ヨハネ12章27〜50節「世をさばくためではなく、救うために」

2016年3月20日

米国の大統領は世界最強の存在ですが、不思議にも、何らかの依存症の傾向を持つ人がその座についています。しかし、隠されもせず、強がりを押し通すことがないことが、あの国の魅力とも言えましょう。

ケネディー元大統領の一族の中には富、権力、セックス、アルコールへの依存症が見られたと言われ、クリントン元大統領も自分をアルコール依存症の親のもとでのアダルトチャイルドだと公言しましたが、後のスキャンダルで彼自身も依存症であることが明らかになります。

またジョージ・ブッシュ前大統領はかつてアルコール依存症であったことを明らかにしていますが、それは癒されたというより、彼の政治にはその影響が現れていたという見方をする人もいます。

私自身も人間関係依存の傾向があると示されました。

実は、すべての人間が、多少ともこの問題を抱えています。しかも、癒されたと思っても、依存の対象が変わるだけだとも言われます。

それに対し、パスカルは「人はエデンの園を失って以来、無限の空虚感を抱き、自分のまわりのものでそれを満たそうと必死になっている。しかし、この無限の深淵は、無限の神によってしか満たされない」という趣旨を語っています(パンセ425)。渇きの中で創造主を求めましょう。

1.「わたしが地上から上げられるなら・・・すべての人を自分のもとに引き寄せます」

イエスは、「人の子が栄光を受けるそのときが来ました」(12:23)と、ご自分の十字架のときを「栄光を受ける」ときと呼びつつ、「そのとき」がついに「来ました」と言われました。そして続けて、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(24節)と語ります。

この背後にはイザヤ書53章10節の「彼を砕いて、痛めることは主(ヤハウェ)のみこころであった。もし彼が自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く子孫を見ることができ、主(ヤハウェ)のみこころは彼によって成し遂げられる」があります。

イエスは「苦難のしもべ」の姿を生きようとされたのです。それは私たちの生きるべき姿をも指し示しますから、「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」(25節)と言われました。自分を忘れて神と人とに仕えることで、かえって真実のいのちの喜びを味わい続けることができるのです。

イエスが、「今わたしの心は騒いでいる」(27節)と言われたのは、目の前に迫る十字架の苦しみに対しての人間としての当然の感情です。この書ではゲッセマネの園の祈りは記されませんが(18:1)、それと基本的に同じ葛藤が、最後の晩餐に先立って表現されていると言えます。

ある人は、「人は生まれながら痛みを避け、快楽を求める者である。それは重力の法則と同じぐらい確実なものだ」と言いましたが、イエスも人として同じ気持ちに動かされそうになりました。

その願いが「父よ。この時からわたしをお救いください」ですが、主はそう祈る代わりに、「いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです」(27節)とすぐ告白しました。それはご自身の使命を自覚することによって、うちに働く肉的な思いに勝利することです。

そして、弟子たちの弱さをご存知だからこそ「父よ。御名の栄光を現わしてください」(28節)と祈りました。「そのとき、天から声が聞こえ」、「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう」(28節)と語られます。「すでに」とは、御父が御子を人としてこの世に送られ、その生涯を通してこの世への愛を示されたことですし、「もう一度」とは、十字架を通して、私たちを闇の力から解放することでした。

それを聞いた群集は、「雷が鳴ったのだ言った」とあるように、これを理解できませんでしたが、同時にほかの人々が「御使いがあの方に話したのだ」と反応したように、神の側からの何らかの応答があったということは分かったと思われます。しかし、それはイエスを慰める声ではなく、そこにいる人々を励ますためであったというのです(31節)。

同時に、十字架は当時の人々には敗北のしるしでしたが、イエスはこれこそ、「今がこの世のさばきのためにです。今、この世を支配する者は追い出されるのです」と、サタンの敗北の時となると述べました。

続けて主は、「わたしが地上から上げられるなら」(32節)と言われますが、これはイエスが十字架にかけられることの婉曲的な表現です。これは既に3章14節、8章28節でも用いられました。ここではその目的が、「わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます」と、あらゆる種類の人々、すべての民族を闇の支配から解放するためと解説されます。

