「幸せは持つものではなく、感じるものだ」と言われます。フーストン師は、「幸福とは、痛みのないことでも享楽にふけることでもなく、鍛練、自己洞察、他者への貢献、個人的な充足感、安心感、心の平安などという特定の生き方から生まれる実です」と定義しています。
イギリス人の彼は、米国独立宣言の幸福追求権という表現にさえ疑問を呈します。それが「幸福」を何か獲得するものであるかの印象を与えるからであり、その過度な個人間の幸福追求競争が、人を様々な依存症の罠に迷わすからです。
民主主義のパイオニアでもあるイギリスが今も、国王制度を保っているのが不思議です。しかし、そこに何とも言えない知恵があるのかもしれません。それはたとえば、最近話題の韓国の歴代大統領に見られる悲劇と権威の失墜の話しと比較しても明らかです。
信頼できる権威のない社会は不安定になります。しかし、抑圧的な権威は、個々人の自由ばかりか、生きる権利さえ奪いかねません。人は、心の奥底で、自分のいのちをささげても悔いのない様な真実の権威を求めているのかもしれません。
そして、現代の日本には、「権威への渇き」があるのではないでしょうか。それは戦後、「権威」が軽んじられ続けた反動かもしれません。三千数百年前に記された聖書は、この問いにバランスのある回答を示します。
1.「正義を、ただ正義を追い求めなければならない」
「あなたの神、主(ヤーウェ)があなたに与えようとしておられる・・・すべての町囲みのうちに・・部族ごとに、さばきつかさと、つかさたちを任命しなければならない・・」(16:18)と記されていますが、当時は、現在のような三権分立が無く、「さばきつかさ」は政治指導者であるとともに裁判官でした。
ただ、「さばき」の基準は神ご自身のみことばでしたから、当時の他の国々のように「王のことば」が法律となるような独裁国家とは異なりました。
人は、神が創造された最もひ弱な生き物でしょうが、互いに協力し合うことを通して驚くほどの力を発揮できます。その鍵が、人と人との間の利害を調整する権威の存在です。
ただし、その際、「さばきつかさ」は様々な利害関係から独立するとともに、「治める」基準は「神のことば」でなければなりません。
そして、神はここで第一に、「あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたよって見てはならない。わいろを取ってはならない。わいろは知恵ある人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである」(16:19)と命じておられます。どんなに知恵がある人でも、自分に何かの利益をもたらしてくれた人の意見には心が動かされます。
戦後の韓国の大統領は誰一人として平安な引退生活をできた人がいないということが話題になっており、現在の大統領にも同じ末路が訪れることが明らかになっているようですが、権力に群がる人間関係、「わいろ」の恐ろしさを思わざるをえません。
なお、「裁判」に関して言えば、その独立性は、当時は「任命」する神の権威によって、現在は三権分立などの政治機構によって保障されます。
どちらにしても、神は、この地の政治機構に深い関心を払っておられるという事実があります。神はこの世の政治に調整を任せながらも、ご自身のときにご自身の方法で、この世の権力機構を正されます。ただ、それは、神が天のはるか上から地を見下ろし、ときおり、この地に降りて来て、人と人との利害の衝突に直接介入するという意味ではありません。
使徒パウロは、ローマ皇帝がネロであったときに、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたからです」(ローマ13:1)と記しています。
ただ、それは王権神授説のような意味では決してありません。権力には恐ろしい誘惑があり、権力者は自分の主張が神からのものであるかのように絶対化することがあるからです。
それに対してイエスは、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」と言われました(マタイ10:28,29)。
権力者は「雀」よりもはるかに大きな存在ですから、どんな圧政も神の支配下にあります。ですから、すべての地上の権威を尊重しつつ、その脅しに屈することなく、父なる神とイエスとを自分の「王」として認め、そのすべての権威の源である方に従う必要があります。
ですから、私たちはこの世の政治や社会制度を一方的に批判する以前に、そこに表わされた神の恩寵を見いだす必要があります。
ルターは、「ほんとうに悪い暴君は悪い戦争よりも忍びやすい」と言いました。独裁者フセイン大統領を滅ぼしたことで、そこに起きた無政府状態の悲惨を忘れてはなりません。
