2017年1月22日
現代は、聖書が記された三千数百年前には想像もつかなかったような驚くべき豊かさと便利さの中にあります。しかし、何と多くの人々が孤独と失望と恐怖の中に生きていることでしょう。物質的に満ち足りることは幸福の保証にはなりません。
行動経済学でノーベル賞を受賞したダニエル・カーネマンは所得の上昇と満足度の関係に関して記しています。彼が引用した調査によると、日本人の平均所得は1958年から30年間に五倍に上昇したのに、自己申告された幸せの平均値は上昇しなかったとのことです。
また中国で15,000人に調査をしたところ、1994年からの十年間で平均所得が2.5倍に増えながら、自己申告された満足度はまったく伸びていないばかりか、かえって不満が増え、満足が減っているという驚くべき傾向が確認されました。それは、所得の伸びと共に願望も膨らむからではないかと分析されています。
世界的に、豊かさの中で快楽や楽しみを求めながら、満足できない人々が増え続けています。
ルカ福音書15章に描かれた「放蕩息子」は、自業自得の罪ですべてのものを失いましたが、不思議にも、「父のもとにある平安 (シャローム)」だけは忘れませんでした。それゆえに彼は「立ち返る」ことができました。
すべてを失いながら、なお希望を忘れなかった鍵がこのモーセの最後の説教に記されます。
1.「彼らは食べて満ち足り、肥え太り、そしてほかの神々のほうに向い……」
モーセは今、約束の地を前に、百二十年の生涯を閉じるにあたり、イスラエルの民に、「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい……」(30:19) という究極的な選択を迫りました。
その目的は、「あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主 (ヤハウェ) を愛し、御声に聞き従い、主にすがるため」(30:19、20) と描かれていました。その際、「確かに主はあなたのいのちであり」と続くように、「いのち」は、「主 (ヤハウェ) を愛し、御声を聞き、主に結びつく」(別訳) というただ中にあることを見落としてはなりません。
「心の渇き」の有無よりも、その方向が問われています。「死」をもたらす「罪」とは、取り返しのつかない失敗というよりは、神の御顔を避けることです。それこそが、最初の人アダムの問題でした。
彼はかつて主の語りかけを喜んで聴いていました。それは愛し合う二人が互いの声を聞くだけで幸せになるのと同じでした。ところが彼は、その交わりにある祝福を、軽蔑してしまったのです。
モーセはイスラエルの民を約束の地に送り出すのに際し、そこにいる強力な敵のことを思いながら、「強くあれ、雄々しくあれ、彼らを恐れてはならない。あなたの神、主 (ヤハウェ) ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(31:6) と保証します。
その上で、後継者のヨシュアを呼び寄せながら、ほぼ同じことばを繰り返します。そして、モーセは自分が語ったすべて(申命記全体のことば)を書き記し、レビ族の祭司たちとイスラエルのすべての長老たちに授けます (31:9)。
さらに、「七年の終わりごとに……仮庵の祭りに」、約束の地に広がった「イスラエルのすべての人々が」、この神の幕屋の前に集まったときに、彼らに「このみおしえを読んで聞かせなければならない」とレビ人たちに命じました (31:11)。七年の終わりはすべての負債が免除されるときで、それによって「貧しい者がなくなる」ことを目指しました (15:1-4)。
またレビ記25章2-7節では、七年目には、種まきを禁じ、土地を全面的に休ませるように命じられていました。それは奴隷、在留異国人ばかりか、家畜や獣の保護のためでもありました。
そして、この七年目の終わりに、仕事がない中で、「男も、女も、子どもも……在留異国人も」すべての人が、約束の地で唯一の礼拝の場に集められ、みおしえを聞くのでした (15:12)。
その後、主はモーセとヨシュアを呼び寄せます。そこで、「主 (ヤハウェ) は天幕で雲の柱のうちに現れ」、驚くべきことを告げられます。それは、「この民は、入って行こうとしている地の……外国の神々を慕って淫行をしようとしている」(31:16) という予告でした。
しかし同時に主は、堕落をした後の回復が可能になるように「歌」を与え、それを歌わせるように命じます。その意味が20、21節で、「わたしが、彼らの先祖に誓った乳と蜜の流れる地に、彼らを導き入れるなら、彼らは食べて満ち足り、肥え太り、そしてほかの神々のほうに向い、これに仕えて、わたしを侮り、わたしの契約を破る。多くのわざわいと苦難が彼に降りかかるとき、この歌が彼らに対してあかしをする」と記されます。
主はご自身が裏切られることをご存知の上で、彼らに回復への道を予め備えてくださったのです。人は苦難にあった時、「私たちの神、主 (ヤハウェ) が無力なため……」と誤解し、偶像礼拝を加速する恐れがあるからです。
