ルカ16章1〜15節「まことの富の管理者として生かされるために」

2016年7月10日

私は十年間証券会社に勤め、主に営業畑を歩み、退職して牧師になりました。証券会社のことをよく知っている人は、しばしば、「あんなあこぎな商売から早く足を洗って良かったね・・・」とか、「あんな恐ろしい会社をやめて良かったね・・・」などと言ってくれます。それを聞くたびに、何か複雑な気持ちになります。

私は、証券市場は大切だと思っていますし、あの会社にいた多くの人々を今も好きだからです。それでふと思いました。取税人をやっていたマタイも、同じような複雑な思いを味わっていたかもしれないと・・・。

そんな彼の気持ちになると、今日の記事の意味がわかるのではないでしょうか。マタイは、「取税所にすわっている」ときにイエスから声をかけられ、すぐに弟子となりました(5:27)。彼は、税金を取り立てる仕事の最中に声をかけられたのです。

イエスはその仕事を軽蔑したというよりは、その働き振りを評価して、ご自分のメッセージを書き留めさせるための弟子として選ばれたと考えることもできるかもしれません。

1.「いつ管理の仕事をやめさせられても・・・」

1節の「この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された」という「乱費」とは15章13節の放蕩息子が「財産を使ってしまった」というときと同じことばです。この「不正な管理人」は、「ある金持ち」と呼ばれる主人の財産を自分の遊興のために使ったのでしょう。彼は解雇を言い渡され、今までの「会計の報告を出す」ように命じられました。

彼はこの仕事を取り上げられたら生活の目処が立ちません。彼はその絶望的な状況を、心の中で、「土を掘るには力がないし、物乞いをするのは恥ずかしいし」(16:3)と表現します。つまり、彼が生計を立てるためには、この仕事以外の選択肢は考えられなかったのです。

彼は、今の自分に何ができるかを真剣に考えました。彼は、奴隷ではなく、大きな裁量権がゆだねられていました。その中で彼は、主人の債務者の債務を合法的に大幅に減らしてあげることを思いつきました。その目的が、「こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう」(16:4)と記されます。

ここでは二人の債務者が描かれ、それぞれ油百バテと小麦百コルの借財があったとのことです。これはかなりの金額に相当します。「油百バテ」とは、注にあるように3,700リットルに相当します。これは、一斗樽では二百樽あまり、146本のオリーブの木を必要とするほどの大きな分量だと言われます。

また「小麦百コル」というのも3万7千リットル、米俵にすると五百俵あまりです。これは明らかに商業取引の規模です。彼は自分にまだ残されている裁量権を利用して、商売相手を「友」にしたのです。

ところで当時、律法によれば、彼らは同胞に貸すとき、利息をとってはならないことになっていましたが、現実には、利息という名前を避けながら、借りた者の商売の果実のある部分を受け取ることを条件に貸していたのが当たり前でした。油の債務を半額にするのはやりすぎとも見えますが、当時は油の貸し借りに関する限り年率100%などは法外な利息ではありませんでした。液体の純粋さを保つことは容易ではなかったからです。

一方、小麦の場合は保存が容易で、二割程度の利息ということもあったことでしょう。つまり、彼は、利息に相当する部分の債務を帳消しにし、債務を元本と同額にまで減らしたとも考えられます。

そして、ここには建前と本音の違いがあるのだと思われます。主人は、律法の解釈を超えた商取引の常識にしたがって利息を取って貸すことを期待していました。そしてこの不正な管理人はある意味で主人の暗黙の意を汲むのと引き換えに、この財産管理から得た利益を自分のために用いていたことでしょう。

これは当時の取税人と同じです。取税人は、ローマ帝国から決まった賃金を受け取っていたわけではなく、集めた税金と政府に収めた税金の差額を合法的に自分の財産としていました

つまり、この管理人も取税人も驚くほどの自由裁量が与えられ、厳密な報告などは求められなかったのが普通だったと思います。ただ、この管理人はそれをあまりにも無節操にやり過ぎました。

ですから、この管理人が突然、会計の報告を求められ、「私は今までのやり方を反省し、律法に従って、利息を取ることをやめました。油五十パテ、小麦八十コルが、それぞれ彼らに貸した量です」と言うなら、主人は管理人を責めることができなくなります。

