ヨハネ13章36節〜14章14節「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」

2016年6月26日

イエスは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われましたが、これはときに、他の宗教を否定する独善的な主張と受け止められることがあります。私もそのように誤解していたことがあります。

しかし、それが、奴隷の姿をして弟子の足を洗い、ペテロの隠された弱さを受け入れ、私たちの罪のために十字架に向かう歩みを意味していると分かり、深く感動しました。あなたはどうでしょう?

1.「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません」

イエスはこれまでユダヤ人たちに二度にわたって、「わたしが行く所に、あなたがたは来ることはできません」と言われました(7:33,34、8:21)。33節では、それを愛する弟子たちにも言われました。

それに対しペテロは、「主よ。どこにおいでになるのですか」(36節)と聞きますが、主は再び、「わたしが行く所に、あなたは今はついてくることはできません。しかし、後にはついて来ます」(36節)と言われます。イエスは父なる神のもとに行かれるのですが、ここでは特にそれに至る十字架の道を指しています。

ペテロはそれに納得せず、「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます」(37節)と言いました。

ところが、イエスはペテロの弱さを熟知しておられ、「わたしのためにはいのちも捨てる、というのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」(38節)と予告されました。これは厳密には、「あなたが三度わたしを知らないと言うまで、鶏は決して泣くことはない」とも訳すことができます。

つまり、朝の到来を告げる鶏の鳴き声が起こること以上に、ペテロが三度イエスを否認することは確実であるというのです。イエスは、ペテロが恐れの感情を抑圧し、強がっているだけだと分かっておられました。

スイスの精神科医のポール・トゥルニエは、幼くして両親を失い、自分の感情を抑圧しつつ教会活動に励んでいました。しかし、妻と黙想をいっしょにするようになったとき、妻から「あなたは私の先生、私の医師、私の牧師ですらあるかも知れません。でも私の夫ではありません」と言われて愕然とします。彼は、妻より優位な立場を保ち、その傍らで妻は劣等感に苛まれ神経症を悪化させていたのでした。

しかし、彼が妻の感性の豊かさを尊敬できるようになった時、初めて、父と母の死に涙を流せるようになります。これを契機に、自分の気持ちや悩みや落胆を人に言えるようになりました。すると多くの人々が堰を切ったように、彼のもとに引き寄せられ、彼の前で自分の内面を打ち明けることができるようになって行きます。

教会の交わりも同じではないでしょうか。私たちは、「自分が誰からも尊敬される人格者になったら、良い証しになる」と考えがちですが、本当にそうでしょうか。多くの人々は、そのままの自分が尊重される場を求めています。私たちも互いのありのままの姿を尊敬し、愛する力をキリストからいただく必要があります。そのとき私たちの交わりは、真に愛に満ちた「関係」として成長するのです。

ところで、イエスはペテロの挫折を預言した後に、「あなたがたは心を騒がしてはなりません」と言われました。私は本当に良く心を騒がせますから、このみことばを聞くと、そんな自分が責められているように感じたことがあります。

ところが、この前にイエスご自身が心を騒がせられた様子が同じギリシャ語で三度描かれているのを発見して嬉しくなりました。主は、マリヤの嘆きを見て「心の動揺を感じ」(11:33)、十字架を思いつつ「今わたしの心は騒いでいる」(12:27)と言われ、「霊の激動を感じ」(13:21)つつユダの裏切りを予告しました。心が騒ぐのは人間であることの証しとも言えます。

しかも、イエスは以前から、「わたしについて来なさい」と招いて来たのに、今になって、「あなたはついて来ることができない」などと言われ、弟子たちの心を敢えて騒がしておられます。それは、彼らが現実を直視できていなかったからです。

私たちも、世界の悲惨に目を閉じ、まわりの痛みの声に耳を閉じ、「わたしは平安です」などと言うことがないでしょうか。それこそ自己中心の罪です。そのような人は、いざ問題が自分に降りかかったとたんにパニックになり、他の人を猛烈に責め始めたりします。

