江戸時代の踏絵を用いた徹底的なキリシタン弾圧以来、多くの日本人はそのトラウマに支配されているのかも知れません。学生時代、福音を聞きながら、「でも、クリスチャンになったら、何か悪いことが起こるかも・・」と不安でした。しかし、アメリカに留学中、「クリスチャンであるとは、喜びに満ち溢れることなのだ!」と、目が開かれました。当時、自然体で美しく輝いている方を知らなかったからです。
初代教会時代、福音が爆発的に広がったのは、迫害が、「人知を超えた喜び」をかえって際立たせたからです。
しかも、信仰者としての成長とは、周りの状況に動じることなく、平安でいられるというよりも、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(ローマ12:15)という交わりの中に現されます。
義人ヨブの友人たちは、神の正義を弁護しようとして、ヨブの苦しみには原因があると分析しましたが、皮肉にも、神の怒りが彼らに向かって燃えたと記されます。彼らは、共感の欠如のゆえに非難されたとも言えましょう。
1.「わたしの喜びが彼らのうちに満ち溢れるようになるため」
イエスの祈りの第一は、「あなたの子の栄光を現してください・・わたしを栄光で輝かせてください」(1,5節)でした。
それは世的な栄光とは対照的に、ご自身の十字架が神の栄光を現し、また人々に「永遠のいのち」を与えるためのものとなるためでした。それはまた、「遣わされた」者としての「栄光」でした(8節)。
その上で、イエスは、残される弟子たちのことを思いながら、「わたしは彼らのためにお願いします」(9節)と言います。願いの中心は、「聖なる父。あなたがわたしにくださっている・・御名の中に、彼らを保ってください」です(11節)。そしてイエスは、「わたしは・・あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました」(12節)と付け加えました。それまで、弟子たちの信仰を育み、守ったのはイエスご自身でしたが、主は今、彼らを残し、世を去ります。ですから、主は御父に対して、彼らの信仰を守ってくださるようにと願われました。
つまり、私たちの信仰を守るのは、イエスご自身の祈りと、御父の働きなのです。人間的な情熱や信念など、軽い脅しだけでくじけるようなもろいものではないでしょうか。実際、「あなたのためにはいのちも捨てます」(13:37)豪語したペテロは、鶏が鳴くまでに、三度イエスを知らないと言ってしまいました。ペテロの失敗の原因は、自分の肉の弱さを認めていなかったためでした。
その彼が、立ち直ることができたのは、イエスの祈りの力によるものでした。主はペテロの裏切りを予告しつつ、「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」(ルカ22:32)と言っておられたのですから・・。
なおイエスはここで、「彼らの信仰を守って」という代わりに、「あなたがわたしに下さっている・・御名の中に、彼らを保ってください」と願っておられます。「御名」は、単なる呼び名ではなく、神ご自身の御性質やあり方の全体を指します。つまりこれは、人の信仰心を強めようという祈りではなく、イエスを通して示された神の一方的な愛と恵みのうちに包まれ続けるようにとの祈りなのです。
私たちは、イエスを通して示された神の魅力に引き寄せられて、神の子どもとされました。ところがその後、神にではなく、自分の信仰の姿勢ばかりに目が向かうことがあります。それは信仰の堕落です。
エペソ教会の人々は、行ないも立派で、誤った教えをも見分けていました。しかし、神は、ヨハネを通して、「あなたは初めの愛から離れてしまった」(黙示2:4)と厳しく非難しました。「初めの愛」とは、私たちの信仰心である以前に、神が私たちを愛してくださった、その「愛」です。信仰の喜びは、神の愛が迫って来たことから生まれた自然な感動でした。
ただし、イエスはここで、「彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました」(12節)と言われます。それはイスカリオテのユダのことを指します。しかも、「それは聖書が成就するためです」と記されています。これはユダが、悪役を演じる定めだったという意味ではなく、イエスが、最愛の弟子のひとりから裏切られたことが、預言の成就であったという意味です。
詩篇の中では「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいてかかとを上げた」(41:9)などのように、親友から裏切られることの苦しみが、繰り返し「祈り」として記されています。イエスの十字架は、その痛みを味わうことでもあったのです。
しかも、主は、私たちが御跡に従う時、親友ばかりか「家族の者がその人の敵となります」(マタイ10:36)とさえ語っておられます。つまり、裏切られることは、私たちが負うべき十字架の一部だというのです。
