2017年11月19日
私たちは父、御子、御霊の三位一体の神の愛に包まれて生きています。それを、「キリストのうちにある生活」と呼ぶことができます。
私たちは今、イエス・キリストの弟、妹として、その傍らに置いていただき、イエスの父なる神に向かって、「アバ、父」と呼びかけることが許されています。しかも、そのような祈りを起こしてくださるのは、私たちのうちに住んでくださっている「聖霊」ご自身です。「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と告白することはできません」(Ⅰコリント12:3)と記されているからです。
信仰は徹頭徹尾、神から始まっているのです。
今年は宗教改革500周年ですがN.T.ライトは、「もしルターが、宗教改革の基本教理をガラテヤ書やローマ書からではなくエペソ書から語っていたらその後の世界が変わっていたかもしれない……」とまで述べます。
当時の改革者は、カトリックの煉獄の教えを否定することに忙しすぎて、私たちの救いのゴールに関しての当時の人々の誤解を正すことまではできませんでしたが、エペソ書は個人の救いよりも宇宙的な救いの物語を語っています。
1.「神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び」
パウロはまず自分を、「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ」(1:1)と位置づけます。これは自分の使命が自分の意思からではなく、神の「意思(みこころ)」によって与えられたものであるとの宣言でもあります。
そして、この手紙の受取人を、「キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ」と描きます。「聖徒」とは、幕屋礼拝における祭司の務めに相当する立場で、その人が高潔な人格者であるなどというのではなく、神に近づくことを許されている者、聖なる神の領域に招かれた者という意味があります。「忠実(真実)」というのも、キリスト・イエスを信じている者という意味です。
もしパウロが私たちに手紙を書いたとしたら、「キリスト・イエスにある忠実な東京の聖徒たちへ」と書いたことでしょう。キリスト者はみな、聖徒であり忠実な者と、神の目から見ていただけるのです。
また、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように」(1:2)ということばに三位一体の神秘が隠されています。
まず、万物の源であられる創造主であられる神が、「私たちの父」と呼ばれ、イエス・キリストは、私たちにとっての「主」であると告白されています。神の御名を呼ぶとき、「父なる神」と「主イエス」のお二方を思い浮かべ、その方から特別な「恩恵」を施していただいていること、また、御父と御子との愛の交わりの中に招かれているという圧倒的な「平和(平安)」をいただけるということを受け止めるべきでしょう。
その神秘が14節まで続くパウロの祈りと賛美の冒頭のことばに現わされ、神が「私たちの主イエスの……の父」と呼ばれます(3節)。
そしてその方が「ほめたたえられ(祝福され)ますように」と祈られますが、その同じ「祝福」ということばで、「神はキリストにあって、天上(複数)にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」と言われます。神が祝福されることと私たちが祝福されることがつながっているのです。
しかも、「霊的」とは「御霊に属する」という意味で、「天上にあるすべての霊的祝福をもって祝福する」とは、神が与えてくださるものが地上の枠を超えた、創造主なる御霊に属する人知を超えた「祝福」を意味し、その内容が続いて説明されます。
「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです」(1:4)というのは途方もない宣言です。残念ながら人はときに、「こんな親のもとに生まれたせいで……」とか、「こんな、ど田舎に生まれたせいで……」などと自分の出生を恨んだり恥じたりして生きています。
大雪山のふもとで育った僕にとって、小学生の頃は、「東京の人」というだけで、何かまぶしい存在に思えたものです。しかし今は、自分は神の不思議なご計画の中で、あのど田舎の貧しい農家の長男として誕生するように選ばれていたのだと思うことができます。すると田舎がとってもいとおしく、美しく見えてきました。また父親を受け入れるに連れ、父に似た自分の性格や体形や歩き方まで受け入れることができるようになりました。
しかも、そのように自分を受け入れられたすべての基本は、自分をキリストのうちにある者として見ることができたということにあります。
そして原文では続けて新改訳5節の終わりの「愛をもって」ということばが4節の終わりに記されます。つまり原文の流れでは、「御前に聖なる、傷のない者とされる」ために、「愛をもって、ご自分の子にしようとあらかじめ定めておられた」と記されているのです。
しかも、「ご自分の子にしようと」とは一つの単語で、神が私たちをご自分の一人子イエスと同じ「立場に置く」という意味です。それは同時に、「聖なる、傷のない者とされる」ことをも意味しています。何と神は私たちをまるでご自身の御子イエスと同じように高価で尊い者として見てくださるのです。
