先日の子供クリスマス会で「靴屋のマルティン」の人形劇を上演しました。マルティンはロシアの田舎の評判の良い働き者の靴屋さんでした。若くして結婚しましたが、奥さんとお子さんたちを早くに亡くしてしまい、ひとり残った息子を育てながら後継ぎにすべく訓練していました。しかし、その子も病気でアッという間に死んでしまいます。彼は絶望の底に落とされます。
そのようなときに、古い友人が訪ねて来ます。マルティンは彼に、「わしにはもう夢も希望もない。願いと言えば早く死ぬことだけだ・・・」と愚痴ります。それに対し、友人は、「自分のためにではなく、神様のために生きるように・・・それを知るために聖書を読みなさい」と勧めます。
そして、そこから世界中の人々に慰めと希望をもたらす美しい「神の物語」が始まります。それは童話の世界では終わりません。
キリストのうちにある者は、「死からいのちに」、「のろい」から「祝福」へと移されています。「のろい」とは労苦が無駄になり、自分の身を守ることばかりに汲々として不安に苛まれ、愛が冷めてゆく状況です。
それに対し、「祝福」とは、キリストにある夢と希望に満たされ、「私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と断言できる世界です。それこそが、申命記27-30章の結論として語るべきことばでした。
教会ではクリスマスのたびにイザヤ11章が朗読されます。そこでは「エッサイの根株から新芽が生え・・その上に、主(ヤハウェ)の霊が留まる」から始まり、「正義」と「公正」をもって世界を治める新しい王の登場が告げられます。
そして、その方が創造してくださる世界の姿が、狼が子羊とともに住み、ライオンと小さい子供がともに遊び、乳飲み子がコブラの穴の上で戯れることができるような神の平和(シャローム)が満ちた世界として描かれます。
神の御子は、その約束を成就するために人となってくださいました。その神のシャロームは必ず完成へと導かれます。それこそ私たちの夢と希望です。信仰とは、どんな暗闇の中でも、その約束に信頼し続けることです。
1.新しい創世記としてのキリストの系図
この福音書の最初は、「ビブロス・ゲネセオス」Book of Genesis(創世記)と記されています(新改訳「系図」)。これは、「起源の記録」という意味です。つまり、キリストの起源を語ることは、神による新しい創造を語ることなのです。
「聖書」とは厳密には「契約の書」と呼ぶべきで、旧約聖書がBook of Genesis(創世記)から始まるように、新約聖書もBook of Genesisから始まります。聖書はアブラハムからイエス・キリストに至る神の契約の物語です。
原文では、「系図、イエス・キリストの、ダビデの息子、アブラハムの息子の」という順番で続きます。キリストとは、「救い主」という以前に、厳密には「油注がれた者」(ヘブル語はメシヤ)で、それはダビデの家系を受け継ぐ「王」という意味があります。ですから、この方は当時、何よりも、「ダビデの子」と呼ばれるのが当然でした。
そして、原文では、「ダビデの子」ということばの後に「アブラハムの子」と記されています。神と罪人との間の契約はアブラハムから始まるからです。そして私たちは信仰によって、アブラハムの子孫とされています(ローマ4:16等)。
私は長い間、ここには血筋による系図が記されていると誤解していました。しかし、イエスとは何の血のつながりもないヨセフに至る系図が記されているのですから、そうではありません。ヨセフは契約によってイエスの父とされました。養子縁組で親子関係が作られたようなものです。
実際、最近の英語訳では、「Abraham was the father of Isaac, and Isaac the father of Jacob・・・」と、「beget(生む)」の代わりに、「父となる」という表現を使うようになっています。
しかも、個別に見ると明らかですが、この系図には、大きな時代上のギャップがあります。アブラハムからダビデに至る世代を十四代でまとめるのは当時、既に一般的でした。それはダビデという名前を数字化したものとも言われます。イエスは契約の上で、「ダビデの子」であり、また「アブラハムの子」なのです。
2節から始まる具体的な名ですが、アブラハムは「信仰の父」と呼ばれます。アブラハムには子孫が約束の地を占領するという約束と、その子孫が天の星のように増えるという約束が与えられましたが、聖書の物語の核心とは、アブラハムに対する主の契約が成就するというものです。
ただし、アブラハムは家長としては大きな欠点を持っていました。それがイサク、ヤコブへと受け継がれ増幅されます。ヤコブはラケルの息子ヨセフを偏愛し、子供たちの間に争いを作りますが、神は、兄たちによって奴隷に売られたヨセフを用いて、ヤコブ一族をエジプトで増えさせる計画を進めてくださいました。このプロセスで「ユダ」が家族をまとめるために大きな貢献をします。
ダビデはヤコブの第四男の「ユダ」の子孫です。ユダの子を産んだ「タマル」(3節)は息子の妻でした。ユダは彼女を迎えた息子たちが次々死んだので「やもめ」のまま残そうとします。それに対し彼女は遊女の姿をして義父のユダを欺き、子を設けました。それは本来、死罪にあたる罪です(レビ20:12)。
しかし、神はタマルの信仰を見られ、その子を祝福してくださいました。そのことが「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ」と記されます。
