最近日本でもブームになっている「サピエンス全史」という本があります。進化論的説明を絶対化することには賛成できませんが、ホモ・サピエンスと呼ばれる人類が、驚くほどひ弱であるにも関わらずこの地の支配者となれたのは、ときにフィクションとも呼ばれる「想像上の現実」を大集団で共有して協力し合うことができたからであるという解説には感心しました。
私たちは自分の不信仰や愛の足りなさに悩みますが、それは、目に見えない神を信じることや、また自分の利害を超えて人を愛するように、「神のかたち」として創造されていることの現われでもあります。チンパンジーはそんなことを悩むことはありません。
「永遠の愛」を求めて悩むことができること自体を喜び、イエスにある完成を待ち望みましょう。
1.「父ご自身があなたがたを愛しておられる」
イエスの弟子たちに対する告別説教が、13章から16章まで詳しく記されています。弟子たちの「心は悲しみでいっぱいになって」いましたが(16:6)、イエスは、「あなたがたの悲しみは喜びに変わります」(20節)と断言し、それを女性の出産の「激しい苦痛」にたとえます(21節)。
同じように弟子たちも、「もう一度(復活のイエスに)会う」その時に、「心は喜びに満たされる」(22節)というのです。
23-26節には、「父に・・求める」という祈りの勧めが三度繰り返されますが、その鍵は「イエスの御名で」です。それは、「イエスと一体とされた者として」という意味です。
主は、「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です・・・わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」(15:5)と言われました。ぶどうの木と枝は決して区別できません。枝は必死につながろうとはしません。ただ、力を抜いて、木に自分の身を任せ、自分を通して木に生きていただくときに実を結ぶことができるということでした。
そして、25節でイエスは、「これらのことを・・・あなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきり告げる時がきます」と言われます。それは私たちが、イエスを通して間接的に御父を知る代わりに、イエスの父を直接的に、「お父様!」と呼んで、「神の子」としての特権を味わうことができることを指します。
復活のイエスはマグダラのマリヤに対し、臆病な弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼びながら、ご自身の父を「あなたがたの父」と紹介されました(20:17)。
26節では23節に続いて再び「その日には」と繰り返しながら、「あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたに代わって父に願ってあげようとは言いません」と言われます。それは私たちがこのままで、イエスと同じ「神の子」の立場にされることです。
ですから主の祈りの始まりは、「お父様!」という呼びかけになっているのです。しかも、27節の原文ではまず、「それは、父ご自身があなたがたを愛しているからです」と記されています。これほど簡潔に福音を要約したことばはありません。
そしてその根拠が、「あなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出た者と信じた」ということに基づくと記されます。確かに、この特権はすべての人に無条件に与えられているものではなく、私たちがイエスを愛し、イエスは神の「ひとり子」であると信じることによって実現したことでもあります。
その上で主は、「わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます」(28節)と言われました。それこそイエスの生涯の要約です。主は常に、父から遣わされ、また父から委ねられた責任を果たすことに、目を向けていました。
「キリスト者の生涯とは、キリストご自身の生涯の再現(REPLAY)である」と言われるように、私たちもその歩みに習います。ですから、「イエスの御名によって」何かを「求める」ことは、自己中心的な求めを全面的に肯定するものではありません。
しかし、それは同時に、何事も最初からあきらめることなく、子が信頼する父に向かうように、大胆に求め続けることでもあります。日本語では、演歌で「女心の未練でしょう・・」などと歌われるように、「未練」は「女々しさ」と見られ、「男らしさ」には、「潔くあきらめる」という意味が込められがちです。
ところが聖書では、「雄々しくあれ」は「待ち望め」とほとんど同じ意味なのです(詩篇27:14)。私たちは「求め」続ける中で、希望に満たされ、いつも喜ぶことができるのです。
