2018年1月7日
「ふたつのものがある。それに思いを巡らし心を集中させればさせるほど、この心をいつも新たな驚異と畏敬の念に満たしてやまない。それは私の上の星空と、私のうちにある道徳律である」と、ドイツの哲学者インマヌエル・カントは実践理性批判の結びにおいて記しています(私訳)。
しかし、私たちが街灯のない地で夜空を見上げることは何と少なく、自分のこころの内を見て失望することは何と多いことでしょう。
それにしても、人の「こころ」は不思議なものです。自分を含め、現代の教会は、神の最高傑作ともいえる人間の「こころ」をあまりにも自虐的に見すぎるような気がしました。「こころ」は確かに、とんでもない罪深い傾向に流れるものでもあります。しかし、その罪を自覚することができるということ自体が、何とも不思議ではないでしょうか。しかも、美しいものに感動し、何とも言えない優しいことを考えたりもします。
「こころ」は、驚くほど繊細で、傷つき易く、同時に、とてつもない強さをも秘めています。その不思議を感じながら、その「こころ」が神のことばによって生かされ、方向付けられることの驚異を改めて覚えさせられます。
この詩の美しさは比類ないものです。何かの説明を加えること自体が、かえって聖霊の語りかけを減じるようにさえ思われます。
ここには、人間のことばでは言い表せない神からの語りかけと、私たちの日常のことばを用いた神の語りかけの二つが記され、私たちの「こころ」を創造主に向けさせてくれます。
1.天は神の栄光を語り 大空は御手のわざを告げる
「天は神の栄光を語り」とは、街灯のない地での夏の夜空に広がり輝く「天(あま)の川」を見て、驚異に身体が震えるような体験を指すと思われます。宇宙が無言のことばで「神の栄光」を語っているというのです。
「天の川」は私たちが銀河系の中心を見ているものですが、私たちの太陽系は、銀河の端の方にあり、この銀河の広さは1秒間に地球を7回半回る光の速度で85,000年もの時間がかかる直径があります。このような銀河が数多く集まって銀河団が作られますが、それも数億光年の広がりを持つ超銀河の一部に過ぎません。
最近は、この地球から何と50億光年も離れた260万光年の直径をもつ銀河団の暗黒物質を写した写真がテレビで公開されていました。それは50億年前の宇宙の姿を映していることになります。
この宇宙は広がり続けていると言われますが、それでは、原初のビックバンとも呼ばれる巨大なエネルギーはどのように生まれたのでしょう?その始まりを推測できたとしても、その発生を科学的に説明できる人がいるでしょうか?
「自然」とは本来「じねん」と呼ぶ仏教用語で、「おのずからしからしむ」という創造主の存在を否定する概念です。しかし、何の素材もエネルギーもない所に宇宙が自然に誕生するのでしょうか?
聖書は大空に広がる世界を神の「御手のわざ」と呼び、「大空は御手のわざを告げる」と述べます。
「昼は昼へと 話を取り次ぎ 夜は夜へと 知識を伝える」とは、今日の昼の世界も、夜の星空も、翌日にはその継続の状態が再び見られることに、「ことづて」が確実になされているかのような驚異の念を抱くものです。
この世界では、急にパソコンや車が動かなくなったり、愛する人が突然いなくなったり、リストラにあったりなどが日常茶飯事とも言えます。ところが、神の御手のわざは、変わることなく存在し続けています。
この継続性こそが、何よりの驚異ではないでしょうか。たとえば、私はエルサレムでイエスの十字架の道を歩んだとき、そこにある石畳や町並みに二千年前の姿を思い浮かべることはまったくできませんでした。しかし、イエスが歩んだかもしれない海辺で、地中海に沈む夕日を見ながら、主もまったく同じ風景を見ていたのだろうかと思い、何とも不思議な感動に包まれました。
預言者エレミヤは、「主(ヤハウェ)はこう仰せられる。もしあなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られる」(エレミヤ33:20,21)と書き記しました。
つまり、昼と夜の繰り返しや季節の規則的な移り変わりは、神がノアとの契約を真実に守り通しておられることのしるしなのです(創世記8:22)。それを、「地球の自転によって起こっているだけ……」と説明したとしても、その規則性自体が驚異ではないでしょうか。それは「自ら回転して」というより、創造主によって丁度良いスピードで「回転させられている」ということなのです。
かつて、いわゆる天動説を主張した人も、地動説を主張した人も、互いに矛盾しているようであっても、すべてが神の御手にあって起こっていると解釈した点では同じでした。私たちは、その原点に立ち返る必要があります。