ある牧師家庭で三人の実子の後に、ひとりの養子を受け入れていますが、養子と実子に本当に何の違いも感じないとごく自然に言っておられました。
しかも「子の立場に置く」ことは、「イエス・キリストを通して」なされると記されます。それは人の敬虔さや努力を越えた神の一方的なみわざによって、神が「ご自身のために」、「みこころの良しとするところにしたがって」行われるというのです。
しかも、これらはすべて「キリストにあって」(3節)、「この方にあって」(4節)、「イエス・キリストを通して」(5節)行われるのです。すべてのことが、神「ご自身のために」行われ、私たちひとりひとりの出生以前から死後のいのちまでのすべてが、「キリストのうちにある」というのです。
たとえば、「小さないのちを守る会」における養子縁組の推薦や受け入れにおいては、その子がどんな親の遺伝子を受け継いでいるかなどの評価は一切行われません。すべてはただ養子を迎えたいという意志に基づきます。イスラエルの選びがその資質によらなかったように、私たちが選ばれるのも能力や資質の判定によるものではありません。
「キリストのうちにある生活」とは、自分の罪を嘆く以前に、天地万物の創造主のかけがえのない子とされたという自覚と誇りをもって生きるということです。その順番が逆になると内省と自己吟味ばかりが先行する神経症的な信仰になってしまいます。
罪の自覚は、本来、その神の愛に応答できていないという反省から生まれます。それは私たちがときに、世の人々の歓心を得ようと卑屈になったり、世の流れに巻き込まれてしまうという自覚を持つことです。
しかも、神の子の立場は、自分の努力で勝ち取ったものありませんので、決して失う心配もありません。
パウロが、神が「ご自身のために」、「世界の基の置かれる前から……」と言うとき、そこには、「お前の運命は、何億年も昔から定められていた」という冷たい雰囲気は一切ありません。
このことばは、私たちの人生が、海に浮かぶ小船のように、そのときそのときの、まわりの環境によって徹底的に左右されるもののように感じられる現実の中で、それ超えた霊的な現実を示すものです。
既に与えられた「永遠のいのち」は、時間も空間も越えた神の御手の中に包まれ守られています。この世のいかなる力も、このいのちを奪うことはできません(ローマ8:38,39)。
2.「一切のものが、キリストにあって、一つに集められる」
そして、私たちの救いが、永遠の中で予定されていたことの意味が、「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです」(1:6)と説明されます。そこにこそ世界の存在の意味、また私たちの人生の目的があります。
17世紀の英国の改革派諸教会の合意としてまとめられたウエストミンスター大教理問答の第一では、「人間のおもな、最高の目的は何であるか」との問いに、「人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである」と答えるように導かれています。
なお、6節では3節にあった「キリストにあって」という表現が、「その愛する方にあって」と言いなおされています。そこには御父と御子との永遠の愛の交わりが示唆されています。それを前提に、「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています」(1:7)と記されます。イエスの血は、神との永遠の愛の交わりのうちにある方の貴い「血」なのです。
しかも、「贖い」とは何よりも代価が支払われて奴隷状態から解放されることを意味します。それは、イスラエルがかつてエジプトの奴隷状態から解放されたことを意味し、その後は、バビロン捕囚からの解放であり、当時はローマ帝国の剣の支配からの解放を意味していました。
それが、「背きの罪の赦し」と言われるのは、バビロン捕囚以降のイスラエルの隷属状態が、彼らの罪の結果だったからです。そして、全世界的にはすべての人間が死の力の支配下に置かれているのは、エデンの園におけるアダムの罪の結果だからです。
なお7節にあった「背きの罪の赦し」は、私たちの生活の中に具体的にどのような変化をもたらしているのでしょう。そのことが7節bから10節に記されますが、これは非常に複雑な文章で次のように訳すことができます。
「これは神の豊かな恵みによることです。それを、神は私たちにあふれさせてくださいました。まさに、あらゆる知恵と思慮とをもって、ご意志の奥義を知らせてくださったことです。
それは、この方にあって、神があらかじめ喜びとされ、お立てになったもので、時が満ちて計画が実行されるものです。
それは、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。天(複数)にあるものも地にあるものも、この方にあってです。」
多くの人は、「罪の赦し」というと、死んでも天国に行けることと考えがちですが、ここでは何よりも、今まで明らかにされてこなかった「奥義(mystery)」が、今、気前よく私たちに知らされたことであると記されます。それは人間的な「知恵と思慮」を越えたことで、旧約聖書にさえ明確には記されていなかったことです。
