「新しい創造」の始まりとしての十字架

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2017年春号より

イエスの十字架に向かう歩みは、悲劇としては描かれていません。昨年、英国で N.T.ライト教授にお会いしましたが、先生は最初の聖金曜日を、「世界の革命が始まった日」と呼んでおられます。先生の最新作「The Day the Revolution Began —(革命が始まった日 — イエスの十字架の意味の再考)という本の中で、以下のように書いておられます。

「十字架において、イエスはまさに、人々を隷属させている力を滅ぼされた。初代のクリスチャンにとって、革命は最初の聖金曜日に起こったのだ。支配者や権力者たちは確かに死の一撃を受けた。それは、『それで私たちはこの世から逃げて天国に行ける』という意味ではなく、『今やイエスはこの世界の王であられる。それで私たちは主のご支配のもとで生き、主の王国を宣言しなければならない』という意味である。革命は始まった。それは続かなければならない。イエスに従う者は単にその恩恵を受けられるというばかりでなく、王国の代理人 (agents) とされたのだ」

イエスの十字架は、世界を変えています。たとえば、近代国家では、その人の出生や能力に関わらず、すべての人の基本的人権が認められており、それは犯罪者にまでも及んでいます。それは、イエスが罪人の救いのためにご自身の身を犠牲とされたことを原点としています。

また、当時のローマ帝国では皇帝を「神の子」として崇めない者は、死刑にされることがありましたが、クリスチャンは新しい王国の代理人 (agents) として、その死の脅しに屈することなく、社会的弱者を受け入れる愛の交わりを築き広げました。そして、ついにはローマ皇帝さえもイエスを「神の子」として礼拝するようになりました。

旧約聖書に描かれていた「救い」とは、イスラエルの民を、エジプトの奴隷状態から解放することであり、また、バビロン帝国の捕囚状態、また外国の異教徒の圧政状態から解放することでした。同じように、イエスがもたらした「救い」は、私たちをお金や権力の奴隷とするサタンの力からの解放として描くことができます。「救い」は、何よりもお金の使い方や権力との関わり方に現されるのです。

なおライト氏は個人的な会話の最後に、福音宣教で何よりも「New Creation(新しい創造)」を強調することを勧めてくださいました。それに対し、それは私たちの教会のヴィジョンとして、「新しい創造をここで喜び、シャロームを待ち望む」として言語化されていると申し上げると、心から喜んでくださいました。

現代の多くの信仰者にとって、何よりも大切なのは、自分の日々の生活を「新しい創造」の観点から見られるようになることではないでしょうか。それはコリント第二の手紙5章16、17節で、「私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と記されているとおりです。「新しく作られた者」ということばは厳密には、「New Creation(新しい創造)」と記されています。

つまり、イエスを自分の人生の主と告白して、「キリストのうちにある」者は、すでに創造主なる御霊を受けており、それによって、神の国の代理人 (agents) になっています。この「agent」ということばを聞くと、”Mission Impossible” を思い起します。そこでは銃や格闘能力で敵を圧倒して行きますが、キリストの Agent は、「右の頬を打たれたら、左の頬を向ける」という無抵抗の勇気で人々の心を変えて行きます。

実際、マルティン・ルーサー・キング牧師は無抵抗のデモ行進によって黒人の人権を回復する運動を広げました。彼の影響力が強くなった結果、メンフィスで暗殺されますが、それからたった四十年後にアメリカで黒人の大統領が誕生するまでになりました。またネルソン・マンデラも南アフリカの人種差別に無抵抗の運動で戦い、南アフリカに黒人と白人から構成される画期的な和解の政権を生み出しました。

実は、二千年来、イエスはいろんな形で世界の価値観を変えています。たとえば一人の男性と一人の女性が決して浮気をしないと約束し合って家庭を築くというのも驚きです。それがどれほど大きなことかは、イスラム教の国を見たら納得できます。とにかく、イエスは新しい神の国の価値観を創造し、それが世界の常識を、時間をかけて変え続けています。「新しい創造」は、既に始まっているのです。

ところで、この世界の変革を願う際に、注意すべきことがあります。この世界は、人類の父祖アダムが自分を神のようにした結果、「のろい」のもとにあるということです。そこでは常に、神々となった人と人との利害の対立があり、理想と理想がぶつかる戦いが、国家間の戦争から家庭にまで及んでいます。サタンは、その背後で、「お金と権力」こそが、問題解決の鍵だとささやき、人を「お金と権力の礼拝者」へと変えようと画策し続けています。そして、そこには、社会の動きに従わない人を社会から排除しようとする「死の脅し」が伴って来ます。それに対し、神の御子は、ご自身の力を捨て、私たちと同じひ弱な人間になることによってサタンの力を砕かれました。それは、「子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。それは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖の奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」(ヘブル2:14、15) と記されている通りです。

ただ、サタンはイエスの十字架と復活以来、自分の敗北を悟り、必死に断末魔の抵抗を続けています。ですから、この社会では、福音によって世の人々の価値観がきよめられて行くという進歩と共に、黙示録に記されているような終わりの時代の苦難、背教が激しくなって行きます。たとえば17章では、「すべての淫婦と憎むべきものとの母、大バビロン」(5節) という政治権力と結託した富の支配の横暴が記されています。それは当時のローマ帝国の広大な単一通貨の経済園を背景として既にあったものですが、現在のグローバル市場経済にも重ねてその問題を見ることができます。

そして、その中で中間層が没落するという形で、社会の矛盾が現れると、それが民族主義の台頭、強権的な問題解決へと向かったりします。サタンはその背後で、神々となった人と人との対立をあおり、神のご支配を見えなくさせて行きます。

そのような、権力による問題解決の動きに対して、イエスは、隣人との愛の交わりを広げるという地道な「神の国」の拡大を求め続けておられます。

キリストの再臨が実現するまで、サタンの働きは止むことが無く、この世の矛盾は続きます。ですから、どんな仕事の中にもサタンの支配の現実が現されています。矛盾ばかりに目を向けていては、仕事もできなくなります。この世から、「お金」がもたらす矛盾が消えることはありません。しかし、私たちはそこで、お金や権力の奴隷になることなく、キリストに倣った「新しい創造」の中にあるものとしてのユニークな生き方を探り求めて行く必要があります。それはそれぞれの分野でまったく違った形で現されることでしょう。

そして、「新しい創造」の中に生きるものにとって、「自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っている」(Ⅰコリント15:58) という告白こそ、揺るがない確信です。それはイエスが、死者の中からの「初穂」としてよみがえってくださったからです。

市場経済やお金の暴走を批判することは誰にでもできます。聖書はそれ自体を罪悪視し、それから離れることを勧める代わりに、富と権力の奴隷にならずに、死に至るまでキリストに忠実に従うことだけを命じます。しかも、その際、天地万物の創造主ご自身である聖霊が、私たちのうちに生き、私たちをこの世の矛盾の中に遣わし、神のかたち、小さなキリストとして用いてくださいます。その際、新約聖書のタラントやミナのたとえにあるように、神は私たちに与えられた賜物やお金を、「神の国」のヴィジョンのために豊かに用いることを期待しておられます。それは音楽家、芸術家が、「神の国」の美しさをシンフォニーや芸術作品を通して現わすために日々、訓練を積むことに似ています。お金に使われずに、お金を賢く使うことができるための訓練も、現実の教会には求められています。そして、創造主なる聖霊が、あなたに創造的な働き方を導いてくださいます。