ヨシュア1章〜3章「恐れるな。わたしがあなたとともにあるから」

2017年1月29日

「ヨシュア」とは、「主(ヤハウェ)は救い」という意味で、そのギリシャ語名が「イエス」です。神が約束の地を占領させるためにヨシュアを立てたように、神はイエスを立てて私たちを世界に遣わされます

当時の神の民の敵はカナンの原住民でしたが、現在の私たちの敵は目に見える人間ではなく、目に見えない悪魔の力です。それは、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペソ6:12)と記されている通りです。

世界大恐慌のただ中で失業率が25%に達していた1933年初めに米国大統領に就任したフランクリン・ルーズベルトは、その就任演説で次のように語りました。

「The only thing we have to fear is fear itself (私たちが唯一恐れるべきなのは、恐れそれ自体である)。特定できない、不合理な、正当化できない恐怖(terror)が、退却から前進へと転換するために必要な努力を麻痺させてしまっている・・・」

日本におけるサタンの最大の働きは、人々の目を漠然とした「恐怖(terror)」に釘付けにし、主に信頼する一歩を踏み出させなくすることです。

最近、遠藤周作の「沈黙」が映画化され上映されていますが、「神は、忠実な信徒が死に直面しても、沈黙したまま」という恐怖感を広める結果にならないかと心配です。なお、主人公の神父ロドリゴは、日本人信者の命を守るために棄教せざるを得なくなりますが、それはかなり史実を反映しています。

古代教会以来、殉教者の血が流されるたびに、かえって福音が爆発的に広がったと言われますが、日本だけは例外です。1700年代初めの幕府の権力者、新井白石の記録では、20万人から30万人もが日本で殉教の死を遂げたとさえ言われています。残念ながら、それらが、「死の恐怖に勝利した」美談ではなく、日本の伝統に背いた「のろい」かのように見られるのは、世界では珍しいことかもしれません。

しかも、当時の迫害の先頭に立ったのは、大目付の井上政重を初めその多くは転びキリシタンだと言われます。彼らは信仰者の心理を熟知していました。これほど巧妙で残酷な迫害が行なわれた国はないのかもしれません。

しかも、棄教した神父たちも、キリスト教信仰を根絶やしにする働きに着かされます。人助けのために棄教することは、残念ながら、サタンの手先にされることを意味しました。

そして、キリスト信仰の「恐怖」が、互いを監視し合う五人組制度を通じて、日本人の心の奥深くに刷り込まれました。

私たちは新しいヨシュアイエス)によって、「地の塩」、「世の光」として、恐怖に満ちた世界に「平和をつくる者」として派遣さます

その際、強大な勢力の前で、「こんな私に何ができましょう?」と怖気づくことがあるかもしれません。そのようなとき、このヨシュア記は時代を超えた慰めを与えてくれます。

1.「そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができる」

主(ヤハウェ)はヨシュアにモーセの死の直接、「このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け」(1:2)と命じます。イスラエルの民は、かつてカナン南部の荒野から約束の地への侵入を命じられたとき、その地の民の大きさと強さに圧倒され尻込みしました。

今、ヨルダン川を渡ることは、自分たちで退路を断って、その敵の勢力の前に身をさらすことです。しかし、主の明確な命令に従うとき、主ご自身が道を開いてくださいます

それで主は、「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている」(1:3)と言います。

しばしば人は、危険や障害が目の前から消えるのを待とうとしますが、これは、恐れに打ち勝って足を踏み出さない限り神の約束の真実を体験することはできないという意味でもあります。なお、約束の地は、現在のイスラエルの占領地ばかりかシリア、レバノン、ヨルダンを含むユーフラテス南部の広大な領域とされています。

そして主は、ヨシュア個人に、「一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない」(1:5)と途方もないことを言われました。使徒パウロも、「神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)と語ったとおり、これは私たちへの約束です。

そして、その根拠として、「わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われます。ですから私たちも、世の人々から、「見放され、見捨てられ」ることを恐れて、悪事に加担したり、この世の習慣に妥協して仏壇や神棚に手を合わせるなどというようなことをする必要はありません。

それを前提として、「強くあれ(奮い立て)。雄々しくあれ(動じるな)」(1:6、7、9)と三回も命じられます。その第一の理由が、「あなたは、この民に地を継がせなければならないから」(1:6b私訳)と言われます。そこにはヨシュアの使命が記されています。

