ガラテヤ6章11〜16節「新しい創造をここで喜び、その完成を待ち望む」

2016年1月17日

英国の上流階級に生まれたフローレンス・ナイチンゲールは16歳の1837年2月7日に夏の別荘の庭で、神の召しを受けたことを、「God spoke to me and called me into His service」と日記に記しています。

マザー・テレサの場合は36歳の1946年9月10日ヒマラヤ山脈のリトリートセンターに向かう汽車の中でイエスの招きを受けました。ですから、偉大な働きをする方への神からの特別な語りかけがあることは否定できないことです。

そして、私たち自身も人生のどこかで、イエスの招きを受けて、今、礼拝者とされています。そこに共通するのは、それまでの自分にとっての世の常識が変えられるということです。「この世と調子を合わせる」代わりに、「神のみこころは何か・・をわきまえ知る」ことです(ローマ12:2)。

ナイチンゲールの場合は、後に24歳の時、病院で看護の働きをすることを神の召しと示されますが、それを聞いた母と姉は半狂乱になります。看護婦は身を持ち崩した「社会のくず」と見られており、これほど家名を辱める仕事はないと思われたからです。

当時の貴族の女性は、良い相手と結婚し、子供を育て、夫を支える従順な妻となることが求められましたが、それは彼女にとって、息が詰まるほど退屈な人生と思えました。彼女は密かに学びを続けながら、29歳の時には自分が心から尊敬できた男性との結婚をも断り、その後、ドイツの教会付属の病院で訓練を受けるようになります。

そして33歳の時、ロンドンの「病気の貧しい女性を世話する協会」の指導監督者の地位に着きます。そして間もなく英国がトルコに味方して、クリミア半島のロシア要塞を攻撃します。その際、戦いと同時にコレラの蔓延で多くの兵士が戦地で病床に伏します。

ナイチンゲールは1854年、政府の要請を受け、38人の女性を引き連れて二年間献身的に奉仕します。夜も病人を見回る働きの様子は、「クリミヤの天使」「ランプの貴婦人」などと称されます。

彼女はそれまでの病院の常識を決定的に変える衛生管理体制を始め、帰国後は、統計学の知識を生かして英国陸軍の健康管理体制を改め、40歳の時にナイチンゲール看護婦養成学校を開校し、それが全世界に広げられます。

今も、看護学校の戴帽式の際にナイチンゲールの誓いと称して、「私は厳かに神の前に誓います」と唱える慣習になっています。彼女は現代の医療、看護システムを組み立てた最大の功労者であり、また彼女に影響された人々が現代の世界に広がる赤十字社の働きを始めました。彼女は治療以前に予防保険衛生の概念を広め、看護師の働きを聖なる職業にまで引き上げました。

神の「新しい創造」からナイチンゲールの働きが始まり、それを通して、神の平和(シャローム)がこの地に広げられました。

私たちもそれぞれ神によって召され、神の平和をこの地で現すことができます。

1.聖霊預言と新しい契約

ガラテヤ人への手紙は、新約聖書のなかで最初に記されたもので、旧約と新約をつなぐ鍵とも言えます。これはパウロが第一回目の伝道旅行で現在のトルコの中南部に福音を伝え、多くのギリシャ語を話す異邦人がイエスを救い主と告白した、その翌年に記されたものです。

当時のクリスチャンは圧倒的にユダヤ人が多数派でした。彼らは改心した異邦人に向かって、まずユダヤ人になる儀式としての割礼を受け、食物律法や安息日の様々な規定を守るようにと指導し始めました。それに対してパウロは、異邦人はユダヤ人になるというプロセスを飛ばしてそのままでイスラエルのヤハウェの子とされるということを教えたのです。

それは当時の人々にとっては天地が引っくり返るような革新的な教えでした。イエスご自身でさえ、ほぼユダヤ人だけを対象に「神の国」がご自身とともに始まったと宣べ伝えておられたからです。

イエスが語っておられたように旧約聖書の教えの中心は、全身全霊で神を愛することと、隣人を自分自身のように愛することです(マルコ12:28-34)。当時のユダヤ人はみな申命記6章4、5節を日々繰り返し暗唱していました。

そこには、「聞きなさい(シェマー)。イスラエル。主(ヤハウェ)は私たちの神。主(ヤハウェ)はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛しなさい」と記されていました。

それこそが律法の核心でしたが、彼らは度重なる警告を受けながらそれを守ることができず、ついには神のさばきを受け、異教徒たちに服従しながら生きざるを得なくなり、救い主を求めます。

イエスはあくまでも、「律法や預言者を・・・成就するために来たのです」(マタイ5:17)と言っておられました。

そして、申命記30章6節には、神がイスラエルの民の罪にさばきを下された後の祝福として、「あなたの神、主(ヤハウェ)は、あなたのと、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛し、それであなたが生きるようにされる」と記されています。

つまり、申命記6章の「聞きなさい・・・」の命令を、民が真心から実行できるようにと、神ご自身が彼らの内側から造り変えてくださるというのが、神の約束であり、それを成就するのがキリストであり、聖霊なのです。