私たちは、その際、「王とすべての高い地位にある人のために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです」(Ⅰテモテ2:1,2)とのみことばを覚えるべきです。
そして、そこで神が為政者に、「正義を、ただ正義を追い求めなければならない」(16:20)と命じておられることを覚え、正義が行なわれるように祈る必要があります。
それと同時に私たちは、与えられた役職や子育てにおいて「正義」を追い求めなければなりません。
これは神の教会に関しても適用され、パウロはテトスに、「私があなたをクレテに残したのは・・町ごとに長老たちを任命するためでした・・それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです・・・ですからきびしく戒めて、人々の信仰を健全にし・・」と命じました(テトス1:5、9、13)。
人は、生まれながら身勝手で、自分を正当化することには天才的ですから、指導者なしに人と人の協力関係は築くことができないという現実があります。ですからペテロも、「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい」(Ⅰペテロ2:13)と命じました。理想を求める余り現実を軽視してはなりません。
2.「自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない」
16:21-17:7では、偶像を作ることや、欠陥のあるいけにえをささげることを禁じることが記された後、特に、神の民でありながら「ほかの神々に仕え・・・拝む者があり・・聞いたならよく調査し・・そのことが事実・・・なら・・・ふたりまたは三人の証言によって、死刑に処さなければならない・・まず証人たちが手を下し、ついで、民がみな手を下さなければならない」(17:3-7)と厳しく命じられます。
「ほかの神々を拝む」ことは、神の共同体の土台を崩す最大の悪事と見られます。ただし、この際、証人たちの責任が誰の目にも明らかになり、しかも複数の証人が必要ということで、不当な訴えへの歯止めがなされます。
17:8-13には中央裁判所の機能が記されますが、それは12章の中央聖所での礼拝に対応します。それぞれの「町囲み」の中で「さばきかねる」事件については、「あなたの神、主の選ぶ場所に上り・・レビ人の祭司たち、あるいは(そして)、その時に立てられているさばきつかさのもとに行き、尋ねなさい」(17:8,9)と、現在の最高裁判所のような仕組みが三千年前に命じられました。
なお、19章17節を見ると、「相争うこの二組の者は、主(ヤハウェ)の前に、その時の祭司たちとさばきつかさたちの前に立たなければならない」と記されているように、この法廷は複数の祭司たちと一般の指導者から構成されており、これが後のサンヘドリン(最高議会)になったのだと思われます。これがなければ、部族間の争いも調整できませんでしたから、これはイスラエルの一致を保つために何よりも大切なシステムでした。
そしてその際、「彼らが告げる判決から右にも左にもそれてはならない・・もし聞き従わず、不遜なふるまいをするなら、その人は死ななければならない」(17:11,12)と、その判決を、神の意思として受け止めさせます。現代も、最高裁判所の決定には絶対的権威を認めなければ法の支配が成り立たないのと同じです。
ローマカトリック教会は、ローマ法王の権威によって一致を保ちますが、プロテスタント諸教会は、それを否定した結果、分裂に分裂を繰り返していると批判されます。
しかし、私たちには絶対的な権威としての聖書がすべての人に開かれており、それを基準とすることで地上的な組織を越えた一致を保つことができます。
自由教会の父祖は、異論が出た場合、「それは聖書のどこに書いてあるのですか?」ということばを合言葉にしてきました。どちらにしても教会政治をこの世の民主主義と混同してはなりません。
17:14-20には将来の王政のことが示唆されています。ここではまず、「回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい」と言うなら、という前提が記されます(14節)。それは、たとえば、一夫多妻や奴隷制などと同じように、本来の神のご意志に反することが明らかでありながら、同時に、当時の置かれている状況の中で、そうならざるを得ない現実が生まれるということを前提としています。
私たちは、「これはみこころかどうか」を、白黒どちらかと判断しがちですが、聖書の記述はずっと現実的です。