ところで、イエスはご自身のこの地での最後のお話しの目的を、「わたしの喜びが彼らのうちに満ち溢れるようになるため」(13節フランシスコ会訳)と言っています。それは、イエスが父なる神との愛の交わりの中で味わっておられた「喜び」が、弟子たちのうちにも同じように「満ち溢れる」ことを意味しました。
主は、私たちを、ただ苦しめ鍛えたいと願っておられるわけではありません。「世は彼らを憎みました」(14節)とあるように、キリスト者はこの世から憎まれるのが常です。それは私たちが、イエスだけに忠誠を誓い、偶像礼拝もせず、この世の権力者を恐れもしないからです。
また同時に、「私はイエス様なしには生きられない!」などと言いながら、自分を卑下することもなく、喜んでいられるのは、世の人々にとっては奇異だからです。
人の心を恐怖心で委縮させるのはサタンの惑わしです。ところがイエスは、「自分の十字架を負い・・わたしについて来なさい」(マタイ16:24)と、恐怖への突入を命じられました。神のみわざとは、私たちが困難のただ中で、イエスと同じ「喜び」を体験することです。
実際、憎まれ、命を奪われた人が、喜びに満ち溢れていたからこそ、福音が伝わったのです。「喜び」の反対語は、苦しみではなく、退屈とも言えましょう。
2.「彼らがみな一つとなるため・・全うされて一つとなるため」
イエスは御父に、弟子に関し、「あなたが世から取り出して、わたしにくださった・・」(6節)と言い、また、「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでない」(14、16節)と繰り返しています。多くの日本人は社会で「浮いてしまう」ことを恐れていますが、キリスト者は「浮いてしまう」ことを逆に喜んでいる人とも言えましょう。人の目を意識して生きることは、集団の奴隷になることだからです。
しかもイエスは、「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします」(15節)と祈られました。これは、主の祈りに通じるものです。そこでは、「誘惑に陥らせないで、悪い者からお救いください」と祈られています(私訳)。つまり、この世で悪い者(サタン)の攻撃を受けることを前提とした上で、その中で、誘惑に陥り、負けてしまうのではなく、守られ、救い出されるようにとの祈りです。
しかも、イエスは、「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました」(18節)と言われました。世は、様々な誘惑で満ちています。しかし、そこでこそ、キリストにある勝利を体験できるのです。
初代教会の時代は、世界は正面からキリストの弟子に戦いを挑んできました。彼らは自分の命を賭けて、キリストの勝利を証しできました。しかし、四世紀にキリスト教がローマ帝国で公認されると、その証しの場がなくなったばかりか、信者であることで社会的評価さえ得られるようになり、信仰が世と調和し、堕落し始めました。それで、多くの人々は、敢えて荒野に出てサタンの誘惑と戦い、キリストにある勝利を体験し、証しする機会を求めました。
つまり、修道院生活は、世からの逃避ではなく、世の力との戦いの場だったのです。たとえばアメリカには、良い信仰者が同時に良い市民として認められる雰囲気があります。そのため、世の富、名誉や力を用いて誘惑するサタンとの戦いが不明確になりがちです。その点、日本のキリスト者は幸いな立場にいます。敵を探すために出て行かなくても、この地が既に荒野であり、世が私たちの信仰を攻撃してくれるからです。
誘惑や迫害を敢えて求めてはなりませんが、その中でこそ、イエスに習って、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方に任せる」(Ⅰペテロ2:23)という、十字架を負う歩みの中で、「喜び」を体験できるのが信仰の真実です。
イエスは弟子たちのために「あなたの御名の中に、彼らを保ってください」(11節)と祈られましたが、そこには、「それは私たちと同様に、彼らがひとつとなるためです」という目的がありました。
さらに19節でイエスは、「わたしは、彼らのために、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです」と言われました。これはイエスが十字架でご自身を「献げられ」たように、彼らも自分自身を「献げる」ようになることを指します。
続けてイエスはこの祈りの対象を、「彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも」(20節)と、使徒たちの宣教の「ことば」によって生まれるキリスト教会全体に広げますが、そこには「彼らがみな一つとなるためです」(21節)という目的が記されます。
つまり、イエスの祈りの内容は、私たちが世から分離された者として、神の愛の中に留まり続けることですが、そこには常に、一つとされた愛の交わりが実現するはずなのです。「一つとなる」ということばが11,21,22,23節と四回繰り返されます。