また第二の理由が、「モーセが命じた律法を守り行って・・あなたが行く所ではどこででも・・・栄えるため」(1:7)と記されます。つまり、主の御教えを全うするという目的が記されているのです。「恐れを感じる」ことと、「脅しに屈する」ことには天と地の違いがあります。

そのために、「この律法の書(モーセ五書)を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさま(黙想し)なければならない」(1:8)と命じられます。みことばを実行する前に、黙想することが何よりも大切です。遠藤周作が描いたフィクションによる心理描写の世界ではなく、聖書の物語を思い巡らすのです。

しかも、「そうすれば、あなたのすることで繁栄し、栄える(成功する)ことができるから」という祝福の約束が伴っています。そして、9節では、先の「強くあれ、雄々しくあれ」に加えて、「恐れてはならない。おののいてはならない」と命じられます。それは恐怖感情を抱くことではなく、恐れに圧倒されて退却してしまうことの禁止です。

「主よ、怖いです!」と告白することは「祈り」になります。そこには、「あなたの神、主(ヤハウェ)が、あなたの行く所どこにでもあなたとともにある」(1:9)という堅い約束が保障されています。

多くの人々は、「行い」の命令ばかりに反応し、自分を駆り立て、失敗して自己嫌悪に陥るという悪循環を繰り返します。しかし、聖書は神の愛と真実の啓示です。私たちはそれを黙想し、腹の底で味わった結果として、真心から主の命令を実行できるようになるのです。順番を間違えてはなりません。

しかも、その目的は、自分の願望を絶対化するご利益信仰ではなく、神が約束してくださった「地の支配」にあります。それは「神の国」という愛の共同体として実現します。そこには人知を超えた祝福があります。

2.遊女ラハブが信仰の母とされる

ヨシュアは、神の約束を信じながら、戦いへの備えを注意深くします。備えがないのは、勝利に賭けているだけで、腹の底で信じていないしるしかも知れません。勝利を与える神は、準備の段階から導いておられるからです。彼はまず、「糧食の準備」(1:11)を命じます。

そして、約束の地の東側に既に占領地を与えられたルベン、ガド、マナセの半部族に、妻子や家畜を置いたまま、戦いに出ることを命じました(1:12-18)。それは、民数記32章にあるようにヨルダン川をはさんで広がる民族の一致のために極めて大切でした。東岸に残された女性や子供、老人たちには心細く、不安なことだったでしょうが、ここでは主の前に立てた約束を守ることが、何よりも大切でした。なぜなら、民を守るのは、戦士たち以前に、主ご自身であられるからです。

18節では驚くべきことに、この三部族の代表自身が、ヨシュアの命令に逆らう者がいれば、「その者は殺されなければなりません」と言いながら、ヨシュアに向かって、「ただ強く、雄々しくあってください」と励まします。これは彼にとってどれだけ力強いことばだったことでしょう。

どんな国も共同体も、敵の攻撃以前に、内輪の権力闘争から崩れ始めます。戦国時代のカトリックの日本宣教はイエズス会によって始まりました。

彼らの多くは日本の権力機構を尊重していたようですが、宣教の大躍進の中、あとで入って来た修道会との間で、またスペインの政治権力者との結びつきの関係などで、宣教師たちの間に様々な意見の相違が生まれ、豊臣秀吉の迫害を招いたとも言われます。

その上で、ヨルダン川を渡ったすぐの大きな砦の町エリコ偵察のため、ふたりのスパイを遣わします。不思議に、偵察の様子を省くかのように、「彼らは行って、ラハブという名の遊女の家に入り、そこに泊まった」(2:1)と記されます。

その後の記述をみると、彼女は自分の父の家族全体に責任を持つような人であったことがわかります。当時は、町に知り合いを持たない旅行者が遊女屋のような所に泊まるのはよくあったようです。事実、王の使者がスパイの侵入のことを尋ねても、彼らが一時滞在して立ち去ったということが信じてもらえるほどに、この家は町の中で旅行者向けの遊女屋として認められていたようです。

それにしても、ラハブは、いのちがけでふたりのスパイをかくまったのです。それは彼女が、多くの旅行者から、川向こうでの彼らの劇的な勝利のことを聞き、エリコの王ではなく、イスラエルの神、主(ヤハウェ)をこそ恐れるようになったからです。

その上でラハブがふたりのスパイに、「私が・・真実を尽くした(誠実《ヘセド》を行なった)ように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くす(誠実《ヘセド》を行なう)と、今、主にかけて誓って・・・確かな(エメットな)証拠をください。私の父、母、兄弟、姉妹、またすべて彼らに属する者を生かし・・いのちを救い出してください」(2:12,13)と迫ります。