先にギリシャ人がイエスとの面会を願いましたが、彼らがイエスの弟子とされるのは、ご自身の十字架を通してであるということになります。

私たちは自分の肉に支配され、自分の殻を抜け出すことができませんが、神の御子は「人となる」ことによってその道を開いて下さいました。もちろんイエスご自身の心が騒がれたほどですから、人にとって「自分のいのちを憎む」ことは容易ではありません。

しかし、十字架自体が私たちをイエスのもとに引き寄せ、私たちを内側から造り変えます。十字架の救いの意味は一生かけても味わい尽くせないほど深く、神秘に満ちています。しかし、それを理解すればするほど、私たちは自分自身から自由にされるのです。

2.「光がある間に歩きなさい・・光の子どもとなるために光を信じなさい」

福音記者はイエスのことばの意味を、「イエスは自分がどのような死に方で死ぬのかを示して、このことを言われたのである」(33節)と解説します。群集はその意味を理解はできないものの、少なくとも、ご自分を救い主と主張する方が、今ご自分の「死」を語っておられるということは分かったのだと思われます。

それで彼らは、「私たちは律法で、キリストはいつまでも生きている(原文:永遠に留まる)と聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですが。その人の子とはだれですか」と問いかけます(34節)。

律法とは、ここでは旧約聖書全体を指していますが、彼らがそう言ったのは、ダビデの子孫としての救い主が、永遠の王座に着かれるということが、詩篇の様々な箇所やⅠサムエル7章のダビデ契約などで記されているからです。

また、「人の子」とはダニエル7章13節の救い主の姿を指していることは当時の人々にとって明らかでしたが、それをイエスと結びつけることはできませんでした。

主はそれに直接答える代わり、「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります」(35節)と、ご自身が今ここで彼らの間に生きている時を大切に受けとめるように勧めます。

続くことばは、「あなたがたは歩きなさい。光を持っている間に」とも訳すことができ、イエスご自身に道を照らしていただきながら歩くようにという命令です。それは、「やみがあなたがたを襲うことのないように」とあるように、光から目を離すと、自分の内側にある闇の力に支配されてしまうからです。

「やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかを分かりません」とは、イエスを知らない者の生き方の本質を指します。私はドイツで会社勤めをしている時、あるとき上司に、失礼にも、「どうしてそんなに一生懸命働くのですか」と聞いたことがあります。すると彼は、一瞬ことばを詰まらせながら、「男の意地だよ」と答えてくれました。それは「他の人に軽蔑されたくない。同期に負けたくない」というような思いの集合でした。多くの人は、自分でも良く分からない衝動に駆り立てられて必死に走り続けています。その奥底には、失うことへの恐れがあるように思えます

イエスはさらに、「光を持っている間に、光を信じなさい。光の子ども(息子たち)となるために」(36節私訳)と、ご自身への信頼を訴えます。ルカ16章8節では、「この世の子ら(息子たち)」と「光の子ら(息子たち)が対照的に用いられます。

私たちは光であるイエスに照らされて、主と同じ「神の息子」として闇の力に打ち勝つばかりか、イエスと同じように、この世を照らす働きをすることができるのです。それこそが、「神のかたち」としての生き方です。

キリストは確かに「永遠の王座」に留まります。しかし、それはご自身の死によって、死の力を滅ぼすことによってなされるのです。それは、この福音書の1章では「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(1:5)という記述から始まっていることからの帰結です。

「私は自由だ!」と思っている人は、欲望の奴隷になっているに過ぎないのかもしれません。反対に、自分の内側にある闇の力に気づいている人は、光に照らされ、光の中を歩み出しているとも言えます。

3.「彼らはイエスを信じなかった・・・主は彼らの目を盲目にされた」

「イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠され」ました。この時、イエスの公の宣教が終わりました。13章以降の記事は弟子たちとの会話が中心です。そしてこの書の前半部が、「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった」(37節)とまとめられます。

イエスが単なる宗教指導者なら、仏陀やマホメット、孔子などとは比較にならないほど無力です。「33年の生涯で、30年間は世に現われずに過ごし、3年間は詐欺師とみなされ、当時教養ある人々から拒絶され、友と近親者からは軽蔑され、ついには仲間のひとりに裏切られ、他のひとりに否認され、すべての人に見捨てられて死んだ」のですから(パスカルのことば)。