最近、欧米の神学者たちの間に、福音を個人主義的に捉え過ぎていたとの反省が起きています。今までの「教会」では、日本語名のごとく、聖書を学ぶ学校、また伝道を推し進める組織としての性格ばかりが強調されていたのかもしれません。もちろん、そのような側面は大切ですし、私たちの教会はその点の足りなさを反省すべきかもしれません。しかし、聖書によれば、伝道も教育も、すべて「神の民の創造」という共同体的な目的にあることを忘れてはなりません。
個々人が人格的に成長することは大切ですが、それは必ず、「愛の交わり」として表わされるはずなのです。アダムとエバが、エデンの園で善悪の知識の木の実を取って食べた結果、夫婦の断絶が生まれ、そこから生まれ育った最初の子は、弟を殺しました。人間の堕落とは、愛の交わりの破壊だったのです。
それに対し、キリストのみわざによって実現する「新しいエルサレム」は、愛の交わりが完成する世界です。愛は、私たちの義務というよりは、目的地なのです。
イエスは続けて「彼らが全うされて(完成されて)ひとつとなるため」(23節)と祈られました。「完成」は、個人のことである前に、交わりの完成を意味します。地上の教会の使命は、天で完成する愛の交わりのつぼみを、目に見えるように示すことにあります。
使徒の働きでは、「信じた者の群れは、心と思いをひとつにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず(主張せず)、すべてを共有にしていた」(4:32)と記されますが、それは所有権の否定ではなく、それぞれが自主的に分ち合う愛の交わりでした。
その結果、「ほかの人々は・・彼らを尊敬していた・・そればかりか、主を信じる者は男も女もますます増えていった」(5:13,14)と描かれています。教会の成長は、世の人々がそこにある「愛」に引き寄せられた結果でした。
13歳で北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの母、早紀江さんは、悲しみに打ちひしがれながら、勧められたヨブ記を読み、神に出会いました。悲劇の原因も解決も見えないまま、なお、この悲しみのすべてがはかり知れない神の御手の中にあると感じました。
自分の真面目さだけでは人生を全うすることができないと分かった時、初めて力を抜いて深呼吸ができ、空気がおいしいと思えました。悲しみではなく、不思議な感動の涙が流れて来ました。「私は、こうして何とか自分を見失わずにすんだのでした」と記しています。
彼女は、めぐみさんの死を告げられた後の記者会見で、その証拠の曖昧なことを落ち着いて指摘し、自分たちが力を合わせて戦ってきたことによって北朝鮮の闇が明るみに出されたと振り返り、「めぐみはそのために犠牲になり、使命を果たしたと思います」と語りました。
彼女は、国籍を超えたすべての拉致被害者の救出のための運動の先頭に立っています。実は、前面には出ませんが、彼女の心を誰よりも支えているのは、新潟で出会った「聖書を読む会」の婦人の交わりなのです。このような悲惨を見て、「神も仏もあるものか・・・」と思う人々もあるでしょう。しかし、彼女の痛みを自分の痛みとして寄り添い、祈る交わりの中に、神の愛を見ることができます。
世は不条理の原因を分析しますが、原因、結果を論じることが被害者を苦しめるという現実もあります。残念ながら、いつの時代にも、不条理はあり続けます。イエスの祈りは悲劇がなくなること以前に、私たちが「一つとなる」ことであるというのは何と不思議なことでしょう。
3.「あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように」
イエスが言われた「一つ」には、「父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように」(21節)との説明が加えられています。この関係は、ペリコレーシス(mutual indwelling 相互内住)というギリシャ語で説明されます。
イエスは、「わたしを見た者は、父を見たのです」と言われましたが、それは、ご自身のみわざが「わたしのうちにおられる父が、ご自分の働きをしておられる」(14:9,10)という現れだったからです。パウロも、「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っている」(コロサイ2:9)と言いました。つまり、キリストのうちには、父なる神ご自身が完全に住んでおられるのです。
一方、イエスのことは、「父のふところにいるひとり子の神」 (1:18)として描かれます。つまり、イエスは御父の中に完全に存在していることを確信しているからこそ、ご自分のいのちを捨てることができたのです。
三位一体を父、御子、御霊なる神の役割の違いから理解する前に、御父と御子との交わりから理解すべきではないでしょうか。
日本の夫婦は役割分担を中心に成り立ってきました。最近、離婚が急増しているのは、女性の主体性が認められてきた当然の結果であるとも言われます。結婚とともに苗字を捨て、出産とともに職業を捨てることが暗黙の了解とされてきた中で、子育てが終わる頃、「私の一生は一体何なのか?いつも夫と家族のために自分を殺してばかりいた・・・」と疑問を感じる女性がいます。その一方で、「亭主、元気で、留守が良い」と割り切っている妻たちもいます。
