エペソ1章15節〜2章7節「私たちに与えられた救いとは」

2017年11月26日

会社勤めをしていた時、ついつい被害者意識で一杯になり、目の前の最低限の課題を果たすことしか見えなくなりがちでした。そんなとき上司から、「社長になったつもりで、もっと高い視点から自分の仕事を見なければならない」と言われました。実は、キリスト者として生きるとは、「イエス様だったら、どうされるでしょう(What would Jesus do?)」と問いかけながら生きることとも言えます。

私たちが「キリストのうちにある者」とされたのは、楽に生きられるためというよりも、矛盾に満ちた世界に遣わされるために他なりません。ダビデの生涯を見ると、サムエルから王としての油注ぎを受けた結果として、サウルから命を狙われることになり、散々苦しみました。しかし、ダビデはその試練を通して神との交わりを深め、イスラエルの王として整えられたのです。

そして聖書によると、私たちもイエスとともに新しい世界を治める王とされます。私たちがこの世で試練に遭うのは、帝王学の一環とも言えましょう。そして、私たちに与えられた「救い」とは、この世でイエスの大使とされた誇りを持ちつつ、イエスに倣って人に仕えるためなのです。

1.「神の大能の働き」が「キリストを死者の中からよみがえらせ……」

1章15,16節で、パウロはエペソ教会の人々の中に、「イエスに対する信仰と、兄弟姉妹への愛」を聞いているので、「私は……あなたがたのために感謝をささげることと、祈りにおいて覚えることを、やめることはありません」と言います(私訳)。

そして私たちが人のことを大切に思うことは、その人に関しての「感謝」を「祈りの中で覚え続ける」ということを「やめない」ということに現されるのではないでしょうか。

そして祈りの課題は、「神を知るための知恵と啓示の御霊を……与えてくださいますように」(1:17)というものです。

信仰の成長とは、何よりも真実の意味で「神を知る」ことですが、それは探求心の結果である以前に、神からの恵みとして与えられる「知恵と啓示の御霊」の働きによります。それこそが、新約の時代の恵みです。神の霊が「神を知る」ことができるにしてくださったのです(エレミヤ31:31、33,34参照)。

その上で、もっと具体的に「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって……知ることができますように」(1:18、19)と祈られます。

先の「神を知る」とは自分の側から理解するという面が強調されているのに対して、ここでの「知る」とは、「人と知り合う」というようなときに使われることばで、「自ずと明らかになってくる」という面が強調されていると思われます。それが三つの霊的な事実から記されます。

第一は、「神の召しにより与えられる望みがどのようなものか」です。「心の目」が開かれると、「神の召し」によって始まった生活が、人をどのような世界に導くかという「望み」が明らかにされます。

そして、その「望み」の内容が、第二に「聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか」が明らかにされるということで表現されます。これは10節にあった「一切のものが、キリストにあってひとつに集められること」であり、それは、キリストにあって、私たちに朽ちることのない身体が与えられ、新しい天と新しい地において、農作業や芸術活動を楽しみ、互いを喜ぶことができるような祝福に満ちた世界です。

私たちは今、様々な芸術活動を通して、与えられた「望み」の豊かさを「心の目」に見せることができます。

第三は、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか」を「知る」ことです(1:19)。そしてその「働く力」の源泉が、「神の大能の力の働き(エネルゲイヤ)によって」と説明されます。私たちは神を知性によって把握する以上に、自分のうちに「働く」神の力を体験的に知ることができるのです。

私たちが神のみわざに自分を開きさえするなら、肉の限界を超えたような働きをすることができます。それはマザー・テレサが大胆にも、「本当の貧しさを、神は満たすことができるのです。イエスの呼びかけに 「はい」と 答えることは、空っぽであること、あるいは 空っぽになることの 始まりです。与えるために どれだけ持っているかではなく、どれだけ空っぽかが 問題なのです」と語っているとおりです。

原文では先の「大能の力」を受けて、「それを神は、キリストのうちに働かせ(エネルゲン)て、彼を死者の中からよみがえらせ」(1:20)と描かれます。つまり、神の大能の力の働きは、何よりもキリストの復活の中に現されており、その力が信じる者にも働いているというのです。