実は、イエスはここで、「心を騒がせ続けるのを止めて、神に信頼しなさいと、改めて招かれたのです。しかも、ここから16章まで続く告別説教をしておられます。

心のうちに生まれた不安や悲しみを、正直に受けとめ、それを神に向かってささげることこそが、「神を信じる」ということの本質なのです。

反対に、自分で自分の心を静めようとするのは、神への不信の行為です。それは、私たちが、本当に信頼できる人の前では正直になれますが、信頼できないと思う人の前では弱みを見せることができないのと同じです。

しかも、イエスはここで、「神を信じ」なさいという命令と、「わたしを信じなさい」(1節)という命令を並列させています。これはご自身を神と等しい立場に置く驚くべき招きです。

2.「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります」

イエスは、「わたしの父のには、住まい(room)がたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう」(14:2)と言われますが、それは当時のエルサレム市内の混雑を前提にしています。当時の町は南北約1.5km、東西1kmの城壁に囲まれており、通常は人口3~4万人くらいだったと思われ、過越の祭りの際には人口が10万人ぐらいに膨れ上がったとも言われます。

城壁で守られる一般居住区は驚くほど狭く、当時の都市の平均と同じなら二階~四階建てのアパートがひしめき合い、一家族が一部屋にすし詰状態だったはずです。

しかも、トイレは簡易の器でして外に持ち出すという不衛生で、夜道を歩いていると、上から汚物が落ちて来ることもあったという記録もあるほどです。

ゼカリヤ2章4、5節には、「エルサレムは、その中の多くの人と家畜のため、城壁のない町とされよう。しかし、わたしが、それを取り巻く火の城壁となる・・・わたしがその中の栄光となる」と預言されますが、イエスはそれを前提に、「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行く」と言ったのかもしれません。

「火の城壁」はa wall of fireと記され、ネットのセキュリティーシステムfirewallとは逆に、燃え立つ炎によって敵の侵入を阻むイメージです。新しいエルサレムでは、神ご自身が町の真ん中に住みご自身の「炎」が民を守るというのです。

それは、魂が肉体から解放され天国で憩うというより、この世の混乱のただ中で、私たちが霊的な「神の家」の中に包まれ、守られ続けることを示唆しています。

それを前提にイエスは、「わたしが行って、あなたがたのために場所を備えたなら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所にあなたがたをもおらせるためです」(3節)と言われます。それは、イエスが私たちの罪を贖い、ひとり一人を「神の子」とし、御父の家に安心できる居場所を備えてくださるという意味です。これは当時、イエスが復活の後、弟子たちに現れることで実現しました。

それは、死んで天国に行くという以前に、今、この東京に住みながら、神の家の中にイエスと住み始めることを意味します。それは天と地が重なる領域で、驚くほど広い「父の家」の中にあります。

続けてイエスは、「わたしの行く道はあなたがたも知っています」(4節)と言われます。つまり、弟子たちは既にイエスの「行く道」を知らされているのです。それは、ご自身が十字架にかかられることを指します

ところが、トマスはそれまでの話しを聞いていなかったかのように、「主よ。どこにいらっしゃるのか、私たちには分かりません。どうしてその道が私たちにわかりましょう」と答えます。

それに対して、イエスは、「わたしが道です」と言われました。「道」とは、聖書で「生き方」を示すことばです(申命記5:32,33、31:29等)。イエスは神であられるのに不自由な人間となり、奴隷の姿になって弟子の足をも洗われました。そして、人々の嘲りを受けて十字架にかかろうとしておられます。それは、山の頂上に立つことを願いながら、ひたすら谷底に向かうようなもので、世の人の目には間違った「道」にしか見えません。

しかし、最初から上ばかりを目指している人は頂上に辿り着けるのでしょうか?彼らは、少しでも賢く、豊かに、強くなることを願って疲れ果て、迷路に迷い込んではいないでしょうか。

しかし、頂上から降りて来られた方が、「わたしについてきなさい」と言われるなら、谷底にだって安心して下ることができます。見通しのきかない道だって、イエスが歩んでおられる一歩先の道さえ分かれば安心だからです。

「未来を自分で把握していなければ・・」と思うのは緊張に満ちた歩みです。しかし、信頼できる人に従うなら、まわりの景色を楽しみ、人を気遣う余裕を持ちながら歩むことができます