その後の系図では、多くの人々の名が省かれた後、「サルモンにラハブによってボアズが生まれ」(5節)と記されますが、「ラハブ」はヨシュアがエリコ攻撃の前に遣わしたスパイを命がけで逃したエリコの遊女です。
そして、続く、「ボアズにルツによってオベデが生まれ」(5節)の経緯はルツ記に描かれています。「ルツ」は、のろわれた民の代名詞のような「モアブ」の女でした(申命記23:2)。しかし神は、姑のナオミに従ったルツの信仰を喜ばれ、ボアズの嫁にしました。その結婚からオベデが生まれ、その息子としてダビデの父エッサイが生まれます。
そればかりか、「ダビデにウリヤの妻によってソロモンが生まれた」(6節)とは、ダビデと「ウリヤの妻」バテシェバとの不倫関係を敢えて強調した表現です。しかも、ウリヤは誠実な人でした。
しかし、神は、この「のろわれた関係」さえも「祝福」に変え、その関係から生まれたソロモンに最高の知恵と力、富と名誉とを与えられました。
この四人の女性に共通するのは、「のろい」が「祝福」に変えられたということです。血筋の上では「のろい」でしたが、彼女たちはアブラハム契約の中に身を寄せてきた結果、「祝福の基」と変えられたのです。
キリストが「のろい」を「祝福」に変える「救い主」であるということが、彼女たちの名を通して明らかに示されているのです。
2.神がダビデと結んだ契約
ダビデの子ソロモンから「バビロン移住の頃のエコニヤ(エホヤキン)」(11節)までは、20人の王が立っていましたが、14名だけが記されます。名を連ねている王も問題に満ちています。
ソロモンの子の「レハブアム」(7節)は傲慢さのために国を分裂させました。「アサ」(8節)は敬虔な王ですが、その子「ヨサパテ」は北王国の悪王アハブ家と同盟を結び、その息子「ヨラム」はアハブの娘アタルヤを妻に迎えます。これによって北王国の偶像礼拝が南王国に入り込みます。その後に名が省かれた三人の王はみな殺害されています。
「ウジヤ」(9節)、「ヨタム」は敬虔な王でしたが、その子「アハズ」はエルサレム神殿に異教の神への祭壇を建てた悪王です。一方、その子の「ヒゼキヤ」(10節)と、そのひ孫の「ヨシヤ」はダビデに並び称されるほどの傑出した王ですが、その間の「マナセ」と「アモン」は最悪です。預言者イザヤはマナセによって鋸引きの刑で惨殺され、その子のアモンは宮殿の中で家来に殺されるほどに無能でした。
マタイは敢えてこれらの救いがたい王の名も記しています。それは、神の救いのご計画は、愚かで、不敬虔な王の存在にも関わらず、進んで行ったということを証しするためです。
「エコニヤ」(11節)はバビロン帝国にすぐに降伏したため捕囚の地で優遇され、ダビデの子孫を残すことができました。ここで「捕囚」ではなく「移住」と記されているのは、目に見える王国は滅びても、ダビデ王家は絶えてはいないことを明らかにするためです。
それは主がダビデに、「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまで続き、あなたの王座はとこしえまで堅く立つ」と約束してくださったとおりです(Ⅱサムエル7:16)。
神はかつてモーセを通して「いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く、あなたはいのちを選びなさい」(申命記30:19)と語りましたが、ダビデの後継者は「のろい」を選び取りました。その結果がバビロン捕囚であり、それは申命記28章47節以降に詳しく警告されていたことでした。
しかし、神の計画は、民の不従順によって無に帰すことはありません。そのことを神は、預言者エレミヤを通して、今まさにバビロンによって廃墟にされようとするエルサレムに対して、「もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も・・・破られよう。天の万象が数えきれず、海の砂が量れないように、わたしは・・・ダビデの子孫と・・レビ人とをふやす」(エレミヤ33:20-22)と約束してくださいました。
ダビデに対する神の約束の確かさは、この天と地の規則的な動きが、神とノアとの契約が守られ通している結果であることからも明らかだというのです。
なお、「バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ」(12節)とありますが、このエコニヤは二回数えないと17節の「十四代」が成り立ちません。しかも、その後の系図に関しては分からないことばかりですが、ダビデの系図が続いたことは確かで、16節では、「ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた」と、何よりもマリヤの夫のヨセフがダビデ契約の後継者であることが強調されます。
そして、この系図の最後に、「キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった」と記されています。
その上で、17節では、この系図が三つの期間に分けられます。第一期は「アブラハムからダビデ」で苦しみを通しての祝福、第二期はソロモンからエコニヤでバビロン捕囚に至る破滅に向かう時期、第三期はエコニヤ以降の外国の支配に服しながら救い主を待ち望むどん底の時期です。
