マタイ25章「タラントのたとえ」

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2016年夏号より

日本人の道徳律は、「人様に迷惑をかけてはいけません」かもしれません。そして、イエスの時代の律法学者も「自分が嫌なことは、ほかのだれにもしてはならない」(旧約外典トビト4:15) と強調しました。しかし、イエスは、「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」(7:12) と言われました。これがゴールデンルールと呼ばれます。イエスの教えの特徴は「してはならない」という発想を「しなさい」という能動形に変えたことにあると言われます。減点主義は人を委縮させるからです。

マタイによる福音書25章に「タラント」のたとえが記されています。Talent(タレント)ということばを英和大辞典(1960年版)で調べると、「発達させて世のために役立てるように神から人に委ねられたと考えられる素質、才能、聖書マタイ25:14-30のたとえ話しから」と記されていました。それほどにこのたとえは、現代の文化に影響を与えています。

たとえの初めの「天の御国は……のようです」(14節) とは、この福音書で繰り返される表現ですが、いわゆる「天国」ではなく、目に見えない神のご支配の現実を描写したものです。神は「自分の財産を預けて、旅に出て行く人」にたとえられます。それは神がご自身の民にこの世の働きを任せ、その結果を問われるからです。

その際、「おのおのその能力に応じて」(15節) 預けられる額に差があります。一タラントは6000デナリであり、当時の労働者や兵士の約二十年分の給与に相当します。現代の日本の平均年収の感覚で仮に年収五百万の人なら一億円に相当するとも言えます。

その感覚で計算すると、五タラントとは五億円預けられることを、ニタラントとは二億円を預けられるようなものです。多くの人の感覚なら、額が大きすぎて、これで商売を始める気にもならないかもしれません。ところが、五タラント預けられた人も、ニタラント預けられた人も、主人が旅から帰って来るまでという短期間に、それを二倍に増やしたというのです。これは、大きなリスクを取る大胆な商売をしない限り不可能です。

その結果、それぞれが主人から「あなたはわずかなものに忠実だったから、私はあなたにたくさんの物をまかせよう」(21、23節) と全く同じ賞賛を受けます。これほどの多額な金額が、「わずかなもの」と呼ばれ、さらに大きな責任を与えるための試験だったというのです。私たちは自分に預けられた賜物を過小評価してはいないでしょうか。

しかも、もうけた額は異なっても、「よくやった。良い忠実なしもべだ。……主人の喜びをともに喜んでくれ」と同じ評価を与えられます。神が見られるのは、儲けた金額の多寡ではなく、預けられた賜物をどれだけ生かすことができたかという点なのです。目立たない働きを忠実に行なっているある人が、「神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって祝福してくださいました」(エペソ1:3) と言われるとき、何よりも神のこの公平な評価と喜びを思い浮かべると語っておられましたが、その通りのことが記されています。

一方、ータラントしか預けられなかった人は、そのお金を失うことを恐れるあまり、「地を掘って、その主人のお金を隠し」ます (18節)。その理由を、「あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だと分かっていました。私はこわくなり……」(24、25節) と言っています。これは、この人が勝手に判断した主人の姿に過ぎません。

それに対し、主人は、「その私の金を、銀行に預けておくべきだった」と言いました。なお、ここで「銀行」というのは意訳で、厳密には、「(両替人や金貸し業者の)テーブル」と記されています。当時はまだ銀行などは存在しません。ただ Bank ということばは、この「テーブル」または「ベンチ」に由来します。ここに Bank の語源が出てくるのは本当に興味深いことです。

律法 (申命記23:19、20) によれば、利息は同胞ではなく外国人からしか取れないはずですし、当時の貸し出し利息は、お金の場合は年利20%、物の場合は33.3%が相場だったとも言われます。要するにこれは、高利貸しに金を預けることの勧めです。ですから、これは「私をそんな人間だと思うのなら、それと同類の人に預けてでも、もうけるべきだった」という皮肉を込めた叱責です。そればかりか、この人は「役に立たぬしもべ」としてさばかれ、神の民から締め出され「泣いて歯ぎしりする」というのです (30節)。実は、預かったお金を倍にすることは、半分になるリスクを犯すことと裏腹です。ただし、それは、「神に信頼する者は恥を見ない」(詩篇25:2、3) との真実を体験する機会でもあります。

イエスは、ここで何よりも、機会を生かさず、才能を埋もれさせることを非難しているのです。当時の律法学者、パリサイ人は、聖書を戒め規定に変えてしまい、結果的に、神は失敗を赦すことのない「ひどい方」にしてしまっていました。あなたにとっての神はどのような方でしょう?

この結論の「だれでも持っている者は……豊かになり持たない者は、持っているものまでも取り上げられる」(29節) とは、能力のことではなく、「主人の喜び」を思い描きながら働く者と、「主人を……ひどい方」だと恐れながら才能を埋もれさせる人との差です。

現実の経済の中で既に、「持っている人はますます豊かに、持たない者は、ますます貧しくなる」という不条理が見られます。その現実を前に、神の公平なご支配を疑い、自分の身を守ることばかりに汲々とし、大胆な冒険ができない人が増えています。

そのときに自分に与えられているわずかな物から、主に大胆に期待して献金する人と、主人のあわれみ深いご支配を信じて大胆に商売をすることが重ねて記されているとも言えます。私たちも、この世の不条理を批判するばかりで、預けられているわずかな財や賜物を大胆に生かそうとしないなら、それが更なる貧困の悪循環を招くということがあるかもしれません。

何の冒険もしない人は、大きな失敗もせず、人に大きな迷惑をかけることもないかもしれません。しかし、私たちが犯すすべての失敗は、イエスの十字架によってすべて赦されるというのが私たちの信仰です。しかし、自分に預けられている賜物を生かそうとしなかったこと、つまり、主に信頼して冒険しようとしなかったことは、十字架の贖いによっても赦されようがないかもしれません。失敗することを恐れる代わりに、大胆にキリストにあってチャレンジする人生を歩ませていただきましょう‼︎