そのことが、エゼキエル36章25節には、まず、「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる」と記されます。これは現代のバプテスマに結びつきます。

その上で、ほとんどの訳では26節から新しい文章が始まり、「わたしは、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」と約束されます。つまり、神ご自身が私たちの心を作り変え、新しい霊を授けてくださるというのです。それが第一に、「わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える」と記され、第二に、「わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる」(36:27)と記されます。

イスラエルの民は、「全身全霊で神を愛しなさい。それこそが律法の核心です」と何度も言われながら、それを実行できなかったのですが、終わりの時代には、それをイエス・キリストと聖霊が成し遂げてくださるというのです。

そして、エレミヤ31章31-34節には、「新しい契約」と古い契約の対比が次のように約束されます。

「見よ。その日が来る・・その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は・・・エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった・・彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ・・・

わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主(ヤハウェ)を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ」

Ⅱコリント3章では、旧約の律法は「石の板に」記された一方で、「新しい契約」では、「人の心の板に書かれた」と記されます。そして、それをまとめて、「文字は殺し、御霊は生かす」(3,6節)と言われます。

聖霊の働きに関して、人々を驚かせる超自然的な現象や神秘体験が話題にされる場合がありますが、聖書を神のことばとして感謝して受け止め、自分の罪を認め、創造主に向かって、「お父様!」と真心からお祈りできるということ自体が、聖霊のみわざなのです。みことばを聴き、祈る中に聖霊が働かれます。

2.「割礼を受けているか受けていないかではなく、大事なのは新しい創造です」

ガラテヤ6章11節には、「ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています」と記されます。これは、ここまでは口述筆記してもらっていた目の悪いパウロが、ここからは大きな字で、熱い思いを自筆で書くという意味です。

続けて、先の旧約の歴史を思い起こさせるように、「あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです」(12,13節)と記します。

当時はユダヤ人の信仰はローマ帝国内で公認されていました。そして、当時のクリスチャンの大多数はまだユダヤ人であり、パリサイ人たち宗教指導者から異端視されながら、迫害に耐えていました。そのため彼らの多くは、「私たちは、イエスを預言された救い主と信じる以外には、他のユダヤ人とまったく同じ信仰に立っています」という面を強調していたことでしょう。

彼らはそれを意識する余り、ギリシャ語を話す異邦人が入信した場合に、まず割礼を受けさせ、ユダヤ人と同じになったという面を示しました。しかし、それではエゼキエルやエレミヤの預言が成就したという祝福が全く見えなくなります。

残念ながら現在の多くの信仰者も、先の申命記以降の新約につながる大切な預言の成就を理解できていないため、旧約の教えを「古い教え」と受け止めたり、また反対に、信仰を戒律的なものと誤解したりし、このままで聖霊を受け、神の子とされたという喜びを味わえずにいます。

続けてパウロは、「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです」(6:14)と述べています。

それはキリストの十字架がイスラエルの民を、「律法ののろいから贖い出」す、という意味があったからです(3:13)。彼らはそれによって、アブラハム契約の原点に立ち返ることができたのです。

そして、その結果が、「アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」(3:14)と記されます。まさにキリストの十字架にはそのような圧倒的な神の救いのみわざの現れだったのです。

それによって、この世界の価値観はパウロにとって十字架に付けられて効力を失い、同時に、パウロは世界から「のろい」を受け、十字架にかけられた者のように異端視される存在となってしまいました。

それと同じ価値観の革命が19世紀のナイチンゲールにも起きて、医療システムが劇的に改善されました。

パウロは続けて、「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」(6:15)と記します。「割礼」は、アブラハムへの神の祝福の契約が自分に受け継がれることを覚える「しるし」でしたが、それがこの新約の時代には、聖霊によってなされることになりました。

そのことが、4章6,7節では、「あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、です。子ならば、神による相続人です」と記されています。

ここでの「子」ということばは、本来「息子」を意味するヒュイオスということばが使われています。この手紙の読者には多くの女性がいましたが、それでも「息子」と記されるのは、イエスが「アバ、父」と祈っていたと同じように、イエスの弟、妹とされたということ(ヘブル2:11)、また奴隷ではなく、自由な息子の立場、「キリストとの共同相続人」(ローマ8:17)とされたという恵みを強調するためです。

そしてパウロは最後に、「どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように」と祈っていますが、ここでの「神のイスラエル」とは、3章7節に「信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい」とあるように、イエスを救い主と告白するすべてのユダヤ人と異邦人を含むキリストの教会を指しています。

そしてこのキリストの教会こそが「新しい創造」なのです。

コリント人への手紙第二5章16節以降でパウロは、「私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません…だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました」と告白しています。

私たちがそれぞれイエスを主と告白し、キリストのみからだである教会の一部とされていること自体が、途方もない神による「新しい創造」であるというのです。

そして、その目的がそこでは続けて、「これらのことはすべて神から出ているのです。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました」と記されています。

