今から40年近く前、証券会社の札幌支店での営業プレッシャーの中で文字通り「喘ぎ、うめいて」いました。当時は土曜日も全休ではありません。日曜日は、どうにか礼拝に出席する中での伝統的な祈祷文を用いての、「主よ、あわれんでください!」という祈りは、私の心の底からの叫びとなっていました。
義人ヨブは、人の苦悩を次のように描きます。「地上の人には苦役があるではないか。その日々は日雇い人の日々のようではないか。日陰をあえぎ求める奴隷のように、賃金を待ち望む日雇い人のように、私にはむなしい月々が割り当てられ、苦しみの夜が定められている」(ヨブ7・1-3)。
このような苦しみは、それぞれ置かれている職場によって大きな違いがあるものの、根本的な原因は、人類の父祖アダムが、禁断の木の実を取って食べたことによって、「土地は・・のろわれてしまった…土地はいばらとあざみを生えさせ」(創世記3・17、18)という労働への「のろい」が訪れたことによります。
そして、聖書の最後にある黙示録17章では、当時のローマ帝国が現在のユーロ経済圏よりもはるかに広い地域に共通の通貨と自由貿易を実現している中で、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン」(5節)という政治権力と結託した「富の支配」の横暴が描かれています。
つまり、この地の「のろい」は、私たち現代の人々の特定の罪への神のさばきという以前に、アダムの子孫が、それぞれ自分を神のようにして、自分の支配を押し通そうとして競争し合っていることから生まれているのです。
それにしても当時の私の葛藤は、営業目標のプレッシャーと同時に、自分の仕事が、社会の役に立っていないどころか顧客にも迷惑をかけていると思えた「空しさ」から生まれていました。
それでも幸い、学生時代に米国の熱い信仰者との交わりの中で信仰に導かれたおかげで、「いつでも、どこでも、神にお祈りする」という習慣が身についていました。そして、私たちの身勝手な祈りにも耳を傾けてくださる神は、それなりの営業成績を上げさせてくださり、二年間のドイツ留学への道が開かれました。
そこで、外から日本の証券市場を分析する中で、証券会社の働きに意義を見出せました。証券市場が、日本の経済成長、特にソニーやホンダのような戦後の新興企業の成長に大きな貢献をしているということが見えて来ました。確かに金融の世界では、人の貪欲の罪の弊害が、どの仕事よりも如実に現されます。しかし、市場経済は、限られた資源を、人々が最も必要とする分野に効率的に分配するための、驚くほど精巧なシステムです。
たとえば伝道者の書では、「金銭を愛する人は金銭に満足しない」(5・10)などと、富の空しさが繰り返されながら、同時に、「金銭はすべての必要に応じる」(10・19)と、その有用さが認められます。
お金は、あまりにも大切だからこそ、罪の支配の影響を最も受けるのであって、その自由な動きを規制し過ぎると、個人の選択の自由や思想の自由さえ侵害されることになりかねません。
ただ、市場経済は弱肉強食の世界です。そこでは、貧富の格差が拡大するばかりです。それに対して、政府は、格差が世代を超えて拡大しないようにと、財産に対する課税や、教育の機会均等を計る政策などを作ります。
ただ、公平を実現しようとする権力機構自体が、腐敗や資源の無駄遣いの温床になります。この世界では一つの問題解決が次の問題を引き起こします。私たちは、その度に、自分たちがエデンの園の外の「地がのろわれた」という荒野の矛盾の中に置かれていることを自覚せざるを得ません。
しかし、そのような中で、神の「救い」は、死後に天国に行くということ以上に、「今、ここで」体験できるものです。そのことが、コロサイ人の手紙では、「神は、私たちを暗やみの圧政から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」(1・13)と記されます。
この世界は「暗やみの圧政」という「のろい」のもとにありますが、私たちはそこから「すでに」救い出され、御子のご支配の中に、移されています。その現実は、旧約聖書のストーリーから新約を見て行くときにより良く理解できます。
1.「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」
神がアブラハムを召し、神の民を創造しようとされた目的は、「地上のすべての民族はあなたによって祝福される」(創世記12・3)ということにありました。これはヤコブがその逃亡の旅の初めにベテルで、主から告げられたことでもありました。
そこで主は、「地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される」(28・14)と、イスラエルの民を通して、神の祝福が全世界に広げられることを約束してくださいました。神がその後、エジプトで増え広がったイスラエルの民を、圧政の苦役から救い出し、律法を与えてくださったのは、約束の地にエデンの園のような祝福の世界を実現するためでした。
