イエスはイザヤ52章13節から53章12節にある「主のしもべの歌」をご自分の歌としておられました。そこでは、イスラエルの神が「全世界の王となる」と約束されながら、その「主(ヤハウェ)の御腕」が「現れた」のは、「さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」方であると記されていました。
人は誰しも、強く有能な尊敬できるリーダーを求めますが、その正反対の十字架に架けられた敗北者によって世界が救われるというのです。こんなことは聖なる書物に事前に記されていなければ誰も信じられはしません。
そして福音がユダヤ人の枠を超えることを命がけで伝えたパウロも、イザヤの預言から教えられていました。私たちは、イエスがまたパウロがイザヤ書を通して主のみこころを示されたという視点を忘れてはなりません。
初代教会の人々は何よりもイザヤ書40章以降からイエスこそが全世界の王となられということを理解し、世界の歴史を変えて行きました。
なお、「終わりの日の予言」などと言われると、戦争や天変地異のような悲観論が注目を集めがちです。しかし、聖書が示す世の終わりの記述は驚くほど希望に満ちています。しかも、そこで描かれる神のさばきとは、あなたの敵がさばかれ、労苦に豊かな報いが与えられるという約束が中心です。
そればかりか、不信仰に悩む人に、神がご自身を現し、安心させてくださいます。キリストにつながっている者の人生のゴールは神の平和(シャローム)で満たされます。
それを自覚しながら生きるとき、私たちは、被害者意識、自己憐憫、悲観主義、人の顔色を伺ってばかりいるなどという奴隷根性から自由にされ、「神の子」としての誇りのうちに、神から与えられた人生を自由に堂々と、大胆に、希望に満ちて生きることができます。
1.「あなたの夫はあなたを造った者」
54章最初の、「歓喜せよ。子を産まない不妊の女よ。歓喜の声をあげて叫べ・・・夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ」とは、エルサレム神殿が廃墟とされ、神の民の信仰の基盤がなくなるという悲劇を前提に、神の祝福は人間の力がもたらす祝福をはるかに上回るという希望を語ったものです。
当時の妻の豊かさは、徹底的に夫の力に依存していました。無力で怠惰な夫を持つ妻、何よりも夫のいない女性は悲惨でした。今も多くの人々は、自分を保護してくれる権力者を求めています。
しかし、主ご自身こそがすべての祝福の源です。私たちはこの世で自分の立場を守るための様々な方策を考えるよりも、すべての祝福の源である主との関係を深めることに心を集中すべきです。
その上で、「あなたの天幕の場所を広げ、住まいの幕を張り伸ばせ・・・綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ」(2節)と命じられますが、その真ん中に、「惜しんではならない」という命令形が入っています。
多くの人は、力の出し惜しみ、お金の出し惜しみをし、お金を貯め込むことで将来の安心を得ようとしますが、そのような人間的な計算が、神からの祝福の広がりを止めています。現在の日本は資産から負債を差し引いた一人当たりの家計純資産額では世界一です。その中心は土地や預貯金、保険などで、統計に現れないタンス預金も驚くほど多くあります。
対外純資産額ということになれば22年間世界一で、中国の約二倍、ドイツの2.5倍です。簡単にいうと、世界一の富を持っていながら、なお将来に対する不安に囚われ、お金の出し惜しみをして、本当に成長が期待できる分野にお金が回ってこないというのが日本の現実です。
そのような中で、私たちクリスチャンはもっと夢のある生き方をする必要があるのではないでしょうか。もっと今与えられている能力も富も出し切って、神にある冒険をする必要があるのではないでしょうか。
「あなたは右と左にふえ広がり、その子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住むところとするからだ」(54:3)とは、私たちキリストの教会こそ、この閉塞感に満ちた世界に希望を生み出すことができるという約束です。福音には人々を引き寄せる魅力が満ちています。
その上で、「恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから」(54:4)という慰めが語られますが、それは、バビロン捕囚で既に徹底的な「はずかしめを受け」たという前提での「救い」の約束です。
そして、「まことにあなたは若いときの恥を忘れ、やもめ時代のそしりを、二度と思い出さない」とは、主の豊かな祝福を味わうことができる結果、バビロン捕囚の苦しみが遠い昔の束の間のできごとにしか思えないようになるからです。