しかし、それは38節で、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また、主の御腕はだれに現されましたか」と引用されたイザヤ53章1節のことば通りでした。

そこでは続けて、「彼には私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」(53:2、3)と記されます。それは人々が望んだ救い主のイメージとはかけ離れていたので、彼らは多くのしるしを見たにもかかわらず信じなかったということです。これは彼らが真の強さを知らなかったからです。

そして、ここでは、「彼らが信じることができなかったのは」と、彼らの不信仰の理由がイザヤ6章を自由に引用し、「主は彼らの目を盲目にされた。また彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである」(40節)と解説されます。

イザヤ6章では、主の「誰を遣わそう」と語りかけに、イザヤが「ここに私がおります」(8節)と応答した際に、託されたことばが不思議にも、「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな」という「心をかたくなにするメッセージ」として記され、その目的が「この民の心を肥え鈍らせ・・その目を堅く閉ざせ・・・自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように」と解説されていました(9、10節)。

これは、彼らがバビロンによって国を奪われ、捕囚とされるまで、イザヤのことばは理解されないという意味です。それは彼らが口先では悔い改めながらいつも同じ罪を犯し続けていたからです。それで神は、彼らがとことん苦しみに会うのを、敢えて見守ることにされました。人は切羽詰まって初めて分かる真理があるからです。

これは出エジプトの際に、十のわざわいとともに、主ご自身が「パロの心をかたくなにする」(4:21等)と繰り返されていたのと同じです。エジプトの支配者パロは、神のみわざが強くなればなるほど、心をかたくなにして行きました。それは彼が自分を現人神と思っていたからです。神がパロの心を自由に動かしたというよりも、神は、わざわいを下すなら、パロは心をかたくなにすると知りながらご計画を進めたという意味でした。

イエスの時代の宗教指導者たちも、主の不思議なみわざを見れば見るほど、心をかたくなにしました。それは彼らが救い主をローマ帝国の支配からの解放者であるはずと思い込んでおり、イエスの働きを放置するとローマ帝国の介入を招くと恐れたからです。

人は自分が自分の人生をコントロールできなくなることを何よりも恐れるために、心の変化を迫られれば迫られるほど、心をかたくなにするのです。

あるアルコール依存症の息子を持った母親が、カウンセラーから、「あなたは息子さんの口先の謝罪を受けとめてすぐに助けの手を差し伸ばすことで、かえって彼の依存体質を強めています。毎回、口で回心を迫る代わりに、とことん彼を苦しませ、責任を取らせなさい彼が死の瀬戸際まで落ち込むのを見ながら、助けないのが、あなたの使命です」と言われました。

彼女は、息子の転落をただ見ているだけというのは、助けることよりもはるかにつらいことだったと振り返っています。イエスは、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることができません」(3:3)と言われましたが、「救い」の大前提は、自分の無力を認めることです。

依存症は「否認の病」と言われます。彼らは自分の力でやり直せると思うことでアリ地獄にはまって行きます。その意味で、自分の力で人生を支配できると信じるすべての人は依存症患者と言えます。

4.「イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たから」

41節では不思議にも、「イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである」と記されます。これは預言者が見た「主のしもべ」の栄光で、先に引用のイザヤ52章13節から始まる「主(ヤハウェ)のしもべ」の歌では、「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる」と記され、そこから「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」(同53:4)という、民全体のために苦しむ姿へと移行します。

彼らはバビロン捕囚の苦難を経ても、悔い改めは不徹底に終わりました。それで神は、イエスを遣わし、イスラエルの民全体の代表者として、その罪のさばきをその身に負わせられたのでした。イザヤは「主のしもべ」の栄光を見て、この歌を記したのです。

ところでユダヤ人の指導者の中にもイエスを信じる者がいました。その代表例はニコデモとアリマタヤのヨセフです。ただ、彼らは、パリサイ人たちをはばかって自分の信仰を隠していました。そのことが、「彼らは神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したから」(43節)と解説されます。