新約の福音は、一見、単純に説明できる面もありますが、そこに今、圧倒的な恵みとして啓示された「奥義」は、人知をはるかに超えた、これまで隠されていた、神のご「計画」なのです。
そして神のご意志による「奥義」の内容とは、「一切のものが、キリストにあって、一つに集められること」であるというのです。「キリストにあって」という真理こそが奥義と言えます。
申命記28章~30章に記されているように、神はモーセを通してイスラエル民に「祝福とのろい」の選択を迫りましたが、愚かにも彼らは「のろい」を選び取り、国を失ってしまいます。しかし、彼らが捕囚とされ、散らされた国々で神に立ち返るとき、神は彼らをあわれみ、彼らを再び「(ひとつに)集め」、約束の地での祝福を回復してくださると約束されていました(申命記30:1-6)。
それがここではキリストにあって「ひとつに集められる」というのです。それがこの新約の時代には、ユダヤ人ばかりか、異邦人を含むより大きな枠で実現するということで、神に逆らってエデンの園から追い出されたアダムとエバの子孫であるすべての人間に適用できることでもあるというのです。
私たちも自業自得の罪で、放蕩息子のような苦しみを味わい、そこでまことの神に立ち返るということがあります。神はそのような放蕩息子や娘たちをあわれみによって集め、「新しいエルサレム」に招き入れてくださいます。
ただし、「新しいエルサレム」というと、天国のイメージが抱かれがちですが、ここでは「天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められること」として、救いのゴールが示されています。
それは私たちがこの矛盾に満ちた世界から解放されて、魂が天国に憩うということではなく、この地の様々な矛盾ばかりか、天と地の間にいて人を神から引き離そうとするサタンの働きという霊的な世界を含めたすべての矛盾や問題が、「キリストにあって」解決されることを意味します。
それは、イエスが主の祈りで教えられたように、「神のご支配(国)がこの地に実現すること」、つまり、「神の国」の完成のことです。それは神が、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」(イザヤ65:17)と言われた世界が実現し、神の平和(シャローム)がこの地に満ちることです。
それは、この地がサタンに惑わされた人々の自己中心的な権力機構によって歪められている状態が正されることです。当時のユダヤ人はローマ帝国の支配から独立したダビデ王国の実現を待ち望んでいましたが、そうではなくキリストの支配が天と地のすべてに及ぶことです。
またすべての権力が、「王たちの王、主たちの主」(黙示録17:14、19:16)であるキリストに従う世界が実現することです。それこそ旧約で隠されていた「奥義」なのです。
なお、3-14節は原文では長い一つの文章になっており、そこには「キリスト(のうち)にあって」と明確に記されている文節が三回登場します(3,10,12節)。また、「この方にあって」ということばは6回です。この二つを合わせると9回、さらに6節では「愛する方にあって」という表現もそれに加えてあります。
つまり、私たちの「救い」とは、「キリストのうちにある者」とされたこととして描かれており、それがさらにこの目に見える全世界が、「キリストのうちにひとつに集められる」こととして描かれているのです。
私たちは自分に与えられた「救い」を、民族的、文化的、社会的な束縛の枠を超えた、「キリストのうちにある生活」として再定義する必要があるのではないでしょうか。
3.「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です」
そして11節と14節では、「御国を受け継ぐ」と訳されていることばがありますが、原文では「御国」という目的語なしに「受け継ぐ」とのみ記されています。なぜなら、「神の国を受け継ぐ」と明確に記すと、一人一人の「神の国」のイメージが先行するからではないでしょうか。
「救い」は、地上のダビデ王国の実現や、肉体が死んで魂が天国に憩うことなどに留まらないからです。それは10節の「キリストにあって、一つに集められる」世界のことを指します。そして、11-14節も以下のように訳すことができます。この訳によって、原文の強調点が明らかになります。
「この方にあって、私たちは受け継がせていただくことになったのです。それはあらかじめ定められていたことで、すべてをご意志の計画のままに働かせる目的に従っているのです。
それは前からキリストにあって望みを抱いていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者とされるためです。
この方にあってあなたがたも真理のことばを聞きました。それはあなたがたの救いの福音であり、また、この方にあって、信じることによる約束の霊によって証印を押されました。その方は聖なる方です。
その方は、私たちが受け継ぐことの保証(頭金)です。それは私たちが神の所有として贖われ(解放される)までのことです。それは神の栄光がほめたたえられるためです。」