イエスの弟子たちは、成人の男だけでも五千人に及ぶ大群衆を前に、最初は「あきらめ」ました。しかし、主が天を見上げて五つのパンを祝福したとき、彼らを満腹させたあげく十二のかごいっぱいのパンが余りました。マザー・テレサも、あきらめることなく求め続け、何十万人もの人々にパンを与える修道会を導きました。
イエスは、「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ7:7)と語りました。世界の平和のため、まわりの必要のために、求め続けましょう。
人の価値は、「あなたは何を望んでいるのですか?」という問いへの答えで決まるとも言えます。動物的な欲望ではなく、神の「望み(みこころ)」を「求める(望む)」ことができるかが問われます。
2.「あなたがたがわたしにあって平安を持つため」
弟子たちは、イエスの一連の話しによって慰めを受け、「ああ、今あなたははっきりお話しになって、何一つたとえ話はなさいません」(29節)と応答します。これは、25、26節でイエスが「その日には」と言われたことがすでに弟子たちに成就したとも解釈できますが、その後の弟子たちの臆病な行動を見る限り、彼らは決してイエスの話しを理解したとは言えません。
ただ理解がまだまだ不足しているとはいえ弟子たちは、「これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます」と喜びます(30節)。
しかし、それに対してイエスは、「あなたがたは今、信じているのですか」と、彼らの「信仰」に疑問を投げかけます。そしてその上で、「見なさい。あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています」(32節)と断言されます。
弟子たちは未だ、十字架と復活のことを分かってはいませんでした。そしてそれを知らずに生きている者は、患難に立ち向かうことができないからです。ここに「もう、わかった」と思うことの危なさが記されています。
ただし、イエスはここで、「あなたがたは・・・わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです」(32節)と言われました。ここでは、「ひとり」(モノス)ということばが繰り返され、強調されています。
イエスの苦しみは、この世的には、弟子たちに裏切られるという「孤独」でした。しかし、同時に、イエスの喜びまた平安は、「父がわたしといっしょにおられる」ということでした。
私たちも周りの人々から誤解され、「ひとり」という孤独を味わうことがあるかもしれません。しかし、そのときこそ、イエスの御跡に従うことで。人々から見捨てられながらも、父なる神がいっしょにいてくださることを心の底から体験する機会になるのです。
そして、主は、「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです」と言われます。「平安」のギリシャ語は「エイレネー」ですが、それはヘブル語の「シャローム」に由来します。私たちはまわりが敵だらけでも、イエスにあって「平安(シャローム)」を味わうことができます。
その上でイエスは何と、「あなたがたは、世にあっては患難があります」(33節)と断定されました!ですから、何のわざわいにも会わないという意味での『平安』を期待することは最初から無理なのです。
日本は「恥の文化」であるとも言われます。いつも、「人が自分をどう見るか」を気にし、「見捨てられる」ことにおびえます。人の評価こそがアイデンティティーの基盤であるため、そこには絶え間のない競走があり、「平安」がありません。まさに、「集団の奴隷」状態です。
しかし少し前に、イエスは、「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう」(16:2)と予告しました。主は私たちに、「世から見捨てられる」という患難を覚悟させた上で、「しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(33節)と言われました。それは、イエスの勝利が、私たちの勝利となるという意味です。
「復活」こそは、御父が、十字架で見捨てられたと見えたイエスと、ずっと「いっしょにおられた」ことのしるしです。
十字架と復活を知ることは、価値観が覆されることです。私たちは、悲しみや患難を避ける必要はありません。そこでこそ神の御手に抱擁されている喜びと平安を味わえるのですから。
「サピエンス全史」には、「人間どうしの大規模な協力は神話に基づいているので、人々の協力の仕方は、その神話を変えること、つまり別の物語を語ることによって、変更可能なのだ。適切な条件下では、神話はあっという間に現実を変えることができる。たとえば、1789年にフランスの人々は、ほぼ一夜にして、王権神授説の神話を信じるのをやめ、国民主権の神話を信じ始めた」(P50)と記されており、感心しました。