依存症の人は、異常な程の「寂しさ」を感じています。いつも人の愛を求め、それが得られないと恨みと被害者意識で一杯になります。ヘンリ・ナウエンは「最後の日記」で、自分のうちにある「愛情に飢えた亡霊」の心を赤裸々に描いています。彼は逃避せず友人の助けを求め続けました。その「苦しみが、彼の才能を磨いた」と言われます。

愛への渇きを覚えるのは恥ずべきことではありません。それがどこに向かうかが分かれ道なのです。イエスは十字架上で、神と人から見捨てられながら、「わたしの神、わたしの神よ」と、神を慕い求めました。

その姿を見たローマの百人隊長は、まるでイエスがローマ皇帝であるかのように、「この方は、まことに神の子であった」と告白しました。それは、使命に生きる者としての栄光に満ちていたからです。

ニコデモもヨセフもそこに栄光の姿を見たからこそ、人の目から自由にされ、イエスの葬りのために大胆に働き出せるようになったのです。「イエスの栄光」は、愛への渇きに耐え、苦難に向かう力として現されたのです。

44節で、「また、イエスは大声で言われた」記されているのは、「彼らから身を隠された」前の出来事だと思われますが、福音記者ヨハネは敢えて、自分の信仰を隠した指導者との対比で、ここにイエスの大胆さを現す記事を記しました。これは、これまでのイエスの宣教をまとめたことばでもあります。

イエスは、「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです」と言われました(44,45節)。

これはご自分を「わたしを遣わした方」との関係で位置付け、ご自身を信じることは、御父を信じること、また、ご自身を見ることは、御父を見ることだという大胆な発言で、これは御父をご自分と一体であると主張したことになります。

その上でイエスは、36節に続けるように、「わたしは、光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです」と言われながら、「だれかがわたしの言うことを聞いてそれも守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです」と、改めてご自分がこの世に遣わされた意味を語られました(46,47節)。それは、当時の宗教指導者たちが、自分たちの正当性や義ばかりを主張していたからです。

ただ同時にイエスを拒絶する者には、「わたしが話したことばが、終りの日にその人をさばく」(48節)とも言われます。これは死刑の恩赦を拒絶して死刑につくようなものです。なお主はご自身のことばが、「父ご自身が・・お命じになった」ことであり(49節)、イエスを拒絶する者は御父のことばを退けていることになると言われました。

最後に、「わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています」(50節)とは、御父からイエスへの命令が、世の人々に永遠のいのちを与えることであるという意味です。

この福音書では、これまで「いのち」ということばは32回、そのうち「永遠のいのち」は15回も出てきます。「いのち」とは神との交わりです。つまり、永遠のいのちとは、御国で神の御顔を直接に仰ぎ見る喜びを、今から味わい始めることです。

人は心の奥底で自己嫌悪を感じ、それを隠すため、強がったり自分の正義を主張しますが、もうその必要はありません。神は、私たちの罪や汚れをご存知でありながら、ご自身の側から交わりを求め、御子を遣わしてくだいました。

パウロは後に「ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちはキリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」(Ⅱコリント5:20)と語りました。

幸福へのあこがれは限りがません。ですから自分の満足のために生きる人は、必ず失望します。薬物依存症のように渇望感は激しさを増し、世界を敵に回さざるを得なくなります。

詩篇作者は「地上ではあなたのほかに私はだれをも望みません・・私にとっては、神の近くにいることがしあわせなのです」(詩篇73:25,28)と告白しましたが、永遠の幸せは、「生ける神」との「生きた交わり」にしかありません。

イエスは、繰り返し「わたしを遣わした方(ここまで20回)」という表現を用い、この地で御父から与えられた使命を生きました。私たちもこの地で、イエスから遣わされた者としての使命を生きるのです。自分ではなく、イエスのために生きるところにこそ、「永遠のいのち」の喜びがあるのです。

私たちは、一瞬一瞬、自分のために生きて恨みと不満で一杯になるか、神のために生きて永遠の喜びに満たされるかの選択を迫られています。

最近は百年前のアドラー心理学が見直されていますが、そのもとで訓練を受けドイツの強制収容所を生き延びたフランクルは、「私の使命が分からない」と言う人に、「使命自身があなたを捜している」と答えました。それは、日々の生活の中で自分の心に迫ってくることに応答する生き方です。