宗教改革を超えて

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2018年冬号より

2017年10月31日には、宗教改革500年記念日が全世界中で祝われました。日本でもこの記念日に合わせて「聖書新改訳2017」が発刊されました。様々な方々から、「とても読みやすい日本語になった……」との、感謝の声が上げられています。ごくごく一部に過ぎませんが、翻訳改定の働きの端に加えていただいた者としては、何かほっとした感じを味わっています。

宗教改革の何よりの意義は、聖書を一般民衆が読めるように、日常用語を用いて翻訳したことにあります。ただ同時に、一般的には、「人は、行いによってではなく、信仰によって救われる」という「信仰義認」の教理の再確認こそが、宗教改革の精神であると言われます。私自身は未信者であったときから歴史の教科書や倫理の学びでその教えの大枠に関しては、聞きかじっていました。そのため、学生時代に米国で信仰告白に導かれ、帰国してから福音的な教会に馴染めなかったときになって、マルティン・ルターの精神をダイレクトに引き継いでいると思われるルター派の教会を電話帳で探して、集うようになり、そこで結婚にも導かれました。

ただ、ドイツで生活するようになったとき、国教会の流れに疑問を持ち、「聖書を誤りのない神のことば」と信じる自由教会に移りました。その際も、自由教会が、本質的な意味においては、ルターの宗教改革の精神の原点を引き継いでいるということを確認した上でのことでした。私自身はいつも自分の不信仰や自己不全感に悩み続けていたので、一方的な「主の選び」と「主のあわれみ」を強調するルターの聖書解釈は大きな慰めになりました。

しかし、聖書を読めば読むほど、このままの私が「神の子」とされていることの背後には、主からの期待と使命があることに気づくようになりました。この世界には不条理と争いが満ちています。「罪の赦し」の福音とともに、神の公正な支配(さばき)を積極的に待ち望む必要が示されました。ルターの時代の最大のテーマは、「神の怒りからの救い」にありました。そこでは、神は私たちの罪に怒っておられ、その神の怒りが御子の十字架の犠牲でなだめられる必要があったと言われます。宗教改革の直接的な原因は、カトリック教会が煉獄の苦しみを軽減させるための免罪符(贖宥状)を販売したことにあります。ただし、もともとそのようなものが登場した背景には、当時の人々が死後の裁きに心から怯えていたという現実があります。それに対して、ルターもカルヴァンも、神がキリストにおいて私たちを圧倒的な恵みであわれんでくださったことを強調しました。

私はこの枠組み自体を否定するつもりはありませんが、それは聖書が描く神の救いのご計画の一部に過ぎないように思えてきました。神は、私たち一人ひとりのたましいの救いと同時に、この世界を神の平和(シャローム)で満たすことを望んでおられます。

たとえば、イザヤ11章では、「エッサイの根株から新芽が生え」に始まる「救い主」預言が、直接的に、「彼は子羊とともに宿り……獅子も牛のように藁を食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす」(6-8節) という弱肉強食のない神の平和(シャローム)をもたらす働きにつなげられています。そしてイザヤ42章に描かれたキリスト予言では、以前の訳では、「彼は国々に公義をもたらす……彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる」と記されていました (1、4節)。そして、これが新改訳2017版では、「彼は国々にさばきを行う……衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する」と訳されています。つまり、以前の訳で、「公義」と訳されていたことばが、「さばき」と訳しなおされているのです。それは、ヘブル語の原語からしたら、「公義」ということばが、本来のニュアンスを曖昧にしているからです。

日本語においても本来の「さばき」の意味は、「裁判」と並んで、「処置すること、取り扱い、管理」という意味がありますが、ヘブル語でも中心的な意味は、神の公正なご支配、「治めること」を意味します。ですから、詩篇96篇では、「主は公正をもって諸国の民をさばかれる」ということばに続いて、「天は喜び、地は小躍りし……森の木々もみな喜び歌う」と、神の「さばき」が全世界の被造物の喜びの理由として描かれているばかりか、世界の希望が、「主は義をもって世界をその真実をもって諸国の民をさばかれる」と表現されています (10-13節)。

これによると、「主のさばき」は、私たちが恐れる対象ではなく、それこそが福音の核心なのです。それはこの世界の不条理が正されるときです。私たちはこの世界で「うめき」ながら、世界が神の平和(シャローム)に満たされることを待ち望んでいます (ローマ8:18-24)。

このように、「神のさばき」ということばを、私たちが恐れるべきこと以上に、神がこの世界を完全に治めておられ、それを完成に導く「神のご支配」と理解するなら、福音の理解が、個人的なたましいの救いを超えて、この世界に対する私たちの使命に結びついてきます。

残念ながら、この世界では、「不条理を速やかに無くそう」と願う熱い思いが、新たな争いを生み出してきました。アドルフ・ヒトラーは、実際には、ドイツの失業問題を驚くほど速やかに解決しました。また、北朝鮮の政権の初期においても、奇跡の経済回復が見られました。事実、1960年台の日本では、北朝鮮が理想の国かのように報道され、多くの人々が北朝鮮に帰って行ったという現実があります。しかし、その反対に、争いを必死に避けようとした政治指導者の軟弱な対応が、昔のヒトラーや最近の北朝鮮の動きを増長させることになったとさえ言われます。残念ながら、この世界では、平和を熱望する人が、皮肉にも戦争の原因を作り、反対に、武カをも辞さないという断固たる態度が、力の均衡による平和を生み出してきたという逆説が見られることがあります。つまり、この世の政治には、いつも「あちらを立てれば、こちらが立たず」という矛盾がつきものなのです。それに対して、「神のさばき」は、人の想像を超えた歴史の動きを生み出します。

このような矛盾のただなかで、私たちに何よりも求められていることは、自分の正義を振りかざして周りの人々や、その時々の政治を批判する前に、自分の置かれている場で、誠実に、今ここで問われていることに、真摯に対応することです。それこそが、「神のさばき」に信頼する者としての歩みです。宗教改革の原点は、個々人の罪の赦しでした。それは確かに、私たち一人ひとりに人格の尊厳の意識と心の平和を生み出しました。それは本当に画期的なことでした。

しかし、残念ながら、その改革運動が、この世界の様々な矛盾に、私たちがどのように対処すべきかという、方向を示すことにはつながらなかったという現実があります。事実、昔の米国の奴隷制度や南アフリカの白人による強権的支配は、その時代の福音的なクリスチャンによって正当化されてきたという現実すらあります。個人のたましいの「罪の赦しの福音」だけでは、この世界の問題は解決されません。聖書にある、より幅の広い福音理解を知ることができるように努めましょう。それこそが宗教改革五百年を超えた、この時代の教会に課せられた課題と言えましょう。