後の士師記時代の混乱を見ると、王制が生まれる必然性もあったのかとも思われ、それを神は予め前提として、王制が導入された時、それが近隣諸国のような独裁制に至らないようにと、あらかじめ語ってくださいました。
とにかく、神の民の王は、回りの国々のようであってはなりません。そこではまず最初に、「あなたの神、主(ヤハウェ)の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない」と記されます(17:15)。それが後に、「主に油注がれた王」という記述につながり、「メシヤ」預言に至ります。
「王」は、「同胞の中から立てられ」、「自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない・・・多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常にふやしてはならない」(17:16,17)という制限が加えられました。
これはいわゆる富国強兵策を取ることで、この世の政治的にはすべて効果的なこととも思われますが、力や富を持つことには「これで十分!」ということはありませんから、結局、神を第一にするという国の根本原則を揺るがすとともに、民を重税で苦しめることになります。
後にダビデの子ソロモンはこのすべての命令に背いてしまいました。その結果、彼の死後、国は二つに分裂してしまいまい、破滅へと向かいました。この原則は教会にも適用できます。それが、目に見える数字を前面に掲げた教会形成の危なさです。
その際、王には、「このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない」(17:19)と命じられます。そして、その目的は、「主(ヤハウェ)を恐れ・・・王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため・・・長くその王国をおさめることができるため」と記されています。
この世の王は、自分を神としてしまいがちですが、それこそが自滅への道なのです。ちなみに、米国の大統領が就任式の際に聖書の上に手を置いて誓うのは、これを背景にしていると思われます。
ただ、それは指導者を謙遜にするためであり、「私の判断は神のみこころにかなっている」と自分の正当性を認めさせるためではありません。それは、今も、昔も、指導者が最も陥りやすい罠です。
しかし、もし、教会の指導者が自己弁護のために聖書を利用するなら、聖書の権威という土台を自分で傷つけることになります。
3.「わたしは・・彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう」
18:1-8では祭司を含むレビ人のことが記されます。彼らは、原則、土地を所有することができませんでしたが、「主が約束されたとおり、主ご自身が相続地である」(18:2)と断固として告げられます。それは、主ご自身が彼らを養ってくださるという意味です。
祭司たちが民から受け取る物は、いけにえの肉などでも最上の部分でした。ただし、民数記18:18などとの違いはありますが、穀物などの「初物」(18:4)が彼らに与えられました。
人間的には他の部族によって支えられる弱い立場の彼らが、「主の御名によって奉仕に立つために・・選ばれた」(18:5)存在であると強調されます。また彼らには、いつでも「主の選ぶ場所」である唯一の神殿には「望むままに行くことができる」という特権が与えられ、主に仕える場に困りはしなかったばかりか、そこでの分け前にあずかる自由が保障されていました(18:6-8)。
これは、現代の牧師たちにも適用されることです。主が選ばれた働き人は、人の顔色を見ずに、主に仕えることを第一としなければなりません。そのとき、主ご自身がその生活の必要を満たしてくださいます(Ⅰテモテ5:17参照)。
なお人は、いつの時代でも、将来のことが気になります。それで未来を予言するという占い師や霊媒師のような働きが栄えます(18:10,11)。しかし、これこそ主が最も「忌み嫌われる」(18:12)ことでした。
それで、神は、モーセの「ようなひとりの預言者」を、立ててくださるというのです(18:15、18)。これは「ただひとりの」という意味ではありません(原文は単数形というだけで冠詞はない)。それは、民がシナイ山で十のことばを神から直接聞くことで、死ぬほど怯えたからです。
人は、ときに直接に主のみことばを聞きたいと願いますが、それは恐怖に満ちた体験になるので、主は私たちと同じ身体を持つ預言者を立ててくださるのです。ですから、その人のことばに「聞き従わない」なら、「責任を問う」(18:19)とも記されます。
