険をすぐに察知し、アマサに「ユダの人々を三日のうちに召集」して来るように命じます(20:4)。しかし、彼は期限に間に合わなかったため、ダビデはヨアブの兄弟アビシャイにシェバの討伐を命じます。

 

そのような中で、ヨアブはアマサに出会い、挨拶をするふりをし、卑怯にも不意をついて左手をつかって剣で殺します。ヨアブはアマサが自分の代わりとされたことを逆恨みしたのでしょう。

他の家来たちが唖然としている中で、ヨアブの従者が、「ヨアブにつく者、ダビデに味方するものは、ヨアブに従え」(20:11)と、シェバ追討作戦のどさくさにまぎれて、ヨアブの将軍復帰を宣言します。

そして、アマサから招集されたと思われる兵たちも一時的に「立ち止ま」りながらも(20:12)、その勢いに引きずられるようにヨアブに従います。

 

シェバはイスラエルの北の果ての町アベルに逃げ込みますが、「ひとりの知恵ある女」が、シェバを差し出すことと条件に軍隊の撤退を願います。これによって反乱の張本人の血を流すだけで町が救われました(20:14-22)

このことをもとに、ソロモンは、「知恵は力にまさる・・知恵は武器にまさる」(伝道者9:16-18)と言ったのだと思われます。それにしても、ヨアブはこれによって「イスラエルの全軍の長」(20:23)としての立場に戻りました。この際、ダビデはヨアブのアマサ殺害の責任を問いはしていないようです

彼はイスラエル王国の確立という神からの使命のために、自分の怒りを抑え、さばきを主にゆだねたのです。物事を突き詰めてしまっては争いになるだけというときが誰にもあります。

ただし、ダビデはソロモンへの遺言で、「あなたはツェルヤの子ヨアブが私にしたこと、すなわち彼がイスラエルの二人の軍の長、ネルの子アブネルとエテルの子アマサにしたことを知っている。ヨアブは彼らを虐殺し・・・自分の腰の帯と足の靴に戦いの血を付けた・・・彼の白髪頭を安らかによみに下らせてはならない(Ⅰ列王2:5)と命じています。

そして、ヨアブは後にソロモンの兄のアドニヤが王位を継ごうとしたことを応援することによって、自滅してしまいます

 

ダビデは使命のために、個人的な恨みを押さえ、人と人との和解を成り立たせ、ヨアブの横暴にも耐えました。バルジライは謙遜な気持ちで、「私は今、八十歳です。私に善し悪しが分かるでしょうか。しもべは食べる物も飲む物も味わうことができません」(19:35)と言いましたが、実際には、誰よりも神のご計画をわきまえ、一貫した態度を保っています。それは年を重ねることの恵みかもしれません。

「正しすぎてはならない」とあるように、善悪を厳しく問うことが交わりを壊し、より大きな問題を起こすこともあるからです。「愛は寛容であり、愛は親切です」(Ⅰコリント13:4)とありますが、「寛容」とは不当な仕打ちに耐えること、「親切」とは、そのような人になお積極的に救いの手を差し伸べることを意味します。それこそ神の平和の基礎となります。