ヨハネ13章1〜20節「究極の愛ー弟子の足を洗うー」

2016年4月17日

現代の聖餐式の起源は最後の晩餐ですが、イエスはこの時、弟子たちの足をも洗われながら、「あなたがたも互いに足を洗い合うべきです」と命じられました。それを根拠に受難週の木曜日に「洗足の儀式」を守る教会もあります。

私たちはこの命令を象徴的な意味で理解しますが、それにしても、それをどのように具体化したら良いのか、私たちはもっと真剣に考えるべきではないでしょうか?自分が信じる正義を振り回すプライドではなく、あざけられののしられた私たちの主に倣う真の謙遜な生き方をともに考えましょう。

1.「奴隷の姿となられた世界の王」

12章36節には、「イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された」と記されますが、そこでイエスの公の宣教が終わりました。そしてこの書の前半部が、「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった」(12:37)とまとめられます。

ただそれは「預言者イザヤのことばが成就するためであった」(12:38)とも記されています。イエスはイザヤ書を心の底から味わいながら、そこに記された「主のしもべ」の姿を生きられました。人々がイエスのことばを受け入れなかったのも、イエスの無力さのためではなく、すべて預言の通りだったのです。

13章から17章まではすべて、最後の晩餐での会話です。そこではまず、イエスの思いに関して、「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので」(1節)と記されます。

6章での五千人のパンの奇跡でも「過越が間近になっていた」(4節)という記述から始まります。つまり、群衆や弟子たちにパンを与えることは、ご自身を過越の「神の小羊」(1:36)として示す行為でもありました。これは、十二弟子に三年間を締めくくる指導をされたという意味とも言えましょう。

続く文章を、新共同訳は「イエスは・・世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と訳していますが(「愛」はギリシャ語のアガペー)、この方が原文をより良く表わしているかもしれません。それを最も劇的に表わしたのが、イエスが奴隷の姿になって弟子の足を洗うことでした。

ヨハネはパンと杯を用いた聖餐式のもととなる最後の晩餐の食事の様子を描く代わりに、この洗足のことを描写しました。どちらにしても、両者ともに、「共同体の創造」という共通テーマがあります。

しかも、そこではすべてイスカリオテのユダの裏切りにも焦点が当てられています。イエスの愛が「残るところなく示される」その時とは、光がこの上なく輝く時でもあります。陰の暗さがあらわになるのは、光が強く照らされたことの必然的結果とも言えましょう。

ギリシャ語の「愛」(アガペー)に最も近いことばは「honour(尊敬)、welcome(歓迎)」であるとも言われます。主は自業自得で国を失ったイスラエルの民に向かって、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と言われましたが(イザヤ43:4)、それこそ神の愛の本質です。

たとえば英語のrespect(尊敬)には、「reもう一度、距離を置いて、spect見る」という意味があり、「親が子供をリスペクトする」「上司が部下をリスペクトする」という表現がしばしば使われます。ここでのギリシャ語のアガペーも同じように、主人がしもべを「高価で尊い」存在としてリスぺクトするという意味が込められています。

その意味で、イエスが弟子を「愛しぬかれた」ことは、その汚れた足の前にひざまずいた姿勢に何よりも表されます。私たちだって、心から尊敬している人の足なら喜んで洗うことができるのかもしれません。しかし、ユダのような者の前にひざまずくことは、想像するだけで心が乱れます。

「援助」なら、自分の敵にも、心の中で軽蔑している人にさえできます。それは自分の自尊心を満足させるからです。しかし、真の意味で人を愛するとは、人の存在自体を自分よりも尊ぶ姿勢に表わされるのです。そしてそれは、父なる神ご自身の姿勢をも現すものでもあります。

イエスは「夕食の間」(2節)になってから、急に「席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ」(4節)ます。これは当時の典型的な奴隷の姿です。この食事はイエスと十二弟子だけの特別な食事でしたから、席に着く前に足を洗ってくれる奴隷がいませんでした。

ルカによるとこの食事の席で、「彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった」(22:24)とのことですから、彼らはそれぞれ、「そんな卑しいことができるか!」と互いに思っていたのかもしれません。

しかも、当時の人々はこのようなときに肘をついて上半身を起こしつつ足を投げ出す姿になっていましたから汚れは気になります。イエスは既に食事に入りながら、それに心を痛めておられたことでしょう。

