2018年2月25日
初代教会の成長は、食事を共にする交わりの広がりとして描かれています。使徒ペテロは主の導きでローマの百人隊長コルネリウスの家で一緒に食事をしましたが、それが最初は仲間から非難されました(使徒11:2,3)。コリントの教会では貧しい信徒が豊かな人と同じ食事に預かるべきということから聖餐式の教えが記されます(Ⅰコリント11章)。ローマ人の手紙では、「野菜しか食べない人」を受け入れるようにと敢えて命じられていました(14:2,3)。
神との和解が異なった民族や階級を超えた食事の交わりの広がりとして描かれているのです。私たちの教会に初めて来られた方が、食事に感心してくださることがあります。
私たちは「信仰」をあまりにも個人的な成長の視点からばかり見てはいないでしょうか。そして、「教会」とは、聖書を学ぶ集会所という以前に、食事を共にする神の家族の交わり(コイノニア)として描かれているのです。
1. 「キリストの血によって近い者となりました」
私たちに与えられた救いは、「あわれみ豊かな神は・・・背き(罪過)の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました・・・神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました」(2:4-6)と記されます。
これは死後に天国で実現することの保証?というよりも、私たちがすでに「キリストのうちにある者」とされているという観点からは既に実現していることと強調したものです。キリストのうちに起こった復活と昇天とご支配は、「キリストのからだ」(1:23)の一部とされている者たちにも既に実現していると考えることができるからです。
しかも、それは個々人としてというより、「信仰者の共同体」に与えられた「救い」です。私たちは全世界の「王」である「キリストのからだ」として、それぞれの賜物を生かし合い、この世界に神の愛を見えるように現わして行く責任があるのです。
そのことが2章10節では、「実に、私たちは神の作品であって、良い行い(複数)をするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」(2:10)と描かれています。
「作品」のギリシャ語は「ポイエマ」で、英語の「ポエム(詩)」の起源とも解釈できます。それは神の栄光を「イメージさせることば(擬音語)」とも訳せます。たとえば、「春の小川は さらさら行くよ」という詩の「さらさら」とは、小川の流れをイメージさせる詩的表現です。
同じように、信仰者の共同体が神を何らかのかたちでイメージさせるというのです。そこであなたが他の人と違っているからこそ、その欠けを補い、また新たな気づきを与えることができます。
私たちは世界的な「キリストのからだ」の一部の共同体として、どのようなポエムを奏でているかが問われています。
その上でパウロは、「ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした」(2:11、12)と、エペソの教会の人々がどのような状態から救い出されたかに目を向けさせます。
イスラエルの民はアブラハムの子孫ですが、神は彼らをご自身の民として受け入れるしるしとして、男子の性器の包皮を切り取る割礼を命じられました。神が彼らを選ばれたのは、彼らを通してご自身のことを世界に知らせるためでしたが、彼らは自分たちの「肉において」の出生を誇り、異邦人たちを「無割礼の者」と呼び、軽蔑しました。
確かに、エゼキエル34章20-31節などに記される救い主は、イスラエルの真の牧者、新しいダビデとして描かれており、救い主はイスラエル民族のために現れると期待されていました。
ですから当時の異邦人は、まず「割礼」を受け、食物律法などの様々な規定を守ってユダヤ人になるという過程を経て初めて「救い主」に出会うことができると想定されていたのです。
ところが、ここでは突然、「しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました」(2:13)という不思議な議論の展開が見られます。
この書のキー・ワードは「キリストにあって」です。キリストはイスラエルの理想の王ダビデをはるかに上回る、この世界を父なる神とともに創造された神の御子です。そして人となられたイエスは、異邦人の罪をもご自身の身に背負って十字架にかかってくださいました。
その一方的な愛による、「キリストの血によって(にあって)」、本来、「遠く離れていた」と思われていた異邦人も、神に「近い者とされた」というのです。