私たちは、この世の人々に「和解の福音」を宣べ伝えるために人々に先駆けて「キリストのうちにある者」とされました。神の選びには、いつも神からの使命が伴っていることを決して忘れてはなりません。

3.新しい天と新しい地において実現する神のシャローム

「新しい創造」は、一人ひとりのうちに完結するものではなく、世界に広げられて行くものです。そしてそのゴールを、使徒ペテロは、「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」(Ⅱペテロ3:13)と告白しました。

それはイザヤ書65章17-25節のみことばがあります。そこで主はまず、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する・・・わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする」と約束しておられます。

そして、その新しい祝福の世界の特徴は、「彼らは無駄に労することはない」と言われます。パウロはキリストの復活のことを丁寧に語ったのちに、この祝福の約束を思い起こさせるように、「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と語っています。

なお、この「新しい天と新しい地」において実現する神の平和(シャローム)の完成の様子が、「狼と小羊はともに草をはみ、獅子は牛のようにわらを食い、蛇はちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を与えず、そこなわない」(同65:25)と描かれます。

同じ11章6-9節では、エッサイの根株から生まれる救い主が実現する世界が、「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、小牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて小さい子供がこれを追って行く。雄牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである」と描かれます。

それをヘブル語では「シャローム」と表現されます。そこには、平和、平安、繁栄、被造物の回復のすべての意味が含まれます。

当教会のステンドグラスは、「天と地がひとつになる」とき、そのようなシャロームの完成のイメージを現わしています。それこそが世界のゴールです。そして、私たちに今与えられている使命とは、何よりも、その来たるべきシャロームの完成の前味をこの交わりの中で現すことです。

イエスは、「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさいわたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(ヨハネ13:34,35)と言われました。

つまり、私たち神の家族の互いの間に愛があるということ自体が、キリストの愛を全世界に証する最大の伝道になっているというのです。

しばしば、教会ではこれを「天国の前味」と呼ばれます。厳密には「新しい天と新しい地の前味」「新しいエルサレムの前味」と呼ぶべきなのでしょうが、私たちに与えられた最大の使命とは、この天国の前味をこの地において真実に体験し、そこに人々を招き入れることです。

神の国はすでにここに始まっています。それは、「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21)と記されている通りです。

ただ、それはまだ「つぼみ」のような状態で、完成に向かって成長し続けています。やがて全世界が神の平和(シャローム)に満たされる時が保障されています。

私たちに与えられた「永遠のいのち」とは、その「新しい天と新しい地」の「いのち」がすでにここから始まっているという意味です。神の国、新しい天と新しい地、新しいエルサレムでの「いのち」が今から始まっているということを確信できることこそ、御霊の働きです。

そのことがまた、「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です」(エペソ1:14)と言われます。「保証」とはギリシャ語でアラボンと呼ばれ、家や車を購入した時の「頭金」のようなものです。人は、頭金を支払った段階から、まだ支払いが完了していないのに、その家も車も自分のものとして自由に使うことができるようになります。

そのように私たちは、すでに今ここで、神の国」の民とされているという喜びを味わうことができるのです。それは何よりも私たちが「いっしょに集まる」(ヘブル10:25)という中に現されます。

それと同時に、神が私たちを神の子として召してくださったのは、この世の競争原理とは異なった形で、神のかたちとしての生き方を証しするためです。私たちがことばよりは行いによって、やがて実現する「新しい天と新しい地」の生き方を世界に証しする必要があります。それは私たちがこの世の損得勘定を超えて、「神の国」のつぼみを示すことができることにかかっています。

たとえば、ローマ帝国の中でキリスト者の共同体が爆発的に広がった理由のひとつに、定期的に人々を襲う伝染病の猛威がありました。当時の人々は感染を恐れて病気の人々を家の外に、また城壁の外に追い出して行きました。

しかし、キリスト者の群れは、感染者を次々と自分たちの住まいに招き入れ、手当てをしました。それによって、感染が広がるどころか、反対に多くの人々が癒され、その人々はまたイエスを救い主として信じて行きました。疫病が広がるたびにこの世の人々の人口は激減し、反対にキリスト者の人口は激増したと言われます。

ですから、ナイチンゲールの働きは、彼女個人というよりキリスト教会の伝統のうちに根差していたのです。

現代社会は、かつてキリストの教会が担ってきた福祉の働きを、国家のシステムとして担うようになっています。社会福祉は教会から始まっているのですから、私たちは堂々と、国の福祉政策に意見を述べ、その改善を促すべきでしょう。

ナイチンゲールは、「天使とは美しい花をまき散らす者ではなく、苦悩する者のために戦う者である」と言ったとのことです。

私たちも何らかの形でこの世界に神の国の前味を示すことができます。先日天に召されたある姉妹も、聖地旅行に行かれた後の感想に、「苦手な伝道は口達者な人に任したら良いと考えていたのですが・・・イエス様を信じ従い祈るとき、私なりになにかできるような気がしてきました」と記しておられます。

神に召されて神の子となった私たちにできる何かがあります。