その理由が、「なぜなら、あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主(ヤハウェ)。あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方、全地の神と呼ばれているのだから。実に、見捨てられ、心に悲しみのある女かのように、主(ヤハウェ)はあなたを呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか」(54:5、6)と記されます。
主は一時的にイスラエルを捨てたかのように見えましたが、彼らは主にとってのかけがえのない「花嫁」であり、「夫」である方は創造主、「全地の神」であり、彼らを奴隷状態から「贖い出し」てくださいます。
イエスは「ユダヤ人の王」(ヨハネ19:19)として十字架にかかることで、「イスラエルの贖い主」として、全世界の民の「祭司の王国」(出19:6)となる使命を全うし、今、全世界の民からなる「キリストの花嫁」としての教会を導いておられます。
私たちも目先の損得勘定に惑わされ、真の保護者、「夫」である方のもとを愚かにも自分から離れ、苦しみを招くことがありますが、「あなたの夫はあなたを造った者」とあるように、あなたの不信仰や一時的な裏切りは神にとって想定外のことではありません(48:8)。
私たちは何度でも、主のもとに立ち返ることができます。主がまず私たちに目を留め、真の保護者、「夫」となってくださったからです。
2.「ほんのひととき・・見捨てたが・・・永遠に変わらぬ愛をもって・・あわれむ」
私たちの永遠の「夫」であられる主ご自身が、「わたしはほんのひととき、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。怒りがあふれて、ひととき、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」(54:7,8)と語りかけてくださいます。
ここでは「怒り」が短期間であることと、「愛」の永遠性が対比されます。「変わらぬ愛」は原文で「ヘセド」で、新改訳ではしばしば「恵み」と訳され、神がご自身の契約を守り通してくださる「真実」を言い表しています。
ここにはイスラエルの民がその不信仰のゆえに神のさばきを受け、苦しんだ後で、神がその繁栄を回復させてくださるというプロセスが描かれます。彼らは、主の祝福がどれほど豊かであるかを、それを失うまでは理解できませんでした。
そのことが9節では、「ノアの日」の大洪水が二度とこの地を襲うことがないという神の誓いと結び付けられ、「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」(54:10)と言い換えられます。
つまり、この目に見える世界に何が起ころうとも、主の私たちに対する愛は変わることなく、主はこの世界を、平和(シャローム)に満ちた世界へと導いておられるという意味です。
目に見える世界は驚くほどの速度で変化を続けますが、主の「平和の契約」は変わることがありません。ここでの「変わらぬ愛」も先の「ヘセド」と同じで、この美しいことばの意味を何よりも言い表しています。
私たちの人生にも、神が御顔を隠しておられるようにしか思えないときがあります。しかし、あの恩知らずなイスラエルの民を見捨てなかった神は、キリストのうちにとらえられている私たちを見捨てることなどあり得ません。私たちを襲う苦しみは、神の目から見たらほんの一瞬のできごとに過ぎません。
パウロはイスラエルの民の苦しみが無駄にならずに、そこから全世界の民の救いのご計画が始まったことに心から感動していました。そして、その福音を伝える中で想像を絶する苦しみに会いながらも、「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらす」(Ⅱコリント4:17)と語りました。
54章11、12節では、崩されてしまったエルサレムの城壁が、サファイヤやルビーなどの美しい宝石で覆われる様子が描かれています。そして、これを前提に黙示録21章18-21節の、数々の宝石で飾られた「新しいエルサレム」の様子が後に描かれています。
続けて、「あなたの子どもたちはみな、主(ヤハウェ)の教えを受け」(54:13)とありますが、これは「主(ヤハウェ)の弟子となる」とも訳すことができます。
キリストの弟子としての成長は、人間の努力ではなく、主ご自身のあわれみによるものです。また、「あなたの子らの平和は豊かになる」とありますが、「平和(シャローム)」を豊かにしてくださるのも主ご自身のみわざです。
これらの約束は私たちに希望と勇気を与えます。それが見えない時、人は目の前の課題から逃げたり、すぐに成長をあきらめたりします。目の前には大きな障害や強大な敵が立ちふさがっているかもしれませんが、それらは神の御許しなしに、私たちに手を触れることはできません。
神は、ご自身の真実を証するためにこそ適度の「軽い患難」を与え、それを通して「重い栄光」を見られるようにしてくださいます。私たちが遭遇するすべての人生の嵐は、神にある勝利を体験させていただけるための舞台に過ぎないのです。
3.「わたしの思いは、あなたがたの思いとは異なり・・」