それで何と彼らの主人であるはずのイエスご自身が、「たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた」(5節)というのです。これに驚いた弟子たちは、自分たちを恥じたのか、沈黙していました。

ところで、ここでは、イエスがそのような行動をとられる前に、「父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から出て父に行くことを知られ」(3節)たからと説明されています。

つまり、イエスは、ご自身がこの地の支配を委ねられた「」であるとの自覚に満たされていたからこそ、「奴隷」の姿を取られたというのです。それは、ピリピ2:6-11に描かれた「キリスト賛歌」の通りです。

そこでは、「キリストは神の御姿であられるからこそ・・ご自分を無にして仕える者の姿をとられた」と読まれるべきでしょう。神であられる方の性質は、何よりも、愚かなプライドから自由になっていることに表わされるからです。

罪の始まりはアダムとエバが、「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け・・神のようになり、善悪を知るようになる」(創3:5)という誘惑のことばに従ったことでした。その結果、夫は自分の責任を妻に転嫁し、力で抑えつけるようになりました。

互いが自分の正当性を主張し、最後には腕力で相手を屈服させるというパターンです。それに対しイエスは、真の神のかたちに造られた者としての生き方を示されました。私たちの心に、真に余裕があるなら、奴隷の姿になって人の前にひざまずけるはずです。

2. 「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」

ユダを含め、ほとんどの弟子たちは、唖然としながらも、何も言えないまま身を任せていたのだと思われます。

ただペテロはそれを余りにも畏れ多いことと捉え、「主よ。あなたが、私の足をあらってくださるのですか」と言います。「主」である「そのあなたが、私の足を・・」という驚きが強調されます。

それに対しイエスは、「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」(7節)と言われます。それはイエスが十字架にかかるときに、その意味が初めて理解できるという意味だと思われます。

それに対しペテロは、「決して、私の足を洗わないでください。永遠に!」(8節私訳)と強いことばで遠慮します。「永遠に!」と敢えてつけ加えられるのは、「あとでわかる」ということばへの応答かと思われます。これは、イエスが初めてご自身の十字架を示唆した時に、ペテロが「イエスを引き寄せて、いさめ始めた」と描かれていた情景に似ています(マタイ16:22)。ペテロは、主である方が自分のような者の前にひざまずいて足を洗うなどということが永遠にあってはならないと思ったのです。

しかし、イエスそれに対し、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」(8節)と言われます。これは、「わたしに属さない」とも訳せる言葉で、イエスの弟子と呼ばれる資格を失うかのような強い表現です。これはマタイ16章で、イエスがペテロに、「下がれ、サタン」と言われたことにも通じます。しかし、ペテロがイエスに属するとは、主が彼の足を洗うように、彼の罪を洗い流すために十字架にかかるということを示唆したと思われます。

すると、ペテロは慌てて、今度は反対に「主よ。私の足だけではなく、手も頭も洗ってください」(9節)と図々しく懇願します。それでイエスは、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです」(10節)とまず言われます。当時のユダヤでは、招待された客は出かける前に自宅で全身を洗い、招待席に着く前に足だけを洗いました(ルカ7:44参照)。

ただしここで、興味深いのは、それに加えて、「あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません」と言われたことです。つまり、イエスが弟子たちの足を洗ったということの中に、彼らはすでに「全身きよい」という宣言が込められていました。

つまり、イエスは弟子たちがこの食事の前に身をきよめていたかどうかということよりも、「イエスに従い、イエスに属する」という思いを明確にしているということにおいて、弟子たちは「全身きよい」と言っておられたのだと思われます。

なお、イエスの行為は、弟子たちの傲慢さを正すためばかりではなく、罪を洗いきよめることに結びついていました。ただそこには「みながそうではありません」との例外がありました。それはイスカリオテのユダを指しています。

彼はイエスを裏切る決意を固めていましたから、まさに弟子のふりをしていたに過ぎなかったからです。しかしここでイエスはペテロに向かって語っているようでありながら、ユダに悔い改めを迫っているとも思えます。イエスのきよめのみわざは、私たちの心の応答が伴わなければ完結しないからです。