自分の人生の歯車が狂い出したと感じた時、それがどこから始まったかを理解するなら、そこから回復への希望が生まれます。
人は、苦しみの時には必死で神の救いを求め、平安が与えられると、しばらくは感謝します。しかし、やがてそれに飽き足らなくなり、「もっと別の祝福を……」と新たな刺激を求めることがしばしばあります。
残念ながら、そのようにして教会を離れる人もいるかも知れません。しかし、離れた後で、様々な苦難に会いながら、「あの教会にいたときが一番幸せだった……」と思えるなら幸いです。そのような人を決して責めてはいけません。
私たちの何よりの責任は、戻って来られるような場を守り続けることです。それと同時に、人が信仰を離れないようにと厳しく警告する以上に、回復のための「歌」を教え続けることです。
2.「主は荒野で……彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、守られた」
32章1-43節は、モーセが民に覚えさせた歌です。その第一は、「栄光を私たちの神に帰せよ」と命じられ (3節)、続けて主がどのような方かが歌われます。
その核心は、「主は岩……主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、すぐな方」という表現です。それは人生が期待したように進まない時、なお主に信頼するための鍵になるからです。
そして6節では、「あなたがたはこのように主 (ヤハウェ) に恩を返すのか……主はあなたを造った父ではないか」と呼びかけます。父に対する忘恩こそが問われているのです。
そして10節では、「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた」と歌われます。
それはまず、彼らが苦しみのなかで神を見いだしたのではなく、神ご自身のほうから荒野で迷っているイスラエルを見つけ出してくださったということです。
私たちも自分の「信仰」を人間的な尺度ではかる傾向がありますが、信仰はあくまでも、主の眼差しから始まっているのです。しかも、原文では敢えて、「主の民」イスラエルを、「彼の目のひとみ」と重複するような呼び方をします。
誰が、「神の目」に、しかも、その「ひとみ」に触れることができるでしょう。つまり、主ご自身がお許しになるのでなければ、誰も私たちを傷つけることはできないのです。
ですからイエスも、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません……二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」(マタイ10:28-30) と言われました。
この真理が納得できるのは順風満帆な中ではなく、人生の嵐のただ中です。
また同時に、「ひとみ」は、危険を最初に察知する器官ですから、あなたが怖がりであることを恥じる必要はありません。身体全体が「ひとみ」の感覚によって動き出し、それを「守られる」のと同じように、主ご自身があなたの心の叫びにすぐに応えて、あなたを守り通すことがおできになるのです。
また、この主のみ守りのイメージは11節で、鷲がひなを「羽に載せて」飛ぶ様子として描かれます。私たちはひ弱で、嵐の中に身をすくめることしかできなくても、主ご自身が力強い御腕で私たちをとらえ、私たちをその翼(つばさ)の上に乗せて、目的地にまで安全に運ぶことがおできになるのです。
しかもイスラエルが、約束の地で、最良の産物で養われるのは、「ただ主 (ヤハウェ) だけでこれを導いた」結果なのです (32:12)。13、14節では約束の地の産物の豊かさが様々な角度から描かれます。ところが、「エシュルンは肥え太ったとき、足でけった……」(32:15) と歌われます。
「エシュルン」とはイスラエルの愛称です。本来「正しい者」という意味で、汚れた民の中にあって、主の正しさを証しするために選ばれたという思いが込められています。ところが、その彼らが、豊かさの中で、その使命を忘れたばかりか、何と、異なる神々を礼拝して、「主のねたみを引き起こし……主の怒りを燃えさせた」(32:16) というのです。
17、18節では彼らの罪が、「神ではない悪霊どもに……いけにえをささげた……それらは彼らの知らなかった神々だ……あなたは……産みの苦しみをした神を忘れてしまった」と非難されます。
それを「主 (ヤハウェ) は見て、彼らを退け」、「わたしの顔を彼らに隠し、彼らの終わりがどうなるかを見よう」(32:19、20) と言われます。つまり、神ののろいとは、何より、ご自身の守りの御手を引っ込めることなのです。
その時、人は互いの悪意によって互いを滅ぼしあい、自然界も人に害を加えるようになります。イスラエル王国は北から攻めてくるメソポタミヤの大国と南のエジプト王国とのパワーバランスの中で、神を忘れて生き残ろうと画策し、自業自得で滅びますが、その背後には、神のさばきがありました。