その感動が続けて、「話もなく ことばもなく その声も聞かれないのに その響きは 全地を覆い そのことばは 世界の果てに及ぶ」と歌われます。神が大宇宙を通して私たちに語りかけることばは、人間の言語の枠を超えながらも、そこには明確なメッセージがあるというのです。
それを聞くことができなかったので神を知ることができなかったという言い訳が成り立たないという霊的な事実を、使徒パウロは、このみことばを引用しつつ、「その響きは全地に、そのことばは、世界の果てまで届いた」と記しています(ローマ10:18)。
なお当時の人々は、太陽が天の果てから昇ってきて、天の果てに沈み行くのを見て、夜の間、どこかで休んでいるかのように考えました。この太陽をエジプトでは神としてあがめていたその同じ時代に、この詩篇作者は、「太陽のため 彼(神)は そこに幕屋を張られた」と述べて、そこには創造者の配慮があると述べたのです。
しかも作者は、「神が」という主語を敢えて隠しながらも、それが自然ではないと説明します。そればかりか天空を巡る太陽の姿を、「それは花婿が住まいを出るように 勇士のように その道を喜び走る」と描きます。それは、「花嫁」を迎えに行く「花婿」の喜びにたとえたものです。
さらに、「その昇るところは天の果てから その軌道は 天の果てまでおよぶ その熱をこうむらないものはない」と、太陽が全地の上をくまなく行き廻り、その熱が何にも遮られることなく、全世界に及ぶという圧倒的な力が描かれます。
夜空も太陽も無言のままですが、それらすべてが私たちに何らかの驚異の念を起こさせます。そして、この詩篇作者も、敢えて「神が……」という主語を省いて、ことばを超えた神秘を味わうようにと招いています。
世界は、ことばや理屈が多すぎるのかもしれません。自分の知恵で世界を把握しようとするのではなく、これらの被造物を通して、神が発しておられることばにならない「ことば」を味わって見るべきでしょう。
人間の知恵と力が作った巨大な建物、また、他の人の成功や失敗、またあなたへの賞賛や中傷ばかりに心を向けていると、そこではあなたの存在価値が、「どんぐりのせいくらべ」のような空しい比較の中で計られていることに気づくことでしょう。私たちは人の働き以前に、神の御手のわざをただ静かに味わうときが必要なのではないでしょうか。
私は自分の歩みを振り返りながら、「何であんな些細なことに心を苛立たせていたのだろう」と思うことがあります。しかし、問題の渦中にいたとき、それが命を賭けるに値する大問題かのように思え、周りの人を振り回し、愛の交わりを壊してしまったことがあったのかも知れないと思います。
それは、自分の「こころ」の視野が、人間の働きばかりに向けられ、あまりにも狭くなっていたからです。
ある方のご主人は突如、若年性認知症を患い、それに気づかないまま、経営していた優良会社を倒産させてしまいました。彼女は、全財産を失います。同時に肺癌が再発し、それまでの生活が嘘のような団地暮らしに入り、その空き地で、夜、寂しさと不安に圧倒されていました。
しかし、夜空を眺めながら、ふとこの詩篇のことば、「天は神の栄光を語る」が心に浮かんできました。そのとたん、「この宇宙を支配しておられる神様が私を守ってくださる……」という安心感に満たされ、涙が出てきました。そして、元気に朝を迎えたところ、「大空は御手のわざを告げる」とのみことばがまた浮かび、感謝の祈りができたとのことです。
その後、その体験をもとに、認知症家族の会というのを立ち上げ、その名を「大空」と命名しました。地上の富を失うことで、神の圧倒的な恵みに気が付き、他の人の苦しみに寄り添う働きを始めることができました。
2.主(ヤハウェ)の語りかけを聴く者の幸い
それにしても人は、世界の驚異を感じるところから偶像礼拝に走る傾向があります。日本でも人々は、山や太陽や月や星に向って祈りをささげ続けてきました。それで神はご自身のことを聖書を通して知らせてくださったのです。
7-9節では、「主のみことば」が、六種類の表現で、「主(ヤハウェ)の……」と描かれます。
第一は「主(ヤハウェ)のみおしえ」です。これは原文で「トーラー」と記され、新約はそれを「律法」と訳しますが、多くの場合はモーセ五書を指しました。そこには神ご自身の自己紹介と恩知らずな人間への関わりの歴史が記されています。
その核心は天地万物の創造主がこの私たちを「恋い慕ってくださった」(申命記7:7)ということです。その内容はまさに、「完全で たましいを生き返らせ」と言える圧倒的な力の書です。
第二は「主(ヤハウェ)のあかし」ですが、それは「あかしの幕屋、あかしの箱、あかしの板」を連想させ、神ご自身が民に直接語りかけた「十のことば」を意味するとも考えられます。それは「確かで 無知な者を賢くする」と記されるように、どれほど無知な人でさも理解できる神のみこころの中心だというのです。