もちろん、この管理人が油の証文を半分にしたことには、主人も気を悪くすることは明らかです。しかし、この管理人は自分の生活がかかっていますから、主人の不興を買うことを十分承知の上で、大胆な行動に出ました。

そして、彼がやったことは法律的な見地からは、まったく非難されようがなかったことでした。

2.「賢さ」の肯定―「主人は、不正な管理人がこうも抜けめなく(賢く)やったことをほめた」

「主人は、不正な管理人がこうも抜けなくやったことをほめた」(16:8)とありますが、「抜け目なく」とは原文では「賢さ」を表す良いことばでもあります。そして原文ではその後に、イエスはそれを一般化して、「この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子よりも賢いのだから」と付け加えています。

つまり主は、「光の子」に、この世における財産管理を「賢く」行うことを命じておられます。そしてこの話の結論として、「不正の富で、自分のために友を作りなさい」と言われますが、この「不正の富」とは当時のパリサイ人たちの言葉遣いであって、「この世の富」とも言い換えられます。

たとえば日本でも、昔は、生産活動自体ではなく、商業的な取引や金融業から生まれた富を軽蔑した時代があり、それらが「不正な富」とみられることもありましたが、その感覚と似ていることでしょう。それは経済を知らない人が勝手につけたことばです。

残念ながら、今も昔も、キリスト教会には賢さ」を軽蔑する風潮があるのかもしれません。牧師の息子として生まれ五歳で父を亡くしたニーチェは、それに強く反発しました。

そして、キリスト教道徳においては、「善」と「愚かさ」を互いに近づけようとする傾向があり、人に恐れを感じさせるような「強さ」は「悪」と見なされがちであると分析し(「善悪の彼岸」261節)、それは、人間の生きる力を失わせ、成長を阻む教えであると強く非難しました。

確かにイエスは「貧しい者は幸いです・・・富む者はあわれです」(6:20,24)と不思議なことを言われ、特にルカは、イエスが社会的弱者や軽蔑された取税人にいかに優しく、金持ちや権力者に厳しかったかという面を強調しています。ですから、新約の教えには、人の向上心や賢さ、情熱などをくじき、弱さや怠慢への居直りを助長する恐れがあるという解釈が生まれるのも無理はありません。

この「不正な管理人」のたとえは、新約聖書しか知らない人にとっては、「道徳」に反するように見えるかもしれませんが、旧約聖書の流れからすれば、極めて自然な教えだと思われます。

たとえばエリコの遊女ラハブは敵将ヨシュアの二人のスパイを匿い逃がすことで神の民に受け入れられましたが、エリコから見たら国を売った悪女の代表となりかねません。この世の善悪の判断を超えた視点が提示されています。

信仰の父アブラハムは、神の御声に従って約束の地に向かった時点で、すでに多くの財産や奴隷を抱えていましたが、彼の生涯の物語の核心とは、非常に裕福であったにも関わらず、神に従うことを第一として歩んだということにあります。

ヤコブの物語においても、父の家から杖だけを持ってひとりぼっちの旅を始め、結果的に多くの財産を与えられた様子が描かれます。彼が神に従うことは、神に訓練されましたが、蓄財や財産管理に関する能力がどのように育まれたかに関しては何の説明もありません。彼は生まれながら計算に秀でていたとも言えましょう。それが、ラバンの家畜を世話することにおいて豊かに現されています。

聖書は、私たちが富の奴隷になることを繰り返し戒めています。その意味で、聖書は私たちに財産の殖やし方を教える代わりに、財産の捨て方、使い方を教えているとさえ言えるかも知れません。

アブラハムもヤコブも、神の祝福を受けて、豊かな富を手にしましたが、それは、彼らが既に、財産管理能力を与えられていたことが前提とされています。その意味で、私たちは聖書と同時に、この世の知恵から財産管理能力を学び取る必要があるとも言えるかもしれません。

そのことが8節では、「この世の子ら」の「賢さ」に見習うことを命じるかのような表現になっているのだと思われます。これはたとえば、教会音楽を志す人が、福音を音楽で表現するために聖書を学ぶ必要があるのは当然でも、何よりも多くの時間を演奏技術を磨くことに費やすのと同じです。人は、演奏を学ぶように、お金の管理を学ぶ必要があります。