ただし、主はイスラエルを滅ぼす敵、つまり、「彼らの仇が誤解して、『われわれの手で勝ったのだ。これはみな主 (ヤハウェ) がしたのではない』と言うといけない」(32:27) と考えられて、敵となる国々の滅びをも計画され、「彼らは思慮の欠けた国民……もしも知恵があったなら……自分の終わりをもわきまえたろうに」と言われます。
事実、後に北王国イスラエルを滅ぼしたアッシリヤ帝国も、また南王国ユダを滅ぼしたバビロン帝国も、不思議なほどに忽然と、歴史から姿を消しました。
30節では、イスラエルの「岩」である方が、「彼らを売らず……渡さなかった」なら、「ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させる」ような圧倒的な勝利を、神の民の敵は収めることはできませんでした。続けて、「彼らの岩は、私たちの岩には及ばない」(32:31) と歌われます。これは敵が頼った「岩」である神々の無力さが知れ渡ることを指します。
私たちを直接的に苦しめるのは、人間の罪です。ただ、神の御許しがなければ誰も私たちに触れることはできないという意味で、その背後に全知全能の神がおられるということを決して忘れてはなりません。
しかも神は、ご自身の民の敵の高ぶりを最終的に裁かれます。それを主は、「復讐と報いとは、わたしのもの」(32:35) と宣言します。ですから、私たちが恐れるべきは、人間ではなく神なのです。
3.「しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民……」
36節の「主 (ヤハウェ) は御民をかばい、主のしもべらをあわれむ」以降の記述は、さばきの後の恵みです。そこでまず、主は偶像礼拝者を嘲って、「彼らの神々はどこにいるのか……彼らの注ぎのぶどう酒を飲んだ者はどこにいるのか。彼らを立たせて……あなたがたの盾とならせよ」(32:37、38) と言われます。
つまり、主のさばきの目的は何よりも、偶像の神々の空しさを思い知らせることなのです。そのことが39節では、「今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない」と記されます。これはESV訳では、’See now that I, even I, am he, and there is no god beside me(今こそ見よ。わたし、このわたしこそ彼なのだ。わたしのほかに神はいない)」と記されます。
神はご自身の名を、「わたしは、『わたしはある』という者である(I am who I am)と紹介されましたが (出エジプト3:14)、それを思い起こさせる表現です。
そして、「わたし」ということばを再び強調しながら、「わたしは、殺し、また生かす。傷つける、しかし、わたしは、いやす。わたしの手から引き出せる者はいない」(32:39私訳) と表現されます。人間の悲惨は、神の御顔を避けたことから始まります。しかも、誰も神から逃れられません。
神のふところに飛び込むこと以外に救いはありません。神の前での強がりや嘘こそが、何より恐ろしい罪とも言えましょう。
そして、この歌の最後は、「諸国の民よ。御民のために喜び歌え。主がご自分のしもべの血のかたきを討ち、ご自分の仇に復讐をなし、ご自分の民の地の贖いをされるから」(32:43) で閉じられます。主は、イスラエルを偶像礼拝者の手を用いて懲らしめながら、最終的には、イスラエルを「ご自分のしもべ」と見て、敵に復讐するとともに「ご自分の地と、民の、贖い」をされるというのです。
この「贖い」とは、イスラエルの民が大贖罪の日に、契約の箱の「贖いのふた」に雄牛とやぎの血を振りかけることを指します (レビ16:14、15)。その目的は、主ご自身がイスラエルの地とその民の真ん中に住むことができるためです。
つまり、「贖い」の目的とは、神との交わりの回復自体なのです。そして、今、私たちにとってはイエスご自身が「贖いのふた」となって (ローマ3:25別訳)、私たちは神の御前に立つことができるようにされました。
神がイスラエルの忘恩に対しさばきを下し、また、救い出してくださることの目的は、世界の人々を、創造主に立ち返らせることに他なりません。
黙示録21章で、最終的な世界の救いは、「新しいエルサレムが天から下って来る」との表現から始まり、「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる」と描かれます。
救いとは神との交わりの回復、エデンの園にあった調和の回復なのです。
最後に、モーセは33章で、イスラエルの部族それぞれへの祝福を祈ります。これは創世記の最後で、ヤコブが十二部族のために祈ったことに重なります。ただそこの表現と決定的に違うのは、8-11節に記されたモーセの民であるレビ族への祝福です。