ヘブル人への手紙9章では、神がイスラエルの民の真ん中に住むための幕屋のことが描かれ、大祭司が年に一度、いけにえの血を携えて至聖所に入ることとの対比で、「キリストは・・大祭司として来られ…この被造世界の物でない…完全な幕屋を通り・・ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました・・・キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で作られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです」(11,12,24節)と記されています。
当時の人々は目に見える神殿の完成を待ち望んでいましたが、それは本物の模型に過ぎませんでした。当時の人々はヘロデが大拡張工事を行った神殿に神の栄光が戻ってくることを待ち望んでいましたが、キリストが十字架で血を流されたとき、神殿の幕屋が上から下に真っ二つに裂け、地上の神殿の完成を飛び越えて、天の聖所への道が開かれたのです。それが、「キリストの血によって近い者となりました」という意味です。
この箇所のテーマは、異邦人に閉ざされていた神殿が壊されて、キリストの十字架と復活によって新しい天の神殿が築かれたということです。それは、イエスご自身が、「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる」と言われた通りです(ヨハネ2:19)。
そして終わりの日には、この天の神殿が「新しいエルサレム」として天から降ってきます(黙示21:2)。つまり、地上の神殿は不要になったのです。
2.「キリストは、このふたつをご自身においてひとりの新しい人間として創造し」
そして、「実に、キリストこそ私たちの平和です」(2:14)とは、「心の平和」というより、ユダヤ人と異邦人という「二つのものを一つにし、ご自分の肉において、敵意を生み出す隔ての壁を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄され」たことを意味します(2:14、15下線部私訳)。
当時の神殿には、異邦人とイスラエルの民を隔てる厚い壁があり、どれほど熱心にイスラエルの神を求める人でも、異邦人である限り、いけにえを献げる中庭に入ることは許されませんでした。
その隔ての壁には、「いかなる外国人もこれより先に入るなら、死刑に処せられる」と記されていました。しかし、キリストがご自分の血によって天の神殿に入られた結果として、目に見える神殿の「隔ての壁」を「打ち壊し」たという不思議が実現したのです。
その際、イエスが「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです」(マタイ5:17)と言われたこととの整合性を考える必要があります。
ここでは、律法全般を「廃棄する」というのではなく、「様々な規定のうちにある戒めの律法」を「廃棄されました」と敢えて記されています。それは、「敵意を生み出す隔ての壁」として機能していた律法のことで、特にユダヤ人を他の偶像礼拝の民から区別するために食物律法に代表されるものでした。
たとえばレビ記には、ユダヤ人が食べることを許されないこと細かな動物のリストがありました。それは豚、らくだ、うさぎの肉、たこやえびです。これらはすべて食用に禁じられているという以前に、神へのいけにえとして用いることが許されない生き物でした。つまり、ユダヤ人を神の民として受け入れるための規定が、汚れた動物を食べる異邦人に対する「敵意」となっていたのです。
しかし、イエスは「ご自分の肉において」神殿を完成し、神殿に関わる「戒めの律法」を不要にし、異邦人がともにイスラエルの神を礼拝できるようにしてくださいました。それは本来の律法の目的、「地のすべての部族を、アブラハムの子孫によって祝福する」ということを成就することです。つまり、律法の成就の結果として、部分規定が不要になったのです。
その神秘が、「こうしてキリストは、この二つをご自身においてひとりの新しい人間として創造し、それによって平和を実現し、両者を一つのからだとして神と和解させてくださいました。それは十字架を通してであり、ご自身にあって敵意を滅ぼされたのです」(2:15、16私訳)と描かれます。
14節での「敵意を生み出す隔ての壁を打ち壊し」という表現が、ここではさらに、「敵意を滅ぼされた」と記されています。つまり、十字架は、「敵意」を廃棄し、葬り去るためのものなのです。
しかもここで何よりも強調されるのは、キリストがユダヤ人と異邦人を、「ひとりの新しい人間として創造」してくださったということです。それは、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」(Ⅱコリント5:17)と記されてことに通じます。