これをもとにイエスは、「不正の富で友をつくる」ことで、「富がなくなったとき、彼らはあなたがたを永遠の住まいに迎えるのです」(16:9)と不思議なことを言われました。「富がなくなったとき」とは、厳密には「終わったとき」と記され、この地上の命がなくなるときを指すと思われます。

この「不正な管理人」は、解雇された後で、債務を免じられた「人がその家に私を迎えてくれるだろう」(16:4)と期待していたのですが、イエスはそれを「永遠の住まいに迎える」という視点に置き換えて話しました。確かに、この不正な管理人は、自分が解雇されたときの就職先という意味でしか考えていなかったかもしれませんが、イエスはその行為を、任された権威を有効に用いて隣人を助けることとして理解してくださったのです。

このたとえは16章19節から31節に続く「金持ちとラザロ」のたとえと対照的です。死後に、物乞いのラザロは「アブラハムのふところ」と呼ばれる天国に行き、金持ちはハデス(よみ)の苦しみに落とされたというのです。これは、「不正の富で、自分のために友をつくろうとしなかった人」の悲劇です。

それはこの「不正な管理人」のたとえを聞いた、「金の好きなパリサイ人たちが・・あざ笑っていた」(16:14)ことに対してのたとえでしたが、パリサイ人が「金が好き」と描かれるのは猛烈な皮肉です。彼らは、「不正の富」を軽蔑すると公言しながら、内心はお金が大好きでした。

「金の好きな者」とは原文で「フィラルグロス(金銭愛者)」という言葉が用いられており、友への愛(フィレオー)と比較すると理解しやすい概念です。自分の損得勘定を友情よりも優先する者は、金銭愛者と呼ぶことができます。このたとえでは、お金の話を軽蔑していたパリサイ人こそが、イエスの目からしたら金銭愛に囚われている者であるという皮肉が記されているのです。

パリサイ人は、聖書のお話をして人々からお金を受け取るようなことはしませんでした。そこに彼らのプライドがありましたが、心の底では、自分のプライドを守るためにお金のことを考えていたのではないでしょうか。

私たちも、この世の経済活動を「お金儲け」などと軽く見ながら、パリサイ人のようなプライドに囚われ、それを維持するために、無意識のうちにも金銭愛にも囚われていないかが問われています。

3.「他人のものに忠実」とは?

そしてイエスは、「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です」(16:10)と言われました。このみことばは、私たちの生活のあらゆる部分に適用できる教えで、「小事は大事」ということわざにも通じますが、ここでは、「小さい事」とは、まず第一に、「不正の富」(16:11)の管理を指しています。

昔から、聖俗二元論という考え方があります。それは、この世の仕事は俗なもの、低級なもので、教会での働きは聖なるものであるという考え方です。

イエスはご自身の弟子たちの中核に、エルサレムで聖書をよく学んでいる人ではなく、ガリラヤ湖で魚をとっている人を置きました。イエスの目には、彼ら漁師こそ、「小さい事に忠実な人」と見えたからこそ、大きな福音を託したのです。

また、イエスは取税所に座るという「小さい事」に忠実だったマタイに、とてつもなく「大きい事」、つまり、ご自身の五つの長い説教を書き留めさせることを任されました。それはまさに、「まことの富を任せる」(16:11)ということを意味しました。取税人に神のことばの管理を委ねるなど、当時の誰が想像できたでしょう。

そして、「小さい事」とは、第二に「他人のもの」(16:12)の管理を指しています。この「不正な管理人」は、主人の財産に対しては「不忠実」であったとも思えますが、事実は、この主人は彼が賢くふるまったこと自体を「ほめた」のです。神は私たちが与えられた能力を生かしてよく考えることを喜んでおられます

なお、ここで「他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう」というのは、矛盾のように思えます。なぜなら、人は誰でも自分のものを持っており、自分のものを管理できて初めて他人のものまで任せてもらえると思うからです。

しかし、私たちの「富」は、実は、自分のものではなく、神から預けられているものに過ぎません。この地で預けられている富を管理するということは、神が私たちに与えてくださる「神の国の富」を持たせていただけるための訓練期間であるというのです。

この世的に考えると、お金に無頓着な人こそが神の働きができると考えられる傾向があるかもしれませんが、主の目からしたら、「お金の管理さえできない人間に、大きな働きをどうして任せることができようか・・・」という問いかけとも解釈できます。