私たちも「イエスを主と告白する」ことで、すでに「きよい」者とされています。しかし、当時の人々が砂ぼこりの道を粗末なサンダルで歩いて足を汚していたのと同じように、この世で生活する中で、日々罪を犯してしまいます。

それで、ペテロがイエスに足を洗ってもらう必要があったように、私たちもイエスに日々と罪を繰り返し赦していただき、「きよさ」において成長させていただく必要があると言えましょう。

3.「このわたしが洗ったのですから、あなたがたもまた互いに洗い合うべきです」

イエスは、「彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて」から、「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか」と問いかけつつ、その意味を説明されました。

そこではご自身が「主であり師である」ことを敢えて繰り返して強調しながら、「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきです(負い目があります)」と強く迫っています(14節)。これは、「そうできたら良い・・・」という達成目標ではなく、クリスチャンとして生きることの基本姿勢を示します。

その上で主は、「それは、模範(実例)をあなたがたに示すためでした。それによって、わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするのです」(15節私訳)と、主であり師である方に洗ってもらった者の責任(負い目)を語ります。「模範」ということばが強調されますが、それは私たちが目指すべき「理想」というよりも、真似る責任を負わされている「実例です。

つまり、キリストの弟子として生きることの基本とは、上から目線で人を指導するような生き方ではなく、徹底的に人に仕え、人に寄り添う生き方をすることなのです。

ただそれは、自分の足を見せることを嫌がる人に、「あなたの足を洗わせてください」と迫るような態度ではなく、不当な仕打ちをする人に、なおへりくだって仕えることを意味します。それはあなたに不正を働く人を赦すということに現されます。イエスはマタイ18章で、ペテロが「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか」(21節)と問うたことに対して、「一万タラント(当時の労働者の20万年分の収入)」の借金を赦してもらった者が、「百デナリ(同3ヶ月分余りに給与)」に相当する借金を赦せなくて、王からさばかれるたとえを話されました。

つまり、赦された者は、兄弟を赦す「負い目」が生まれるということです。同じようにイエスから足を洗われた者には他の弟子たちの足を洗う責任が生まれるのです。

そこで、「私はイエス様から足を洗ってもらった覚えはありません」と思われる方もいることでしょうが、そのような方は、自分の救いのために他の人がどれだけの祈りや献金、労力を傾けられたかを知るべきです。しかも、それはすべてキリストのからだ」としての働きでした。

たとえば、誰かが牧師である私の働きに感謝をするとしても、本来それは、私を支えている教会の働きであることを忘れてはなりません。そしてイエスは何よりも、あなたの日々のわがままな祈りに、しもべのように耳を傾け、それに答えてくださいました。

続けてイエスは、「しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません」(16節)と言われました。私たちの主ご自身が奴隷の仕事をしたのに、そのしもべである私たちが人の尊敬や自分の名誉を求めて良いのでしょうか。

私たちを遣わして下さった主ご自身が、人々からののしられていたのに、遣わされた私たちがののしられないことがあるでしょうか。ですから、人の誤解や中傷を受けながら人に仕えることを、恥と思う必要はありません。それこそが、キリストの弟子としての生き方です。

ただし、人間にとって最も大切な宝は「栄誉」だと言われるように、人から嘲られ、ののしられることは、非常につらいことです。その気持ちを、自分で慰めたり、合理化してはなりません。

そこで、ただ、涙を流しながら、「イエス様。私は辛くてたまりません」と、主に向かって嘆くことの方が、自分の感情を大切にする素直な生き方と言えましょう。自分で自分を祝福するのではなく、ただ黙々とイエスの御跡に従うという姿勢が求められています。

ただそこには、イエスご自身からの、「それを行なうときに祝福されるのです」という祝福の約束が伴っています(17節)。イエスに習って、互いの汚い足の前にひざまずき、その足を洗うような働きをすることは、まさに、今まで体験しなかったような祝福を味わう道でもあるのです(17節)。

4.「わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです」

18節でイエスは、先の「祝福される」ということばを受けつつ、「わたしは、あなたがた全部の者について言っているわけではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています」(18節)と、イスカリオテのユダの裏切りを知っていると示唆します。

そして、「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとをあげた」という詩篇41篇9節を引用して、ユダの裏切りによって、「聖書が成就する」と述べました。