彼らは「トンミムとウリム」で神のみこころを知らされます。彼らは、自分の父や母、兄弟、子供たちよりも神の契約を第一とします。これは、イエスご自身も、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」(マタイ10:37) と厳しく言われたことに対応します。
そして彼らは神の「みおしえをイスラエルに教えます」(10節) という何よりも大切な使命を授かります。そしてまた、「かおりの良い香をたき、全焼のささげ物を……ささげます」という民の礼拝を導きます。
イスラエルの命運は、レビ人たちの働きにかかっていました。そして、旧約最後のマラキ書では、救い主の働きが、「この方は……レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする」(3:3) と描かれていました。
そして、最後にモーセはイスラエル民全体を再び、「エシュルンよ」と呼びかけ、「神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるために天に乗り、威光のうちに雲に乗られる……しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民……」(33:26-29) と祝福します。
この祝福は、今、私たちに受け継がれています。あなたはイスラエルの歴史の教訓から何を学ぶでしょうか。
最後の34章では、モーセがネボ山のピスガの頂に上って、約束の地の全地方を見せられ、「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう』と言って誓った地はこれである」と言われます (4節)。そして、「こうして、主 (ヤハウェ) の命令によって、主 (ヤハウェ) のしもべモーセは……死んだ」とその死が簡潔に報じられます (5節)。
ただ、不思議にも、モーセを葬ったのは、主ご自身であると記され、彼は120歳で死にながら、「目はかすまず、気力も衰えていなかった」(7節) と描かれます。モーセは老衰で死んだのではなく、与えられた使命を全うし、勝利のうちに生涯を閉じたのです。
そして、「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主 (ヤハウェ) は、顔と顔とを合わせて選び出された」(10節) と述べられます。しかし、この新約の時代に、神はモーセにまさる方を遣わされました。何と、世界の創造主である神の御子ご自身が、「人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14) のです。
イスラエルの民は、この後、モーセが警告したとおりの堕落をします。彼らはまさに、自業自得の苦しみを味わいました。それは、ルカ15章での放蕩息子が、父の財産分与を受け「湯水のように財産を使って」しまった後で、飢饉に襲われ、「豚」の餌で腹を満たしたいと思うほどに落ちぶれたのと同じです。
しかし、彼の父は息子の帰りを待ち続け、「まだ家まで遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走りよって彼を抱き、口づけした」(20節) のです。
それと同じようにこの申命記では、神がイスラエルをご自身の「目のひとみ」のように思われ、苦しみの後の回復までをも約束しておられます。律法が福音と対立概念として描かれることがありますが、放蕩息子のたとえは申命記の延長線上にあります。
ところで、イエスは律法学者やパリサイ人を放蕩息子の兄にたとえましたが、それは彼らが、神の愛の「教え(トーラー)」を、「律法」と位置づけ、「人々をさばく規範」に変えたからです。兄息子は、父が過酷な奴隷主人であるかのように勝手に思い込み、自分に与えられた自由を忘れていました。
しかし、神がモーセを通して語られたことの中心は神の一方的な愛であり、私たちの責任は、その愛を無駄にしないことだったのです。
放蕩息子の「悔い改め」とは、「父の愛」を思い出したことでした。そして、彼が帰って来たとき、父はその反省のことばを聞く間もなく、抱擁しました。彼はこの世が提供する喜びに失望して初めて、本当の喜びに出会うことができたのです。
先のカーネマンの本に書いてありましたが、下半身不随などの身体障害になった人でも、二年も経てば生活上の満足度は障害前の水準に戻るとのことです。逆に急に大金持ちになった場合でもその満足感は二年後には消えてしまいます。このプロセスは適応、あるいは習慣化と言われます。
お金を使って何かを手にしてもすぐに飽きが来て、次の刺激を求めたくなります。それよりも永続的な満足感は、自分が大切にされているとか、愛し愛される関係を築くとかの交わりから生まれます。それこそ、私たちがイエスを救い主と信じることから生まれる喜びです。