そればかりか神は、復活のキリストを、「天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました」(1:21)とも記されています。

この背景にダニエル7章の記述があります。イエスがユダヤの最高議会で死刑判決を受けたもっとも直接的な理由は、大祭司からの「おまえは神の子キリストなのか。答えよ」という問いに対して、「あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、天の雲とともに来るのを見ることになります」と答えたことにありました(マタイ26:63,64)。

これはご自分をダニエル7章13,14節に記された救い主であることを証ししたのです。

そこでは、「見よ。人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は、『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」と記されています。

ここでパウロも同じような表現を用いながら、キリストこそが父なる神から全世界の支配権をゆだねられていると言ったのです。それはイエスのダニエル書引用に基づきます。

なおイエスの裁判で、大祭司はそのようにイエスがご自身の権威を主張されたことを聞いて、自分の衣を引き裂きながら、「この男は神を冒涜した……あなたがたは今、神を冒涜することばを聞いたのだ」と言いました。

キリストの発言は、まさに神への冒涜か、それとも真実であるかのどちらかでしかありません。私たちの信仰とは、私たちのためにご自身のいのちまで捨ててくださった方が、いまや、「王の王、主の主」として、全世界の支配権を父なる神からゆだねられていることを信じることにあります。

多くの人々にとってイエスは、愛の模範、また忍耐の模範であるかもしれません。しかし、イエスこそが今すでに、全世界を支配しておられるということは忘れがちではないでしょうか。イエスは、無力な捕らわれ人の姿をしながら、ご自身こそが父なる神からこの世界の支配を委ねられた「王」であると証ししたのです。

私はあるとき、「何で、こんな嫌なことばかりが続くのか……」と嘆きつつ、ヘンデル作「メサイヤ」を聞きに行きました。そこでハレルヤ・コーラスを聴きながら、一見、この地に暗闇が支配しているように思えても、すでに、天においては、イエスを「王の王、主の主」と賛美する声が響いているという霊的な事実が迫ってきて、身体が感動で震えたことがあります。

イエスはすでに全宇宙の支配者であられるのです。

2.神はすべてのものを、キリストのからだである教会に従わせた

ところで先のダニエル書の続きでは、しばらくの患難の後に実現する世界のことが、「聖徒たちが国を受け継ぐ時期が来た……国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する」(7:22,27)と描かれます。

つまり、キリストが全世界の王となることの延長に、クリスチャンたちも世界を治めることになると描かれるのです。

それを前提にパウロは、「神は、すべてのものをキリストの足の下に従わせ、この方をすべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はこの方のからだです」(1:22、23私訳)と記します。それは、「教会はキリストのからだであり、その方は、天上から地の上のすべて、今の世ばかりか次の世までのすべてを足の下に従わせておられる」という意味です。

つまり、「教会がキリストのからだであるなら、キリストが従えるありとあらゆるものが教会の下に従うことになる」のです。そして教会とはすべてのキリスト者の集まりですから、それはダニエルが預言したように、聖徒が世界を治めることを意味します。

パウロがコリント人への手紙第一で、「聖徒たちが世界をさばくようになることを、あなたがたは知らないのですか……私たちは御使いをもさばくようになります」(6:2,3)と記しているのはこのためです。

そのことがヨハネの黙示録では、キリストにあって殉教した者たちが「生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた」(20:4)と描かれ、新しいエルサレムですべての神のしもべが、「永遠に王である」(22:5)と記されます。

神がキリストを死者の中からよみがえらせ、ご自分の右に引き上げ、すべてのものを支配する権威を与えたという全能の力は、私たちの内側にも働いて、私たちを王とすることができるのです。

続けて、全世界を足の下に従わせる「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです」と記されます(1:23)。これは、キリストご自身が、すべてのものの支配者としてご自身のからだに起こった問題や欠けを、ご自身の身体の一部を持って満たすということです。

これはたとえば、私たちの身体の中に何らかの問題や欠けが生じたとき、身体全体がそれをカバーするために動くというような作用を指します。それは私たちの集まりのただ中にキリストが満ち満ちておられるという意味です。