そしてそれが実現したあかつきには、世界の民が、イスラエルの平和と繁栄を見て、主のご支配に中に自分たちも招き入れられたいと願うようになるはずでした。
そのことを主は、「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる・・・あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジ19:5,6)と言われました。
なお、この地での経済活動では、個人の自由を、尊重をすればするほど貧富の格差が広がるというジレンマがあります。自由と平等には、「あちらを立てればこちらが立たず」という矛盾した関係があります。それに対して、律法には、社会的弱者の人格を尊重し、その立場を守る様々な規定が存在します。
その第一は、「安息日」の教えです。そこで奴隷を含めたすべての人に、一週間に一度、すべての労働から離れて、互いを喜び合うという機会が定められました。
第二は「安息の年」です。七年に一度、イスラエルは土地を完全に休ませることが命じられました(レビ25:4)。それはすべての労働者にとっても「安息の年」であったばかりか、すべての同胞の負債が免除され、売られてきた同胞の奴隷も自由の身とされることになっていました(申命記15:1、12)。
第三は「ヨベルの年」です。「安息の年の七たび」の49年目には、二年間の土地の安息が命じられ、翌年の「第五十年目は・・・ヨベルの年」として、「それぞれ自分の所有地・・・家族のもとに帰らなければならない」と命じられました(レビ25:8-10)。それは、神が最初に先祖に割り当てられた所有地に戻り、すべてを原点からやり直す機会でした。
自由な経済活動は、必然的に貧富の格差を生み出しますが、50年毎に、借金や奴隷状態から解放されるばかりか、すべての人が平等に土地を所有するという原点に戻ることができました。しかも土地の売買は、ヨベルの年までの期間限定の所有権の移転としてなされました。
安息年もヨベルの年も、個々人の経済活動の自由を認めながら、同時に、そこから生まれる貧富の格差を定期的に是正するという神の驚くべき知恵でした。
残念ながらイスラエルの民は約束の地に入って間もなく、近隣諸国と同じような王政を求めるようになります。そこでは、土地や様々な特権が、支配者からの恩賞として与えられるため、借金の免除もヨベルの年の解放も行われることはありませんでした。
レビ記26章14節以降には神のさばきが記されますが、特にこの「安息の年」を守らない民に対するさばきとして、イスラエルの民が約束の地から追い出されると警告されます。
不思議にも、その理由が、「あなたがたが敵の国にいる間、そのとき、その地は休み、その安息の年を取り返す」(34節)と記されます。つまり、後のバビロン捕囚は、「安息の年」を守らなかったことへのさばきであるというのです。
2.「キリストは私たちのためにのろわれたものとなって・・・」
なお、イスラエルの民は、エルサレム神殿崩壊から70年後に神殿を再建できました。彼らは約束の地に戻ることができたのですから、そこで捕囚状態から解放されたとも理解できます。
しかし、ダニエルが、エルサレムの荒廃が70年で終わることをエレミヤ書から示され、神の救いを求めて祈った時、御使いガブリエルは彼に、最終的な救いまで「七十週が定められている」と告げました(ダニエル9:2、24)。七十週とは、「七の七十倍(seventy sevens)」とも訳せることばで、それは、確かに期限はあるものの、人間の尺度では具体的に計算できない時間を意味します。
先に述べたように、黙示録に大バビロンの圧政のことが記されていることから見ると、肉のイスラエルはまだバビロン捕囚から解放されていないとも言えます。
ところで、イスラエルに対するさばきがそれほど厳しくなったのには理由があります。モーセは申命記27章26で神との契約を再確認した際、「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる」と警告します。そのとき民は、口を合わせて、「アーメン」と応答しますが、すぐにそれを忘れ、偶像礼拝等に走りました。
バビロン捕囚は、警告された通りの「のろい」が実現したことに他なりません。彼らは約束の地で、神の怒りを積み上げるようなことばかりを行ないました。それに対し、モーセは、そのときになって人々は、「主(ヤハウェ)の怒りは、この地に向かって燃え上がり、この書に記されたすべてののろいがこの地にもたらされた。主(ヤハウェ)は、怒りと、憤激と、激怒とをもって、彼らをこの地から根こぎにし、他の地に投げ捨てた。今日あるとおりに」と言うようになると預言しました(同29・27,28)。まさに、その「のろいの誓い」(同29・12等)が実現したのです。
