あなたは「私なんか・・・」などと、自分で自分に限界を設けたり、自分の信仰を恥じたりして、ぶどうの枝でありながら、木からの養分を差し止めようとしてはいないでしょうか?
ぶどうの木につながろうと必死になるよりも、すでにぶどうの木の枝とされているという圧倒的な恵みをまず覚えるべきでしょう。
1.わたしはまことのぶどうの木です。
イエスは、最後の晩餐の後、イスカリオテのユダを除く十一人の使徒たちに向かって、「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です」(1節)と言われましたが、その旧約聖書的背景を知るなら心が感動で震えることでしょう。
当時のイスラエルの民は、「ぶどうの木」ということばを聞くと、すぐにホセア10章1節以降を思い起したと思われます。そこでは、「イスラエルは多くの実を結ぶよく茂ったぶどうの木であった。多くの木を結ぶにしたがって、それだけ祭壇を増やし、その地が豊かになるにしたがって、それだけ多くの美しい石の柱を立てた。彼らの心は二心だ。今、彼らはその刑罰を受けなければならない。主は彼らの祭壇をこわし、彼らの石の柱を砕かれる」と記されていました。
これはイスラエルの豊かさが仇になって、偶像礼拝に走り、父なる神にさばかれることを描いたものです。
それに対しイエスはご自身を、滅びに至る「ぶどうの木」ではなく、「まことのぶどうの木」としての「新しいイスラエル」として提示され、それにつながる弟子たちに対して、「あなたがたが多くの実を結び・・・あなたがたの喜びが満たされる」(8,11節)という、逆転の祝福を約束してくださいました。
イザヤ5章では、主(ヤハウェ)がご自分をぶどう畑の農夫にたとえて、「わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるか」(4節)と問いかけられます。
それは、主ご自身が、「よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた・・そこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、そこにやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた」(1,2節)と、イスラエルが豊かな実を結ぶことができるためにあらゆる準備をしてくださっていたからです。
ところがそれにも関わらず、「酸いぶどうができてしま」(2節)いました。それは決して農夫の責任ではありません。放蕩息子のたとえにあるように、どのようなすばらしい親のもとにも、放蕩息子が育ってしまうことがあります。子育ても、教会の信徒教育も、原因結果の論理を超えて、労苦とは正反対の実を結ぶことがあります。
問題の根本は、イスラエルの民がアダムの子孫であったことにあります。アダムはエデンの園において、圧倒的な恵みの中に置かれながら、「善悪の知識の木」に目を奪われ、蛇が、「あなたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、神のようになる」と言ったことばに従ってしまいました。それ以来、人は恵みを受ければ受けるほど、「もっと賢く、もっと強く、もっと豊かに」と、自己中心的な成長の誘惑に身を任せてしまいました。
それに対し、イエスは、新しい神の民、まことのイスラエルとして、神の民をこの滅びの悪循環から救い出そうとしてくださいました。イエスはこのたとえで、ご自分を神が望まれる「甘いぶどう」(イザヤ5:2,4)の実をならせる「まことのぶどうの木」であることを強調しながら、同時に、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」(5節)と言われました。
木と枝は区別がつけがたいもので、旧約ではそのように区別するたとえはありません。主はご自身と私たちを一体として見ておられたのです。私たちは、もはや、「酸いぶどう」を成らせるぶどうの木の一部ではなく、「甘いぶどう」を成らせる木につながっているのです。そして、これを知ることは、私たちの信仰生活に革新をもたらします。
今から150年ほど前、ハドソン・テーラーは中国奥地伝道を始めました。彼はキリストにまねることに必死でしたが、本格的な伝道団を始めて間もなくの頃の日記には「毎日、罪と失敗と力の欠乏が記録されるばかり」でした。
しかし、37歳になったある時を境にして、キリストに生きていただくという解放感に満たされました。彼は「ぶどうの木と枝のことを考える時、祝福の聖霊は何とすばらしい光を私の魂に注ぎこまれたことだろう・・・私は、私が主のからだの一部分であることを知ったのだ!・・・よみがえり、昇天された救い主と真実に一体であること、キリストの枝であるのは、何とすばらしいことか!・・・キリストが富んでおられ、私が貧しいということがありえようか。頭が十分に養われているのに、からだが飢えているということがありえようか」と記しています。