彼女はイスラエルの神が何よりも「誠実」と「真実」を大切にされる方であると知っていました。それに対しふたりは、「私たちのいのちを、あなたがたのためにかけよう。もし、私たちのことを漏らさないなら」という条件を付け、「主が私たちにこの地を与えてくださるとき、私たちはあなたに真実(ヘセド)と誠(エメット)を行なおう」と、ラハブのことばを用いて保証します。

なお、その家は城壁の中に建て込まれていたので、彼らに逃げ方を教え、窓から城壁の外につり下ろします。17節は、「あなたが私たちに誓わせたこのあなたの誓いから、私たちは解かれる以下の条件を守れないならば」という意味だと思われ、18節以降はその条件です。それは、赤いひもを窓に結び付け、家族をみな家の中に集めておき、スパイのことは黙ったままにしておくことでした。

そして、ふたりのスパイは無事にヨシュアのもとに帰り、エリコの町にある恐怖を伝えることができました。その際、内外の情報に詳しいラハブが命をかけてスパイをかくまって逃亡を助け、イスラエルの神、主(ヤハウェ)に救いを求めたという事実こそが、彼らを励ます大きな材料になったことは疑いがありません。

ところで、後にヨシュアは、「あの遊女に誓ったとおり・・」(6:22)と言うように、彼女は確かに遊女です。しかも、自分の町を売り渡そうとさえしています。しかし、「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Ⅰサムエル16:7)とあるように、神の目に彼女は、「家族全体の救いのために、自分の命をかけて主に信頼した」と映ったのだと思われます。

マタイの系図で、ラハブはルツをめとったボアズの母、ダビデの祖先であり(1:5)、「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました」(ヘブル11:31)と記されるような、「信仰の母」でした。

後に他の神々に浮気をするようになったイスラエルが、「それゆえ、遊女よ」(エゼキエル16:35)と滅亡を告げられるのと何と対照的でしょう。あなたは、信仰の名の下に、尊敬される人間になろうと自分を縛っていないでしょうか?しかし、遊女ラハブは、善行を積んだというより、ただ必死に、「主にすがる」(申命記30:20)ことをしただけです。

ラハブは、イスラエルの神の偉大さ、誠実、真実を伝え聞いていました。一方、日本の豊臣や徳川政権は、スペインの中南米での残虐な支配、フィリピンの植民地化がカトリック教会の密接な協力でなされたことを伝え聞いていました。

カトリックでの救いは、神父のミサや告解の秘跡(サクラメント)によって保障されますから神父は非常に尊敬されます。外国人の神父の意見が真剣に聞かれることに、日本の支配者が脅威を抱くのも無理はありません。当時のカトリックの悪評こそが、日本での大弾圧の原因でした。

3.「全地の主の契約の箱が・・・ヨルダン川を渡ろうとしている」

3章には、ヨシュアに導かれた民が、ヨルダン川の東岸に着き、そこに三日間滞在することから描かれます。その上で、「主の契約の箱」を先頭に、ヨルダン川を渡るように命じられます。

その際、民の集団は契約の箱から約2,000キュビット(約900m)の距離を取ることによって、「通ったことがない」ところで「行くべき道を知る」ことができると記されます(4節)。

そこでヨシュアは民に向かって、「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主(ヤハウェ)が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから」(5節)と言います。

ヨルダン川は、カナン人にとって天然の要害ですが、11節では、「全地の主の契約の箱が・・・ヨルダン川を渡ろうとしている」と表現されます。つまり、主ご自身が道を開いてくださるのです。

しかも、ここでは、「主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる」(3:13)あるように、危険な流れに足を踏み入れるまで、主のみわざを見ることはできなかったということを忘れてはなりません。

15,16節では、「箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき・・・上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなた・・にある町アダムのところで、せきをなして立ち、…塩の海のほうに流れる水は完全にせき止められた」と記されます。これは3月から4月の春の穀物の収穫期で、ヨルダン川は春の雨とヘルモン山の雪解け水であふれかえっています。それが30㎞近くも上流のヤボク川近くのアダムでせき止められたというのです。

しかも「水は・・せきをなして立ち」と、「イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった」(17節)という描写は、モーセに導かれた民が、「海の真ん中のかわいた地を歩き、水は彼らのために、右と左で壁となった」(出14:29)を思い起こさせる表現です。

そして、「民はエリコに面するところを渡った。主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真ん中のかわいた地に立つうちに」(16、17節)という表現は、普通であれば恐怖を覚えさせられることです。