日本でも1945年8月に一夜にして、「天皇を中心とした神の国を大東亜共栄圏として東アジアに実現する」という神話の「虚構」に目覚め、個人の人権を尊重する平和国家として歩み出すことができました。
ただ、今もなお、私たち日本人には、「和を以て貴しと為し、忤(さから)ふること無きを宗とせよ」という神話的な同調圧力が強く働きます。そしてそれは、かつて第二次大戦への集団暴走や、安全神話という名のもとでの原発事故、また、過度な残業による過労死などの問題を生み出してきました。
私たちはそのような中で、「人はみな神のかたちに創造された」という聖書の物語で、絶対的な真理を否定する「八百万神(やおろずのかみ)の汎神論的な調和」の神話を変えて行く必要があります。
3.「あなたの子の栄光を現わしてください」
イエスは十字架にかかられる前の夜、弟子たちと最後の晩餐を守り、彼らの足を洗い、最後の説教をなさいました。それから「目を天に向けて」、「父よ。時が来ました・・・」(1節)と祈られました。その内容が17章に記録されています。
「時」とは、ご自身が十字架で苦しまれる時を意味しますが、「父よ」で始まるイエスの祈りには、御父への信頼があふれています。
現代の多くの人々は、祈りの時に、頭を下げる傾向がありますが、当時は、目を開いたまま天を見上げる姿勢を取りました。例外的に、ルカ18章に描かれている取税人は、「目を天に向けようともせず・・こんな罪人の私をあわれんでください」と祈りました。これは、自分のような罪人は神様に顔を会わせる資格がないという謙遜な姿勢を表わします。
もちろん、私たちは取税人の祈りの姿勢にも習うべきですが、恵みを見失うような過度の内省は危険です。
たとえば私は、自分自身の問題を分析することに多くの時間を費やしてきました。しかし、それによって、自分がどれだけ変わることができたかは疑問です。かえって、「私は自分のことが分かっているけれど・・・あの人は、まだ・・」などという気持にさえなりました。
「このままの私が、神の最高傑作で、支えられ、愛されている」と実感することこそが、人に対しても優しくなることができる秘訣なのではないでしょうか。
弟子たちはこの時、御父と御子が親密に語り合う、その傍らに置いてもらえました。そしてイエスは今も、祈っているあなたの傍らにいて、ご自身に倣うように励ましてくださいます。
イエスの願いの第一は原文の語順では、「あなたの子の栄光を現わしてください」(1節)と記されています。それが、「今は・・わたしを栄光で輝かせてください」(5節)と若干異なった表現で繰り返されます。
私はかつて、「御父の栄光ばかりを求めていたはずのイエスが、なぜ自分の栄光を求めて祈るのか?」と疑問に感じたことがありましたが、それはこの福音書での「栄光」ということばの用い方を知らなかったためでした。
イエスは、かつて「人の子が栄光を受けるその時が来ました」と言いつつ、ご自分が「一粒の麦」として死ぬことを予告されました(12:23,24)。また、ユダの裏切りが実行に移される時、「今こそ人の子は栄光を受けました」(13:31)と言われました。
つまり、イエスが「栄光を受ける」とは、何と、ご自分の愛弟子に売り渡され、人々からののしられ、十字架で殺されることを指していたのです。
十字架が「栄光」と呼ばれるのは、アダムの子孫の生き方とあまりにも対照的です。私たちはしばしば、人よりも勝った者と見られることや、より多くの物を所有することを求め、名誉や富によって、裸のままのひ弱な自分を隠そうとしがちです。それは、偽りの自己像を築き上げることです。
ところが、イエスはご自分から、すべての人々から見捨てられ、無力な裸の姿になることを求められました。それは、ただ、神から与えられる「栄光」だけをご自分の衣とすることを願われたからです。
アダムは、自分を神とすることで世界を悲惨に追いやりました。しかし、キリストは、しもべの姿となり、すべてを失うことで、神に生かされる者としての「栄光」を現したのです。それこそが、真の神のかたち、真の人の姿でした。
そして2節の原文では、「それはちょうど、あなたが子にすべての肉なる者を支配する権威をお与えになったように、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるためです」と記されます。
つまり、ご自身の栄光を求められたのは、私たちに「永遠のいのちを与えるため」であったのです。しかも、「永遠のいのちとは・・唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ること」(3節)だというのです。
なお、「知る」とは、単なる知識ではなく、深い信頼関係に入ることを意味します。「永遠のいのち」とは、天国という場所に入れられる保証である前に、今ここで、御父と御子から愛され、その愛に応答して生きるという交わりであり、それが永遠に続くことを意味します。