イスラエルの民は、約束の地に戻り、神殿を再建できはしましたが、そこに神の臨在のしるしの「契約の箱」はありませんでした。またその後も、ペルシャ、ギリシャ、ローマ帝国の支配下で、彼らは苦しみ続けました。イエスの時代の人々は、自分たちが今なお、捕囚下にあり、神殿がなお未完成であることに嘆きながら、救い主の現れを待ち望んでいました。
イエスが救い主として現れた第一の目的は、この申命記に記された「のろいの誓い」から、民を解放するためでした。ガラテヤ人への手紙3章13節に「キリストは私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」と記されているのはそのためです。
ここでの「私たち」とは、直接的にはイスラエルの民を指します(十字架がアダムの子孫すべての罪のための贖いであることは、他の箇所からは当然に言えはしますが・・・)。
また、「律法ののろい」とは、律法自体に民を不幸にする破壊的な力があるという意味ではなく、彼らが契約を破った結果です。その「のろい」からの「贖い出される」とは、申命記27章から30章に記された契約に伴う「のろい」から解放されるという意味です。
モーセはイスラエルの民に、「祝福とのろい」の選択を迫りましたが(申命記30:19)、彼らは主のことばを軽蔑し、自分で「のろい」を選び取ってしまいました。それによって、「律法によって神の前に義と認められる」(ガラテヤ3・11)という道が閉ざされたのです。
たとえば、最初の神殿に契約の箱が置かれていたとき、年に一度の「贖罪の日」のレビ記の規定が、神の前に義とされ、祝福を受けるために有効でした。しかし、イエスの時代、神殿は外側ばかりが豪華で、罪のいけにえによってきよめられるはずの「贖いのふた」(レビ16:10)も失われたままでした。ですから当時、律法は罪の赦しと神の祝福をもたらす道として機能しなくなっていたのです。
それを前提にパウロはガラテヤ人への手紙3章10節以降で、「律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにある・・・」と繰り返しています。ただそれは決して、律法が命じる「良い行い」ができなくても、「ただ、信じるだけで、救われる」と、福音を単純化したわけではありません。
後に、使徒ヤコブが、そのような誤解をした人に向かい、「行いのないあなたの信仰を、私に見せてください」(ヤコブ2:18)と迫ったように、「信仰」と「行い」を対比させるのは聖書の教えに反します。
それは、信仰義認を説いた宗教改革者マルティン・ルターの意図にさえも反します。ルターは、イエスを救い主として信じることこそが最高の「善きわざ」であって、すべての善行はその信仰から生まれてくると言ったのです。
ところで、キリストがイスラエルの民を「のろい」から贖い出してくださることは、何よりもイザヤ書53章で、「それは、彼がそのいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたから。だが、彼こそが多くの人の罪を負った」(12節私訳)と記されていることに基きました。
つまり、イエスは十字架において、「イスラエルの王」として、そむいた人、のろわれた人の代表となって、ご自身を信じるイスラエルを「のろいの誓い」から解放してくださったのです。主はこのみことばを覚えて、十字架に向かわれたのです。
そしてさらに驚くべきことには、イザヤ49章6節には、「主のしもべ」が実現する「救い」が二段階に分けて記されます。
その第一で主は彼に向かい、「あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせることは、まだ小さいことに過ぎない」(私訳)と、イスラエルの民にバビロン捕囚からの解放を約束しておられます。
そして第二に、さらに大きな救いとして、「わたしはあなたを諸国の光とし、地の果てまでのわたしの救いとしよう」(私訳)と約束されます。
つまり、「主のしもべ」による「救い」には、ご自身に信頼するイスラエルの民を「律法ののろいから贖い出す」ことと同時に、「新しいイスラエル」を通して全世界の民を祝福するという二つの側面があったのです。
ちなみに、イエスの救いを最初に世界に知らせたのは、「新しいイスラエル」としてのユダヤ人クリスチャンたちでした。彼らこそヤコブの子孫として、すべての民族に祝福をもたらす者の先駆けとなったのです。
3.「私たちが信仰によって約束の御霊を受けるため」
それにしても、私たち異邦人はどのように神の民に加えられたのでしょう。まず、主はイザヤ44章3節で、「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう」と約束しておられました。