エリコから川を渡っている最中に攻撃を仕掛けられる可能性があり、また、上流でせき止められた川が流れてきたら祭司たちは真っ先に大水に呑み込まれて溺れ死ぬことは確実だからです。

これは、主ご自身が、「恐れるな。わたしがあなたとともにあるから」(イザヤ41:10)と語ってくださったからと言えましょう。

ただし、「主の契約」の箱が先立つとは、聖書を導き手にして世の荒波に向うことを意味します。神がイスラエルの民を約束の地に導かれたのは、そこに「神の国」を建てるためでした。

かつてのカトリックの日本宣教があのような悲劇に終わったのは、そこに「神の国」ではなく、「地上の国」の意図が微妙に絡んでいたからかもしれません。人間的な計画のために一歩を踏み出すときにではなく、主のご計画のために踏み出すときに、主は道を開いてくださいます

ですから、私たちはすべての前に、主の御前に静まりながら、自分の計画を、神の永遠のご計画、この地に神の平和(シャローム)を実現するという観点から見直す必要があります。

そこで問われるのは私たちの誠実さです。それは、「人の心には多くの計画がある。しかし、主のはかりごとだけが成る。人の望むものは、人の変わらぬ愛(誠実、ヘセド)である」(箴言19:21,22)と記されている通りです。私たちの心の願いが、主の願いと調和することが大切です。

主のみこころを思い巡らし、主に信頼して一歩を踏み出すことこそ、信仰の歩みの原点です。そこに驚くべき祝福が約束されます。ただ、それを躊躇させる、「焦点を絞ることによる錯覚」の可能性があります。それは、「人は意識を集中させる時、それが生活のどんな面であっても、その重要性をあまりにも誇張してしまう傾向が強烈にある」という原則です(ダニエル・カーネマン「心理と経済を語る」P166)。

たとえば、放射能汚染は科学的に気をつけなければなりませんが、問題は、それを過度に意識するストレスによって心を病んでしまうことです。30年前のチェルノブイリ原発事故では、放射能よりも、心の病の方が恐ろしかったとも言われます。

信仰についても同じことが言えます。遠藤周作は「沈黙」の中で、ある一部の神父の棄教という現実から、「神は私たちの危機的状況には沈黙しておられる。ただそこでは、キリストご自身がいっしょに苦しんでいてくださること自体に慰めを見出すことができる」という趣旨の解釈を示しているように思えます。しかし、そこに「復活」がなければ、ナルシズム的慰めに留まります。

超自然的な解決ばかりを求めることも危険ですが、確かに神は、海を二つに分け、ヨルダン川をせき止めてイスラエルの民を救われました。そして、何よりも神は、死んだはずのイエスを三日目に死人の中からよみがえらせたのです。

残念ながら遠藤はこの「復活」を文字通りのこととは認めていないように思えます。少なくとも私の場合は学生の時に「沈黙」を読んで、イエスを信じることが怖くなるばかりでした。そして、そこで最も不思議なこと、当時の多くの無学な農民たちが、どうして自分の命を犠牲にしてまで信仰を守り通すことができたかという、聖霊のみわざには全く目が向かいませんでした。

しかし、イエスはご自身の弟子たちが信仰のゆえに捕らえられることを予告しながら、「彼らに捕らえられ、引き渡されたとき、何を言おうかなどと案じるには及びません。ただそのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあながたがではなく、聖霊です」(マルコ13:11)と言っておられます。これは、まさに「焦点を絞ることによる錯覚」「不安の先取り」を戒めたものと言えましょう。

「話すのは、あなたではなく聖霊です」とあるように、主の導きに従って一歩を踏み出した者を、主は支え、守って、道を開いてくださるのです。

神はときに私たちを具体的な危機的状況の中から救い出し、また、時には、殉教の死の中にご自身の臨在を現してくださいます。

何よりの不思議は、かつて信じられなかった私が、聖書を読んで感動し、目に見えない神を信じていることです。私たちの信仰告白自体が、聖霊による奇跡なのです。

現代の私たちはヨシュア記の時代よりもはるかに恵まれています。何よりも、領土獲得のための戦争に駆り立てられることはありません。しかも、ヨシュアを導いた聖霊ご自身が私たちを導いてくださいます。

しばしば、信仰の強さ、弱さが話題になりますが、聖霊のみわざの前には、その人間的な判断は意味をなしません。聖霊は私たちが「どのように祈ったらよいかわからない」(ローマ8:26)というような葛藤の中でこそ働かれるからです。

強がらず、弱さに居直りもせず、悩む者の中にこそ、みわざが現されます。