どちらにしても、主体的に「互いを生かし合う」という愛の交わりではなかったのです。どの交わりでも、「自主性を抑える代わりに、保護を求める」という人がいることで「一致」があると見えたのかも知れません。これは共依存関係に過ぎません。心の底で互いを軽蔑しながら、利害のために結びついているだけです。それぞれが自主性を発揮した途端、関係が壊れてしまいます。
しかしイエスは、神の御子であることを喜び、父のみこころをご自分の意思として積極的に受けとめられました。御父もイエスを支配するのではなく、すべてを分ち合っておられました。互いの自由な意思を信頼しつつ、完全な意思の一致があります。そこには、独立した人格どうしの対話の関係があります。
そして、イエスは、私たちもそのような関係を築くようにと、「わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです」(22節)と祈られたのです。
なお、イエスはそれに先立って、「彼らもわたしたちにおるようになるため」(21節)と言われましたが、それは、私たちがこの御父と御子との愛の交わりの中に、神の家族として招き入れられることです。
そして、イエスは、「あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました・・わたしは彼らにおり、あなたがわたしにおられます」(22、23節)と続けます。これはイエスが、「父から出る真理の御霊」(15:26)を遣わしてくださることで、私たちのうちに住んでくださることを意味すると思われます。
先のペリコレーシスは、御霊のうちに御子が完全に住んでおられることにも適用されます。それはイエスが「御霊はわたしの栄光を現します」(16:14)と言われた通りです。その結果、イエスは、御霊によって、私たちのうちに完全に住むことが可能になるのです。
その際、私たちの人格的な独立性は損なわれることはありません。私たちは、イエスの御父に対する姿勢に習って、自分の身を積極的に差し出し、この身を通してイエスに生きていただくのです。その結果として、私たちは「全うされて一つとなる」ことができます。一致を作ろうと自主性を殺すことによってではありません。
そして、「この世」は、私たちの間に愛の交わりが実現していることを見ることによって、御父が御子を遣わし、御父が御子を愛されたように私たちをも愛してくださっているという霊的な現実を、「知る」ことができるようになるというのです(23節)。
イエスは最後に「父よ、お願いします(望みます)。あなたがわたしに下さったものをわたしのいるところにいっしょにおらせてください・・わたしの栄光を、彼らが見るようになるため・・」(24節)と祈られます。これは、「新しいエルサレム」に実現する、喜びに満ち溢れた希望ですが、それは遠い夢ではありません。御父と一体のイエスのご意志は、実現が確定しています。
しかも、イエスは先には「聖なる父」(11節)と呼ばれ、ここでは、「正しい父よ。この世はあなたを知りません・・・わたしは・・御名を知らせました」(25、26節)と、イエスは神の正義を世に知らせるために来られたと言われ、その目的を、「あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるため」という愛の交わりで表現します。
つまり、神にとっての正義とは、愛の交わりに現されるのです。最近、再び、「アメリカの福音派」が独善的な集まりであるかのように報道されことがあります。福音派は聖書をそのまま受け止めますから、罪を罪として断罪しながら、罪に対する神のさばきも明確に語ります。十字架は、罪に対する神のさばきでなければ、十字架の贖いという概念は成り立ちません。つまり、愛とは、すべてを許容する心の働きではなく、「さばき」と表裏一体のことなのです。北朝鮮の暴挙を許して、どこに愛が生まれるでしょう。
しかも、「神は愛です」(Ⅰヨハネ4:16)とは、神のご性質である前に、神が愛の交わりのうちに生き、その愛を分ち合ってくださるという「あり方」を意味します。その「見えない愛」を、私たちの間において「見えるようにする」ことこそが、課題ではないでしょうか?
今、イエスが御霊によって私たちのうちに住んでおられます。私たちは「聖なる神、正しい神」に愛されている者として、罪を憎みながらも、罪人のままの互いを愛し合うことができます。
以前結婚した夫婦は、誓約の最後に「御父と御子の間に見られる愛の交わりが、私たちの交わりのうちにも表わされるように、聖霊の導きにお委ねします」と加えました。これは、私たちが、すべての兄弟姉妹との間で誓うべきことばです。「天の愛の交わりをこの地で表わす」とは、何というチャレンジでしょう。
私たちの心の底には、「私は愛に病んでいるのです」(雅歌2:5)という「渇望」があります。それを癒すために、神の愛が注がれているのです。そしてそれは身近な人との関係に現され、成長し、完成に向かいます。
「愛」は歴史の目的地です。私たちのうちに始まった「新しい創造」は、「シャローム」として実現します。