イスラエルの民に主の霊が与えられるという約束が、異邦人にも及んだことによって、私たちは神の民とされたのです。それは、イスラエルが「のろいの誓い」から解放されることとセットでした。
ですから、ガラテヤ3章14節では、「このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」と記されています。「聖霊を受ける」ことこそ救いの鍵でした。
つまり、「のろいから祝福に移された」ということは、何よりもイエスを救い主と信じるすべての民に、「約束の御霊」が注がれることによって実現したのです。
ですから、イエスが、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」(マタイ5:17)と言われたのは、私たちが聖霊によって、律法の目的を達成できるようになることを指しています。
それは、全世界に神の平和(シャローム)が実現することとして、やがて現されることになっています。
では私たちは、聖霊の導きによって、どのように、「のろわれた地」、「暗やみの圧政」のもとにある社会で生きるのでしょう。その際、この世界を一面的に悪くばかり見てはなりません。イエスの十字架と復活によって、世界は新しい段階に入っており、それは「新しい創造」(ガラテヤ6:15)と呼ばれます。
事実、主の教えは、基本的人権の尊重や一夫一婦制の結婚、「神のかたち」としての一人ひとりのいのちの尊重など、歴史を変え続けて来ました。その教えは、今も世界に広がり、「御霊によって・・新しく生まれる」(ヨハネ3・6,7)という霊的新生を経ていない人にも、驚くべき影響を与え続けています。すべての人は、本来、「神のかたち」に創造されているのですから、この世の組織や会社の中にも、善意ある人々が多数います。
しかし、約束の御霊を受けた人には、それらを超えた、はるかに偉大な約束が伴っています。申命記28章では、「のろい」のもとにある生活が、「家を建てても、その中に住むことができない・・・ぶどう畑を作り、耕しても・・そのぶどう酒を飲むことも集めることもできない」と、労苦が無駄になることとして描かれます(30,38節)。
それに対して、イエスの復活の御霊を受けた人には、「あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っている」(Ⅰコリント15:58)と断言されています。
事実、キリストの復活によって、「のろい」から「祝福」に移された私たちは、この世界に理想を追い求め過ぎてかえって混乱を作る者でもなく、またこの世からの分離ばかりを考える無責任者でもなく、自分に与えられた仕事を、主からの使命と受け止め、主との祈りの交わりの中で、自分の仕事を改善して行くことができます。
私はドイツでの留学生活の後、同社の現地法人において、ドイツの保険会社や金融機関を相手に、証券営業を続けました。同時に、現地の教会の集いつつ、日曜の午後は日本語の家庭集会を持つようになりました。
その中で改めて、自分に対する主の召しを考えるようになり、伝道者、牧師になるという導きを受けました。ただ、社費で留学させてもらっていた手前、すぐに退職することはできませんでした。
ところが、退職を決意し、上司に告げて以来の退職までの三年余りの間、上司や本社の評価がまったく気にならなくなりました(当然のことですが・・)。
そこで改めて、「自分は一時的に、主の召しによって、この職場に置かれているに過ぎない。自分の仕事は、主に仕えるという霊的視点の中でなされるべきものだ」という真理に目が開かれました。すると、仕事がかえって、創造的に思え、楽しくなり始めました。
私は決して、人に誇れるような仕事をしてきてはいませんが、自分の仕事を軽蔑していた時にさえ、主に祈りつつ働いて来たことは事実です。礼拝で居眠りすることはあっても、礼拝を休もうと思ったことはほとんどありません。それは、イエスを救い主として信じて以来、無意識のうちにも、「のろいから祝福へ」と移されていることを自覚できていたからでしょう。
自分はみこころを読み間違えて証券会社に入ったのではありませんでした。主の御手の中で、大切な十年間を、不条理が渦巻く金融の世界に置いていただいていたのです。それは、目に見える現実は苦難に満ちていたことはあっても、振り返ってみると、「自分たちの労苦が、主にあってむだではないことを知っている」という霊的真理を体験できていたからです。
そして、あなたが「主のうちにある」という霊的真理は、「正義の住む新しい天と新しい地」(Ⅱペテロ3:13)に至るまで、さらに深められる体験です。
自分のうちに生きて働く「聖霊」のみわざに敏感になりましょう。聖霊はあなたを守り通し、あなたを「シャローム(平和、平安)」の完成に導いてくださいます。