後にペテロも、「イエスを捕らえた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。ユダは私たちの仲間として数えられており、この務め(ミニストリー)を受けていました」(使徒1:16、17)と言っています。

これではまるで、ユダは、神が描かれた物語の中で、悪役として選ばれ、その「務め」を演じさせられ、さばかれるかのように見え、かわいそうにさえ見えます。この疑問はこの引用された詩篇の文脈から解かれて来ます。

そこではダビデ自身の体験が歌われています。彼は多くの人々の支持を得てイスラエルの王となりましたが、自分の姦淫の罪を契機に家族の中に混乱を引き起こし、息子アブシャロムの謀反につながりました。ダビデの権力にかげりが見えた時、それまで彼の食卓に招かれていた親しい友までがこの謀反に荷担したのです。

それは私たちの周囲でも起こることです。特に先の夢が見えない状況下では、身を守るために親しい友を裏切る人もいます。力や富に呼び寄せられる人は、その影響力にかげりが見えると離れて行きます。その代表例がユダであり、裏切りは罪人の集まりでは避け難いことでもあります。

聖書は人間がいかに罪深いかを記しており、ユダはその代表者的な働きをして、聖書を成就したのだと思われます。

なお、イエスは、「わたしは、そのことが起こる前に、今あなたがたに話しておきます」(19節)と言われました。それは、私たちがイエスの指導力のなさ?につまずきを感じることがないためです。

それどころかイエスは、「そのことが起こったとき『わたしはある』ということをあなたがたが信じるためです」(19節私訳)と言われました。「わたしはある」とは、ギリシャ語では「エゴー・エイミー」と記され8章24節でも用いられたイエスの神性を表すことばで、イエスがすべてのことを把握し、治めておられるという意味です。

決してイエスは、ユダの裏切りのあわれな犠牲者なのではありません。イエスは、ユダのうちに住む罪人の代表者のような心を見抜きながら、それでもなお、その足を洗い、最後まで誠実を尽くし、悔い改めのチャンスをお与えになりました。それは、イエスの愛が、あらゆる悪意にも勝利しておられるしるしでした。

さらにイエスは、「わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです」(20節)と言われました。それは、ご自身が「遣わす」弟子たちと、ご自身とを一体化しているからです。

それは何と、イエスご自身とイエスを遣わされた父なる神との関係と同じだというのです。私たちはイエスの大使としての信任状を受けているのです。

これを前提として、イエスは復活の後に弟子たちに向かって、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」(20:21)と言われました。

つまり、私たちがキリストの弟子とされるのは、私たちの生活が楽になるためというよりは、誇りある働きに携わることができるためなのです。

イエスの弟子にとって、兄弟の足を洗うというのは選択肢ではなく当然の責任です。人の過ちを指摘するなら誰でもできます。罪や依存症に負けてしまう心の弱さを軽蔑するなら、それは足を洗う働きではありません。私たちが、互いを尊敬(respect)し合うばかりか、「私が正しく、相手が間違っている」などと言い張ったり、自分が無視されたと怒ったり、人の賞賛を求めたりするプライドから自由になるなら、私たちの人間関係ははるかに暖かくなるのではないでしょうか。

イエスは今も、ご自身の「からだ」である教会を建てるために、私たちの「足を洗い」続けておられます。このイエスの姿に習うことが具体的に何を意味するかを、ひとりひとりが考える必要があります。

もちろん、イエスに倣うことは決して簡単にできることではありません。しかし、それを真剣に受け止めようとするとき、聖霊ご自身があなたのうちに意欲と力を与えてくださいます。

ただし、目の前の人に徹底的に「仕える」とは、その人が自分でやるべきことを私たちが担うことではありません。「課題の分離」という心理学の原則は極めて大切です。それは、「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです」(ガラテヤ6:5)とあるように、自分の課題と相手の課題を区分けすることです。

そこで私たちに求められる最大のことは、その人が自分の課題を達成できるように「勇気づける」ことです。大切なのは、相手の気持ちに寄り添い、その人が神の目に「高価で尊い存在である」という「神のかたち」としての「誇り」を思い起こすように助けることです。

気持ちに寄り添うというプロセスの中で、相手の不安や怒りが自分に向けられることがあります。それを受け止めることこそ兄弟の「足を洗う」という生き方でしょう。