同時にここでは、個人が「新しい人間」になるというより、異なった背景を持つ者が組み合わされるという面が強調されています。多くの日本人は、クリスチャンとして生きることを、聖人君子を目指す生き方、誰からも尊敬される人になることかのように誤解しています。しかし、十字架の目的は、何よりも、「隔ての壁を打ち壊し」「敵意を滅ぼす」ことにあったのです。
しかも、「新しい人間」として「創造される」とは、ユダヤ人と異邦人が一つになることができることを何よりも意味していました。つまり、まったく異なった背景を持つ人々が、互いを「キリストのうちにある者」として喜び合えることこそが、「新しい創造」の何よりの意味なのです。
つまり、私たちが目指すべき成長とは、個人の人格的な成長以前に、神の民としての「愛の交わり」としての成長なのです。「救いの実」は、何よりも、人と人との和解に現わされるはずなのです。
一つの組織の力は、そこにどれだけ異なった能力や発想を保ちながら、しかも互いに協力し合えるということに現わされます。多様性の中にある一致こそが、キリスト者の共同体の魅力です。
私たちが、この教会で互いの存在を喜び、祈り合うことができることは、この世界を作り変える原動力になるのです。
3.「もはや他国人でも寄留者でもなく、今は・・・神の家族なのです」
「そして、キリストは来て福音を伝えられました。それは、遠くにいたあなたがたへの平和、また近くにいた人々への平和でもあります。それはこの方を通して私たちは御父に近づくことができるからです。両者が一つの御霊においてです」(2:17、18私訳)とは不思議な表現です。
これは、キリストご自身がエペソの異邦人にも、エルサレムのユダヤ人にも、そのままで父なる神に近づくことができるという「平和」の福音を伝えてくださったということで、それは両者が「一つの御霊」を受けているからだというのです。
しかも現実に、「遠くにいたあなたがた」に福音を述べ伝えたのはパウロ自身ですが、彼はここで、十字架にかかり、よみがえってくださったキリストご自身がエペソまで来て和解の福音を伝えてくださったと言っています。それはパウロが、すでに「キリストのうちにある者」とされ、また彼のうちにキリストご自身が住んでおられるからです。
パウロは自分の宣教の働きを、「私たちはキリストに代わる使節なのです」(Ⅱコリント5:20)と表現しています。そこでは、キリストご自身がパウロを通して、神の和解を受け入れるように懇願しているかのようだと描かれています。
そして、「近くにいた人たち」とはユダヤ人を指します。それは彼らが救い主を待ち望んでいたからです。
その上で、異邦人とユダヤ人がまったく同じように父なる神に近づくということを、それぞれに「平和」ということばを重ねて表現したのです。イエスは十字架でご自身の手を広げておられます。それはユダヤ人と異邦人とを共に神の民として受け入れようとする招きでもあります。
しかも、パウロはそれを「両者が一つの御霊においてです」(2:18)と記します。使徒の働き10章では、ペテロがローマ軍の百人隊長コルネリウスの家を訪ねた時のことが記されています。
そこで無割礼の異邦人が神の民として受け入れられるための決定的なしるしとなったことが、「異邦人にも聖霊の賜物が注がれたことに驚いた。彼らが異言を語り、神を賛美するのを聞いたからである」(45、46節)と記されていました。
それを前提にペテロは、「神が、私たちが主イエス・キリストを信じたときに私たちにくださったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが、神のなさることを妨げることができるでしょうか」(同11:17)と言っています。
私たちは、みな、同じ御霊の働きによって神の民とされました。神が受け入れ、ご自身の御霊を授けてくださった人を、食事の交わりから除外することは許されません。
「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国の民(直訳では「同じ市民(fellow citizens)」であり、神の家族なのです。使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です」(2:19、20)とは、エペソの教会に集っているギリシャ人がエルサレムの使徒たちと同じ神の民とされたという意味があります。
「他国人」や「寄留者」のことを以前の日本の空港の案内ではalien(エイリアン)と記していましたが、響きが悪いのでforeignerに変更したとのことです。またドイツ語の「外国人」には、ときに侮蔑的な響きが込められることがありますが、私はドイツの福音自由教会の入会申請書の最初にこのことばが記されているのを見て、自分が名実ともに神の家族の一員にしていただけるという不思議な感動が生まれました。