4節ではご自身の生涯を振り返りながら、「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と言われます。それは先の「神のかたち」としての生き方と同時に、「神の国がこの地に実現した」ということを現す預言の成就です。
目の見えない人の目を、また耳の聞こえない人の耳を開くこと、足の萎えた人を立たせることなどはすべて、「神の国」がイエスにおいて実現したというしるしでした。
しかし、5節では原文の語順ではさらに、「今、わたしの栄光を現してください。父よ、みそばにおいて、世界が存在する前にごいっしょにいて持っていた栄光で」と、大胆に祈っておられます。
これは、たとえばダニエル7章13節で、「見よ。人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく彼に仕えることになった」という預言が成就することを意味しました。
イエスは父なる神とともに世界を創造しましたが、今、その創造主としての「栄光」が、父なる神とともに王座に着くということで再び現されることを、願われたのです。
ちなみに、イエスが最高議会で、冒涜罪の死刑判決を受けたのは、ご自身がダニエル7章に描かれた「人の子」であると宣言したからです(マタイ26:64-66)。イエスはその「栄光」を、弟子たちに聞こえるように求めたのです。
また先にイエスは、「あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与える」(2節)と言われましたが、6節では改めてまず、「あなたの御名を明らかにしました」と言われながら、その対象となった弟子たちを、「あなたが世から取り出してわたしにくださった人々」と呼び、さらに、「彼らはあなたのものであって・・・彼らをわたしにくださいました。彼らはあなたのみことばを守りました」と言われます。
「永遠のいのち」の核心とは、御父を「知る」ことですが、それは私たち自身の知恵や信仰心によるのではなく、イエスご自身が「明らかに」してくださった結果であり、しかもそれは、父なる神が人をイエスのもとに引き寄せてくださった、その一方的な「選び」から始まっています。
つまり、「永遠のいのち」の恵みは最初から最後まで、徹底的に、御父と御子との共同のみわざから生まれているのです。
イエスはさらに、「いま彼らは知っています、あなたがわたしにくださったものはみな、あなたから出ていることを。それは、あなたがくださったみことばを、わたしが与えたからです。彼らはそれを受け入れ、確かに知りました、わたしがあなたから出て来たことを。また彼らは信じました、あなたがわたしを遣わされたこと」(7、8節私訳)と言われます。
つまり、私たちに知らされた神秘とは、御子が私たちにくださったみこばを初めとするすべてのものが御父に由来し、またイエスご自身も御父から生まれ、送られたということを知ることなのです。
まさに、御父の御子との関係を知ることこそ信仰の核心なのです。
当時の宗教指導者は、神の命令を学び、それを実行することで、永遠のいのちを自分のものにできるかのように考えていました(ルカ18:18)。彼らには知識がありましたが、真の意味で神を知ってはいませんでした。そればかりか、神の教えを、人間をさばく手段に用い、人々を神のもとから遠ざけてしまいました。
このように、人が必死に神に近づこうと空回りしている時、神の側から人に近づいてくださったのです。イエスは「世界が存在する前」(5節)から神とともにおられた方ですが、その方が、あわれみに満ちた神の姿を明らかにしてくださり、しかも、ご自身の身を犠牲にすることによって、私たちに「永遠のいのち」を与えて下さったのです。
つまり、自分の無力さを知ると同時に、神の一方的な恵みを知り、味わい、その愛の中に今ここで憩うこと、その中で私たちは永遠のいのちの喜びを体験できるのです。
ダニエル・カーネマンというノーベル経済学受賞者は、人々の日常生活の各瞬間で何が楽しく何が嫌だったかの聞き取り調査を行ないました。
たとえば子育てでは、おむつを替えたり、食器を洗ったり、癇癪を宥めたりすること自体を喜ぶ人はいませんでしたが、大多数の親は、子供こそ自分の幸福の源泉だと言いました。
つまり、人間の幸せとは、不快な時間を快い時間が上回るというような生物学的な観点から測れるものではなく、人生が有意義か、無意味かという「認知的、倫理的な側面」による価値観から生まれるというのです。
イエスは、私たちに平穏無事な人生を保証する代わりに、患難の中に『平安(シャローム)』が与えられることを保証してくださいました。そしてそれは、イエスがご自身の十字架を前にして、「わたしはすでに世に勝ったのです」と言われたことから生まれます。
神を愛し、人を愛することには、ときに面倒に巻き込まれることですが、そこにこそ人知を超えた喜びが生まれます。