55章は、「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来い」との呼びかけから始まります。54章でのエルサレムへの語りかけが、ここでは全世界への招きとなります。
イエスはこれをもとに、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は・・・その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:37、38)と明確に約束してくださいました。「みな」の広がりが感動的です。
その上で2節では当時の貨幣である「銀」ということばを繰り返しつつ、この世の富に支配されて労苦することの空しさが語られながら、「わたしによく聴け」と訴えられます。これは原文では、「聴いて、聴け」と、神に心から聴くようにという命令です。それによって、「良い物を食べ・・脂肪で元気づけ」という恵みを体験することができます。
それがまた、「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聴け。すると、あなたがたのたましいは生きる」(55:3)と言い換えられます。神のみことばに「聴く」ということを疎かにして、この世の富や成功を追い求めても、それはまるで、海の水で喉を潤そうとする事に似ています。飲めば飲むほど渇きが激しくなります。それこそ依存症の罠です。
そして、「わたしはあなたがたととこしえの契約を結ぶ」と約束されながら、その契約の内容が、「ダビデへの変わらない愛(ヘセド)の真実を」と言い換えられます。
4節ではその「契約」を成就するために、主ご自身が「立てた・・・諸国の民の君主」を「見よ」と命じられますが、その方こそ、53章2,3節で描かれていた「見とれるような姿も、輝きも彼にはなく、私たちが慕うような見ばえもない。さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた」という「主のしもべ」でした。
しかしその方こそが、「その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし」(ヘブル2:14)、私たちを死の恐怖の奴隷状態から解放してくださいました。
その救いが本来、アブラハムとの契約に含まれていなかった異邦人に広がり、「主のしもべ」が彼らを招く様子が、「見よ。あなたは知らない国民を呼び寄せる。すると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る」(55:5)と描かれます。
そして、「主(ヤハウェ)を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ」(55:6)とは、どの人の人生にも、「私の神」が、「私をお見捨てになった」と感じざるを得ないとき(詩篇22:1)が必ずあるからです。
そして、「悪者」や「不法者」に対してさえも、「主(ヤハウェ)に帰れ。そうすれば、あわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」(55:7)と、優しく希望に満ちた招きが記されます。
8,9節では、神の救いのご計画が私たちの想像をはるかに超えたものであるということが、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なる・・天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」と記されます。
当時は、イスラエルの神がご自身の神殿を捨てることで、民を真の悔い改めに導くなどという救いのご計画は決して理解できませんでした。
私たちは自分の人生を振り返って、とんでもない回り道をしたと思えることがあります。私も神の導きを必死に求めながら就職したはずなのに、その決断を後悔し続けていました。その思いは神学校に入っても消えませんでした。ギリシャ語やヘブル語の学びについてゆけず、「もっと若く神学校に入っていれば・・・」と思ったこともあります。しかし、そんな私が今、聖書を原文で読みながら、それを解き明かすという仕事を心から楽しむことができています。かつて、毎日のように為替や株式相場の見通しを考えながら、その見通しは毎日のように変わってゆきました。
それに比べて、今、私が取り組んでいる聖書の真理は、二千七百年前から何も変わっていません。そして、その大昔に記されたことばが、現代の人の生き方を変えることができます。これがどれだけ感動的かは、回り道をしたからこそ分かることといえましょう。
人によっては、就職、住まい、結婚さえも後悔の対象となることがあるかもしれません。しかし、神の導きのすばらしさは、二十年、三十年単位で初めてわかることが多いものです。
4.「まことにあなたは喜びをもって出て行き、平和のうちに導かれて行く」