ここでの中心は、私たちが未だ最終的な「贖い」または「解放」を見てはいないけれども、すでにそれを「保証」する頭金が支払われているということです。
それはまだ家のローンが残っているにも関わらず、「保証金」(頭金)を支払ったので、その家での生活を自分の所有物として満喫できるようなものです。または頭金を支払ったので、まだローンの残っている高級車を走らせて喜ぶことができるようなことです。
そして、「聖霊」こそがその頭金のようなもので、私たちはその約束の御霊によって、来るべき世のいのちを今から味わい、喜ぶことができます。
なお当時は、ユダヤ人でもない異邦人に、律法の行いを越えて神の選びが広げられるということは、奇想天外なことでした。しかし、彼らにも聖霊のみわざが示されたとき、ユダヤ人クリスチャンも、異邦人に対する神の選びの計画を認めざるを得なくなりました。
ここで、「約束の聖霊によって証印を押された」と記されていることは、婚約指輪を授けられたこととも言えます。聖霊ご自身が、将来の小羊との婚宴を私たちに保証してくださいました。
また、「約束の聖霊」とあるのは、預言者イザヤもエレミヤもエゼキエルも、イスラエルの民に聖霊が与えられ、彼らが真心から神の教えを喜び、唯一の神だけを礼拝するようになるという日の到来を約束していたからです。「聖霊」は、「神の国」の完成に招き入れられる身分証明書のようなものです。
そして、私たちが自分の罪を認め、十字架にかけられた方を、自分の人生の主であると告白している中に、神の民とされたことの証明がみられるのです。
11節の「受け継ぐ」に続くことばは、5節の冒頭と同じように「あらかじめ定められていた」ですが、ここではさらに、「すべてをみこころ(ご意志)による計画のままに行う方の目的にしたがっている」と記されています。
強調点は、神の意志は必ず実現するということです。ここで「行う」と訳されていることばの原語は「働かせる」とも訳すことができる「エネルゴン」というギリシャ語で英語のエネルギーの語源となったことばです。
義人ヨブは、途方もない苦難に会いながら、その意味を神に尋ねました。そのとき神は、ヨブに災いの理由を説明する代わりに、ご自身の全能性を示されました。ヨブは、その後、災いのただ中に置かれながら、「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能でないことを、私は知りました」(ヨブ42:2)と告白します。そして何と、ヨブに目に見える救いが与えられるのは、その直後のことです。
そして、このエペソ書でも、聖霊による保証が与えられた理由は、最終的な「贖い」が実現していないという現実があるからと説明されます。そのことが14節では「それは私たちが神の所有として贖われ(解放される)までのことです」と記されています。
ただ、ヨブが災いの中に置かれながら、神のご意志、ご計画は必ず実現すると告白したことからすべてが変えられたように、私たちも旧約の預言者によって約束された聖霊を受けたものとして、神の救いのご計画、この世界の平和の実現がすでに確かなものとされていると信じて、神を喜ぶことができるのです。
「救い」は、「すでに」という部分と「まだ」という面の両方があるからです。
私たちの身体はまだ完全には神のものとされていないように見えます。ちょうど車のローンが残っているように、私たちはこの世の様々なしがらみになお縛られています。また、私たちの身体は自分の欲望に駆り立てられて様々な罪を犯します。
しかし、すでに、「聖霊」が「保証(頭金)」となっているので、私たちはこの世に属しながら、同時に既に、私たちの人生は神が自由に使ってくださるものとされています。ですから、聖霊を受けている私たちは、「新しい天と新しい地」のいのちが既に今から始まっているかのように、生きることができます。
そして、「永遠のいのち」とは、この世のいのちが永遠に続くことではなく、将来のいのちが今から始まっていることです。
しかもこれはすべて、「神の栄光がほめたたえられる」という目的のためです。このことばは、6節、12節、14節と三回も登場します。神はご自身の栄光のために、すべてのみこころを実現してくださるのです。
私たちは矛盾に満ちたこの地にあって、すでに「キリストのうちにある生活」の自由と喜びを味わうことができています。それは私たちの意志によって始まったことではなく、私たちの思いをはるかに超えた神の「選び」から始まったことです。
信仰生活の中心とは、神に対して何かをする以前に、神が私たちにためにしてくださったことを繰り返し味わい、それを感謝することです。私たちは生まれる前から三位一体の神の愛に包まれていました。
そして、このいのちを誰も奪うことができません。それと同時に、私たちは神が目的を持って私たちを選ばれたことを知る必要があります。
この世界は平和(シャローム)の完成に向かってはいますが、神は私たちのために働きの場を残していてくださいます。その働きは、ある意味で、すべて成功が保証された働きです。
私たちは自由に自分自身を神のご計画に差し出すことができます。この世の中は、自分の身を守ることに戦々恐々としている人々で満ちています。その中で、私たちは「永遠のいのち」をすでに与えられていることの自由を証しすることができます。