それは私たちの小さな共同体の中でも体験できますが、歴史的な視点から見ることもできます。たとえば今年は宗教改革500周年ですが、当時のプロテスタントはカトリックを全否定してしまったようでも、結果的には一時的な悲しみを通してカトリックに深い反省を促しました。今やカトリックとルター派の和解も進んでいます。

私たちは自分たちの教会の枠を超えた全世界的なキリストの教会が世界の歴史にどのような貢献をしてきたかも見るべきです。一人ひとりが「神のかたち」としてかけがのない存在であり、生まれ育ちによって人を区別せず、強い人が弱い人を虐げず、すべての人に医療や教育の機会を保証する必要があるなどという価値観はすべてクリスチャンから始まっています。それこそが、キリストにある「新しい創造をここで喜び、シャロームを待ち望む」という当教会のヴィジョンです。

しかも、日本語の「教会」には「教えを受ける場」というニュアンスがありますが、ギリシャ語は「エクレシア」で、当時は、「市民権を持った者たちの会合」を意味しました。そこではひとりひとりが平等な議決権を行使し、自由都市(ポリス)の方針が決められました。

同じように聖書的な意味での「教会(エクレシア)」では、すべての人が、神ご自身によって招かれ、かけがえのない、主体的な意思を持つ存在として集められています

自分をお客さんの立場に置くと、一時的には楽なようでも、それをいつまでも続けると、生けるキリストの力を身近に体験できなくなります。私たちは自分のからだの不思議さや精巧さを、特に、病気になったときに何よりも体験できます。同じように、地上の教会も、様々な困難を通して、「キリストを死者の中からよみがえらせた方の全能の力の働き(エネルゲイヤ)」を体験できるのです。

とにかく、「教会はキリストのからだ」なのです。神のみわざは、その身体の中に身を置いてこそ体験できます。

3.「神は、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ……」

2章最初の文章の中心は、「あなたがたは自分のそむきと罪との中に死んでいた者であり……(それらの中にあって)歩んでいました」にあり、これは、「死んでいたのに・・歩んでいた」ということ、つまり、「生ける屍だった」という意味になります。

その際、「そむきと罪の中に(を通して)死んでいた」というのは不思議な表現です。ある方は、「罪とは何だろう……、頼んでもいないのにイエスが十字架にかからなければならないほどの罪を自分は犯しているのだろうか……」と疑問に思いました。ただそこで、聖書が語る「罪」とは、的外れな生き方をしていることを指していると教えられ、納得できました。

またその類語の「そむき(罪過)」には「立っているべきところから落ちた状態」という意味があります。つまり、「背きと罪の中に死んでいる」とは、見当違いの方向で必死に生きている人々、また見当違いの確信に立っている人々を指しているのです。

それは創造主を知らずに生きている人々、「神の救いを求めなければならないほどに自分は落ちぶれてはいない……」と強がっているすべての人が、神の目には生ける屍なのです。

2、3節の原文では、「かつては、この世の時代に合わせ、空中の権威を持つ支配者に従って、あなたがたは歩んでいました。それは、不従順の子らの中に今も働いている霊に従ったことです。その中にあって、私たちはみなかつて、自分の肉の願いの中に生き、肉と心の望むままを行い、そのままでは他の人々と同じように御怒りの子に過ぎませんでした」と記されています。

2節は異教徒の現実、3節はユダヤ人の現実と区別することもできますが、まとめて見た方が、意味が分かります。

まず、「この世の時代に合わせ(流れに従い)」という生き方自身が、「空中の権威を持つ支配者」であるサタンに従っているというのです。「空中の権威」とは、御使いの領域である「天」と、人間の領域である「地」との間という意味です。つまり、サタンは今、神と人との間に入り込んで、その関係を壊すために働き、神を信じようとしない「不従順の子らの中に働いている霊」として、この世に悪を広めているのです。

ここで「働いている(エネルゴン)」ということばは、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」(1:19)という表現と対比されて用いられます。つまり、信仰者のうちには神の働きがあり、不信仰者のうちにはサタンの働きがあるというのです。

ところで、サタンに従って歩むとは、「自分の肉の願い(欲)の中に生き、肉と心の望むままを行い」とあるように、自分の生きたいように自由に生きるということに他なりません。