ドイツ語には家族や友人の間では互いを Du で呼び合い、仕事の関係では Sie で呼び合うという使い分けがあります。これは上下関係での使い分けではなく、仲間うちか、仕事上の付き合いかという区別です。ですから、神に向かっての祈りは必ず Du という呼びかけで始まります。これは家族とされたことのしるしです。
そして、クリスチャンであるとの自覚を持った人どうしの間では、初対面の人でも Du で呼び合います。しかし、職場では、親しい同僚は例外として、毎日顔を合わせている人どうしでも、直属の部下に対してでも Sie と呼びかけます。
残念ながら、日本ではこの関係は逆になりがちです。職場では、「俺、お前」で呼び合いながら、教会に来ると互いに遠慮しあって丁寧な言葉遣いになりがちです。しかし、私たちクリスチャンは神の家族の一員とされたのですから、もっと親しみを込めて呼び合い、教会でこそ「神の家族」を実感できるのが理想です。
当教会の入会申請書はフランクフルト福音自由教会を真似たもので、教会員になる申請をするとき、これからはあらゆる背景の違いを超えて、互いを家族の一員として見るという約束をしています。
それは聖書では、キリストにあるバプテスマを受けたときに確認することです。私たちはどのような国籍、どのような出生の経緯があるにしても、イエスをキリスト(救い主)と信じることによって、「アブラハムの子孫」(ガラテヤ3:7)とされているのです。
そこでは、「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです」(ガラテヤ3:28)と言われます。
そこでさらに、「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて」と記されます。私たちは、一人ひとり確かに、神によって永遠のご計画の中で、神の民とされるように選ばれたのですが、それは決して、一人ひとりが互いとまったく無関係に天国に入れられるというような概念ではありません。
異邦人はそれぞれ、肉の上でのアブラハムの子孫であるイスラエルに接木された存在なのです(ローマ11:17)。簡単に言うと、旧約の歴史を軽蔑したクリスチャンというのはありえないのです。イエスはあくまでも旧約聖書に預言された救い主であり、旧約を飛び越えて救い主がどのようなお方かを理解することはできません。
「この方にあって、建物の全体が組み合わされ、そして主にある聖なる宮へと成長します。この方にあって、あなたがたもまた、ともに築き上げられ、御霊にあって、神の御住まいとなります」(2:21、22)という記述は、キリストのみからだである教会としての成長と完成へのプロセスを描いたものです。
多くの人々は、クリスチャンとしての信仰の成長を、あまりにも個人的な次元で考えてはいないでしょうか。しかし、ここでの成長とは、人と人とが「ともに組み合わされ・・・ともに築き上げられる」ことを指しています。それは時間のかかる面倒なプロセスです。
人によっては、家族関係の中で深い心の傷を負ってきたという面もあるのですから、親しみを求めるからと言って、すぐに相手の心の中に土足で入り込むようなことをしてはなりません。
しかし、同時に、いつまでたっても他人行儀な関係というのは、真の家族としては未成熟です。私たちは、互いの感性や互いの距離感を尊重しながらも、家族としての親密さをともに求めるべきでしょう。
この少し前に、ヘロデ大王は、大理石を組み合わせた壮麗な神殿の拡張工事をしていました。その神殿は、「神の家」と呼ばれ、神がこの地において住まわれる家と見られていました。
しかし、パウロはここで、全世界のキリスト者の交わりこそが「神の御住まい」であると言ったのです。それは一つひとつの独立した教会組織の集合体ではなく、全世界の信仰者によって構成される唯一の目に見えない公堂の教会を指した表現です。
私たちは、地上の教会組織にばかり目を向けてはなりません。組織を超えたキリスト者のつながりを決して忘れてはなりません。使徒信条では、「われは聖なる公同の教会を信ず」と告白されますが、「公同」とはラテン語でカトリックと呼ばれます。それは本来、固有名詞ではなく、普遍性を表現することばです。自分たちの教会の都合ばかりを優先するような発想は、このみことばに反することです。
異なった言語、異なった慣習の人々が、ともに同じ主を礼拝できるというのは福音の力の最大の証しです。初代教会の成長の原動力は、まさに民族の和解、敵対する階級間の和解、男女の和解にありました。それは今もここで起こっています。
その鍵はキリストの十字架です。人が十字架を信じることができるのは、同じ御霊の働きが一人ひとりの中に現されているからです。人と人との和解こそ、福音の実です。
そして、教会は和解によって成長してきました。私たちは無意識に、教会の成長をあまりにもこの世的な枠で計るようになってはいないでしょうか。キリストにある和解を世に証しすることが教会の使命なのです。