それぞれが十四代として描かれており、これらを合わせると、七代が六回繰り返されていることが分かります。つまり、キリストは第七回目の新しい世代、歴史の完成の時代の幕開けとして位置づけられます。
18節では「イエス・キリストの誕生の次第は…」とありますが、これも1節と同じように、「キリストの起源“Christ’s Genesis”」と記されています。これは誕生の様子を報告する記事ではなく、預言の成就、つまり神の救いの計画が実現したことを描こうとしたものだからです。
そのために、ここではマリヤの人柄も信仰も何も述べられずに、ヨセフとの結婚を約束した女性であったことだけが記されます。ヨセフが「ダビデの子」だからです。
多くの人々がとまどうこの系図こそ、神がご自身の約束を守り通してくださったということの証しです。「のろい」が「祝福」に変えられ、預言がひとつひとつ成就しました。これを味わうとき、神が私たちの人生を確実に守り通してくださることがわかり、主の前に誠実を尽くす勇気をいただくことができます。
私たちの誠実は、神の真実への応答です。人に裏切られても、誠実を全うする者の人生は、美しく輝き、そこに「喜び」が生まれます。
3.「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」
18節でのイエスの誕生の次第では、ごく簡潔に、「その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった」とのみ記されます。厳密には、「聖霊によるものを腹に宿していることがわかった」と記されていますが、「聖霊による子」であることはマリヤにはわかっていてもヨセフにはわかりません。
そこで、「ヨセフは正しい人であって」と描かれるのは(19節)、彼にとっては、自分との関係以外の人の子を宿しているような女性との結婚は考えられないということになります。当時の正当な手続きとしては、彼女の浮気を祭司に訴え出るはずでした。律法によればそのような女性は石打ちの刑に処せられるはずですが、当時の慣習としてはふしだらな女として村八分にされるということがありました。
ただし、ヨセフは、そのように「彼女をさらしものにはしたくなかったので、内密に去らせようと決め(切望し)た」というのです。それは、彼女が今後もどうにかして生きて行かれることを真剣に「望んだ」という意味だと思われます。
ところが、「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れ」ます(20節)。御使いの最初の呼びかけは、「ダビデの子のヨセフ」です。当時の習慣では父の名を用いて「ヤコブの子のヨセフ」と呼ぶはずでした。一介の大工に過ぎないヨセフを、「ダビデの子」と呼ぶのは途方もない驚きです。
しかも、御使いは、「恐れないで、あなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです」と言います。つまり、マリヤの胎に子が宿ったのは、神が人智の超えた救いのみわざを実行に移されたからなのです。
そして、「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい」(21節)と言われますが、生まれる前から名を与えられるというのは、神の特別の選びの器であることの証明です。
なお「イエス」という名は、へブル語読みにすると「ヨシュア」、モーセの後継者として、イスラエルの民を約束の地に導いた指導者です。
その際、御使いはヨセフに、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と言いました。「罪からの救い」は、抽象的な概念ではなく、イスラエルをバビロン捕囚の「のろい」から解放するというものでした。それは神が再びイスラエルの民の真ん中に住み、彼らを飢えや渇き、周辺の国々の攻撃から守り、あらゆる祝福に満ちた平和な国を作ってくださるという約束です。
しかも、それは、イスラエルの民ばかりか、全世界に及び、そこではイザヤ11章に記されていたような神の平和(シャローム)が全地に満ちることになります。
私たちにとっての「罪からの救い」とは、アダムの罪によって「土地」が「のろわれ」、労働が苦しみになったことから解放され、すべての働きを主からの「使命」と受け止め、そこに「労苦が無駄にならない」という希望に満ちた喜びが生まれることです。
それは、「新しい天と新しい地」の「いのち」が今から始まっていることです。
4.「その名はインマヌエルと呼ばれる」
「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われたことが成就するためであった」(22節)と記されますが、「救い」は、イスラエルの民に与えられた預言の成就として見る必要があります。
そのことばが、「見よ。処女がみごもっている。そして、男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」というイザヤ7章14節のみことばでした。これは、エルサレムの王アハズが、人間的な解決を求め、預言者イザヤの勧めを退けたときに与えられたもので、神の救いは、人間の期待や想像をはるかに超えているということを現すことばです。
ただ、それは、信仰を生み出す「しるし」ではありません。「みごもっている」女性を、誰が「処女」と見られるでしょう。