自分の努力によって、キリストのようになろうともがくことは、かえって自意識過剰の悪循環に陥ります。成長を自分で計って、「私って、なんて偉いんでしょう・・」と誇るか、反対に、「私なんて、生きている価値もない・・・」と自己嫌悪に堕ちるかのどちらかになることがあります。自分を忘れて、イエスだけを見ることができるようになることに真の救いがあります。
旧約のイスラエルは神の恵みを受ければ受けるほど、自分の美しさに酔いしれ、他の神々を恋い慕うようになり(ホセア2:13)、「甘いぶどう」の実をならせる代わりに「酸いぶどう」の実を結びました。
それに対して、神はその結果を深く嘆きながら、「その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。わたしは、これを滅びるままにしておく」(イザヤ5:4-6)と言われます。彼らは偽りの神々に向かって根を伸ばし、自滅したぶどうの木だったのです。
それに対して、イエスは、「わたしこそ、豊かな実を結ぶ、まことのぶどうの木、まことのイスラエルである」と宣言されたのです。
そして、イエスが、「わたしの父は農夫です」と言われたのは、御父との親密な交わりを述べ、ご自身が、決して捨てられることのない「ぶどうの木」であることを証しするためでした。
しかも、ここでも、「ぶどうの木」であるイエスご自身に求められていることは、ご自分が実を結ぶように、何かの努力をすることではありませんでした。ただただ、御父が良いぶどうを成らせる農夫としてなしてくださる働きに身を任せていればよかったのです。
そして、イエスご自身が御父の愛に身を任せておられたように、私たちもぶどうの木の一部とされた者として、御父と御子との愛の交わりの中に、身を置いていれば良いのです。
旧約で常に、木と枝が一体で描かれていたように、私たちは、まことのぶどうの木の一部とされたことによって、豊かな実を結ぶことができます。
必要なのは、何よりもこの新約における圧倒的な恵みを思い起し、感謝することです。人にはできないことを、父なる神と御子イエスがなしてくださったのです。
2.「あなたがたは、わたしが話したことばによって、もうきよいのです。」
イエスは続けて、「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます」(2節)と言われました。
「取り除き」と訳された言葉は、「持ち上げる」が中心的な意味です。生まれたばかりの枝は、そのままにしておくと垂れ下がり、地面に沿って伸び、葉が土にまみれて、枝全体が日陰に入り実を結ばなくなります。それで、枝を持ち上げてよく洗って、つる棚に巻きつけるか結ぶというのです。
「刈り込む」とは、実を結ぶ枝の余計な部分の刈り込みをしなければ、葉ばかりが茂って、実が小さくなることへの対策です。これは、「私は実を結ばない枝として取り除かれるかも知れない」などという恐れを抱かせる表現ではありません。
イエスはすぐに、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです」(3節)と言われますが、「もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」(2節)とあったのは、一般的な「刈り込み」という動詞ではなく、この3節の「きよい」の動詞形が用いられています。それは、御父がイエスを通して語ってくださった「ことば」によって「きよい」ものとされているというのです。
先の「持ち上げる」はギリシャ語でアイレイ、「刈り込む」はカタイレイ、「きよい」はカタレイと記され、ある意味での言葉遊びが見られます。「持ち上げる(取り除く)」も、「刈り込む」もすべて「きよさ」につながるのです。
あなたの心の奥底にイエスのみことばが響き、自分の罪を認めたこと自体が、神の刈り込みのみわざです。私たちは、自分中心の生き方を改め、イエスを主と告白したことによって、「もうきよい」と宣言されています。
ですから、私たちが受ける「刈り込み」とは、心の動機がきよめられることを意味します。私たちは自分の願望がかなえられたときに、「祈りが聞かれた」と言いがちですが、それは大きな間違いです。
祈っても願いどおりに行かないことを通して、私たちの願いと神の願い(みこころ)が調和されて行くのです。それは、有名な米国の南北戦争の無名の傷病兵の祈りにある通りです。