第三は、「主(ヤハウェ)のさとし」で、これは具体的な「指示」を意味します。私たちが物事の本質が見えずに迷っているとき、主のみことばは発想の転換を示し、私たちの心に感動を呼び起こすことができます。そのことが「主のさとしは正しくて こころを喜ばせ」と記され、「こころ」への影響力に目が向けられます。
第四は、「主(ヤハウェ)の仰せ」で、これは軍隊の「命令」などにも用いられることばです。世の王は、しばしば、自分の身を守るために家臣を危険に追いやることがあります。しかし、主の命令は私利私欲の汚れから自由であり、真に「きよらか」なものなのでに、私たちの「目を明るくする」ことができるというのです。
第五は、「主(ヤハウェ)の恐れ」で、前後関係からすると新改訳2017のように「主からの恐れ」と訳すこともできますが、意味的には、「主を恐れる道は純粋で いつまでも続き」とする方が分かりやすいと言えましょう。「主(ヤハウェ)を恐れることは知識の初め」(箴言1:7)とあるように、それこそが永遠のいのちの原点です。
第六は「主(ヤハウェ)のさばき」です。「さばき」はしばしば、権力者に甘く、社会的弱者に厳しいのが常でしたが、それは「まことであり ことごとく正しい」というのです。主はやもめやみなし子の味方であると、繰り返し語っておられます。自分の弱さを覚える者にとって、「主のさばき」こそは「救い」だったのです。
「金にまさり 多くの純金にまさって 慕わしく 蜜よりも 蜂の巣のしたたりよりも 甘い」(10節)とは、これら六つの表現すべてのまとめで、聖書こそが最高の宝、こころの最高の栄養、活力なのです。ある牧師は、律法(トーラー)を長らくそのように見られずにいたけれども、小生の本で目覚めたと感謝くださいました。
そして作者は、自分を「あなたのしもべ(奴隷)」(11節)と呼びつつ、「これによって 教えられ これを守る中に 大きな報いがある」と告白します。人間の主人は自分のために奴隷を用いますが、創造主はこれによって私たちを「教え」、ご自身との豊かな交わりを築かせ、そこに大きな報いを約束しておられます。
私は神学校で学び始め、涙ながらの感動的な証を聞いたとき、かえって「僕のような生ぬるい信仰者はここにいるべきではない……」と悩みました。たとえば一年先輩の方は、証券会社の個人営業で迷惑をかけた顧客に、自分の貯金すべてを使って弁償し、無一文になって神学校に入って来られました。
一方の私は十分な貯えをもとに不自由なく神学書を買い集め、ブルジョア神学生と揶揄されながら学びを始めていました。その余りの違いに悩んでしまったのです。
そのときその神学校の創立者が優しく、「あなたはみことばに感動したことがありますか?」と聞いてくださいました。私は、「もちろんです。それで僕はここに来たのですが……」と答えました。先生は、「それで十分ではないですか」と言ってくださいました。
私のこころはどんなに暗く、みじめでも、主(ヤハウェ)のみことばは、そこに愛の火を灯すことができます。私たちは、「信仰」を人間的な意志の力かのようにとらえ、主のみことばにある創造の力を過少評価してはいないでしょうか。
3.すべての罪の始めは高慢である
「だれが数々のあやまちに気づくことができるでしょう」(12節)とは、「無意識のうち」に犯してしまう神と人とに対する罪とを指しています。人は基本的に他人の過ちには敏感なのに、自分の「あやまち」に関しては驚くほど鈍感になり、「私は結構良い人間だ……」と思い込みながら人を振り回し、傷つけたりしています。
作者はそのような「数々のあやまち」を思いながら、「その隠されているものから 私をきよめてください」と祈ります。
使徒パウロも「私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です」(Ⅰコリ4:4)と告白し、自己正当化を避けました。
そして続けて、「このしもべの高慢を抑え 支配させないでください」と祈ります。サタンは、「いと高き方のようになろう」(イザヤ14:3)と願って天から落ちた御使いです。また最初の人アダムは、「あなたがたは神のようになる」(創世記3:5)という誘惑に負けて、食べてはならないという言われた木の実を取って食べました。
ですから、「人間における高慢の初めは神から離れることである」「すべての罪の始めは高慢である」(シラ書10:12、13)とアウグスティヌスが外典を引用しつつ語ったこと(「自然と恩恵」29章)はまさに真実でしょう。
それにしても、「より強く、より美しく、より賢く、より豊かに……」と願うこと自体は決して悪いことではありません。「糸の切れた凧」のようにならないように、しっかりと創造主につかまえていていただくかぎりは、そのような向上心こそ、神と人とのために豊かに用いていただくための成長の鍵となります。