しかも、イザヤ7章15-17節は、インマヌエルと呼ばれる方の誕生の遅れを、また、当面の大きな悲惨を予告するものでした。自分の知恵や力に頼る人は、救い主を求めることができませんので、神は悲惨や苦しみを敢えて与え、その傲慢を砕かれます。
つまり、「インマヌエル」の意味は、困窮と不安と敗北の中で理解できるものです。
実際、イザヤ8章8節では、アッシリヤの攻撃がユダ王国を呑み込みそうになるところで初めて「インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる」と記され、また、8章10節では、ユダ王国を攻める国々の「はかりごと・・は破られる」ことの理由が、「神が、私たちとともにおられるからだ」と記されます。
つまり、インマヌエル預言の核心とは、神の救いは人の期待をはるかに越えた形で実現するという意味なのです。イザヤ書ではその後、「あなたの神が王となる」(52:7)と、神のご支配が明らかにされると言われながら、その道が、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」(53:4)という苦難のしもべの姿として描かれます。
そしてその方は、十字架にかけられ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。イエスは十字架で七つのことばを発せられましたが、マタイは人を困惑させるこの不思議なことばしか記録しません。それは、「神は今、ともにおられない・・・」という意味の叫びに他なりません。
しかし、神は三日目にイエスを死者の中からよみがえられました。つまり、「神がともにおられる」という確信は、「神がともにおられない・・・」と思われるような苦しみとあざけりに耐えることを通してこそ、理解されるという霊的事実なのです。
幸い、インマヌエル預言はイエスの父となるヨセフにとっては信仰を生み出すことばになりました。そのことが、「ヨセフは・・・主の使いに命じられたとおりにした」ということばで記されます。ヨセフはこれから自分の人生がどうなるかをわからないままに、神の真実に対して真実に応答しました。
無名の大工ヨセフの態度は、イザヤの預言を聞いた誇り高き王アハズ王とは対照的でした。バビロン捕囚前の王たちは、神に信頼することに失敗し、国を滅亡に追いやりました。しかし、捕囚を経たダビデの子ヨセフは、神の計画を実現する器になりました。
彼は、御使いが自分を「ダビデの子」と呼んでくれた語りかけに信頼することができました。それは、ヨセフが日々の生活に苦しみながら、徹底的に自分の弱さを知ると同時に、神の救いのご計画に心を開いていたからです。
かつてイスラエルの民はヨシュアに導かれてヨルダン川を渡り、約束の地を占領しましたが、そこにはいつも全能の主がともにおられました。
私たちは今、新しいヨシュアであるイエスを先頭に世界へと派遣されます。その際、富や力によってではなく、神の愛の力によってこの地に神の平和を広げるようにと召されています。
「靴屋のマルティン」は、悲惨の中で自分にばかり目が向かっていたことに気づかされました。そして夢の中で、イエスの「明日、訪ねて来る」との声を聞きます。彼は翌朝起きて、おもてなしの準備をします。
その後、寒い朝、粗末な靴を履いて雪かきをしている老人が目に入り、彼を温かいお茶でもてなします。次には、赤ん坊を抱いて薄着のまま凍えている貧しい婦人を見かけ、食事に招き入れ、古い毛皮のマントを着せてあげます。そして、最後に、リンゴ売りのお婆さんからリンゴ泥棒としてひどく折檻されている少年を助け、二人を和解させます。
そして、夜になると、再び夢の中で、それらの人々を助けたことが、イエスをもてなしたことに他ならないと知らされます。彼はマタイ25章35、40節でイエスが、「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べるものを与え・・渇いていたとき・・飲ませ・・・裸のとき・・着るものを与え・・・牢にいたとき・・たずねてくれた・・・・あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」と語っておられることを読み、イエスが確かに彼の家においでになったことに気づきました。
原作では、それぞれの人々と、神のあわれみを語り合い、神を賛美する様子が描かれています。助ける方も助けられた方も、ともに神が彼らの心のうちに生きて働いてくださったことを喜び合っていました。
そして、キリストの福音は、そのようにして広がって来たのです。このトルストイの小説の原題は「愛のある所に神もある」です。それこそインマヌエルです。
マルティンは、「早く死にたい」という絶望の中で、生きる使命に目覚めました。それは「死からいのちに移っている」(ヨハネ5:24)という「心の復活」の体験です。そして、彼の愛はそれを受けた人にも「心の復活」をもたらすことができました。
「神が私たちとともにおられる」という現実は、この世的な成功の中にではなく、苦しみの中での互いの愛の中に現されます。
「罪からの救い」とは、恐怖や憎しみの連鎖が、愛の連鎖に変えられること自体を指します。
神の御子は、ダビデの子ヨセフの家に、処女マリヤを通して赤ちゃんになることを通して、不思議な神の愛のご支配を始めてくださいました。神の栄光は、この世の富や力よりも、愛の交わりに中に現されたのです。