「大きなことを成し遂げられるように力を求めたのに、 謙遜に従うようにと弱くされた。 偉大なことができるようにと健康を求めたのに、 より良いことができるようにと病弱さを授かった。 幸せになれるようにと豊かさを求めたのに、 賢くなるようにと貧しさを授かった。 人々の称賛を得られるようにと権力を求めたのに、 神の必要を覚えるようにと弱さを授かった。 人生を楽しむためのすべてを求めたのに、 すべてのことを楽しむようにといのちを授かった。 求めたことは何一つ得られなかったのに、 心で望み続けていたことはすべて与えられた。 こんな自分であるにも関わらず、 ことばにならない私の祈りはすべてかなえられた。 私はすべての人々の中で最も豊かに祝福されたのだ。」
イエスの命令は、「わたしにとどまりなさい」(4節)です。それは、「わたしの愛の中にとどまりなさい」(9節)とも言いかえられます。
そして、ここではイエスご自身が、「わたしも、あなたがたの中にとどまります」と約束された上で、「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことはできません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」と説明されます。
私たちの問題は、恐れや寂しさに耐えきれなくて、始終動き回って何かをつかみとろうとし、「とどまる」ことを止めてしまうことです。獲得しようと頑張る中で、既に与えられている恵みが見えなくなります。
ハドソン・テーラーは、ほとんど何の経済的保証もない中で、ただ主に信頼し、働き続けたような人でした。しかし、彼は記しています。
「私は、祈り、苦しみ、断食し、努力し、決意をし、もっと忠実に聖書を読み、黙想するために、より多くの時間を求めた。しかし、すべては無駄だった。毎日、ほとんど毎時間、罪の自覚に私は押し付けられていた・・主は真実に強くあられるが、私は弱い。根や幹に豊かな栄養があることは十分知っているが、実際にそれをどのようにして私の小さな枝に受けることができるかが問題だったのだ」と。
そのような絶望を味わっていた時、友からの手紙が届きます。そこには、「信仰を強められるため、どうしたら良いのだろう。それは信仰を求めて努力するのではなく、忠実なお方によりかかることだ」と記されていました。
その時彼は、「私にはすべてが分かった。『たとい、私たちは不真実であっても、彼は常に真実である』(Ⅱテモテ2:13)。私は主を仰ぎ、『決してあなたを見捨てない』(ヘブル13:15)と言われる主を見た!」と感動を味わい、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ2:20)という信仰の事実の中に憩うことができたのです。
比較するのも恐れ多いことですが、私も同じような体験をしました。自分の不信仰、祈りの浅さに悩み、カナダのフーストン師を訪ね相談した時、先生は「それなら祈るのをやめたら良い」と言われました。そのとたん、私は「自分のうちで祈りを導いてくださる御霊の働き」に目覚めました。それ以来、祈ることが、ずっと楽になり、喜びとなりました。
なおも、私は「イエスを求める動機が純粋ではなかった」と恥じていましたが、それは、何よりも、私の信仰が自分の誠実さではなく、神の一方的なあわれみから始まっていることの証明となりました。
振り返ってみると、自分が心の奥底で何を望んでいるかも分からないような私をあわれんで、イエスが語りかけ、私のうちにイエスへの信仰を「創造」してくださいました。その信仰を恥じるなど、まさに本末転倒です。
イエスが、「わたしが・・話したことばによって」(3節)とあるように、信仰の始まりはキリストの愛の語りかけに心を開き、やすらぎ憩うことです。ぶどうの枝は、木から養分を受けようと必死になりはしません。枝を通して実をならせようとする木の力に身を任せているだけなのです。
3.「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされる」
さらにイエスは、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は、多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」(5節)と言われました。
既に述べたように、「枝」である私たちは「ぶどうの木」の一部とされているのです。問題は、この世の基準で自分を測り、イエスにつながることなしに何かができると錯覚してしまうことです。
自分の弱さや愚かさを恥じる必要はありません。私たちは自分が、すでに豊かな実を結ぶと保障されたぶどうの木の一部とされているということ自体を喜べばよいのです。そのとき、イエスご自身が私たちの「中にとどまる」と約束されましたが、それをイエスは7節で、「わたしのことばがあなたがたにとどまる」と言い換えられます。
それは具体的には、イエスがあなたに語られた「主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ(思い巡らす)」(詩篇1:2)ことを実行することです。