最初の人間であるアダムとエバは、蛇の誘惑に耳を傾けて善悪の知識の木を見たとき、「その木は……目に慕わしく……好ましかった」ものに映ったと記されています(創世記3:6)。つまりそれは、酒やドラッグや性的誘惑に身を任せてしまうということ以前に、神の命令よりも自分の意思や気持ちを優先するという生き方に他なりません。

そして、神を忘れ自分の狭い正義感に従って生きることが、「御怒りの子」と呼ばれます。つまり、神の怒りの下に置かれている者とは、極悪人というより、生きたいように生きているすべてのアダムの子孫を指します。

そのように神に救いを求めようともしない人々にもたらされた一方的なみわざが、「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背き(罪過)の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました」(2:4-6)と記されます。

ここで再び、私たちが、「背きの中に死んでいた」状態にあったことが指摘されますが、それは自分の力で生き返ることができない人ですから、その救いは、「あわれみにおいて豊か」な、「その大きな愛」を通して、一方的に「私たちを愛する」という神の主導権によるものでなければなりません。

その上で神のみわざが、三つの観点から描かれます。

第一は、「私たちをキリストとともに生かし」です。「救い」の本質とは、「死んでいた者」を「キリストとともに生きた者にする」という神の一方的なみわざです。そのことが、「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによる」と言い換えられます。多くの信仰者は「救い」を、問題がなくなるとか、苦しみから解放されることとはとらえても、「キリストとともに生きた者になる」こととしては捉えてはいないことがあります。

しかもこれが第二、第三のみわざとして、「キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と言われます。これは復活と昇天を指します。これは遠い天国で初めて実現することのようでありながら、私たちが「キリストのうちにある者」とされているという観点からは、すでに実現していることかのように見ることができるのです。

私たちはときに、「救われた」と言われても、「何も変わっていないではないか……」という気持ちになることがあります。そのとき、この目に見える現実を超えた視点から「救い」の不思議を見るべきでしょう。

なお7節は、この時間の観念を理解する鍵で、「それは来たるべき時代においてこの限りなく豊かな恵みを示すためでした。それはキリスト・イエスのうちにある私たちへの慈愛のうちにあります」と訳すことができます。

この「来たるべき時代」とは、2節の「この世の時代」に対応し、「救い」は後の時代になって初めて人々の目に明らかになると記されています。しかし、私たちのうちに既にキリストご自身の分身とも言える全能の聖霊が住んでいるので、今から「王」としての誇りと責任のうちに生きられるのです。

興味深いのは1章20,21節でのキリストの栄光による支配と、2章5,6節の私たちに約束された栄光支配が並行していることです。イエスに起こったことが私たちにも起きるのです。

それは私たちが「キリストとともに生かされ」「キリスト・イエスのうちにある者」とされているからです。それこそ救いの本質です。

旧約聖書では、「救い」ということですぐに思い起こされるのは、「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主(ヤハウェ)である」(出エジ20:2)という表現です。これは「モーセの十戒」とも言われることばで最も大切な前文です。そしてこのエペソ書では、私たちが「自分の背きと罪の中に死んでいた」状態、「空中の権威を持つ支配者に従って歩んでいた」状態から救い出されたこととして描かれます。

多くの人々は、心のおもむくままに自由に生きているようでサタンの奴隷状態にあると描かれているのです。そして、それからの「救い」とは、キリストがこの世界を治める王であるのに倣って、キリストとともに王になっているという自覚のもとにこの世界の様々な問題に立ち向かうことを意味します。

日本のサラリーマンもときに、エジプトで奴隷であったイスラエルの民と似て、ときに会社の奴隷のような状態に置かれているかもしれません。しかし、私たちには想像を絶する輝かしい栄光が保証されています。

それにも関わらず、それを深く味わうことを忘れ、「この世の時代に合せる」ことで、安心を得ようとしていないでしょうか。自分の願望のままに、また目の前の不安に駆り立てられて生きることこそ不信仰です。見当違いの方向に熱くなることこそ「罪」の本質です

そうならないために、日々、主(ヤハウェ)の前に静まり、主が私たちに約束してくださった壮大な救いのご計画に思いを馳せることが何よりも大切です。