続けてイエスは、「わたしが真理です」と言われました。多くの知識を得ることによって、人は平安を得られるでしょうか?私たちがこの世で、何よりも知るべきことは、イエスご自身のことです。ですから、イエスは、「真理はあなたがたを自由にします」(8:32)と言われました。それはイエスとの交わりに生きる「自由」を意味します。あなたはそこで、どんな災いも、死をも恐れる必要がありません。

ただしイエスは、「わたしについて来たなら、あなたの人生は順風満帆、この世の成功者となれる」と言われたのではありません。ですから、苦しみにあっても「こんなはずではなかった・・・」などと言う必要はありません。

人の誤解や中傷を受けても、人から見捨てられ、いのちを奪われるようなことがあっても、そのただ中で「わたしがいのちです」といわれるイエスとの愛の交わりを体験し、いのちを喜ぶことができます。

イエスは続けて、「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言われます。それは他宗教を否定する教えとも言えますが、それが十字架の道を示すと分かるなら、だれも独善的とは言えないでしょう。

しかもそれは、私たちが従う「生き方」でもあるというのです。その不思議を、イエスは他の福音書では、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです」(ルカ9:23)のように表現します。

私はこのことばが心に響いたとき、「苦しみがいのある人生を生きよう」という逆説に目が開かれました。私たちのまわりには、「心を騒がせる」ことばかりが起き、自分のことで精一杯といった気持ちになることがあります。しかし、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」という方を知るなら、様々な困難に立ち向かう勇気が与えられ、人の足を洗うことさえできるほどの「心の余裕」が生まれます。

誰も明日のことは分かりませんが、私たちには既に、父の家の中に安心で広々とした居場所が与えられています。「永遠のいのち」とは、新しいエルサレムの祝福が、今から始まっていることなのですから。

3.「わたしを見た者は父を見たのです」

その上でイエスは、「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです」(7節)と言われました。この時、彼らは真の意味でイエスを知っておらず、その父なる神をも知っていなかったからです。

それに続く、「しかし、今や・・」ということばは、「今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」(新共同訳)とも訳すことができます。それは、弟子たちがこれからのイエスの十字架を通して、真の意味で御父の愛を身近に体験することになるという意味であり、同時に彼らに今、認識がなくても、既にイエスを見ることによって父なる神を見ているという、不思議な宣言です。

ピリポはこの意味が分からず、「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」(8節)と言います。彼は、モーセが神の通り過ぎた「うしろを見」(出エジ33:23)、また、イザヤが神の栄光を拝した(イザヤ6:5)と同じように、「神を見たい」と望んだのだと思われます。

これに対しイエスは悲しみを込め、「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか」(9節)と問い返しました。彼は、イエスが五千人にパンを分かち合い、ラザロをよみがえらせるのを見ながら、そこに父なる神の栄光を認めることができなかったのです。

私たちも、「神を見ることができたら・・昔のような奇跡を体験できれば・・」などと言うなら、イエスから「あなたには聖書があり、日々これだけの恵みを体験していながら、わたしを知らなかったのですか」と悲しまれるかも知れません。

しかし、イエスはピリポを退けることなく、「わたしを見た者は、父を見たのです」(9節)と、決定的に大切な真理を述べられました。聖書には三位一体ということばはありませんが、この宣言ほどに、御父と御子イエスとの一体性を現したことばはありません。

三位一体は、御父と御子と御霊がそれぞれ異なった人格(Person、位格)でありながら、本質と意思において一つであることと定義されます。昔からこの神秘を説明しようと、水、氷、水蒸気は異なって見えるが同じH2Oという本質を持つなどというたとえを用い、かえって混乱を深めたりします。なぜなら、それなら、十字架にかかられたのはイエスの顔をした父なる神だったとも受け取られかねないからです。

ヨハネはそんな理屈を用いることなく、「初めに、ことば(キリスト)があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった・・・ことばは人となって、私たちの間に住まわれた・・・ひとり子の神が、神を説き明かされたのである」(1:1,2,14,18)と説明しています。

つまり、イエスは世界の創造の前から父なる神とともにおられ、同じ神としての性質を持ちながら、人となって私たちの間に住まわれ、目に見えない神を、見えるようにして下さったのです。