一方、6節では、「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます」と、恐ろしいことが記されますが、これは最初に述べたように、「すいぶどう」を成らせたイスラエルの悲劇を指し、同時に、神から独立して生きようとするすべての不信者に対するさばきでもあります。
それが記されているのは、「まことのぶどうの木」であるイエスにつながっていることの圧倒的な恵みを逆説的に思い起こさせるためです。
詩篇80篇でもイスラエルが「ぶどうの木」として描かれます。その8節では、「あなたはエジプトから、ぶどうの木を携え出し、国々を追い出して、それを植えられました」と言いつつ、その後の「ぶどうの木」の繁栄と、それによって周辺諸国がぶどうの実を奪い取るようになった様子が描かれます。
イスラエルは、繁栄の中で近隣諸国の偶像礼拝にならうようになり、それがまた近隣諸国の侵入を招くようになって、最終的に国が滅亡します。
そのような中で詩篇作者は、「万軍の神よ。どうか帰って来てください・・・そして、このぶどうの木を育ててください」とすがりました。
そして今、イエスを通して神がイスラエルに帰ってきて、まことのぶどうの木であるイエスのみからである教会を育ててくださるのです。
そのような中で「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたの欲しいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます」(7節)と約束されます。それは、みことばによって私たちの願望が聖められた結果と言えましょう。
ハドソン・テーラーは、その後、神に大胆に宣教師を起こして下さるように祈り続けました。そして、それから三十年後、イエスが彼を通して始めた宣教団は750人の宣教師を遣わすようになっていました。いつも経済的には綱渡り状態でした。しかし、イエスは不思議な形で必要を満たし続けて下さいました。
イエスはさらに、「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」(8,9節)と言われます。
ここで「多くの実を結ぶ」とは、キリストの弟子となっているなら必然的に起こることであって、それは私たちの栄光ではなく、御父の栄光になることであるはずです。
しかも、イエスが約束された「多くの実」は、目に見える数字で表わされるとは限りません。いや、そうならない方が多いと言えましょう。数字は魔力を持つからです。
大切なのは、父なる神が「栄光をお受けになる」ことが、「あなたがた」「弟子たち」によってなされるという複数形に目を向けることです。
イエスの「愛の中にとどまる」とは、10節にあるように「イエスの戒めを守る」ことです。それは何よりも弟子たちが互いに愛し合うことです。つまり、「多くの実を結ぶ」とは、キリストにある愛の交わりが成長することに他なりません。
そして、互いに愛し合う交わりは、周りの世界の人々を次々と引き寄せます。それが結果的に、数的な教会の成長につながることがありましょうが、あくまでも問われるのは、愛の交わりの質です。
十二弟子のひとりであったイスカリオテのユダは、お金に表現される数字の世界に心が奪われました。そして、自分から「まことのぶどうの木」であるイエスを離れることを願ってしまい、6節にあるように自分を「枯れ」させ「火に投げ込」まれる「枝」としてしまいました。
なお、ここでの「投げ捨てる」と、2節で「取り除く」とも訳されている言葉はまったく異なります。イスカリオテのユダは、イエスを利用することばかりを考えていたのであって、イエスに本当の意味で結びついてはいませんでした。彼はイエスに頼らず自分の力で生き、自分の願望に縛られていた見せかけの信者でした。
多くの木の枝は、切り取っても何かの役に立ちます。しかし、ぶどうの枝だけは何の役にも立ちません。それは焼かれるしかないのです。
「ぶどうの木」であるイエスが、「枝」である私たちを通して生み出して下さる「実」には様々なものがあり、比較はできません。ただ、例外なく生み出されるのは、イエスが「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされる」(11節)と言われた現実です。
必要なのは、あなたの目を、実ではなく、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」(9節)と言われるイエスに向けることです。
主はここで、「多くの実」とは何かについての明言を避けておられます。それは、私たちが「実」を比較する誘惑に陥りやすいからではないでしょうか。
確かに、私たちの信仰は、「実」によって判断される面があります。しかし、良い「実」をならせるのは「枝」ではなく、「木」の働きです。「枝」である自分を忘れて、「木」であるイエスを見上げることこそ真の信仰です。