ただ、そこにある落とし穴は、「何のために」という人生の目的を忘れることにあります。向上心が、人を見下し、神を忘れるような方向に向わないように、「高慢を抑え 支配させないでください」と祈る必要があるのではないでしょうか。
そして、私たちがこの根源的な「高慢」の罪から守られるなら、「それで私は完全にされる」というのです。
つまり、自分が、生まれながら、神が創造された世界に包まれ、生かされている存在であることを意識し、また、神のことばなしには、生きる意味も目的も理解できず、与えられたいのちを真の意味で輝かせることができないことがほんとうに分かるなら、そのときこそ、神が願われる「完全」の基準に達したことになるというのではないでしょうか。
なお、その「完全」とは、「完璧」というより目的に合致するという意味です。
そればかりか、そのとき同時に「私は」、先の無意識の「あやまち」ばかりか、「大きなそむき」という意図的な罪からも「きよめられる」と述べられます。「そむき」とは、「しもべ」としての生き方を捨てることを意味するからです。
私たちは、何としばしば意図的に神に逆らい、また人を傷つけてしまうことでしょう。実は、心の奥底には、神のみこころにかなったことを敢えて望みたくはない自分がいるのです。
それゆえ、作者は、私たちの心が変えられる根本は、何よりも「高慢」の問題であると断言しているのです。そして神は、私たちを適度な試練に合わせることによって、高慢な思いを砕き、謙遜にし、人生を変えてくださるのです。
そして最後に、「この口のことばと心の思いとが 御前に喜ばれますように」と祈られます。作者ダビデは詩篇51篇17節で、「神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心」と述べています。
何か大きな働きを成し遂げることよりも、高慢を砕かれた「こころ」こそが、神の御前で喜ばれるものなのです。
私たちには、思い通りにならなかった人間関係や様々な苦しみの中で、「どうして……」と思うことも多くあることでしょう。しかし、それらがなければこの私は自分の罪も神の恵みも知ることができなかったように思います。
最後に作者は、「主(ヤハウェ)」という御名を七度目に呼びながら、その方こそが、「私」が拠り頼むべき「岩」、人生の基盤であること、また「私の贖い主」であると告白します。
それは同時に、「空中の権威をもつ支配者」(エペソ2:2)であるサタンの支配から、また「罪と死の律法」(ローマ8:2)からの解放を意味しています。
ところで、私は自分の頭上に広がる広大な宇宙を見上げながら、「この銀河系は六十億年後にはもっとも近いアンドロメダ銀河と衝突することになる……」などと、天体の法則を分ったようなつもりになって、なお高慢になることがあります。
また、モーセ五書を読んで感動する代わりに、愚かにも、「私はこの難解な書に関しての良い本を書けた……」などと高慢になることがあります。それは天に目を向ける代わりに、それを見ている自分を意識し、また聖書に没頭する代わりに、それを読む自分に目が向っているからです。
今も、多くの人々から慕われ、尊敬されている約八百年前のアシジのフランシスコは、父親から受け継ぐことができる財産をすべて放棄して、粗末な毛皮一枚の裸に近い状態になったときに、神が創造された世界の美しさに心から感動して、喜びに踊りだしました。そればかりか、この世界全体が神への賛美を奏でているその声を聞くことができたといわれます。
私たちも、自分が持っているものではなく、神が一方的に日々与えてくださっている恵みにこそ目を向けたいものです。そのために、私たちは、これらの意味を頭で考えるよりは、空を見上げつつ、歩きながら、また野に臥せりながら、この詩を口ずさみ、歌うべきではないでしょうか。それこそが、自意識過剰への最大の処方箋と言えましょう。
神は御手のわざと御口のことばによって、あなたに今も語り続けておられます。それに「こころ」をゆだねることこそがすべての始まりです。
私たちは信仰生活における自意識過剰に目を見張る必要があります。そこから信仰の比較が生まれ、パリサイ人のように自分を誇る自己義認の傲慢か、反対に不信仰を卑下する自己嫌悪につながります。
神は不信仰なままのあなたを召して、その「こころ」に信仰を芽生えさせ、生きる意味と目的とを与えてくださったのです。
何よりも神の御手のわざに感動した「こころ」を、また、神のことばによって罪が示され、慰めや希望を与えられた原点を思い起こしましょう。信仰はすべて神の語りかけに対する応答なのですから。