この原則は、この世の富に関しても適用することができます。Time is moneyという格言で有名なベンジャミン・フランクリンは、それに続けて、Credit is money(信用は金なり)と言いつつ、「金銭には元来、繁殖力と結実力のあることを忘れてはならぬ金銭は金銭を生み出すのであり、生み出された金銭はさらに多くの金銭を生み、次々に同じことを繰返して行くのである・・・『支払いの上手な人は万人の財布の主人となる』という諺を忘れてはならぬ。約束の期限までに、日限を違えず、かつ正確に支払うことで定評を得ている人は、友人が差し当たって必要としない金銭を、いつでも借りることができる。信用に影響を及ぼすことなら、どんな些細な行為も注意しなかればならぬ」と記しています。

キリスト者として、神の眼差しを常に意識しながら生きることは、結果的に、周囲の人々の信頼を得ることにつながるはずです。そして、それは、この地においてより多くの富を任せてもらえることにもつながります。

イエスは続けて、「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません・・・神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(16:13)と言われました。お金や能力は、罠となります。それは、自分を世界の中心にし、自分を誇らせ、自分が神と人の助けなしには生きることができないひ弱な存在であることを忘れさせるからです。

お金は、神と人に仕える「手段」に過ぎません。ところがしばしば、「手段」に過ぎないはずのものが「目的」となり、お金を賢く使うことよりも、お金儲けのために神と人とを利用するということになりかねません。そのとき、人は、お金の奴隷になっているのです。

そのような人は、欲望に駆り立てられ、お金が与える豊かさを真の意味では味わってはいません。つまり、自分のものを持っているようで、それを真に自分のものにはできていないのです。

しかし、神のしもべとして生きる人には、最高の自分のものとしての、「永遠のいのち」、すなわち、「神との生きた交わり」を自分のものとして持たせていただくことができます。

信仰の目的は決してこの世的な成功ではありませんが、この世的に成功することを軽蔑するようなこともあってはなりません。「成功すること」も「神の恵み」のひとつです。問われているのは、あなたの真の主人は、富でも名声でもなく神であるのかということです。決して「負け犬の遠吠え」のようなこの世を軽蔑した信仰にならないようにしたいものです。

この世に誠実に仕えることは、「小さい事に忠実」であるという証しです。この世の成功は「小さい事」ではありますが、神の栄光のために大きく用いられる宝でもあります。

あなたにもこの世で任されている権威があることでしょう。「地上の主人」の上におられる「天の主人」の観点から自分の仕事を見直し、仕事を、神の国の管理者の立場から見直すことが求められています。

パウロは、「堅くたって、揺るがされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだではないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と励ましましたが、これは日々の仕事すべてが、主にあっての働きになるという意味です。

いのちを窒息させる生き方ではなく、失敗を恐れず、大胆に、任された富と能力を賢く用いましょう。日陰のもやしのような信仰生活ではなく、光の創造主である方に向かって力強く生かさせていただきましょう。そこには信仰者の真の自由が生まれます。

イエスは、「金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた」(16:14)ことに対して、「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です」(15節)と言っています。そして彼らの偽善を指摘する意味で、「神は、あなたがたの心をご存知です」と言われた上で、「人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます」と驚くべき逆説を言われました。

多くの人の心の内にある最後の願いは人から尊敬されることですが、それが人を偽善に駆り立てます。パリサイ人たちは、この名誉欲の罠にあまりにも無防備なばかりか、自分の評判を正当化していました。

しかし、富と名誉は、人間にとって何よりの偶像となってしまうものです。そして、パリサイ人は、地上における自分の名誉のためにお金を用いていました。それに比べて、この不正な管理人は「他人のもの」である財を、友のために用いることを思いつきました。

私たちも「永遠の住まい」である神のご支配の観点から富を管理することが求められています。

私たちには真の富である福音の管理が任されており、それによってこの地に神の平和(シャローム)を広げることができます。そして、お金はそのために極めて有用な手段であり、それは全世界の創造主から一時的に管理を任されている大切なものです。

主から与えられた人生の真の目的を、聖書全体から理解することこそが、お金を賢く管理させていただけるために最も大切なことです。人生の意味も目的も理解しないまま多額のお金を手にする人は、とてつもなく危ない所に立たされていることを忘れてはなりません。