イエスは続けてピリポに、「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか」(10節)と言われました。弟子たちは、イエスご自身の御力や品性に感動はしても、御父との関係に注目しませんでした。しかし、それこそ主が「信じ」て欲しいと望まれたことでした。

「わたしが父におり」とは、ご自身が御父の最愛のひとり子であるとの自覚です。主は御父の愛を確信しているからこそ、ご自身のいのちを投げ出すことができたのです。

また、「父がわたしにおられる」とは、御父のご意思がご自分の意思とされているとの証しです。これは、夫(妻)の愛を深く味わいつつ、夫(妻)の気持ちを何よりも尊重する妻(夫)のようなものです。愛はこのように「相互の関係」として見られるべきものです。

そしてイエスは、ご自分が弟子たちに語ることばを「わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられる」と説明されました。当時の大使は、王の代理として遣わされ、交渉を任されましたが、これはそれにまさる関係です。つまり、弟子たちの問題は、イエス個人を見ながら、イエスのうちに生きて働いておられる神を見ることに失敗したことにあるのです。

ある宣教師は、「先生のおかげで・・」と自分を賞賛する人に真っ赤な顔をして「私ではありません」と必死に否定し、「私のうちにおられるキリストがご自身のわざをしておられる」という事実を見て欲しいと懇願したとのことです。なぜなら、宣教師の責任はキリストを提示することであって、自分が全面に立つなら、その働きは失敗だと言えるからです。

なお、イエスは繰り返し、「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい」(11節)と言われました。この関係を信じることこそが、主の願いでした。しかも、それをイエスのことばばかりか、「わざによって信じなさい」と言われました。

私たちは、あるすばらしい働きを見るとき、その功績を特定の個人にばかり帰し、そこにあった夫婦関係や同僚、友との関係を軽んじる傾向があります。しかし、人が神のかたちに造られたとは、神、人、被造物との「交わり」のうちに生きることを意味します。

ですから、神はご自身のみわざを、常に、交わりを通してなされるということを忘れてはなりません。真の人格(Person)とは、孤立ではなく、神と人とに対しての開かれた関係に生きる存在です。

そして、この「関係」を信じることは、私たち自身の働きを変えるものでもあります。「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます」(12節)とは、途方もない約束です。

ところが、私たちの救いが、御父と御子との愛の交わりの中に入れられる関係として理解されるなら、これは当然の帰結です。私たちは既に、「神の子ども」とされています。養子も実子と同じ恵みを受けるのですから、イエスを信じる者が、イエスと同じ働きができるのです。

しかも、それよりもさらに大きなわざができることの根拠として「わたしが父のもとに行くからです」(12節)と言われました。イエスは、十字架と復活の後、父なる神の右の座において、「王達の王、主たちの主」(黙示録17:14,19:16)となられました。

ですから、ここでは、御父ではなくイエスご自身が「わたしは・・何でも、それをしましょう・・わたしはそれをしましょう」(13,14節)と繰り返されました。私たちを通して働かれるイエスご自身が世界の支配者となられたので、私たちは当時のイエスよりも大きな働きができるのです。

実際、パウロはイエスよりもはるかに大きな伝道のわざをしたとも言えます。キリスト教はパウロ宗教だという誤解も生まれたほどです。しかし、パウロは、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と告白したのです。

なお、イエスは、「わたしの名によって求めるなら・・」と繰り返しています。それは単に、祈りの終わりに「イエス様の御名によって」と付け加えることばかりではありません。それは、イエスご自身の栄光のために、主のみこころに添った願いをするという意味です。

つまり、私たちが何かを願う前に、イエスの願いが私の願いとなっている必要があるのです。それが、何よりもすべての祈りの始まりと言えましょう。イエスは、「父が子によって栄光を受けるため」と言われましたが、同じように、御子は私たちによって栄光を受ける必要があるのです。

イエスは常に神のひとり子として生きておられました。私たちは、御父と御子との相互信頼の愛の交わりにこそ注目するように招かれています。

そして、御霊の働きによって私たちも神の子どもとされ、この愛の交わり中に招き入れられています。これが三位一体の神の交わりのうちにある「救い」です。

十字架を負ってイエスに従うという不可能を、創造主ご自身である聖霊が可能にしてくださいます。