神は必要に応じて預言者を立てられます。たとえば、エリヤもイザヤもエレミヤも、確かに、モーセのように主のことばを語り、将来のことを正確に預言しました。つまり、主は、不安に振り回される人の弱さを十分理解した上で、人が必要とする知恵を与え続けてくださったのです。
ただし、真にモーセのような預言者は一人だけでもあります。イザヤも暗い時代に、「私は主(ヤハウェ)を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を・・」(イザヤ8:17)と告白しつつ、主が再び御顔を現してくださる時を、「あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み・・聞かれるとすぐ・・答えてくださる。たとい主があなたに乏しいパンとわずかな水とを賜っても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め』と言うみことばを聞く」(同30:21,21)と預言しました。
そしてそれが今、イエスにおいて成就されました。
今、私たちの霊の「目」は、聖書によって救い主の生き方を「見る」ことができます。そこで明らかになるのは、自分にとって楽な人生を選ぶことの空しさです。また、イエスの復活は、どんな困難にも必ず出口があることの保証です。
また、左右の道の選択に迷うときも、思い切って一歩を踏み出すとき、私たちの「耳」は、後ろから「これが道だ・・」というイエスの御霊の語りかけを聞きます。しばしば、左右の選択よりも、誰を見上げるかが問われているのではないでしょうか。前にも後ろにも主がおられるからです。
ただし、18章20-22節では、偽預言者が現れることと、そのような者に主が死刑を与えることが記されます。そしてその見分け方が、「そのことが起こらず、実現しないなら、それは主(ヤハウェ)が語られたことばではない」と簡潔に記されます。
今も、未来を予言するという霊能者のような人が次々と起きて来ます。しかし、彼らの嘘は、時を経ると必ず明らかになりますし、神はそのような偽預言者を誰よりも厳しく罰してくださいます。ですから、「彼を恐れてはならない」(18:22)と簡潔に結論が語られます。
なお、使徒ヤコブが、「あなたがたには、あすのことはわからないのです」(ヤコブ4:14)と記しているように、預言者は、「いつ、何が、どのように起きるか」を予言する者ではありません。それは、イザヤ書からマラキ書に至る預言書を読むと明らかです。
そこに記されていることの中心は、何よりも、主ご自身が歴史の支配者であり、神はご自身のときに悪をさばくとともに、ご自身の平和(シャローム)を実現してくださるということです。そして、そこに記されていることが正しいことは歴史が証明してきました。
そこでは将来について記されたと思われることが成就してきたといことばかりか、何よりも、そのみことばが人々の心を動かしてきたという現実で明らかにされています。聖書の啓示の正しさは、私たちがそれを証明しようとしなくても、おのずと明らかにされます。それは、みことばに従った人々の生きざまを通しても明らかになります。
ですから、私たちは、聖書の正しさを証明しようと必死になったり、また反対に、偽物を暴き出そうと正義感に燃える必要もありません。それは、神ご自身が時と共に明らかにしてくださるからです。
以前、悲しい死を遂げられた方のお父様が、「息子の生き難さは、親から受け継いだものです。彼がもっとはやく、真の教師と出会っていたなら・・・その方がイエスなのでしょうが・・」と言っておられました。それは、神のことばのように私に響きました。
現代は、「正義」よりも、「心地よさ」が追及される時代です。教会の指導者もそのような期待に答えようとの誘惑にさらされますが、現実から遊離したインスタントな解決を示すのは偽教師です。
牧師の使命は、三千年前の文脈と現代の文脈の橋渡しをし、ひとりひとりが聖書を日々の生活に適用するための助けをするという地道なものであり、自分を隠しながら、真の教師であるイエス・キリストを指し示すことです。
今、ひとりひとりに、真の権威の書である聖書が授けられ、それを解き明かすイエスの御霊が宿っています。真の教師がどなたかを決して見失ってはなりません。
ダビデは、「私はいつも、目の前に主(ヤハウェ)を置いた。主(ヤハウェ)が右におられ、私は揺るがされないから。それゆえ、この心は楽しみ、いのちが喜び、この身体も安らかに落ち着いている」(詩篇16:8,9私訳)と告白します。
真の幸せは、私たちの前と右と中におられる三位一体の神のうちにあるのです。