55章10,11節には、「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ・・・パンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送ったことを成功させる」(55:10,11)という驚くべき約束が記されます。
このことばの真実は、イザヤを通して主が語ったことが、当時の誰にも理解されなかったにも関わらず、その後の歴史を動かしているという事実を通して証明されています。
イザヤは、その預言の前半では、神がエルサレムの罪に厳しいさばきを下すこと、また、その苦難から救い出してくださることを交互に語りました。当時の人々はそれを理解しかなったばかりか、悪王マナセは、イザヤをのこぎりでひき殺したとも言われます。
ところが、イザヤの預言の意味は、バビロン捕囚の中で理解されるようになりました。そして、イエスご自身がイザヤの記した「主のしもべ」としての生き方を文字通りに生きられ、またパウロが異邦人伝道へと導かれました。つまり、イザヤのことばが歴史を動かしたと言えるのです。
「まことにあなたは喜びをもって出て行き、平和(シャローム)のうちに導かれて行く」(55:12)とは、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されてエルサレムに戻る様子を示しています。
これは現在、私たちがサタンの支配から解放されて「新しいエルサレム」に向かって旅をすることと重なります。そのときの希望が、「山と丘は、あなたがたの前で歓喜の声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える」(55:12,13)と描かれます。「いばら」は人を傷つける役に立たない木の代名詞ですが、「もみの木」とは「糸杉」とも訳され、神殿建設にも用いられた高価な木材です。「おどろ」もとげのある雑草ですが、「ミルトス」とはその果実には鎮痛作用があり、祝いの木とも言われます。
これは、「のろい」の時代が過ぎ去り、「祝福」の時代が来ることを象徴的に描いた表現です。そしてそのような自然界の変化こそ、「主(ヤハウェ)の記念となり、絶えることのない永遠のしるし」となります。
これこそ、「新しい天と新しい地」の象徴的な表現です。残念ながら、かつての私も含めて多くの人は、これらのみことばの深みを十分に味わうことができていないように思います。
私たちの救いは全被造物の救いにつながり、アダムの罪によって「のろわれた地」が、神の祝福に満たされることになるのです。私たちの希望は、私と身近な人が天国に入れられるという個人的な救いばかりではなく、全世界が神の平和(シャローム)に満たされるという希望です。
そのことをパウロは、「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです…被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます」(ローマ8:19,21)と記しています。私たちの救いの完成と被造物の救いとが重なるのです。
キリストにある信仰とは、この世の暗い現実を、神にある「高い」視点から見直すことができるようになることです。何しろ、この世界の救い主は、当時の人々の目には、「罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと」(53:4)しか見えませんでした。
当時の優秀で力ある人々からは「さげすまれ・・のけ者にされ」た方こそが、主が世界を変えるために遣わしてくださった救い主でした。それが可能になったのは、主ご自身がそのみことばを通して、人のこころを動かし、歴史を変えて行かれたからです。
そして、この新約の時代にあっては、イエスのことばは、世界の結婚制度を変えました。また、イエスのことばこそが、ひとりひとりのいのちの尊さを教え、長い時間がかかわりはしましたが、奴隷制度を廃止させ、人種差別をなくしてゆきました。この世界の歴史は、一見、不条理に満ちているようでありながら、神のご計画通りに進んでいるのです。
それは私たちを怠惰にする教えではなく、明日に向かって自分のすべてを差し出す勇気と希望を与えることばです。私たちは、この世界が完成するときの喜びの声を、霊の耳で聞きながら、この世の不条理のただなかに敢えて遣わされ、そこで、この世界を完成に導く神のみわざの一部に参加させていただけます。
パウロは、ユダヤ人の律法解釈に立ち返ろうとするクリスチャンに向かって、「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは、新しい創造です」(ガラテヤ6:15)と書きました。それは、聖霊のみわざによる「新しい創造」にこそ目を留めるようにという勧めです。
キリストの十字架と復活によって、世界の歴史は平和の完成に向かって決定的に大きく動きだしました。旧約の民が憧れた救いが、今、世界中に広がり、完成に向かっています。
もちろん、世界にはなお様々な悲惨があります。しかし、それはサタンが自分たちの敗北を知って、最後の悪あがきをしているという「しるし」に過ぎないのです。